farCe*Clown

舞台裏 道化師は愚者を欺く 51

 白く染まった呼気を見て、アルバートは苦い顔をした。
 秋も終わる頃となれば、多少の寒さは当然のことだが、肌を刺す冷たさは好きではない。
「げ」
 視線の先に見知った色を見つけて、アルバートは思わず品のない声を上げる。
 姉が栽培していた薔薇と同じ色を持つ男が、アルバートの声に反応して、こちらを見た。
 シルヴィオ・リアノは、アルバートの姿を視界に入れるや否や不快そうに眉をひそめた。その表情に、アルバートは歩きながら頬を引きつらせる。
「……、何で、朝からお前に会わなくちゃならないんだよ。シルヴィオ」
「それは、こちらの台詞だ。朝から喧嘩を売るのは勝手だが、俺は買わない」
 シルヴィオは呆れたように溜息をついた。アルバートのことなど、相手にするつもりはないのだろう。それだけの余裕が、今の彼には戻っているのだ。
「怒ってほしいならば、ルディでも当たれ。あいにくと、子どもに構っている暇はないんだ」
「子ども扱いするなよ。自分の方が精神的に餓鬼のくせに、虫唾が走る」
「否定はしないが、お前ほどではない」
「……っ、あいっかわらず、癪に障る奴だな! だから、嫌いなんだよ!」
 シルヴィオ・リアノが嫌いだ。
 彼は、アルバートの欲しい物を手にしていたにも関わらず、何の未練もなく、何の価値もなかったかのように、それらを捨てていった。アルバートが欲しかったものが、シルヴィオにとっては捨てられるものであったことに、今でもはらわたが煮えくりかえるほどの怒りを覚えてしまう。
 要らないならば、すべて、与えてくれれば良かったのだ。それが叶うはずのなかった願いだとしても、アルバートはそう思わずにはいられなかった。
「……っ、どうして、お前は何も言わない!」
 そして、アルバートのことになど興味がないように、何も言わない彼に対して、苛立ちが募る。
「恨めよ、憎めよ! ……、お前のこと酷い目に遭わせたんだ」
 声を荒げるアルバートに、シルヴィオは冷めた目を向けた。
「恨んで憎んでほしいのは、お前が楽になりたいからだろう。……俺はお前が思うように性格が悪い。裏切った人間を楽にしてやろうとは思わない」
 瞬間、アルバートは息を呑む。

「怒りも恨みもぶつけられず、受け入れられた方が、よほど堪えるだろう?」

 シルヴィオは心の底から嬉しそうな笑みを、アルバートに向けた。すべて見通している、と主張するような瞳が、嫌で堪らない。
「キユも、俺と同じことをしたな。甘さからの行動かもしれないが、お前にとって、それ以上の苦しみはない」
 希有は、アルバートを赦すとは言わなかった。
 ただ、ありがとう、と言い残した。
 アルバートを本気で憎むことは、彼女にはできなかったのだ。否、憎んでいようとも、希有がシルヴィオとの出逢いを大切に思っているからこそ、憎んでいるだけではなかったのだろう。
 それもまた、アルバートにとって悔しかった。
「お前を赦したつもりはない。これからも、赦すつもりはない」
 まるで、それこそが罰だとでも言うように、シルヴィオは目を細めた。
「……、キユも、なんでこんな奴を。趣味悪いよ」
 分の悪い勝負に出ていることなど、百も承知だった。
 希有を助けたシルヴィオと違い、アルバートは希有を酷い目に遭わせた一端を担っているのだ。
 足手まといになると分かりながら希有を助けたシルヴィオと、シルヴィオを裏切っていたアルバートでは、始点からして大きな差があった。
 友だと言ってくれた少女に対する想いは、シルヴィオに対する嫉妬の延長線上にある。
 家から勘当されても、シルヴィオに対する嫉妬心は消えない。いつだって、シルヴィオの持っているものが、彼が求めているものが欲しくて堪らない。
 実際には、外見も内面も決して美しくない少女が、どんな宝石よりも輝いて見えてしまった。
「用がないなら、俺は行く」
 歩き始めたシルヴィオに、アルバートは口を開いた。

「このまま、……キユを、傷つけるの?」

 シルヴィオが足を止め、静かにアルバートを見る。
「不完全なままで生きていけるほど、人間は強いのかな。確かに在ったはずのものが消えてしまっても、失くしたことを自覚することはできる」
 虫に喰われた書物の内容を知ることはできずとも、虫に喰われた事実は認識できる。そこには何かが在ったことに、どれほどの時間がかかろうとも気づくだろう。
 彼女が気付こうとすれば、不自然な出来事は幾つも出てくるはずだ。この男が、希有に対して何もしていないとは思えない。
「遠くない未来。キユは奪われたものに気づくよ」
「……それが、どうした」
「せいぜい、玩具に対する程度の愛着しか抱けないのなら、早く手放してあたほうがいい。僕が貰ってあげようか?」
 アルバートが嗤うと、シルヴィオは一切の表情を消していた。
 手放したくないからと言って、幾重にも保険をかけ続ける。リアノで最も高みにいるものこそ、この国で一番の臆病者だ。
 希有が何も知らないことを良いことに、彼は希有を囲った。気付かれぬうちに、これからも逃げ道を潰していくつもりなのだろう。
 少女のすべてを縛りつけて、漸く、彼は安堵の息をつけるのだ。
「お前はずるい。自分だけがキユの傍にいれば、彼女にとって特別になれるって、分かっていたんだ」
 単身で、知らない世界に盗まれた少女。
 彼女は意識的にも無意識的にも、近くにいる人間に頼ることになる。単純な話、他の人間を近づけることなく自分だけが傍にいれば、少女にとっての特別になることは難しくない。
 それを知っていたからこそ、シルヴィオは、少女を言い包め続けた。危険だから、と鳥籠に囲うように大切にしながら、自分の存在を彼女の中に確実に浸透させていった。
 シルヴィオは、希有が己に依存するように仕向けたのだ。
「手放したからといって、キユはお前のところには行かない。……、あれは俺が見つけたものだ」
 怒気を滲ませた声に、アルバートは舌打ちする。
 手放したくないのであれば、言葉を尽くせばいい。何も言わずに分かりあえることなど、あり得ない。シルヴィオが希有に自分の想いを伝えないからこそ、彼女の憂いは晴れない。
「もの扱いしてる時点で、お前はキユのことを気に入りの玩具程度にしか想っていないんだよ。可哀そうな奴」
 本当は違うであろうに、シルヴィオは否定しない。
 その程度の愛着であれば、彼はとっくの昔に希有を手放していただろう。すぐに飽くような玩具など、シルヴィオは隣に置いたりしない。
「でも、もっと可哀そうなのは、キユだ」
 シルヴィオは、希有に言葉を尽くさずに身勝手に行動にしている。それで傷つくのが自分だけではないことを、彼は知っているはずだ。
 シルヴィオの身勝手な行動は、彼自身だけではなく、希有までも傷つける。
「彼女が彼女のまま、何一つ失うことなく笑ってくれるなら、それが一番良いのにね。勝手に奪われて、二度と取り戻せないなんて、酷過ぎる」
 どれほどシルヴィオと希有の間に信頼関係が築かれようとも、それを崩してしまうような嘘を、希有に対してシルヴィオはついている。
 シルヴィオは、静かにアルバートを睨みつけた。
「何も、取り戻さなくていい。取り戻せば、きっと壊れてしまう。……悲しみを消すことができないのならば、そのすべてを奪うしかないだろう」
 何処までも勝手な言葉を、彼は口にする。
 死んでほしくないと、傍にいてほしいと願うのであれば、どうして、もっと言葉を与えてやらないのだ。何も言わずに悲しみの記憶を奪うくらいならば、傍にいて言葉をかけて、壊れないように支えてやるべきだったのだ。
「責めるのなら勝手にしろ。正しいことをしたなどとは、思っていない」
 自分一人で背負った気になって、それで希有が喜ぶとは思っていないだろうに。
 彼らの関係は、何一つ歪みのないものに見えるが、実質はそうではない。
 二人とも、どうすれば互いを引きとめられるか分からないからこそ、繋がれた手が離れることだけを恐れている。
 見えないものを信じる強さを持てない彼らは、隣にいなければ真っ直ぐに立つことさえもできないのだろう。
 互いに繋いだ手が、信頼と呼ぶにはあまりにも稚拙な依存であることに、彼らは気づいているのだろうか。


              ★☆★☆★☆              


 昨夜、腕に抱いていた温もりを思い出して、シルヴィオは目を伏せた。
 あどけない寝顔の奥に潜むのは、本人さえ持て余している憐憫と憤怒と、大きすぎる悲哀だった。
 そのすべてを受け止められるほど、彼女は強くはなれないだろう。強くあれたならば、間違いを犯したりしなかった。
「……、これで、良かったはずだ」
 彼女に何一つ告げることない自分は、何一つ伝えることができない己は、やはり臆病者なのだろう。
 シルヴィオは、希有が消えた未来など望んでいない。
 彼女が傍にいる未来のためならば、何だってしよう。どれほど、彼女に嫌われることにいなろうとも、――孤独に戻るくらいならば、傍にいてくれることを望む。
 漸く手に入れた温もりを手放すことなど、シルヴィオには、もうできない。