farCe*Clown

幕間 閉ざされた絵 54

 体調を崩した侍女を診るように医官長に言われたのは、出仕してから直ぐのことだった。
 後宮内の一室で、アルバートは名も良く知らない侍女と向かい合っていた。
 後宮には希有が暮らしているため、訪れると、どうしても彼女のことが頭を過ってしまう。部屋に籠っている彼女に会えるとは思わないが、一目見たいと思う心もあるため、アルバートの心中は複雑だ。
「……、アルバート様?」
 検診を受けている侍女が、躊躇ためらいがちにアルバートを見上げた。
「あの、……そんなに、私の身体は悪いのでしょうか?」
 黙り込んでいたアルバートを不思議に思っていたのだろう。瞳を潤ませて問うてくる侍女に、アルバートは苦笑した。
「まさか。ただの貧血ですよ」
「良かった。もし、死病だったら、どうしようかと……っ……」
「大丈夫ですよ。貴方は、去年、予防のためにを貰っているでしょう?」
 それも、ただの灰ではなく、純度の高いものを受け取っているはずだ。
「でも、不安だったのです。あのようなもので……、本当に、死病は防げるのかと」
 眉を寄せた侍女を宥めるように、アルバートは彼女の肩に手を置いた。
「むしろ、でなければ死病は防げません。貴方は、侍女で良かったですね。あそこまで純度の高いものは、庶民には手が届きませんから」
 笑顔を作ったアルバートに、侍女は漸く安堵したらしく、かすかに微笑んだ。
「それでは、次の仕事があるので、失礼します。ゆっくりと休んでください。無理はなさらぬように」
「ええ、……ありがとうございます。アルバート様」
 小さく頭を下げた侍女に背を向けて、アルバートは部屋を出た。
 医官長の元へ戻ろうと歩いていると、見覚えのある姿が視界に入る。ある部屋の前で立ち止まり、微笑ましそうに中を覗き込む彼女に、アルバートは声をかける。
「お姉さん、何をやってるの?」
 アルバートが声をかけると、彼女――ミリセントは、肩口で切り揃えられた金髪を揺らして振り返った。
「まあ、アルバート様」
 少しだけ垂れ下がった碧の瞳に、アルバートの姿が映し出されている。やがて、彼女はアルバートの荷物に気づいたらしく首を傾げて聞いてきた。
「お仕事ですか? ――私の検診日では、ないですよね?」
 ミリセントは侍女の中でも古株であり、とある理由のために定期的に侍医の検診を受ける一人だ。彼女の検診の今の担当はアルバートなので、それなりに面識はある。
「うん。それは明後日。今日は別件で来てただけだから。――お姉さんは何しているの?」
「キユ様にお菓子を持ってきたのですが、……入り辛くて」
 そう言ったミリセントの表情は、言葉とは裏腹に何処か楽しげだった。
「入り辛い?」
 不思議に思ったアルバートは、彼女と同じように部屋の中を覗き込む。
 室内には、二つの人影があった。長い黒髪が、窓から零れ落ちる光を吸い寄せている。少女の膝の上では、淡く柔らかな髪が揺れていた。
「キユと、……何で、シルヴィオ?」
 アルバートの呟きに、隣にいたミリセントがそっと唇に指を当てた。その仕草に、アルバートは渋々口を閉ざす。
 視線の先で、希有の小さな手がシルヴィオの頭を撫でた。
 その顔には、柔らかな笑みが浮かんでいる。
 二人の姿は一枚の絵画のように思えた。幸せを詰め込んだような、温かな一枚の絵。その絵の中には、どのような存在も入り込めはしない。
 青年と少女の視線の先には、互いしか存在しておらず、二人の世界は完結しているのだ。
「おやすみ」
 少女の声が優しく室内に響き渡る。
「暫くは、邪魔しない方が良さそうですね」
 ミリセントの言葉に、アルバートは自然と眉をひそめた。


              ★☆★☆★☆              


 その日、アルバートが希有に出逢ったのは、まったくの偶然だった。
 アルバートがミリセントの部屋の前に立っていると、希有とミリセントが二人して歩いて来たのだ。滅多に部屋を出ない希有だが、珍しくミリセントを引き連れて書庫に行っていたらしい。小さな手には、本が抱えられていた。
 希有の姿を目にした途端、アルバートは、ここ数日の鬱屈うっくつとした気持ちを強く意識した。
 シルヴィオと希有の姿を見てから、アルバートの心は穏やかではいられなかった。嫌な気持ちのまま数日を過ごす破目になったのだ。
「アルバート様? 申し訳ありません、もう、検診の時間でしたか?」
 不安そうに聞いて来るミリセントに、アルバートは首を振る。約束の時間には、もう少し余裕がある。
「検診?」
 希有が首を傾げると、ミリセントが頷いた。
「ええ、定期的に受けることになっているのですよ」
「そうなんだ」
 希有は適当に相槌を打ってから、納得したように頷いていた。
 アルバートは、その姿を見ながら、小さく拳を握りしめた。
 次に希有に会えるのは、何時になるか分からない。だからこそ、聞きたいことは、今のうちに聞いておくべきだと思った。
 そうすれば、この鬱陶しい気持ちの理由が、少しでも分かるような気がした。
「ねえ、お姉さん。ちょっとだけ席外してもらえるかな?」
「……、それは、……」
「直ぐに終わるから。少し、聞きたいことがあるだけなんだ」
 当然ながら渋るミリセントに、アルバートは強請るように言葉を重ねた。アルバートの瞳を見つめてから、ミリセントは小さく溜息をついた。
「……、分かりました。手短にお願いします」
「ありがとう、お姉さん」
 礼を言われたミリセントは、困ったように笑いながら部屋へと消えていった。廊下には、希有とアルバートの二人だけが残される。
「聞きたいことって?」
 首を傾げた希有に、アルバートは唇を開いた。

「ねえ、キユ。……、君は、僕の友?」

 アルバートの突然の問いに、希有が目を瞬かせる。闇色の瞳は、困惑に揺れていた。
 彼女がアルバートに抱くのは、同情だと知っている。
 その小さな同情で、――彼女は、アルバートの友人を続けるのだろうか。
 アルバートが希有に剣を向けた日、彼女は友だと言ってくれて嬉しかった、と零した。それだけのことで、大切でもないアルバートと今も彼女は向き合っているのだろうか。
「君は、僕を赦さないよね。シルヴィオを傷つけた僕を、……君が赦せるとは思えない」
 アルバートの言葉に希有は動きを止めた。それは肯定の証だった。
 ――彼女は、アルバートを赦してなどいない。
「それなのに、友だと言うの? くだらない同情心で?」
 数秒の沈黙の後、彼女は頷いた。
 その瞬間、アルバートの胸を満たした想いは落胆だった。
 アルバートが求めていた答えを、希有が与えてくれなかったことに、失望を感じていた。
 この鬱屈とした想いの理由を、アルバートは少しだけ自覚する。アルバートは、否定してほしかったのだ。同情などではなく、大事な存在だから、友でいるのだと言ってほしかった。
 彼女が大切に思う男を傷つけた自分に、そのような言葉が与えられるはずがなかったというのに。
「……、不愉快だ、とても」
 口にしてしまった言葉に、彼女は寂しげに苦笑した。
 希有はアルバートを友だと言う。何度問いかけても、くだらない同情心を持って、アルバートの望まぬ答えをくれるのだろう。
 アルバートは顔を歪める。
 アルバートには、彼女を優しく微笑ませることはできない。シルヴィオの傍で笑う彼女を知りながらも、それはアルバートに向けられることはない。
 それは、彼女の同情しか得られないアルバートには、手に入らないものだ。
 今、こうして向かい合っていても、きっと彼女の心は別の場所に在る。

 幸福を詰め込んだ一枚の絵の中に、――二人だけで完結した世界の中に、置き去りのままなのだ。