fantasia-胡蝶の夢-

意地悪な声

 公園のベンチに座り、蝶子は手を擦り合わせた。秋風に吹かれて、落ち葉が視界を舞った。
 鞄から携帯電話を取り出して、時刻を確認する。待ち合わせの時間から、既に二十分近くが経過している。怜からのメールには少し遅れると書いてあったが、どの程度遅れて来るのだろうか。
 秋の夕暮れの公園には、人影はない。今日は天気も悪い上に、この小さな公園には、ほとんど遊具がないのだ。人がいないことも頷ける。
 蝶子が大きく溜息をつくと、不意に頬に何か熱いものが触れる。
 慌てて振り向くと、怜の姿があった。蝶子と同じく学校から直接来たようで、制服を着ている。
「……、怜。驚かせないで」
 彼の手には、自動販売機で買ったと思われる二つの缶があった。怜は片方の缶を蝶子に差し出した。この時期に良く売られているホットココアだった。
「ありがとう」
 缶を受け取ると、少し熱いくらいの温度が掌に沁み込む。
『薄着』
 携帯電話に打ちこまれた文字に、蝶子は苦笑した。薄着したつもりはないが、制服がスカートである分、怜よりも寒そうに見えるのだろう。
 怜は、蝶子の隣に座り込みブラックコーヒーの缶を開けた。可愛らしい顔には似合わないが、彼は無糖が好きらしい。
 また一つ、彼について知ることができて、蝶子は嬉しくなった。些細なことでも、彼を知る度に蝶子の胸は温かな想いで満たされる。
 現実世界で共に過ごすようになってから、まだ日は浅い。幻想曲で知った彼のことだけではなく、こちらで生きる彼のことについても蝶子はたくさん知りたいと願う。
 ――もっと彼のことを知りたいと思うが故に、蝶子の胸には一つの疑問があった。
「ねえ、怜。……、どうして、喋らないの?」
 公園のベンチで隣り合いながら、蝶子は尋ねる。
 幻想曲で彼の声が出なかったのは、その喉を焔が焼いていたからだ。それを考えると、現実では声が出ても不思議ではないと蝶子は思う。
 何かしらの理由があって声が出せないのかもしれないと思っていたのだが、蝶子は怜が同級生と会話している姿を、以前、遠目から目撃している。
 彼は間違いなく声を出せるはずなのに、頑なに声を出そうとしない。
 怜は、眉間に皺を寄せた。唐突な問いであった上に、彼にとっては聞かれたくない類のことだったのかもしれない。
「……、似合わないわ」
 可愛らしい顔には、そのような仏頂面は似合わない。蝶子は苦笑いしながら、怜の眉間の皺を伸ばした。

「喋るの、嫌い」

 一瞬、蝶子は動きを止める。
 彼の声は、ひどく掠れてしゃがれていた。
 ハスキーな声は妙な色香もあって魅力的なのだが、彼の外見からは想像もつかないものだったので、蝶子は目を瞬かせた。
 煌めく銀色の髪に、紫水晶より深い瞳、愛らしい顔。当然のように、声も可愛らしいのだと決めつけていたため、蝶子は驚く。
「もしかして、声が嫌だから、喋りたくないの?」
 蝶子が恐る恐る尋ねると、軽く頬を膨らませて怜が視線を逸らした。もしかしたら、何か嫌な記憶でもあるのかもしれない。
「……声、嫌? 俺のこと、嫌い、なった?」
 彼の言葉に、蝶子は首を振る。
「嫌いになんて、ならないわ。声で嫌いになるくらいなら、……あの時、あんなことしないもの」
 幻想曲で、あのようなことを行う覚悟を持てたのは、相手が怜であったからだ。彼ならば願いを叶えてくれると信じることができたのは、蝶子が怜を好きだったからだろう。
「大好きよ」
 言葉は自然と溢れ出して、蝶子は堪らず怜の制服の袖を握りしめた。彼は珍しく甘えてくる蝶子に驚いて、目を丸くしている。
「……、すごく、好きなの」
 この想いを、どうしたら上手く彼に伝えられるのだろうか。
 隣り合った彼が、ゆっくりと動いた。唇が重なるのではないかと思うほど顔を近づけられ、蝶子は思わず目を瞑る。
 だが、予想した衝撃はなく、代わりに耳元で笑い声がした。
「知ってる」
 その言葉に蝶子が顔を上げると、怜は満面の笑みを蝶子に向けていた。その表情にますます頬を赤くすれば、彼は面白そうに蝶子の頬を指でつついた。
 大きな瞳が、顔を真っ赤にした蝶子を映し出している。
「……っ、ず、るい」
「俺、ずるいよ。知らなかった?」
 次の瞬間、頬に冷たい指が触れたと思うと、柔らかな感触が唇を塞いだ。
 瞳を閉じることも忘れて、蝶子は目を見張った。彼は、蝶子の様子を一瞬たりとも逃さないように見つめている。
「俺も、好き」
 意地悪に口元を釣り上げた彼の告白に、蝶子は勢いよく顔を俯かせた。
「……っ、あ、悪趣味! もう、怜なんて知らない」
 蝶子がぬるくなってしまったココアの缶を握りしめると、怜が抱きついてくる。
「ココアより、こっちの方が、あったかい」
 無邪気に聞こえる声音に、蝶子は声にならない悲鳴をあげた。
 惚れた弱みとは良く言ったものだ。少しの意地悪さえも嬉しく思ってしまうほど、蝶子は彼のことが好きらしい。
 蝶子は、抱きついてくる彼の腕にそっと手を重ねた。



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