farCe*Clown

第二幕 逃げ人 17

「身体の具合は大丈夫なのか?」
 心配そうな顔で聞いてくるシルヴィオに、希有は頷く。
「……、大丈夫」
 身体は今でも重たかったが、それでも、何が起ころうとも大丈夫だと思えた。希有のために心を砕いてくれた彼に、これ以上の迷惑はかけたくない。
「わたし、……頑張るから」
「殊勝なことを言うのだな。明日は槍でも降るのか?」
 シルヴィオは、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。
 彼のからかいに口元で笑んで、希有は続けた。
「シルヴィオを、守るよ」
 驚くことに、声は震えなかった。似合わない言葉は、不思議と希有の中に自然と溶け込んでいく。
 弱い己が彼を守るなんて、戯言であることは分かっている。
 だが、これは臆病で卑怯な希有の決意なのだ。
「わたしも、恩返しがしたい」
 シルヴィオが希有を助けてくれたように、希有も彼を助けたい。この手に何ができるかは分からないが、少しでも彼の役に立ちたい。
 ――、臆病で疑り深い希有は、すべてを信じることはできない。心を開いて世界を歩けるほどには、未だ強くはなれない。隣に彼がいて、初めて前を向くことができるような弱いままだ。
「シルヴィオだけは、裏切らない」
 だが、希有を抱きしめてくれた人のために、たった一つだけ誓おう。
 ――ほんの数日の出逢いで、何も知らないような相手だ。
 それでも、希有の心に触れた人に精一杯のことを返したい。
「この城から、……シルヴィオが囚われる場所から、出してあげると言った」
 幾重にも虚勢を張ってでも、前へ進む。
 それが紛い物の強さだとしても、構いはしない。彼を救った少女には、未だになれないから、――今は、そうあるように取り繕って近づいてみせる。
「それが、わたしの務めでしょ?」
 ――この人を、日の当る場所へ戻してあげたい。


               ☆★☆★               


 遠くの喧騒が、何処か別世界のように感じられる。
 唯一の世界、隣にいる彼の鼓動だけが繋がれた手から伝わってくる。
 今までとは少し様相の変わった庭園は、清々しい空気を蔓延させていた。二人の間に横たわる沈黙は心地よく、この瞬間、恐れるものなど何一つないように思えた。
「……あ」
 やがて、城の門にしてはやけに小さく、――実にリアノらしい城門が見えてきた。
 二人して顔を見合わせて、笑い合う。
 黄昏が空を包み込み、もう直、闇が訪れる。
「ようやく、ついたな」
 シルヴィオが、安堵の息と共に城門を指し示す。
「……、疲れた」
 重い溜息を零すと、シルヴィオは労わるようにして希有の頭を撫でる。
 子ども扱いされるのは嫌いだったが、今は満更でもなかった。
 これで、当面の間の死の危機はなくなると考えれば、安堵の溜息も出る。外に出ることができれば、城で彷徨うよりも生存の確率はあがる。
 城を出てからの身の振り方は、出てから考えればいい。
 希有にしては珍しい楽天的な考えだったが、シルヴィオならば希有を見捨てないと思ったのだ。
 だが、明るい未来を想像した途端に、押し寄せるような不安を抱いてしまう。
「でも、なんか、その……やっぱり、気味が悪い」
 先日、苛立ちと共に切り捨てたシルヴィオの言葉が脳裏に蘇るのだ。
「シルヴィオの言った通りだ。カルロスの私兵は少なくないはずなのに、わたしたちは、一度も私兵を見ていない」
 庭で国軍の人間や使用人たちの影を何度も見た。
 しかし、カルロスの私兵と思わしき人間を、一度たりとも視界に入れることはなかった。
 城内も、死刑囚が逃げ出したというのに何の騒ぎにもなっていない。
「ああ。あの男ならば、もっと騒いでもおかしくないというのに奇妙なことだ」
「臆病なリアノ人が、死刑囚が放たれた城内で、普通に生活しているのも変だよ。どうして、騒ぎになっていないの……?」
 疑問ばかりが募るが、希有はそこで黙り込む。
「いや、……もう、出られるんだから、要らない心配だよね」
 ――、城門は目前なのだ、考えても仕方がない。不安を振り払うように、希有はシルヴィオの顔を見た。
「ごめん。行こう、シルヴィオ。門が閉まる前に」
 希有は躊躇いがちにシルヴィオの手を引く。
 釣られるようにシルヴィオが足を出した瞬間のことだった。

 耳をつんざくような音が、辺りに鳴り響いた。

「え?」
 突き抜ける風と共に、頬をわずかに掠めた痛みで目を見開くと、シルヴィオが急いで後方を振り返る。
 映画などで聞くものと似ている。しかし、それよりもずっと現実的で重い、人の命を脅かす銃声・・
 頬に手を当てれば、生温かな感触に唇が震えた。
 赤い液体に侵された掌は、本当に自分のものだろうか。
「あ、……?」
 頭を真っ白にして足を止めた希有に、シルヴィオが怒鳴った。
「……っ、走るぞ!」
 次の銃声が鳴るのと同時に、希有の手を強く握りなおして、シルヴィオは走り出した。
 混乱していた頭が、シルヴィオの怒声で正常に動き出す。
「……銃があるなんて、聞いてない」
 弱々しい呟きが、夜の冷たい空気に溶け込んでいく。
 浅慮だった。文明的に日本より遅れている世界だと思っていたが、この世界は一概にそうとも言えないことを忘れていた。
 地球から盗んだもので成り立つこの世界は、決して過去の地球ではない。
 精密な写真を始めとし、希有からしてみれば不可解なことなど、上げればキリがないほどにあるのだ。
 この世界は、希有の持つ過去の知識とは一致しない。故に、地球の過去と時代背景を照らし合わせたところで、何の基準にもならず役に立たない。
 あくまで相似しているだけであって、決して同一ではない。そのことに気づいていながらも、希有は気にかけることをしなかった。
 頬を滴る血が、夜風に攫われるように地に堕ちる。それさえも拭う暇なく、シルヴィオに手を引かれるままに希有は走り続けた。
 足を止めた瞬間に、最悪の未来が訪れてしまう。
「剣よりも希少だが、銃はある」
「……っ、希少なら、内輪もめくらいで使うわないでほしい!」
「それだけ向こうも本気なのだろう。すまない、読みが外れた。まさか城門で待ち伏せをされるとは……」
 苦々しい声で謝罪したシルヴィオに、希有は息を荒くして首を振る。
 牢を出てから数日も経つ。まさか、今さら城門で待ち伏せされているとは彼は思いもしなかったのだろう。
「謝罪なんて要らない、射程距離は……!」
「狙撃手の位置や銃にもよるが、この感じだと少なくとも城門までは届くだろうな!」
 城門まで、目算でかなりの距離がある。
 銃の性能など知らないが、射程距離がそこまで長いならば、事態は深刻だ。
 体中に早まった鼓動が響き渡り、息が絶え絶えになる。
 シルヴィオと希有では歩幅からして違うため、希有は既に何度もつまづきかけている。必死でついて行っているが、既に身体は悲鳴を上げていた。
「……っ、銃声以外にも、何か聞こえるけど!」
 更なる追い打ちをかけるようにして、希有の耳には銃声以外の音が流れ込んでくる。
「ひゅ、って風の鳴る音みたいなっ……」
 希有が言うと同時、シルヴィオが走る速度を上げた。
「弓か!」
「走るの、……はやっ……!」
「……ちっ……」
 シルヴィオが舌打ちをした時、弓矢が薄暗い空を駆け抜けるのを、希有の瞳は捉えた。
 冗談ではない。
 いくら銃よりも威力は弱いとはいえ、下手な場所に当たれば一溜まりもない。あれだけの数の矢を放たれれば、背を向けて走る希有たちには、すべてを避けることは不可能だ。
 そうして、後方を確認したのが悪かったのだろう。
 数本の矢が、真っ直ぐに希有たちへと向かっている。
 見当外れに放たれた他の数十本とは違う、確実にシルヴィオに狙いを定めた弓矢は空を切って宙を駆ける。
 背を向けるシルヴィオが矢に気づいて振り返ろうとした時には、すでに彼は避けられない位置にいた。
「……っ……! シルヴィオ!」
 理由も分からずに、希有の体は反射的に、彼を庇う盾となった。
「……ぁ、……!」
 放たれた矢は、希有の右足を容赦なく掠める。
 狙いが低めだったのは、シルヴィオを生きたまま捕えるために足を狙ったからなのだろう。
 巡る痛みに、脳内が瞬時に白く染め上げられる。
 足が思うように動かずに、もつれて前のめりになった。
「キユ……!」
 シルヴィオが希有の手を引いて、倒れかけた希有を支える。
「――放て!」
 後方からの怒号、矢は止まらず降り注ぐ。
 だが、幸いにも、放たれた矢は希有たちに致命傷は与えない。尋常ではない速度で光を喰らい尽す闇により、弓矢も銃も狙いを定めることが困難なのだ。
 痛みに歯を食いしばりながら、垣間見た空。月と星が明かりを呑みこみ、光が侵蝕されていく。
 光を呑んで輝きを放つ月が――昇り切った。
 前方、僅かな太陽の名残に照らされて見えた門は未だに開いている。降りしきる矢と銃弾に恐れをなしたのか、幸いにも門番はいない。
 ――、このままの速度で駆け抜ければ、間に合うだろう。
「……、うん」
 己を納得させるように、希有は小さく頷いた。
 どうして、自分が甘ったるいことを考えているのか嗤いたくなる。
「行って、シルヴィオ」
 多くの躊躇いとともに吐き出した声は、喉が焼けるような痛みを伴った。
 城門は、まだ開いているのだ。シルヴィオ一人ならば、城の外へと行けるはずだ。
「…………、キユ?」
 希有は、上手く笑えているだろうか。
「置いていって」
 常でさえ足が遅く、さらに怪我負った今では、希有はシルヴィオの逃走の邪魔にしかならない。
「何を、言ってる……?」
 震える唇で聞き返すシルヴィオの手を、名残惜しむように強く握って、もう一度訴えかける。
 シルヴィオの瞳は、ひたすらに揺れていた。
「シルヴィオ一人で、逃げて」
「……、ばかなことを言うな。お前を、置いてなどいけるものかっ……!」
 彼は、希有を怒鳴って、再び力強く手を引く。
 必死な形相に、それだけの価値が自分にもあったのだと思った。怒鳴られているのに、嬉しいなんてどうかしている。
「生きるんでしょ?」
 ――本当に、どうかしている。
 それでも、この心が間違いだとは思わなかった。どれほど辛くあろうとも、正しくはなくとも、間違いでもないのだ。
「何を犠牲にしても、何を踏み躙っても、生きる。そう思ったのは、シルヴィオも同じはず」
 シルヴィオは、希有を大切にしてくれた。
 たった数日の付き合いでも、彼の優しさに希有は救われた。
 正しくはない、美しい人。血に染まってもなお、綺麗なものを失わないで在り続ける稀有けうな人。
「叶えたい望みがあるなら、こんな小娘切り捨てられなくてられなくてどうするの……?」
 地を震わす足音が、鼓膜を揺らす。
 暗闇では狙撃は難しいと悟ったのだ。作戦を切り替えて、一斉に駆けてくる者たちが、徐々に希有たちへ迫っている。
「大丈夫だよ」
 愚か者で構わない。誰に嘲笑われても、この選択を後悔したくない。
 ――、間違いなどと、誰にも言わせない。
 希有は、繋がれていたシルヴィオの手を振り払う。触れ合っていた指が、温もりが遠ざかっていくことが、ひどく苦しかった。

「――生きて、シルヴィオ」

 希有は渾身の力を振り絞って、シルヴィオの背を押し出す。その反動で、希有の身体は地面に崩れていく。
 どのみち、希有には門まで走る力はない。
 十日余りの牢獄での生活、神経をすり減らすような数日の逃亡、――既に、希有の身体は限界を通り越している。
 希有の我儘で、シルヴィオの未来を削るわけにはいかない。
 それはきっと、彼が望むような希有ではない。
 彼の優しい幻想で生きる小さくて強い子どもは、シルヴィオを害してまで己を生かそうとはしないのだ。
 シルヴィオが大切に思うような言葉をかけてあげられる少女は、本当は何処にもいない。
 その中身は、上辺だけを繕った愚かな道化だ。
 だが、――シルヴィオが希有の取り繕った姿に心を動かしたのならば、希有は彼の望むように装いたい。
 シルヴィオは希有の手の力に押されるがままに、走り出していた。
「……、すまないっ……」
 謝罪の言葉に、シルヴィオが希有を本当に大切に思っていてくれたことを知る。
 最後に、それが分かって良かったのだろう。
 言葉にはできなくとも、素直に嬉しいと感じた。
 彼は一度だけ振り返り、希有に向って叫んだ。
「必ず助けに来る、生きろ、……生きててくれ!」
 真摯なその声に応えるために、希有は俯いたまま右手を上げた。
 彼の言葉は、おそらく叶わないだろう。叶えることを、彼の周囲は認めないはずだ。
 駆けつける足音が、もうすぐ、こちらに到着する。
「……っ、あはは」
 頬を滑る涙は、きっと、痛みだけが原因ではない。漏れる嗚咽を堪えるように、口元に手を当てる。
 シルヴィオが、逃げ果せることができた。
 この逃走劇は自分たちの勝利だ。
 ――、喜ばしいことのはずなのに、滴り落ちる涙が止まることはなかった。
「ごめんね、……美優ちゃん」
 何が何でも生きなければならなかった。
 希有が死に追いやってしまった美優あの子のためにも、自己満足にしかならないとしても生きることが義務だった。
 そう思うことで、己をずっと守ってきたのだ。
「ごめんね、……こんな、妹で……」
 シルヴィオを庇ったのは、気まぐれではない。
 あの子に似た彼を、希有は守りたかったのだ。
 何の罪滅ぼしにならないと分かっていても、身捨てることができなかった。涙を流した彼の傍にいたかった。
 あの子と同じく希有を大切に思ってくれた人。
 あの子の寂しげな笑顔を憶えているから、シルヴィオの最期を見たくなかった。
 彼が望んでくれるような、希有になりたかった。
 ただ、それだけのことだった。