farCe*Clown

第一幕 囚われ人 03

 夢を見る。
 始まりはいつも同様だ。憎いほどの青空が広がる晴天の下、多くの視線が希有に集まっている。それは決して好意的なものではなく、敵意の込められた強い視線だった。
 冷たい風が吹き抜けると、目前には凶器を構えた男が一人佇んでいた。

 ――、鈍い光を放る斧が、勢い良く、希有に振り翳される。

 その瞬間から悪夢は始まる。
 振り翳された斧は、希有の首を僅かに逸れて下ろされた。
 悲鳴を上げることもできずに、生気が抜けていくような浮遊感がある。赤い血飛沫が、頬にこびりついた。
 死にきれずに痛みで地面を這いずりまわり、血をまき散らして希有は絶叫を上げる。
 己の血に染まった世界で、地べたに平伏す希有に、もう一度斧が振り下ろされた。

 そんな、惨たらしい夢だった。


              ★☆★☆★☆              


 目を覚ました瞬間、希有は身体を震わせた。
 激しい動悸に荒い息を何度も吐き出すが、しかし、呼吸は思い通りにならず、ひたすらに息苦しさがあった。
 先ほどまで見ていた悪夢のせいか、全身は夥しい量の汗で濡れていた。
「……っ……!」
 ここ二日、三日と、同じような夢を見続けている。
 目の前の現実を受け入れることができずに、朝も夜も関係なく、食事をとれば吐いて、そして夢に逃げた。
 しかし、その夢は悪夢にしかならず、再び光の見えない現実に引き戻される。
 夢の中に逃避する権利までも奪われてしまい、逃げ場など何処にもないと思い知らされた。
 ――、何もかもが、疲れてしまった。
 希有は、だらしなく口を開いて、再び石畳の上へと身体を投げ出した。焦点の合わない瞳の先には、唯一、外に繋がる扉がある。
 あの鉄の向こうには、希有が望む世界にほんはない。
 それでも、あの扉を潜り抜けることができれば、死から逃れることができる。
 自然と溢れ出してきた涙に顔を歪めていると、希有の望んだとおりに、鉄の扉が開いた。
 監守が食事を運んでくる時間が来たようだ。彼は、見るからに堅そうなパンと冷めきったスープが乗っているトレイを手にしていた。
 体は空腹を訴えているが、運ばれる食事は死へのカウントダウンのようで、喜んで食事をとることはできなかった。食べたとしても、耐えきれずに吐いてしまう。
 監守は何も言わずに、希有の牢に食事を入れた。そのまま、希有に目もくれず、扉の向こうへと消えていった。
 希有には、見る価値もないということだろうか。
 自嘲が零れ落ちて、何も可笑しくないのに、哂いたくなった。獣のように叫びたくなった。
 頬に石畳の冷たさを感じる。
「ははっ……」
 辛い時は楽しいことを思い浮かべると良いなんて、戯言だ。苦しい状況で幸せなひと時を思い出せば、一層と苦痛が増すだけだろう。
 流れる涙を拭うこともせず、成り損なった笑顔を浮かべて、希有はそっと自らの懐に手を伸ばした。
 伸ばした手が触れた物に、希有の心に安堵にも似た小さな感情が生まれる。
 ――、懐に隠されているのは、一振りの懐剣だった。
 元々は、オルタンシアの家の大部屋に飾られていたものだ。希有が欲しがると、オルタンシアは珍しく幽かな笑みを浮かべて、懐剣を与えてくれた。
 それ以来、希有は肌身離さずに懐剣を隠し持っていた。そうすることで、己の心を守ろうとしていた。
 この世界には、希有を繋ぐものは何一つ存在しない。
 希有は、世界を跨いだ迷子のようなものだ。知らない世界で地に足がつかない状態で、安息など得られるはずもない。
 オルタンシアの元にいた頃から、未知の場所にいる恐ろしさが四六時中、希有を苛めていた。特に、カーテンを閉め切った部屋で迎える夜の闇は、希有の恐怖を駆り立てた。
 この世界に来てから、せめてもの慰めに剣を抱いて眠る夜を何度越しただろうか。眠るまでの不安を懐剣で誤魔化して、夢の中に潜ることができれば、酷い現実から少しでも楽になれることは心得ていた。
 懐剣を振り回したところで、素人の希有には玩具のようにしか使えないのは分かっていたが、武器が一つあるだけで少しでも心は楽になれた。
 猜疑心と打算でしか物事を見ることができなくなった希有にとって、人間よりも物のほうが余程信じられる。
 そうして心を守るしか希有にはできなかったのだ。
「もう、……嫌、だ」
 だが、確実に死が訪れる状況に置かれて、この剣さえも慰めにならなくなった今、希有はどうすればいい。
 オルタンシアが生きていたあの家が、無性に恋しかった。あの地も希有にとっては異邦だったが、それでも、あの家にいる限りはオルタンシアという帰るための希望が在った。彼女のことを信じきることはできずとも、帰ることのできる可能性があるだけで、今とは全く違ったのだ。
 恐怖に曝されていても、その隣には常に光へと続く道が見えていた。
 だが、希有の眼前に広がる現実は違う。
 黴臭い牢獄には、死の匂いが噎せ返るほど溢れている。
 気が振れそうな閉じた世界に、何の希望もなく、希有は放り投げられているのだ。
 考える度に、涙が溢れて嗚咽が漏れ始める。
「ふっ……えっ……」
 胸を掻き毟って、頭を振り乱した。時には、強く壁に頭を打ち付けた。帰りたいと幼子のように叫んでもみた。
 だが、それで何が変わるというのか。何が変わったというのか。
 希有の手は、いつのまにか懐剣へと延びていた。固い鞘を強く握りしめて、歯を鳴らしながら剣を抜く。
 傾きつつある精神は、既に正常な思考を生み出してはくれない。
 暗い衝動に促されるまま、僅かな光に照らされて輝く刀身に、震える指を伸ばした。
 柔らかな親指の腹を押しあてれば、刃は薄い皮膚へと呑みこまれていく。割けた傷口から、赤く丸い粒が浮かび上がった。
 その瞬間に、込み上げたのはこれまで以上の嗚咽と吐き気と、――どうしようもない切なさだった。
 胸がつかえて、息ができない。
 闇に囚われた思考は、深淵へと希有を誘う。澱み籠った行き場のない想いを消化するために、心も身体も死への道を辿り始める。
 選ぶことの許されない道へと、心は導かれていく。
「……っ……」
 この剣で手首を切れば、楽になれるだろうか。
 ――この悲しみから、逃れることができるだろうか。
 震える右手は、左の手首に鋭い刃を宛がった。
 躊躇いを誤魔化す様に、希有は血が出るほど強く唇を噛みしめた。
 少し力を込めただけで、刀身は容易く手首に沈んでいく。更なる血が溢れ、赤い滴が腕を伝って滴り落ちた。
「……っ、あ、う……あっ……!」
 痛い。
 そう思った瞬間に、希有の手は無意識のうちに懐剣を放り投げていた。床に転がる血に濡れた刃に、本能的な恐怖が込み上げる。
 希有は上手く力の入らない体で懐剣を拾い、今度は刃を抱え込んだ。
 鋭い刃を胸に宛がい、固く目を瞑り歯を食いしばる。
 手が駄目なら、胸を貫けばいい。
 ――、そうすれば、死は容易く訪れる。
「……、なんでっ……!」
 それでも、震える手は刃を動かすことを拒み、希有は再び涙する。
 どうして、こんなにも臆病なのだ。
 解放を願いながらも生にしがみついてしまう。
「死にたく、ないよっ……」
 ――どうか、夢なら醒めてほしい。
 流れる血潮と脳内を侵す痛みが、何よりも現実を突き付ける。
 刃を穢す血に、透明な涙が降り立った。何もかも目に映したくなくて、懐剣を鞘へと仕舞い込む。
 何もかも投げ捨てて楽になりたいと願うのは確かであるのに、最期の決断に踏み切れない。
 心が砕け散ってしまいそうだった。
 ――、それでも、まだ、生にしがみ付くというのか。
 胸元に震える手を伸ばして、首にかけたネックレスを握りしめる。
 高だか数百円でしかない、玩具のようなネックレスだ。二つ合わせると、一つの桜の花になるようにデザインがされている代物だ。本来なら恋人同士が付けるようなそれを、誰よりも近しい者の証として、一つずつ首にかけ合ったのは数年も昔のことだ。
 これでずっと一緒ですね、と微笑んだあの子は、もういない。
 希有を置いて、手の届かぬ場所へと逝ってしまった。
「……、美優みゆう、ちゃん」
 爪が喰い込み血が滲むほど強く、拳を握り締めた。
 度胸もない臆病者が、今の今まで、何を莫迦なことを考えていたのか。
 固い鞘に入れられた剣を、ゆっくりと再び懐に滑り込ませる。
 思い出のネックレスは、希有を責め立てるように生へと繋ぎ止める。
 ――希有が自害することを、誰よりも綺麗で優しかったあの子が、許すはずがない。
 そんな真似をしたところで、望む場所に逝けるとでも思ったのか。
 ただでさえ、あの子に誇れるような生き方をしてこなかったのだ。四年越しの後追いを、あの子が認めるはずがない。

 もう一度、もう一度だけ、泣こう。

 自分自身が、一番分かっている。希有は強くない。昔から少しも成長していない、弱虫で愚かな寄生虫。
 出来損ないの妹のままだ。
 それでも、弱虫で愚かならば、どんなに見苦しくても生きることを諦めてはいけない。
 希有は地面を這うように動いて、先ほど監守が置いて行った食事を手に取った。
 パンに伸ばした手は、徐々に震えが治まっていく。
 味気ない食事に涙が染み込み、塩辛さが舌を刺激した。御世辞にも美味とは言えない食事を、詰め込むようにして口に入れる。
 半分ほど食べたところで、耐えきれず胃が食べ物を拒絶した。再び、洗面台に駆け寄り、吐瀉する。
 苦しかった。だが、それでいいのだ。
 口を漱いで、冷たい水で頬を叩く。
 重たかった頭が、ほんの少しだけ冴えたような気がした。
「……、平気だ」
 今は嘘にしかならない言葉でも、直に真実にしてみせる。震える自分さえも騙し抜いてみせる。
 希有は、狂ったりしない。
 涙ともに、恨み辛みのすべてを洗い流して、無理矢理でも視線を上げよう。
 希有は再び薄い毛布に包まって、壁に背を預ける。
 目を瞑れば、連日の悪夢が繰り返し脳裏を過ったが、希有は正確に心を保つことができた。

 また同じ夢を見たとしても、今夜は耐えられるような気がした。