farCe*Clown

幕間 儚い者 28

 ――、記憶に残る母親は、とても美しい人だった。
 まだ幼い頃、柔らかな花の香りがする母に抱きしめられることが、その匂いに包まれることが好きだったのを憶えている。
 控えめな花のように慎ましやかに笑う母は、シルヴィオにとって、絶対的に安心できる場所だった。
 身も心も麗しく美しかった人。ほんの少ししか一緒に居られなかった、儚くも優しい追憶の人。
 母と生き写しのような己の容姿が、他人よりも整っていることなど、とうの昔から知っていたのだ。幼い頃は、それが嬉しくもあったが、今ではこの顔に生まれて良かったことなど思い出せはしない。

『お前の美貌は、毒にしかならない』

 かつて、親友であるヴェルディアナは呟いた。嘘を吐くことが不得手な彼の本心からの言葉は、酷くシルヴィオを傷つけた。
 あの時、確かにシルヴィオは傷ついていたのだ。
 元々病弱だった母親が死に、それからのシルヴィオは、公爵家の――腹違いの姉であるベアトリスの道具として育てられることに、不安はあったが不満はなかった。
 ベアトリスの息子ヴェルディアナという親友もいた上に、シルヴィオは公爵家以外の世界を知らなかった。
 他に行くところもなく、母を喪ったシルヴィオは、それこそが自分の歩くべき道だと信じるしかなかったのだ。
 皮肉にも、自分が歩いているのではなく、姉の手で歩かされていることに気付いたのは、顔も覚えていない女が切欠だった。
 必要なことだと、姉であるベアトリスは言った。
 それが、どうして必要なことなのかも、当時のシルヴィオには分からなかった。
 白粉の匂いが、今でも厭わしい。
 それは、幼少期の傷の象徴であるからだ。
 頬に伸ばされた手の、背筋が凍るほどの熱に恐怖した。
 無理やりに押し付けられた唇の生温かさに、死にたくなるような嫌悪感を持った。
 あの日、助けを求めたところで誰が助けてくれただろうか。
 心に広がる黒い染みを見つめながら、幼い日のシルヴィオは泣いていたのかもしれない。
 小さかった手を涙で濡らして、母を喪った日のように静かに泣いた。
 何処にも行けない、己の未来を思って。

「シルヴィオ」

 耳に馴染むような心地よい声に、シルヴィオは少しの間沈んでいた意識を浮上させる。
 長い黒髪が頬を撫ぜるのを感じながら、シルヴィオは薄く瞳を開いた。
 そこには、心配したようにシルヴィオを覗き込む、あどけない顔をした少女の姿があった。
 美しいと呼ぶには足りない、せいぜい可愛らしいと言った容姿の少女だ。主観的にも客観的にも、シルヴィオの方が余程美しいだろう。
「……、キユ」
 だが、シルヴィオは、傷ついたこの少女が酷く美しいと思ったのだ。
 彼女の与えてくれた言葉が、降り注いだ涙が、この世の何よりも綺麗で優しく感じられた。
 実際には、シルヴィオが思うほど、希有は美しくもなければ、綺麗で優しくもないだろう。過度な期待を抱き、羨望を抱いているのかもしれないことは否定できはしない。
 それでも、シルヴィオにとって、その小さな手は救いだった。
 彼女の真実が何処にあろうとも、自分はきっと、希有を受け入れるに違いない。それくらいには、入れ込んでいる自覚があった。
「シルヴィオが上の空なんて、珍しい」
 からかうように笑う希有の細い手首を、シルヴィオは強く掴んだ。
 華奢な身体に相応しく、容易く折れそうな細さだった。
 掴まれた腕にうろたえる希有の姿に、声を上げて笑えば、彼女はわずかな怒りと共に視線を逸らす。
 だが、その大きな瞳は柔らかな光を孕み笑んでいるであろうことは、自然と想像できた。
 希有が笑うたびに、世界は色を変えていく。
 目に映る世界が、ほんの少しだけ優しくなったように思える。
 胸が熱くなるような、心に染みいる不確かな想いは偽りなどではない。
 ――、シルヴィオはきっと、彼女が、消えてしまうことが恐ろしくて堪らないのだ。
 白粉の匂いなど微塵もしない、赤子のように柔らかな香りのする少女。記憶の中で微笑む、母の香りに似た優しい匂いが香った。
 目の奥が、堪らず熱くなった。
 掴んだ手の先にいる少女を、直視することができなかった。
 彼女の笑みを失ってしまったら、シルヴィオはどうなってしまうのだろうか。

 容易く壊れてしまいそうな希有の儚さに、シルヴィオは怯えているのだ。