花と髑髏

第三幕 四百の夜を超えて 20

 ドーリスの手によってメルヒオールに引き渡されたエデルは、花冠の塔の一階に座り込んでいた。
「無駄な真似をせず、大人しく待っていた方が賢明だぞ」
 手足の拘束を緩めようとするエデルを見て、メルヒオールは呆れたように溜息を零した。
「待っていたところで助けが来るわけでもないのに、大人しくなんてしていられません」
「助けならば、ディートリヒが来るだろう。ドーリスから知らせを受ければ、お前のために駆けつけるに違いない。そうして、私の言うことを聞くだろうよ」
 吐き捨てたメルヒオールに、エデルは眉をひそめた。
 彼の目的は承知しているが、無理やり花冠の塔に踏み込むなんて、随分と強引な真似をしたものだ。逃げ続けるディートリヒに痺れを切らしたにしても、もっと上手な方法はいくらでもあっただろう。
 それだけ、メルヒオールは焦っていたのだろうか。
「……どうして、そこまでディーに拘るんですか? 一度失敗しているんだから、彼のことなんて諦めれば良いでしょう」
「あれは真実に気づかぬ愚か者だが、その血にだけは価値がある。あれが王となれば、国守の水晶を最善の形で使うことができるのだから」
 メルヒオールの淡々とした声からは、血縁に対する愛情は微塵も感じられなかった。己の血を継いだ孫であろうとも、彼にとっては魔術のための駒でしかないのだろう。かつて実の娘を使った時と同様に、躊躇いなく利用できる存在なのだ。
「王だけに国の運命が左右される状態は危うい。直系王族の途絶えが国の滅びに直結してしまうのだから。――それならば、魔術師たちが水晶を保有し、複数で結界を張り、国土を豊かにした方が良いだろう」
 メルヒオールの言い分は一理ある。王の手に国の守りと豊かさが委ねられるグレーティアは、常に滅びの危うさを孕んでいる。繁栄も滅亡も、ただ一人の王によって定められることに、国の真実を知る者たちが不安を抱くのは無理もない。
 だが、――だからと言って、それは国守の水晶をアメルンに渡す理由にはならない。
「でも、貴方が案じているのは国の未来ではなく、魔術が消えることでしょう?」
 どれだけ尤もらしい言葉を並べたところで、アメルンが欲しているのは国を守護する役目ではなく、魔術師としての異能に過ぎない。
「貴方の言うとおり、今の状態は危険なのかもしれない。だけど、……貴方が心配するような事態には絶対になりません。グレーティアは魔術師が消えても滅びない」
 魔術が失われても国は続き、エデルはその場所で生きていた。ディートリヒたちが繋いでいった国は、途絶えることなく未来へ続いているのだ。
「何故、そう言いきれるのかと聞きたいところだが……、答えなど知れているか。娘、お前の胸元に刻まれているのは魔女文字だな」
 暴れたせいで肌蹴たエデルの胸元を見て、メルヒオールは端正な顔を歪めた。
「時の魔術。あのような酔狂に興じる愚か者が、まさか、まだいたとはな」
「……そんなに、珍しいものなのですか」
「気の遠くなるような年月を費やして、ひたすらに時の魔術だけを構築していくのだ。それ以外の一切の魔術を行使できない上に、並みの魔術師では行使する前に水晶が寿命を迎えてしまう」
 メルヒオールの言う通りならば、確かに時の魔術とは酔狂以外の何ものでもない。長い時間をかけて、叶うかも分からない魔術を延々と構築し続けることは、傍から見れば愚かでさえある。
 だが、そうまでして、エデルをこの時代に招いた魔術師が存在するのだ。
 二人の間に落ちた沈黙を破るように、外から足音が聞こえてくる。耳慣れた足音に、エデルは目を伏せて唇を噛みしめた。
 鈍い音を立てて、花冠の塔の扉が開かれる。陽光を背に受けた青年は、手にした懐剣を真っ直ぐにメルヒオールに向けていた。

「メルヒオール。エデルを離して」

 ディートリヒ・アメルンは、深い紫水晶の瞳でこちらを見据えた。その表情は激情に駆られているわけではなく、しめやかな悲しみに満ちているように思えた。
「久しいな、ディートリヒ。お前が勝手な真似をして以来になるか。長い家出の末に、答えは出ただろう? お前が過去にしたことは無意味で、結局のところお前は王になるしかないのだと」
 メルヒオールは幽かに笑みを浮かべて、自らの喉を指差した。それは、王位争いの末にディートリヒが突いた場所と同じだった。
「答えなんて、今も昔も変わらない。――僕は、王にならない。ゲオルク・グレーティアへの愛に殉じた『魔女』の願い通り、彼の血を支え続けるだけだ」
「魔術を失えば、それすらできぬだろうに」
「僕たちは森に根付いた『魔女』だ。水晶を手に入れる前の彼女と同じように、ゲオルクの血を支えることはできる。もう、こんな力は要らないんだ」
「……従わなければこの娘を殺す、と言っても気が変わらないか?」
 強引にメルヒオールに引き寄せられたエデルは、首筋を強く掴まれて顔を歪める。骨ばった指先が喉を圧迫し、息苦しさに吐き気がした。
「……っ、エデルは、関係ないだろう」
「お前を従わせるだけの力を持つ存在が、関係ないわけあるものか。哀れな娘だ、お前に好かれたばかりにこのような目に遭う」
 首筋を掴む腕に力が籠められ、エデルは声にならない悲鳴を上げた。利用価値がなくなった瞬間、この男は躊躇いなくエデルをくびり殺すだろう。
「答えは一つだ。お前は自分の命を棄てることはできても、大切な者を切り捨てることはできない」
 メルヒオールはディートリヒを良く理解していた。
 彼は己の命を決して大切にしないというのに、情を傾けてしまった相手を見捨てることができない。自分を犠牲にして、相手を助けることにためらいを抱かない。
 ああ、――このままでは、ディートリヒの足手まといになってしまう。
 そう思ったと同時、エデルは無意識のうちに両足を振り上げていた。身体をしならせて、勢い良くメルヒオールの右足に踵を落とす。
 驚いた彼が腕の力を緩めた隙を見て、その腕に勢い良く噛みついた。肉を食い千切るつもりで歯を立てると、メルヒオールの拳が側頭部を強く殴打する。痛みで意識が飛びそうになるが、心を奮わせ、怯まぬように唇を噛みしめた。
「小娘が! 余計な真似を!」
 激高したメルヒオールは、体制の崩れたエデルの首に両手を添えて床に押し倒す。
「エデル!」
 叫びながらこちらに駆け出したディートリヒに応えることもできず、徐々に首に力を加えられたエデルは苦悶の声を漏らした。骨が軋む音を聞いて、固く目を瞑ることしかできない。
 だが、――次の瞬間、エデルを絞め殺そうとした腕が力なく外された。
 恐る恐る瞼を開けると、自らの口元を両手で押え込むメルヒオールの姿があった。彼の手の隙間から鮮烈な赤が零れて、エデルの胸元に滴り落ちる。
「メルヒ、オール……?」
「ははっ……、なるほど。よりにもよって、こんな時に時間切れか! ああ、ついに『魔女』にまで見限られるとは、……哀しいことだな」
 彼の言葉を受けて、エデルはアメルンの男魔術師の唯一と言っても過言ではない死因を思い出す。
 水晶の老衰・・だ。
 アメルンの男魔術師は人としての正常な機能を損ない、不死に似た身体を得る。そのため、時間切れ以外で死ぬことはないのだ。
 老獪な魔術師が、何故、強引にことを進めようとしたか唐突に理解する。年老いた彼には、ほとんど時間が残されておらず、彼自身それを分かっていたのだ。
「私の負けだな、ディートリヒ」
 メルヒオールは微笑んだ。あまりにも穏やかな笑みだった。
 彼の身体から肉がこそげ落ち、見る見るうちにさらさらとした砂と化していく。砂は扉から入り込む風に舞い、散り散りになった。
 白骨化した遺体だけが、音を立てて床に投げ出された。メルヒオールの髑髏には、魔術師の証である水晶が残酷に輝いていた。
「……僕は、勝ったなんて思えないよ。お祖父様《・・・・》」
 ディートリヒは顔を歪めて、変わり果てた祖父を見つめた。憂いを帯びた眼差しに、エデルの胸は詰まる。
 ――恨んでいただろう。憎んでいただろう。
 だが、それでもディートリヒにとって、メルヒオールは血の繋がった祖父であるのだ。彼の死に対して、何も思わないほどディートリヒは冷酷にはなれない。
 しばらくしてから、彼は祖父の遺骨から目を逸らし、床に倒れ込んだままのエデルを抱き起こして拘束を解いた。
「無事で、良かった」
 彼はエデルの頬を両手で包みこみ、今にも泣き出しそうに眉をひそめた。
「エデル。エデル……、エデル」
 エデルの存在を確かめるように、彼は何度も名を口にする。

「君を、愛している」

 深い紫水晶の瞳に柔らかな光を湛えて、彼は囁いた。
「僕のために泣いてくれてありがとう。僕の命を認めてくれて、ありがとう。――僕も、君に同じことをしてあげたいんだ」
 その言葉の意味を理解した途端、エデルの眦に涙が滲み、耐えきれず零れ落ちた。かたい胸に顔を埋めると、彼は頭を撫でて抱きしめてくれた。
 ――ずっと、自分の生を受け入れることができなかった。
 命を授けてくれた母からは見捨てられ、唯一愛してくれた人の道を妨げかねない血を持って生きていた。己の命を認めたい、愛したいと願いながらも、どうしても愛することができなかった。
 それでも、今ならば、心の底からこの命を赦してあげることができる。自分が生まれてきたことは過ちなどではなかったのだ。
「……愛し、て。愛して、ディー」
 薄闇に包まれていた心に、静謐な光を見た。焦がれた夕焼けではなく、寄り添い合うように傍にある月の光が愛おしかった。
「貴方が、好き。貴方が、……とても、愛しい」
 震える唇で、エデルは拙い言葉を口にする。涙が溢れて止まらなかった。
 先に待つのが別れだとしても、この想いは真実だ。彼の愛を抱いて、エデルは未来を生きていけるのだ。それはとても幸福なことに違いない。
 ――異変が起きたのは、その瞬間だった。
 開け放たれた扉から見える景色、晴れ渡っていたはずの空を、突如現れた闇が侵していく。のどかな午睡の時刻にふさわしくない、夜よりもなお深い黒が広がった。
「な、に……?」
 一切の光が奪われ、エデルは身体を震わした。
「……っ、メルヒオールの奴、まだ、何か隠して……?」
 魔術で懐剣に明かりを灯したディートリヒが、険しい顔をして呟く。
「国守の水晶に何か異変があったのかもしれない。兄上のいる王城へ……」
 目の前に広がる光景を目にしながらも、エデルは別のことに気をとられていた。
 国守の水晶を自由に扱えるのは王だけである。それ故に、国守の水晶は王が暮らす場所にあるのだと信じて疑わなかった。
「……ねえ、ディー。気になることがあるの」
『あれは真実に気づかぬ愚か者だが、その血にだけは価値がある』
 メルヒオールの言葉が脳裏を過った瞬間、エデルは思い至った。自分たちは何か大きな勘違いをしていたのではないか、と。
「貴方が花冠の塔で魔術を自由自在に操れたのは、精神的に安定していたからじゃなくて、別の理由があったんじゃないの……?」
 この塔がディートリヒにとっての逃げ場であるならば、確かに彼の心は安定し、魔術が扱いやすくもなるかもしれない。だが、本当にそれだけが理由だったのだろうか。
「花冠の塔に国守の水晶があるから、ディーは息をするように魔術を操れたんじゃないの?」
 水晶の共鳴作用・・・・・・・
 アメルンの魔術師たちは、互いの水晶を共鳴させ、一時的に力を増幅させることができる。国守の水晶は、アメルンが保有した花守の水晶と対をなすものだ。かつて、二つの水晶は双子水晶と呼ばれていたのだから、互いに共鳴し合っても不自然ではない。
「国土が荒れ始めた時、何があったの」
 ディートリヒの服の袖を掴んで、畳みかけるようにエデルは問いかける。
「……兄上が王位を継いで、花冠の塔を訪れるようになった頃だ。王位争いの時はまともに顔を合わせることもできなかったから……、会いに来てくれたことが嬉しかった。今でも、良く憶えている」
 ディートリヒは顔を蒼白にして、震える声で口にした。
「ディー。フェル様の元へ行こう」
 この空を包み込む闇の原因がフェルディナントにあるならば、彼は国守の水晶と共に在るのだろう。
 エデルの頭には、美しい白亜の塔が浮かぶ。花冠の名に相応しく、花開くように広がった最上階と、幾重にも重なり合う花弁を模した厚い外壁。それらは、おそらく中心にあるものを守るために設計されていたのだ。人の出入りが禁じられた最上階にこそ、秘密は隠されていた。
 ――メルヒオールが嘲笑ったように、ディートリヒは真実に気付けなかった。
 だが、愛する兄が仇と手を結んでいたなどと、誰が思いつくというのだ。



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