花と髑髏

第二幕 長い冬の終わりに 16

 花冠の塔にある一室には、重たい沈黙が落ちていた。
 部屋の中央にある寝台には、青白い頬をした少女が寝かされている。蜜色の瞳は固く閉ざされ、至る所に巻かれた血の滲む包帯が痛々しかった。
「アロイス。どうして、あの場所にエデルを一人で寄こしたの?」
 ディートリヒは正面にいるアロイスを睨みつけた。
「ディ、ディートリヒ様、アロイス様を、責めないで。事故、だった、のでしょ?」
 壁際に控えていたドーリスが震えながら反論する。
「君は黙っていて。関係ない人間は王城に戻って、仕事でもしていなよ。尤も、君に侍女の仕事が務まるとは思えないけど」
「ディー、気が立っているのは分かりますが、ドーリスにあたらないでください。……ドーリス、貴方はもう王城に戻りなさい。エデルのことなら、あとで必ず知らせますから」
「でも……」
「最近、体調が優れないのでしょう? 貴方までどうにかなったら、私はとても悲しく思います。今は、どうか戻って休んでください」
 優しく諭すアロイスに彼女は渋々頷いて、こちらに背を向けた。後ろ髪を引かれる思いなのだろう、部屋を出るまで、心細げに幾度も振り返っていた。
「それで、わざとらしくドーリスを追い出してまで聞きたかったことは?」
 二人きりになった室内で、アロイスがおもむろに唇を開く。
「今回の件、本当に事故だと思う?」
「まさか。本棚が痛んでいたのは事実ですが、補強はきちんとされていました。何より、崩れた原因は痛んでいた部分ではありません」
「そう。やっぱり、誰かが意図的に僕を害そうとしたんだね。事故にしては偶然が過ぎる」
「珍しいことではないでしょう。私は貴方が殺されそうになる現場に、何度も立ち会っているのですから」
 既に十年以上の付き合いになる友人は、単眼鏡モノクルの奥で目を鋭くさせた。
「十中八九、兄上側の誰かの仕業なんだろうけど……、兄上が指示したとは思えないな。あの人に身内を殺すような真似ができるとは思えない」
 誰かを害することなど、あの優しい人にはできないだろう。それに、ディートリヒが本棚の下敷きになった程度では死なないことを、兄は良く知っているのだ。彼には、このような真似をする理由がない。
「僕は王にならない。王になりたいなんて思ったことは、一度もないのにね」
 いつだって望むものとは違うことを強いられてきた。一族の道具として生を受け、唯一愛した人と争わされ、欲しいと思った少女さえ傷つけてしまう。
「エデルは、大事ないのですか?」
「しばらくは安静だけど、命に別条はないよ。エデルが床に積んでいた本が、本棚と彼女との間に空間を作ったから、直接押し潰されるのは免れたんだ」
 だが、そうでなければ、小さな身体は間違いなく押し潰されていただろう。彼女の命が守られたのは偶然が生んだ幸運に過ぎない。
「どうして、代わってあげられなかったんだろう。こんな命、いくらでも棄てられるのに。……棄てたいのに」
 卑劣な真似をした犯人を憎いと思うと同時、ディートリヒは彼女を巻き込んでしまった己自身が赦せなかった。
 まわりを不幸にしてしまう命なら、生まれるべきではなかった。血の通わぬ人形が、死ねない化物が、人並みの心を望んだことは間違いだった。
「それは言ってはいけないと、昔、約束したでしょう。貴方がどれだけ死にたがったとしても、フェルディナント様も私も、……エデルだって喜んだりしません」
 眉をひそめたアロイスに、ディートリヒは首を横に振る。
「……ごめん。悪いけど席をはずしてくれる? 二人きりになりたい」
 溜息をついたアロイスは、無言で部屋をあとにした。その背を見送ってから、ディートリヒは自らの顔を片手で覆う。
「守る、つもりだったんだけどね。関係ない君を巻き込んでしまった」
 その呟きが言い訳に過ぎないことを、誰よりもディートリヒ自身が分かっていた。
 この時代では何の価値も持たないはずのエデルに価値を持たせ、自分と関係のある人間に仕立てあげたのは己の責任だ。出会ったばかりの頃のまま、道具に接するように付き合っていれば、危険な目に遭わせて怪我を負わせることはなかった。
 王位を巡る争いに彼女を招いたのは、紛れもないディートリヒだ。
 包帯の巻かれた額を撫でて、滑らかな頬に指先を這わす。冷えた手に沁み渡る温もりに、ディートリヒは小さく息をつく。そうして、彼女の襟元に手を差し入れて、胸元に刻まされた魔女文字を確かめるようになぞった。
 浮かび上がる文字こそ増えたが、それらは初めて見たときよりも随分と色が薄くなっている。夜闇を思わせた漆黒の文字は、まるで夜明けに近づく空のように徐々に明るくなっていた。おそらく、それは彼女が帰るまでの刻限を示す変化だ。
「帰したくないな」
 叶わないと知っているのに、欲が出てしまった。いつの間にか、ディートリヒの生活にはエデルが融け込み、彼女と過ごす日々が当然になっていた。
 フェルディナントだけを愛していた頃には、もう戻れない。
 自分と良く似た小さな少女に、傷痕を撫でて、冷えきった心を抱きしめてもらいたい。
 ――どうか、愛してほしい。
 朝焼けに咲く花を、綻ぶ前に手折ることができたら良かった。何処にも行くなと引き止めることができたならば、どれほど幸せだったか。
 やがて、伏せられていた目が開かれ、甘い蜜の瞳が姿を現す。
「おはよう、エデル」
 胸を締め付ける愛おしさを声にのせて、ディートリヒは少女の名を呼んだ。

  ◆◇◆◇

 ぼやけていた意識が徐々に輪郭を取り戻す。全身が酷く重たく感じられるが、痛みは不思議となかった。
「おはよう、エデル」
 うっすらと目を開けると、エデルの顔を覗き込んでいたディートリヒが微笑む。
「麻酔が効いてるから少し意識がぼんやりとするかもしれない。何があったか、憶えてる?」
 本棚がディートリヒに向かって崩れ落ちた光景を思い出し、エデルは唇を開いた。
「ディー、無事?」
 その瞬間、彼は顔を歪めて床に膝をついた。横になったエデルの身体に腕をまわして、あばらの浮き出た薄い腹に顔を埋める。
「なんで、……僕なんか、庇ったの。知ってるだろ? こんな命、どうでも良いんだ。君が命を懸ける価値なんてない。死なない化物を庇うなんて莫迦な真似を、どうして」
 早口で声を震わしたディートリヒに、エデルは怒りよりも先に悲しみを抱いた。自分を大事にできない青年が、ひどく憐れに思えてならなかった。
 たとえ、傷がすぐに治ろうとも、死ねなくとも――。受けた痛みや刻まれた苦しみが消えるわけではない。
「ばかなこと、言わないで。貴方の命がどうでも良いなら……、貴方を大切に思うわたしの気持ちは、どうなるの?」
 彼が命を蔑ろにする度に、彼を大切に想う人々は今のエデルのように傷つくだろう。
「無事で良かった、ディー。貴方が傷つかなくて、とても、嬉しい」
「……僕のことが、大切なの?」
 ゆっくりと顔をあげたディートリヒの腕に触れながら、エデルは頷いた。
「何とも想わない人を命懸けで庇えるほど、わたしは優しくはないよ」
 咄嗟の行動だったが、気の迷いや気まぐれではなかった。これ以上彼に傷ついてほしくなかったから、エデルは躊躇うことなく手を伸ばしたのだ。
「じゃあ、イェルクよりも、大切? 好き?」
 ディートリヒの消えそうな囁きに、エデルは声を失った。上手く力の入らない上半身をゆっくり起こして彼の顔を覗き込むと、美しい顔を歪めて、まるで痛みを堪えるかのように唇を噛んでいた。
「君が僕を大切に想うのは、僕と君が似ているからだろう。だけど、同情だけで人を好きになんてなれない。君は僕のことを好きになんてならない。……そんなに、彼のことが好き? 愛していたの?」
 エデルの脳裏に金色の髪をした少年の姿が過る。イェルクに対して同情がなかったと言えば嘘になる。自分は彼の影で、一番近くで同じ苦しみを味わう同士でもあったから、彼に自分を重ねていた節があるのは否定できない。
「君がイェルクを愛したのは、同情だけが理由ではないだろう?」
 それでも、――エデルの愛は、同情だけが理由ではない。
 言葉で尽くせないほど多くのものを彼から与えられていて、エデルの世界は彼によって象られた。
 深い紫水晶の瞳がエデルを射抜く。瞬き一つすることなく、ディートリヒは答えを求める。取り繕ったところで、おそらく見透かされてしまう。そして、こんなにもまっすぐに見つめてくる彼に嘘をつきたくなかった。
「あの人が、わたしのすべてだったの」
 誰にも愛されないエデルに、唯一手を伸ばして、愛してくれたのがイェルクだった。
「あの人を愛していた。……だけど、それは叶わない想いだったから、この気持ちに名前を授けることが怖かった」
 かつてのエデルは、彼のために生きて死ぬことを至上の幸福としていた。共に育つ中で淡い想いを抱いたのは、必然だったのだろう。だが、それは赦されない感情だった。だからこそ、愛していたが、その愛に名をつけることを拒んだ。
 もし、その想いが恋愛であったならば叶わないことなど目に見えていた。

「わたしと彼は、異母兄妹・・・・だから」

 瞬間、ディートリヒの瞳が困惑に揺れたのを見て、エデルは苦笑した。
「イェルク様は、きっとご存知だったと思うの。わたしが知ったのは、随分と大きくなってからのことだったけど」
 人目をはばかるように唇を重ねた国王陛下と母を見たのは、本当に偶然だった。落ちぶれた家に縋る憐れな母ではなく、そこには恋をする美しい女がいた。
 正妃と国王陛下が不仲な理由も、どうして自分が亡くなった父親に似ていないのかも、嫌でも理解してしまった。燃えるような赤毛を持つカロッサ家と、その分家から婿入りした父。同じ赤毛の両親から、どうして金混じりの赤毛をした子が生まれるのだ。
 この髪はイェルクと同じで、――父親から引き継いだ金髪の名残を持っている。
「そもそも、母は王太子の乳母として、相応しい人ではなかったの」
 廃れた家の者を敢えて王太子の乳母にする必要などなかった上に、乳母をするのが初めての母を選ばずとも、もっと相応しい人が他にいたはずだ。
 それにも関わらず、母がイェルクの乳母になった理由はエデルにあった。
「私を隠すために、……イェルク様の乳母として、母は選ばれたの」
 火種となってしまう不義の子、存在しない王女を隠すためにイェルクは使われたのだ。
 エデルがイェルクと同じ教育を受けたのは、世継ぎに万が一のことが起きた場合の備えとして、最善の形で手元に置きたかったからだ。
「グレーティアでは王女も世継ぎになれる。わたしは、貴方と同じ。大好きな兄の地位を脅かす血を持って生まれたの」
 エデルとディートリヒは、とても似ていた。異母兄を愛していながら、その人を蹴落としかねない血を持って生まれた。
「イェルク様が、好きだった。誰よりも愛していた。だけど、この血がいつか彼を苦しめるかもしれないと思ったら、ずっと……怖かった」
 傍にいたかったから、大人になることを拒んだ。どんな手を使っても良いから、薬に頼ってまで孕めぬ子どもでいようと努めた。愛しているなら彼の傍を離れて独りで死ぬべきだと知りながら、弱くて浅ましい自分はその道を選べなかった。
 どんなに惨めな想いをしても、温かな異母兄に縋らずにはいられなかったのだ。いだいた想いが叶わなくとも、隣に並び立つことができなくとも、傍にいたかった。
「どうして、わたしは、生まれてきてしまったの……?」
 この問いに答えてくれる人など、何処にもいないと知っていた。それでも、口にせずにはいられなかった。
「どうして、別の形で出会えなかったの?」
 イェルクが見せてくれる太陽のように輝かしい笑顔を、血の繋がらぬ他人として見つめていたかった。乳母兄妹でも異母兄弟でもなく、彼を恋しく想うことの赦された一人の少女として巡り会いたかった。
 どうして、コルネリアは赦されるのにエデルには赦されなかったのだろう。
 淡い想いを伝えることも、彼に抱きしめて口付けて欲しいと望むことも、――ずっと傍にいることも、叶えてはもらえなかった。
「たった一つの宝物だったのに。なんで、どうして、……どうして、ずっと一緒にいちゃいけなかった、の?」
 次から次へと涙を流して、エデルは震える声を張り上げた。
 望んで、このような血を継いで生まれたわけではなかった。自分にはどうすることもできないことで想いを否定されても、諦めきることができなかった。
 母親からも見捨てられたエデルを、唯一愛してくれた人。彼だけが宝物で、彼以外の世界を知らなかった。
「エデル」
 名を呼ばれ涙に濡れた顔をあげたとき――、唇に柔らかな何かが重なった。
 長く豊かな睫毛に縁取られた紫の瞳が、目を開くエデルの姿を映し出している。触れ合った唇から伝わる熱が脳髄に甘い痺れをもたらした。
 頬に触れる骨ばった指先が悪戯に動いて、顎の下を軽く擽るようになぞる。
 一瞬とも永遠とも感じられる、時の流れを止める口づけだった。やがて、唇が離されたあと、茫然としたエデルは己の唇に震える指を這わした。
「涙、止まったね」
 森の女神のように美しく微笑んだディートリヒが、背に腕をまわし、傷だらけのエデルを包みこんだ。
「ねえ、エデル。僕が傍にいるよ。限られた時間だけど、この時代にいるときは僕が君を抱きしめてあげる。愛してあげる」
 甘い毒を滴り落とすようなものではなく、それは酷く不器用で率直過ぎる言葉だった。それ故に、紛れもない彼の本心なのだと知る。
「だから、イェルクではなく今君を抱きしめている僕を見て。――僕を、愛して」
 ディートリヒの身体は、一切の温もりさえ感じられない冷たいものだった。それでも、エデルはこの上ない安堵を覚えた。
 恐る恐る薄い背に腕をまわしたエデルは、彼の胸に縋りついて声をあげて泣いた。