farCe*Clown

第二幕 砂上に築いた城 64

 あのあと、どうやって自室に戻ったのかさえ良く覚えていない。ミリセントが迎えに来てくれたことは分かるが、頭が真っ白で何も考えられなかった。
 ただならぬ希有の様子にミリセントが心配そうな視線を送ってきたが、それに応える余裕はなく室内から彼女を追い出してしまった。
「シル、ヴィオ」
 ――すべて、夢だったのだと思いたい。
 シルヴィオの部屋で見たネックレスも、幸せそうに寄り添う三人の写真も、何もかも夢なのだと思えたら、どれほど楽だろうか。
 だが、あれが夢であるはずがないと痛いほど分かっていた。
 引き出しに隠されたネックレスは紛れもなく希有のものと対を成し、写真で微笑む少女は違うことなく希有と同じ顔をしていた。
 様々なことが次々と繋がっては残酷な真実を浮き彫りにして、希有の心を容赦なく闇に向かって突き落とす。
 ローディアス公爵家に滞在した際に、オルタンシアと共に彼の家に暮らしていた少女の話は聞いている。そもそも、希有が滞在したのはオルタンシアと誰かが二人で暮らしていたという部屋だったのだ。
 おそらく、彼女と暮らしていた誰かは美優だったのだろう。
 思い返せば、愚鈍な希有が気付かなかっただけで、美優の存在を仄めかす言葉を公爵家で何度も耳にしたではないか。それに気づくことなく、呑気に暮らしていた自分に吐き気がした。
 いつものように努めようと膝の上で歴史書を開くが、指先が震えて頁を捲ることもできない。
 ――希有は、一体、何のためにこのようなことをしているのだろうか。
 シルヴィオを、甘やかして泣かせてあげたかった。退路がないから泣けないなどと、二度と口にしてほしくなかったのだ。
 そのために、彼に頼って縋っているだけの寄生虫から変わりたいと願った。いつか帰る身だとしても、心の底から彼を愛してくれる人が現れるまで、彼の泣き場所になりたかった。
 シルヴィオが好きだから、どれだけ不相応だと分かっていても、彼の心を守ってあげたかったのだ。
「……ばか、だなあ」
 その想いが何の意味も持たないことに、希有は気付けなかった。
 シルヴィオが求めていたのは、ありきたりな魔法の言葉でも、脆い泣き場所でもなかった。
 彼が求めていたのは、かつて愛した少女の代わり・・・だったのだ。
 堪らず、希有は膝から本を落としてしまう。慌てて拾おうとした瞬間、歴史書の最後のページが意図せず開かれる。
 目に入ったのは、著者の名前だった。
 その名を小さな声で読みあげて、希有は自嘲した。床に膝をついて、強く唇を噛みしめる。
 この名前に、もっと早く気づいていれば、希有はこれほど絶望しなかったかもしれない。仕方のないことなのだと諦めて、胸を焦がすシルヴィオへの想いを強く自覚することもなかったはずだ。
「……もう、何やっているの?」
 頭上から声がしたと思うと、力なく下ろしていた腕を掴まれる。反射的に顔を上げると、良く見知った少年の姿があった。
「シルヴィオは、とっても嘘つき・・・なんだ。だから、いつか君が泣く破目になると、……僕は、言ったはずだよ」
 アルバート。勘当される前の名を、アルバート・ローディアス・・・・・・
 公爵家の末子だった彼が、そこに身を寄せていたであろう少女の存在を知らぬはずがなかった。
「少し、話をしようか」
 妙に落ち着いたその声に、希有はアルバートの腕を強く振り払った。そうして、薄く涙の張った瞳で燃えるような赤毛の少年を睨みつける。
「話? 話すことなんて、何も、ないでしょう……?」
 アルバートは、何もかも知っていたのだ。
 シルヴィオの傍に在ろうとする希有を、愚かだと思っていたのだろう。何も知らず道化のように踊っていた希有の姿は、アルバートのようにすべて知る者たちからしれみれば酷く滑稽だったに違いない。
「アルは、美優ちゃんのことも全部知っていたんでしょ? わたし、莫迦みたい、だったよね。美優ちゃんが築いた場所で、……シルヴィオに大切にしてもらっているなんて、酷い妄想をして!」
 シルヴィオが大切にしたかったのは、希有のような寄生虫ではない。彼が守りたかったのは、愛したのは、希有と同じ顔をした別の少女だ。
「それが妄想かどうか決めるのは、キユじゃないよ」
 床の上に落ちた歴史書に刻まれた名を指でなぞってから、アルバートは水銀を溶かした瞳で希有を見た。

「報いることのできぬ愛の代わりに、貴方にを授けましょう」

 燃えるような赤毛をかきあげて、彼は泣きそうな顔で微笑む。
「この歴史書を書いた女性が遺した、最期の言葉だよ。彼女の死に立ち会った、当時の王に向けられたものだと言われている」
 アルバートは、希有の頬に手を伸ばす。その手を拒むことのできなかった希有は、固く唇を引き結んで目を伏せた。
「ごめんね」
 何に対する謝罪なのか、希有には分からなかった。何もかも黙っていたことに対するものなのか、それとも、美優の姿を希有に重ねているが故のものなのか。
「泣かないで。シルヴィオも……、僕も決して君を傷つけたかったわけじゃない。君を傷つけたくなくて、泣かせたくなくて、……言えなかったんだよ」
 縋るようなアルバートの台詞に、希有は首を横に振った。今さら、そのような上辺だけ優しい嘘なんて要らない。
「……帰っ、て」
 震える声で口にした拒絶に、彼は小さく息をつく。
「どうか、嘆くのは、すべてを知ってからにして。このままじゃ……、あいつがあまりにも憐れだ」
 希有の眦に溜まった涙を拭って、アルバートは背を向けた。
 ――傷つけたくなかったなら、すべてを話してくれれば良かったのだ。
 誰もいなくなった部屋で、床に崩れ落ちた希有の脳裏にはアルバートの声が何度も繰り返される。
 歴史書の著者が遺した、最期の言葉。彼女が王に授けたという鍵。
 思い浮んだのは、半年前、ヴェルディアナから託された一つの鍵だった。ベアトリスから預かったというその鍵は、ある部屋を開けるためのものだと伝えられている。
 希有は涙に濡れた頬を乱暴に拭った。震える身体を諫めて立ち上がり、引き出しの奥にしまい込んだ鍵を取り出した。
 何の変哲もない鍵を目を凝らして見つめると、そこには絵が刻まれていた。
 黒を背景にして、半分しか姿を現さない太陽と一本の木が描かれている。
 何かを象徴したような模様を疑問に思っていると、描かれた木の幹に、さらに文字のようなものが刻まれていることに気づく。
 それは希有にとってなじみ深い文字で、こちらでは目にしたことのないものだった。
「さく、ら」
 ひらがなで刻まれた故国の花の名。
 ――異界の娘ならば、辿りつける。
 ヴェルディアナが言った言葉の意味を、希有はようやく知る。
 気付けば、希有は走り出していた。
「……っ、キユ、様! 何処へ行くのですか!」
 部屋の扉を勢いよく開けると、入り口に控えていたらしいミリセントが悲鳴のように希有の名を呼ぶ。その声を意識の外へと追いやって、希有は駆け抜けた。
 擦れ違う後宮の侍女たちが、驚いたように希有を見たが、少しも気にならなかった。
 黒い背景、半分だけの太陽、――そして、根付いた桜。
 あの絵は、闇に沈みかた太陽の下に咲いた、一本の桜を描いているのだ。闇に負けた太陽が隠れ始めるのは夕方であり、桜が咲くのは春である。
 思い至ったのは、一つの庭園。
 後宮の西にある庭園は、春の夕方に最も美しくなるのだと、ミリセントは言っていたではないか。
 ひたすらに西の庭園へ駆けた希有は、そこに広がる光景に息を呑んだ。
 多くの木々が植えられた庭園の中で、異彩を放つ一本の大木があった。
「桜の、木」
 春を迎える度に、何度も目にした故国の花がそこには植えられていた。淡い薄紅の花を風に揺らして、懐かしい花は咲笑ふ。
 その隣に在る小さな塔のような建物の扉には、大きな錠が取り付けられていた。
 迷うことなく、希有はその扉に持っていた鍵を差しこんでまわす。
 錠の落ちる音と共に、希有は中へと飛び込んだ。

 そうして、――闇色の瞳から大粒の涙を零した。

 この世界は、nectar robber、盗蜜者。
 地球から、恩恵みつだけを貪る世界ムシだ。
 書庫から借りていた歴史書の最後のページに、著者が刻んだ四文字の名。
 春島はるじま梨乃りの
「はは、……そっくり」
 奇しくも塔の中に飾られた肖像画で微笑む女性を見て、希有はかつてのカルロスとの遣り取りを思い出す。シルヴィオを逃がすために捕らえられた際、彼は亡霊でも目にしたかのように希有を見た。
 肖像画の女性は、おそらくファラジアの宗主となった異界の娘だろう。リノ・ファラジア――春島梨乃は、驚くほど希有と似た顔立ちをしていた。
 ベアトリスが王族であった頃に、この部屋を訪れていたのならば、あの言葉も頷ける。この部屋の主は、自分と同じ異界の娘を待っていたのだ。
「世界には、好みがある」
 オルタンシアの研究記録に書いてあった言葉であり、かつて、カルロスが口にした言葉でもあった。
 それが真実であるならば、世界は無作為に何かを盗んでいるのではない。世界が持つ好みが血縁によるものかは分からないが、可能性としては高いだろう。
 父母が親族を優秀だと謳いながらも、あまり多くを語らなかった背景には、このような事情があったのかもしれない。行方不明者が多いなど、異常なほどに体裁を気にしていた父母が語るはずがない。
 肖像画で微笑む女性と希有に血縁関係があることは、おそらく間違いない。なぜなら、春島という苗字を希有は良く知っているのだ。
 春島美優はるじまみゆう
 それが、両親の離婚と共に姓を別った、希有の双子の姉の名だ。
 シルヴィオの私室で見つけた桜のネックレス。そして、あの写真で微笑む、少女の姿。希有の姉は、確かにこの世界に存在していたのだ。
「やだ、……シルヴィオ」
 望んでくれたのは希有の姿形があの子に良く似ていたからだ。代替品として望まれていただけだったというのに、どうして、浮かれてしまったのだろう。
 彼なら自分を見てくれるなんて、自惚れてしまった自分を縊り殺したい。
 ――敵うはずがない。
 美優は、希有が決して超えることのできない、至上の存在。同じ姿形をしながらも、決して追いつくことのできなかった愛憎の片割れ。
「代わりなら、最初から言ってくれれば良かったのにっ……!」
 希有を抱きしめた腕で、シルヴィオは何を想っていたのだろう。既にいない美優の影を重ねて、彼は失望していたのかもしれない。
「……っ、シル、ヴィオ」
 愛されるのはあの子なのだと、希有の心は誰よりも知っていた。