farCe*Clown

第二幕 砂上に築いた城 62

 後宮の一室に、シルヴィオは足を踏み入れた。
 飾り気のない部屋の隅に置かれた寝台には一人の男が横たわり、赤髪の少年医師が男の脈をとっている。
「何の用? こんなところに来るよりも、行くところがあるだろうに」
 アルバートは眉をひそめて唇を尖らせた。
 いかにも不機嫌そうなアルバートに、シルヴィオは溜息をつく。いつも通りのことだが、相変わらず彼はシルヴィオが死ぬほど嫌いらしい。
 ――尤も、今回ばかりは彼の厭味に言い返しようがなかった。
 ミリセントから定期的に報告を受けているシルヴィオは、アルバートが希有を頻繁に構っていることも知っている。彼は希有を気に入っているため、彼女を放置しているシルヴィオを非難しているのだろう。
「気分はどうだ? リラ」
 アルバートから視線を外して、シルヴィオは痛々しい包帯姿の男に声をかける。リラと呼ばれた男は、ゆっくりと首を動かして人形のような眼差しでシルヴィオを見た。長くカルロスの側近と護衛を勤めていたため、シルヴィオよりもずっと年上の男なのだが、整ったその顔立ちは褐色の肌と無表情故か同年代にしか見えない。
「問題ありません。今すぐにでも、動けます」
「ばか、問題ありだよ」
 感情の起伏など微塵も感じられない淡々とした声に、すぐさま異論を唱えたのはアルバートだった。
「助かったことも奇跡のような重症だったんだから、しばらくは絶対安静以外赦さないよ」
 アルバートは水銀を溶かしこんだ瞳でリラを睨みつける。彼がここまで言うのだから、相当な傷だったのだろう。
「それならば、無理をしない程度に動きます」
「お前の言葉なんて信用できるわけないだろう。カルロスのことになるといつだって無理するくせに」
 アルバートはリラの言い分など歯牙にもかけず、起き上がろうとした彼の身体を無理やり寝台に押し返した。
「せっかく助かったんだから、もっと、自分を大事にしなよ」
「……助からなくても、良かったのですよ」
 わずかな沈黙の後、リラは呟いた。声色はいつもと変わらなったが、それが彼の本心なのだとシルヴィオたちには分かってしまった。
「カルロスの仇を、討ちたいのか」
 酷な質問だと承知の上で、シルヴィオは口にする。
 カルロスはリラにとっては唯一の主だった。主人を守れず己だけが生き残ったことで、彼は自分を責め続けている。
 あのような男に忠誠を誓う気持ちは理解できないが、カルロス・ベレスフォードを支えにリラが生きていたことは知っている。否、カルロスによって、彼は生かされていたのだ。
「いいえ。カルロス様は、リアノを守れ、と命じられました。仇を討つことを赦してはくれないでしょう。――何より、私はあの方の命なしでは動けないのです」
「知っている。そうでなければ、お前の命は危うかっただろうな」
 目の前に横たわる男に流れる血は、非常に厄介で複雑なものだ。それ故に、カルロスが男を守るためには、そう言った誓約が必要不可欠だった。
「私は、リアノを守らなければならないのです。カルロス様の最期の言葉を守るために……、このようなところで横になっているわけにはいきません」
 ――カルロスは、随分と酷な真似をしたものだ。
 リアノを守れ、などと最期に命じる必要はなかった。リアノを守るためにシルヴィオに仕えたところで、それはリラの幸福には繋がらないだろう。
 無理やりにでも生かすくらいならば、カルロスと共に死なせてやった方が、リラにとって幸福だったのではないか。
「今は傷を癒せ。アルバート、お前も忙しいだろうがリラのことは頼んだ」
「本当だよ。こっちは王女の御守までしなくちゃならないっていうのに」
 不機嫌そうに唇を尖らせたアルバートは、リラの腹部の包帯を取り換え始める。不満を口にしてはいるものの、アルバートはリラの看病を全うするだろう。
 シルヴィオとアルバートの間には信頼関係など皆無だが、患者に対しての彼の誠実さをシルヴィオは知っている。その上、アルバートはこちらを裏切っていた時代にリラと付き合いがある。悪いようにはしないはずだ。
 せめて、レイザンドの第一王女が国へ帰るまでは、リラに大人しくしてもらわなければならない。
「また来る。無理だけはするな」
 部屋を出たシルヴィオは、小さく息をついた。
 やるべきことは山積みで、これからのことを考えると頭痛を覚える。通常の政務に加えて、カルロスの案件についての調査やサーシャの相手もこなさなければならないのだ。
「キユ」
 脳裏に、黒髪の少女の姿が浮かぶ。
 レイザンドの王女を迎え入れる際に、末席に座っている希有の姿を見た時、莫迦みたいに胸が高鳴ったのを覚えている。
 傷つけてしまったことは自覚していた。良い年して怒りを抑えることもできず、感情のままに彼女を責めてしまった。それほどまでに、彼女が隠していた本の存在が赦せなかった。
 ――居場所がないのならば、ずっと、ここにいればいい。
 かつて囁いた甘い毒は、本心とは少しだけ違う。本当は無理やりにでも繋ぎ止めておきたい。憎まれ嫌われたとしても、傍にいてくれるならば良いと思う心がある。どんな卑怯な手を使っても、どんなに彼女を泣かせることになったとしても、小さな手が確かに繋がれているならば構わない。
 庭園で遭遇した希有が、サーシャに向かって妾妃だと口にした瞬間、シルヴィオが感じた仄暗い喜びを彼女は知っているだろうか。たとえ言葉の上だけだとしても、彼女は虚勢を張ってまで自分がシルヴィオのものだと宣言してくれたのだ。傍に置くために与えた身分が、彼女をこの世界に繋ぎ止める枷の一つになるならば、喜ばずにはいられなかった。
「何処にも行くな」
 シルヴィオの醜い執着心を、希有はきっと知らない。
 もしも、シルヴィオの前から彼女が去ると言うならば――。
 あの柔らかな笑みが失われてしまったとしても、幾重にも枷をつけて豪奢な檻に囲いこんでしまおう。


              ★☆★☆★☆              


 護衛に囲まれ、ミリセントと共に希有は王城を歩いていた。
 途中、擦れ違う者たちが驚いたように希有を見たが、その視線に気づきかぬふりをしてまっすぐ歩く。
「キユ様、申し訳ありません。あの夜、私が不用心に庭園へ御連れしてしまったから、このような事態に」
 ミリセントの謝罪に、希有は首を横に振った。
「気にしなくて良いよ、ミリセントの責任じゃないから」
 ――王城から後宮に遣いが来たのは、早朝のことだった。
 サーシャ・ウル・レイザンドが、希有との面会を希望したのだ。
「シルヴィオは忙しいから、いずれわたしが駆り出される予定だったのかもしれないよ? それが早かっただけだよ」
 心中は複雑なのだが、一応、希有の立場はシルヴィオの妾妃なのだ。中身は全く相応しくないが、立場上、国賓の接待を任されても不自然ではない。
 シルヴィオがいたならば全力で止めたかもしれないが、様々な案件に忙殺されている彼には、希有のことまで気にする余裕はないだろう。遅かれ早かれ、このような事態になっていたのではないかと思う。
 やがて、招かれた庭園に希有たちが到着すると、目の前には護衛を一人だけ従えたサーシャの姿があった。
「おお、良く来たな」
 サーシャ・ウル・レイザンドは、希有に向かってヴェール越しに微笑んだ。
「本日は、御招きいただきありがとうございます」
「礼など良い。本来ならばこちらから向かわねばならぬ立場なのだが、それは拒否されてしまってな。呼びだすような形になってしまって、すまない」
 希有は自分が王城まで呼び出された理由を理解する。リアノの性質上、他国の人間を後宮にいれる訳にはいかない。サーシャは元々後宮を来訪する予定だったのだろうが、赦されなかったのだ。
「もっと近くで、顔を見せてくれないか?」
 希有はミリセントに視線を遣ってから、一人でサーシャの傍に近寄る。
 彼女が何を思って希有との面会を望んだのか知らないが、庭園での一件もあって、あまり長居はしたくなかった。
「レイザンドでは見られぬ美しい庭園だ。一人で愛でるより、傍ら愛らしい花が一緒の方が、何倍も楽しいと思ってな」
 近寄って来た希有の頬を右手で撫でて、サーシャが笑う。至近距離で舐めるように見つめられた希有は、本能的に嫌な予感がして視線を泳がす。
「花、なんて言われるような、者では……」
 サーシャの妙に気障な台詞を否定して一歩下がろうとするが、彼女のしなやかな左腕が腰にまわされて動けなくなる。
 その間にも、彼女の右手が頬から顎を伝い首筋を撫で上げる。そのまま指先で擽るように希有の下顎を撫でる彼女は、赤い唇を釣り上げていた。
 あまりにも執拗な触り方に、希有は頭を真っ白にさせる。
 彼女の行動の意図が、まったく理解できなかった。
「謙遜は要らぬ。お前は若く瑞々しい、わらわの国には滅多に芽吹かぬ花のように可憐だ。あのような男にくれてやるのは、惜しくも思える」
 まるで希有を口説くような甘い声音に、どうすれば良いのか分からなくなってしまう。先日、希有を莫迦にしたような態度を取っていた女性と、目の前の人は同一人物なのだろうか。
「今日は……、何の、ご用件で?」
 震える声で何とか言うと、サーシャはようやく希有の身体を解放した。
「なに、庭園の散歩に共が欲しかっただけだ。しばし、付き合ってくれぬか?」
 そうして、彼女は傍らにいた護衛と共に庭を歩き始めた。後ろに控えるミリセントを見ると、彼女は無言で頷いた。どうやら、後ろからついてきてくれるらしい。
 希有が小走りでサーシャの隣に並ぶと、彼女は歩む速度を落とした。こちらの小さな歩幅に合わせるような行為に、再び希有の心に動揺が走る。
「お前は、花に詳しいのか?」
 庭園で咲き誇る色鮮やかな花々をしばらく無言で見ていると、不意にサーシャが問いかけてきた。
「……残念ながら、あまり。わたしは元々市井で暮らしていた者ですから」
 本当は異界の人間だが、対外的にはそのように伝えられているはずだ。ファラジアの悲劇の末、市井に逃げ延びた生き残りから生まれた娘。人々に憐れまれるべき娘に、シルヴィオの手によって仕立て上げられたのが希有だ。
「ああ、そう言えば、なかなかに壮絶な人生を送っているようだったな。まだ幼いというのに、可哀そうに」
 希有は目を伏せて、小さく首を横に振った。
「可哀そう、なんてことはありません。とても恵まれています」
 実際、希有は憐れみを貰える可哀そうな娘ではなく、唾棄されるべき醜い寄生虫だ。
「そう思えるならば、それはお前が強いからだろうに」
 サーシャは庭園に咲く、紫がかった小ぶりの花を一つ摘んだ。制止の声をかける前に無断で摘み取られた花に、希有は少しだけ呆気にとられる。
 彼女は子どものように無邪気に笑って、紫の花を希有に見せた。
「まこと、愛らしい花だ。お前に良く似合いそうだろう?」
 そう言った彼女は、長い指先で希有の髪に紫の花を飾る。それは花に明るくない希有でさえ目にしたことのあるものだった。
「ライラック、ですね。ありがとうございます」
「ライ、ラック……?」
 思わず希有が花の名を口にした途端、サーシャは驚いたように聞き返す。
「ええ、そうですよ。花言葉が有名だから、偶然、覚えていました」
「初恋、だろう?」
 サーシャは切なげに眉をひそめて、希有の髪に飾った花を一つ撫でた。
「良く、知っていましたね。何か思い入れでも?」
 彼女がライラックを目にしたのは、今までの会話から考えて初めてのはずだ。いくら有名な花言葉とはいえ、それは日本での話だ。砂漠の国に暮らす彼女が知っているとは思わなかった。
 サーシャは苦笑して、希有の唇に人差し指をあてた。
「あまり知らぬ相手に、好奇心を働かせるのは止した方が良い。知れば危ういことも、この世には存在する。……大人しそうに見えたが、お前は存外危なっかしい性質なのかもしれぬな。妹を思い出す」
「女王陛下を、ですか?」
 レイザンドの現王家直系は二人姉妹だったはずだ。そのため、サーシャの妹が現在女王として君臨していることになる。
「ああ。お前より年上なのだが、まだまだ幼くて……、目が離せない子だ。妾がいないと何もできないような、幼い子だ」
 サーシャは、砂漠の故郷に想いを馳せるように目を細める。その仕草に、希有は見覚えがあった。
 あの子も――希有のたった一人の姉も、そのような瞳で時折希有を見た。優しく慈しむような、くすぐったい視線だった。
「もっとも、口うるさい妾のことなど、あれは好いていないだろうが」
 自嘲するするサーシャに、希有は首を横に振った。
「そんなことないですよ。女王様も、分かっていると思います」
 こんなにも優しい瞳を向けてくる人の言葉だ。どれだけ辛辣だったとしても、自分のために敢えて口を出しているのだと理解できるはずだ。
「だが、……妾があれに与えたのは不毛な国土。妬ましいほど豊かなこの国とは違う、枯れ果てた砂漠の土地」
 衣の裾が汚れるのも厭わずに地面に屈みこんで、サーシャは呟いた。
「水に恵まれ、緑が盛り、空気が澄んで。初めてリアノの土地に足を踏み入れた日、レイザンドとの違いに愕然としたものだ。お前は知らぬだろうが、あそこは妾から見ても恵まれない地だ」
 不毛な国土、枯れ果てた砂漠の恵まれない土地だと口にしながらも、その声音は驚くほど柔らかだった。
「でも、……愛して、いるんのですね」
 愛していなければ、慈しみを込めて穏やかに国を語ることなどできない。
「ああ、愛している。生まれ育った母国。守りたい者もいる。だから、……妾は、もう後に引けない」
「え?」
 屈みこんだままのサーシャが、希有に向けて手を伸ばした。
「妾が国に帰る時、お前も共に来るか? まだ幼い身で飼い殺しにされることを何故享受する」
 突然の問いに、希有は曖昧な笑みを浮かべた。
「……飼い殺しになんて、されていませんよ」
「ならば、どうして、お前は浮かない顔をしているのだろうな。お前は本当は妾などではないはずだ。お前とシルヴィオ・リアノの間に、男女の関係など存在しない」
「そんなこと、は……」
「そもそも、お前は生娘だろうに」
 喉を震わせて笑ったサーシャの言葉を理解した途端、希有は羞恥心で声にならない悲鳴を上げてしまう。間違っていないが、まさか面と向かって言われるとは思わなかったため、上手く否定することができなかった。
「初心なことだな。もしや、シルヴィオ・リアノを好いているのか? 止めておいた方が良い、あのような男に懸想したところで幸せな未来が待っているとは思えぬ。あれは魔性だ。魅入られたら苦しいだけ」
 サーシャの言葉が心に突き刺さる。胸の奥底で温めいた淡い想いが、日の下に暴かれたような気がした。
 ――誤魔化したところで、きっと、サーシャには全てお見通しなのだろう。シルヴィオの魔性に気づいたように、彼女は希有の心のうちも直感しているに違いない。
 だから、希有はありのままを語ることにした。
「好き、ですよ。彼がとても大切です。傍にいてあげたい……、傍にいて欲しいと、いつも願っています」
 本人に向かっては、とてもではないが口にできない内容だ。彼に依存して寄生した愚者が、どうして、彼に好意を伝えることができるのだ。
「既に魅入られた後、か。憶えておけ。恋情に浮かされる娘こそ、この世で最も忌むべき者だ。恋するあまりすべてを投げ出そうとした愚かな女を、妾は知っておる」
 サーシャは何処か遠くに想いを馳せるように、目を細めた。
「だが……、それでも共に在りたいと願うならば、迷うな。人の命は儚く、昨日まで隣にいた者が明日には消えることなど珍しくもない」
 女性にしては少し低い声が囁いた時、希有は唇を引き結んだ。彼女の言うとおり、昨日まで隣にいた者が明日にはいなくなることなど珍しくない。
 そうして、希有は双子の姉を喪った。当たり前に続くはずだと信じて、幼稚な嫉妬で莫迦な真似をした。
「だから、生きている妾は迷わない。会いたい者を見つけ出し……、母の不始末を片付けるその日まで、妾は迷わぬ」
「会いたい、者……?」
 そう口にした彼女に、希有は違和感を覚える。それは愛しさゆえに会いたいのではなく、――まるで、仇を睨むような瞳だった。
 希有の視線に気づいたサーシャは苦笑して立ちあがる。服の裾についた土埃を払って、彼女は希有の頭に手を乗せた。
「今日は楽しかったぞ、妾の娘。また、お前と話がしてみたいものだ」
 サーシャの背中があっという間に離れていく光景を、希有は茫然と見送った。
 何か裏があると思っていたのだが、彼女は単純に希有と庭園を見て話がしたかっただけなのだろうか。
「どうか、しましたか?」
 しばし考えていると、後ろに控えていたミリセントが顔を覗き込んでくる。
 希有は少し考えすぎだったのかもしれない。彼女が何か目的を持ってリアノを尋ねたのは確かだろうが、それは異界人である希有とは関係ないものなのだろう。
 ――共に在りたいと願うならば、迷うな。
 サーシャの言葉が脳裏で繰り返されると、桜色の青年の姿が浮かび上がる。
 ああ、結局、希有は今も逃げ続けているだけで、何一つ覚悟など持てずにいるのだ。
「ねえ、ミリセント。シルヴィオに、会いたいな」
 それでも、今は何も考えずにシルヴィオに会いたいと、身勝手にも思ってしまった。



 希有に背を向けて歩き出した庭園で、サーシャはライラックの花を目にとめる。
 ライラック――見たこともないのに母が愛した花の名前。
「さて、初恋・・を棄てた母上は、それで赦されたとお思いだったか?」
 最早、恨み言を伝えることさえできない人、レイザンドを統べる女王の身でありながら不義を犯した愚かな女を、サーシャは思い出す。
 かつて、サーシャの母はリアノの男に赦されぬ恋をした。
「だが、妾は赦しはしない。レイザンドの血を穢した女のことなど」
 処女懐妊。
 レイザンドの王族は、伴侶を持たずに後継者候補となる女児だけを身ごもると言い伝えられている。王族はレイザンドを守る男神の伴侶であり、神に実体はない。それ故に、レイザンドの女王は男神から神託によって子を授かるのだ。
 だが、実際にはそのようなことは起こりはしない。
 信仰を守るためにレイザンド王家が流してきた血は凄まじいものである。男児が生まれたときには命を奪うのが通例だった。レイザンドの王族に女児以外は必要ないのだ。
 それなのに、あろうことか、サーシャの母親は異国の男との間に男児を身籠った。生まれた男児は秘密裏にリアノへと送られ、この地で今も息をしている。
 赦されざる恋の証は今もリアノで生きている。異父兄であるその男を見つけ出して血祭りにあげるまで、サーシャの心は満たされない。
 死の間際の母の、幸せそうな微笑みが赦せなかった。自分は愛した人と結ばれたのだと笑った彼女が恨めしかった。サーシャや妹のことなど、母はきっと愛していなかった。彼女の心に在り続けたのは一人の男と、その男との間に設けられた男児だけだ。
 王族としての禁を破り、自らだけ幸せになって彼女は逝ったのだ。
「サーシャ様、急進派の件ですがこちらが睨んでいた通りだったようです。カルロス・ベレスフォードは死亡、御子は生死不明ですが死亡したという情報はありません」
 レイザンドから連れてきた護衛の一人が、さりげなく近づき小声で囁く。
「それならば、生きて隠されているのだろう。――やはり、急進派に道の情報が漏れていたのだな」
「本国にいる裏切り者は、どうなさいますか」
「殺せ。我らは穏健派、リアノにはあくまで交渉のために来たのだ。余計な火種は要らぬ」
 護衛の青年と並んで歩きながら、サーシャは小さく溜息をついた。
 ――そう、自分は交渉に来たのだ。王女として、不毛な砂漠に根差した自国を救うためには、もう、このような愚かな手しか思い浮かばなかった。
 それは、確実に一人の少女を不幸にする。自分らしくもなくあの幼い少女を憐れんでしまったことに、サーシャは自嘲する。
わらわはあのような男を好いてはいないが、リアノの蟲は必要なのだ。赦せ、キユ・ファラジア」
 乾いた砂漠ではなく母を惑わした楽園の地を踏んで、サーシャは目を伏せた。