fantasia-胡蝶の夢-

03

 一度現実に戻った際に、二度と見ない夢だと思っていた。
 だが、実際、蝶子は眠りに就く度に幻想曲へと戻ってきてしまう。
 既に何度目かも分からぬ目覚めに、ソファに横たえていた身体を起こす。
『蝶子、起きた』
 駆け寄ってくるレイの姿に、蝶子は目を瞬かせる。
 いつもの黒い制服を脱いで、ゆったりとした部屋着に彼は着替えていた。見慣れない格好である。
『おはよう』
 部屋の上部につけられた窓から、陽光が降り注いでいる。どうやら、今は朝のようだ。
「……、おはよう、レイ。頭が濡れているわよ」
 シャワーを浴びたばかりらしく、銀色の髪から水滴が滴り落ちている。その姿に、蝶子は彼の首にかかっていたタオルを手に取った。
「拭いてあげる。そのままだと、風邪ひくわ」
 蝶子の言葉を聞いて、レイは嬉しそうに笑い、床に座り込んだ。
 蝶子も体制を整えるためにソファに腰掛けて、座り込んだ彼の頭を丁寧に拭いていく。
『嬉しい』
 子どものように無邪気な声音に、蝶子は苦笑する。
 レイは、蝶子が今まで出会ったことがないような人間だ。打算や計算をすることなど、おそらく、彼は思いつきもしないのだ。ただ、心の赴くままに生きている。
 蝶子には真似すらできない、素直な生き方。
「ユーリは、頭を拭いてくれないの?」
『自分、やれ、言う』
 少しだけ頬を膨らませて言う姿に、蝶子は笑った。
 蝶子は、つい頭を拭いてあげてしまったが、正しいのはユーリの判断だ。
 レイは子どものように見えるが、もう直、青年へと移り変わるような年ごろだろう。背は蝶子より高く、体格も意外にしっかりとしている。決して、何もできない幼子ではないのだ。
「どうして、朝からシャワーなんて浴びたの?」
『任務、汚れた』
「任務?」
『ここ、軍事学校。任務、行く』
 軍事学校とは、初耳だった。
 隠していたと言うよりは、言い忘れていただけのようだが、自分だけ蚊帳の外だったことが少しだけ面白くない。
「それなら、あたしと初めて会った時も、任務だったの?」
『……、うん』
 歯切れの悪い返事に首を傾げると、再びレイが口を開いた。
『蝶、見つけて。びっくりした。鱗粉りんぷん、きらきら、綺麗』
「蝶なんて……、鱗粉なんて、気持ち悪いでしょう?」
 蝶は、嫌いだ。
 だが、蝶子とは真逆の想いを、レイが口にする。
『俺、好き』
 彼は、蝶子を振り返り、蝶子の翅に手を伸ばした。翅を痛めないために服の背の一部をユーリが破いたことで、白銀の翅は外気に晒されている。そっと翅に触れて、レイは微笑んだ。
『綺麗』
「……、あたしには、そうは思えないわ。蝶々なんて、嫌いよ」
『どうして?』
 蝶は花々を移ろい、人を魅了し、夢にいざなう。
 夢から醒《さ》めて、母が蝶子を見てくれることは、ついにはなかった。
 蝶子とて、分かっている。
 この感情は、逆恨みでしかないことなど知っていた。
 それでも、この気持ちを抱かないでいることは、蝶子にはできなかったのだ。
「こんな翅よりも、レイの方が綺麗に思えるわ」
 レイの頬に手を伸ばして、冷たくかたい鱗に触れる。
『怖く、ない?』
「レイは、なんだか安心するわ」
 彼の微笑みや行動が、蝶子を安心させてくれる。
 夢だとしか思えない。だが、何処か現実めいているこの状況を不安に思う心を、軽くしてくれるのだ。
『初めて』
「え?」
『安心する、言われた、初めて。龍、嫌われる』
「嫌われる……?」
『龍、焔、焼き尽くす』
 レイは自分の喉を指しながら、寂しげに微笑んだ。
『俺、声、ない。焔、喉、焼く』
「……、焔のせいで、声が出せないの? 喉が焼けて?」
 レイは頷く。
 己の声さえも、龍の焔が奪ったと彼は言う。
『残る、灰だけ』
「……、レイ」
『たくさん、燃やした』
 蝶子を安心させてくれる微笑みが、今は、とても痛ましく見えた。

『……、たくさん、殺した』

 目を伏せたレイに、蝶子は黙って手を伸ばす。
「ごめんなさい。レイにかける言葉が、……あたしは、分からない」
 すべてを焼き尽くすような焔など持たず、誰かを殺したことのない蝶子は、レイに何を言えば良いのか分からない。
 ――仕方なかったのよ。
 ――レイが優しいのを、知っているわ。
 頭に浮かぶのは、白々しく、慰めているようで傷をえぐるばかりの言葉でしかない。そのようなものを与えたところで、結局、蝶子は彼を傷つけることしかできないだろう。
『嫌い、なった?』
 蝶子はゆっくりと首を振る。
「あたしは、……あたしのことを助けてくれた、レイしか知らない。だから、嫌いにはなれない」
 唇からこぼれ落ちたのは、決して、上手な慰めの言葉ではなかった。自分の安全しか考えていないような、利己的な言葉にさえ思える。
「ごめんなさい」
 出逢ったばかりでも、彼が夢でしかなくとも、――蝶子を助けてくれた人だ。
 レイの前で、嘘でも彼のことを分かっているなどとは、言えなかった。
 わずかな罪悪感に目を細めた蝶子に、レイは口元を綻ばせた。
『……、良い、それで、十分』
 これくらいの言葉で、嬉しそうにする彼が、切なかった。
『もっと、傍、来て』
 少し触れただけで喜ぶ姿が、哀しい。
 身勝手な哀れみを抱いたところで、それは、蝶子の抱くべき感情ではないだろう。彼を哀れむこと自体が、間違っている。何の関係もない人間が、見下ろすような目線で彼を哀れむことなど、してはいけないことだ。
「……うん」
 それでも、何か綺麗な言葉をかけてあげられれば、良かった。
 哀れみでも同情でもなく、ただ、彼を想っての言葉があれば、彼に元気を与えて上げられただろう。レイの無邪気な笑顔が蝶子の心を優しくくすぐるように、蝶子もまた、彼を優しい気持ちにさせてあげられれば良かった。
 だが、蝶子には無理だ。
『嬉しい』
 何一つ変わらない、何一つ変えられはしない。優しい言葉を与えてあげることも、彼のために何かをすることも、蝶子にはできない。
『蝶子、守る』
 守ると言ってくれた彼のために、行動を起こそうとすら思わない蝶子は、なんて薄情なのだろうか。
 以前は考えることもなかったことが頭に浮かび、蝶子は眉をひそめた。他人のことなど、どうでも良かったではないか。
『王、間違っている』
「……、そうね」
 数多の蝶を狩り続け、願いを叶えるために月に捧げる王。
 だが、蝶を殺し、月に捧げているにもかかわらず、未だに王の願いは叶っていないのだ。
 それは、どうしてだろうか。
 蝶を月の前で殺す以外にも、何か必要なことが存在するのかもしれない。
『蝶、殺しても、姫、喜ばない』
 蝶子は彼の頭を撫でて、目を瞑った。
 これ以上は、何も考えたくなかった。
 蝶子は、これでいい。
 ――無関心でいれば、傷はつかずに済むのだから。



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