花と髑髏

王太子妃の願い

 静寂に包まれた深夜、聞こえた足音にコルネリア・バルシュミーデは扉の傍まで近寄った。
「お帰りなさいませ。イェルク様」
 笑顔で扉を開けば、愛しい人が夕焼け色の目を丸くしている。
「待っていたのか?」
 イェルクは首を傾げた。この頃、政務で遅くまで戻らない彼からは、先に休むように言われていた。それは悪祖に苦しむコルネリアを気遣ってのことだった。
「たまには御出迎えさせてください」
「身体に障るだろう。調子はどうだ? まだ辛いか」
 彼は心配そうな表情でコルネリアの頬に触れた。乾いた掌の感触がくすぐったくて、コルネリアは目を細める。
「今日は気分が良いのです。ご心配をおかけして、申し訳ありません」
「調子が良いのは何よりだが、心配くらいさせてくれ。それしかできないのだから」
 苦笑したイェルクは、コルネリアの手を引いて寝台に座らせた。不謹慎だが、やはり気にかけてもらえるのは嬉しい。どれほど忙しくとも、彼は自分のために心を割いてくれるのだ。
 ――たとえ、それがコルネリアの望む感情故のことでなくとも。
「無理をなさってはいませんか。お忙しいのでしょう」
 彼の目の縁には薄らと隈ができており、疲労が溜まっているのは明白だった。
「忙しくなるのは分かっていたことだ。侍女とは名ばかりで、あれに頼り過ぎた俺や周りの連中が悪い」
 あれ、とはイェルクの補佐をしていた彼女ことだろう。役職は侍女に過ぎなかったというのに、彼は彼女のことを政務の際に重用していた。常に傍に控えさせ、一番の信を置いていたのだ。
「ねえ、イェルク様。あの子はどちらに?」
 数ヶ月前、王城から忽然として姿を消した少女。
 エデルガルト・カロッサ。
 朝焼けの美しい髪と甘い蜜の瞳をした、華奢で愛らしい少女だ。イェルク・ガイセ・グレーティアにとって、最も長い時を共にした乳母兄妹にして、彼が誰よりも大事にしている存在だった。
 コルネリアの頭には、彼女の悲壮な叫びが深々と刻み込まれている。あの日、花冠の塔を訪れた彼女に無神経な言葉を押し付けた自覚はある。そして、そこにあったのは少女を心配する気持ちだけでなかったことも分かっていた。
『わたしが、そんなに邪魔ですか? あとからやって来て、イェルク様を奪ったのはコルネリア様なのに』
 エデルは核心を突いていた。コルネリアは彼女を妹のように可愛く思っているが、同時に嫉妬もしている。彼女を案じながらも、わざと妃という立場を振り翳したのだ。
 以来、エデルは戻っていない。イェルクは心配するな、と一言零して、コルネリアに事情を打ち明けてくれることはなかった。
 彼女が生きいていることは明らかだ。そうでなくては、イェルクは王城で大人しく政務をしたりせず、血眼になって彼女を探したはずだ。
 だが、無事であるならば、何故、イェルクの傍にいないのか分からない。
「遠い、遠い場所いる。案ずるな、近いうちに戻ってくる」
 イェルクは遠い場所が何処であるか明かさなかった。胸の奥に仕舞いこんで、鍵をかけて、誰にも教えるつもりはないのだろう。
「……では、戻ってきた暁に、あの子を迎えるのですか? 私の役目は終わったようなものですから」
 コルネリアは、わずかに膨らんだ自らの下腹部を撫でた。この胎に宿る子は、生まれた瞬間から世継ぎとなる。王子でも王女でも、グレーティアの王になるに相応しい直系の長子だ。
 その時点で、コルネリアは役目を終えたも同然だった。
「すべてイェルク様の御心のままに。ずっと、あの子のことを大切になさっていたのですから」
 本当は嫌だというのに、コルネリアはいつもと変わらない声音でイェルクに提案した。自分は彼より八つも年上であり、それでいて聞きわけの良い女でありたかった。醜い独占欲など覚られてはいけない。
『俺と取引をしないか? コルネリア・バルシュミーデ』
 イェルクと初めて会ったのは、彼が齢十二の時だ。当時、研究者として駆け出したばかりの二十歳のコルネリアは、幼さの残る少年に魅せられたのだ。
 コルネリアは、イェルク・ガイセ・グレーティアの子を生む。代わりに、正妃として役目を果たした後は、生涯にわたる研究の援助を約束してもらっていた。いずれ家に戻され、学問の道から離されることを恐れていたコルネリアにとって、彼の提案は実に魅力的だった。
 唯一の誤算は、共犯者でしかなかったはずの少年を心から愛してしまったことだ。
 彼の取引に頷いた時点では存在しなかった恋心は、気づかぬうちに芽を出し、瞬く間に育っていった。コルネリアは聡明な少年を強く求めるようになり、鮮やかな緋色の眼差しがエデルではなく自分に向けられることを願った。
「冗談にしては、あまり上手くないな」
 イェルクは声をあげて笑った。翳りのない笑みを、太陽のようだ、と讃えたのは、エデルだっただろうか。
「はぐらかさないで」
 コルネルアは思わず碧眼を鋭くさせる。感情が高ぶってしまい、今まで御してきたはずの心が乱れていた。
「俺は元よりあれを迎えるつもりはない。妃は一人だけだと、約束したはずだが」
「あの子のことを愛しているのでしょう」
 コルネリアは知っている。イェルクがエデルを愛していたことも、掌中の珠として大切にしたかったことも、誰より理解していた。彼に好意を抱いて見つめていたからこそ、彼の求める者に気づかずにはいられなかった。
「否定はしない。愛している、大切な妹として」
「だから、乳母兄妹としてではなく……!」
 そこまで口にしたコルネリアは、イェルクの顔が歪んでいることに気づく。まるで痛みを堪えるかのような夫の表情に、口を噤んでしまう。
「昔の話だ。少なくとも、ここ数年、そんな風にあれを見たことはない」
「でも……」
 コルネリアがなおも食い下がると、イェルクは不格好な笑みを浮かべた。
「コルネリア。俺の紋章が『太陽』である理由を知っているか?」
 突然の問いだった。彼の意図を察することができず、コルネルアは眉をひそめた。
「それは、貴方様の名が夕焼けを意味するから……」
 建国時代の言葉――魔女語でイェルクとは夕焼けだ。彼に固有の紋章として『太陽』が贈られたのは、名に籠められた意味が理由だったはずだ。
「違う。この紋章が、俺だけに授けられたものではないからだ。――俺たちは二人で一つの紋章を授けられた。公言できずとも、彼女が王家の一員である証として」
 瞬間、コルネリアは顔を青ざめさせる。二人で一つの紋章ということは、対となる名前を持つ者がいるということだ。夕焼けがイェルクであるならば、朝焼けの名を持つのはあの少女だ。
「まさか、……そんな」
 少女の姿を思い浮かべても、イェルクとは重ならない。二人の間に似ている部分を見つける方が困難だった。
「あれの名前は、陛下がカロッサ家に下賜したものだ」
 コルネルアの違和感は確信へと変わる。何故、一臣下の、それも家を継ぐわけでもない女児に国王が名を与える必要があった。カロッサ家は没落貴族であり、王家との繋がりなど侍女として王宮に務め、イェルクの乳母となったエデルの母にしかなかったのだ。
「エデルガルト・カロッサは、俺の可愛い異母妹いもうとだ。血の繋がった、決して結ばれ得ぬ存在だった。お前と出逢った頃の生意気な十二のイェルクは、とっくの昔に、妹を妃になんてできないと知っていたさ」
 肩を竦めたイェルクの表情が、コルネリアに取引を持ちかけた時のものと重なる。あの時も、彼は痛みを堪えるような顔をしていなかっただろうか。
 コルネリアは、彼がエデルを妃に望まなかったのは、彼女の生家が落ちぶれていたからだと思っていた。そして、家柄が相応しくないという理由で諦められる想いならば、彼の愛はそこまで深いものではない、と期待さえしていたのかもしれない。
 ――イェルクは本当に欲しい者を泣く泣く諦めただけだ。
 傍にいてほしかった少女を手に入れられなくとも、彼には王太子としての責任がある。グレーティアの真実を知ったコルネリアは、王族の血を絶やすわけにはいかないことを知っている。
 コルネリアは世継ぎを生む道具として、イェルクの妃に選ばれたのではないだろうか。
「勘違いだけはするなよ。俺はお前のことを愛している。道具だなんて思ったことは一度もいない」
 まるでコルネリアの考えを見透かしたように、彼は呆れと共に口にした。
 愛している。彼の言葉なら、信じたいと思うが――。
「エデルの、次にですか……?」
 零れ落ちたのは、可愛げのない問いだった。イェルクは驚いたように目を丸くしてから、そっとコルネリアの肩を抱いた。
「同じくらい、愛している」
 嘘でも、一番愛している、と彼は言わなかった。
 だが、それが彼にとって至上の愛の言葉であることを、コルネリアは理解していた。唯一家族と呼べる彼女と同じほど、彼は己に心を砕いてくれているのだ。
「イェルク、様」
「どうした」
「お慕いしています」
「……知っている。だから、そんな顔で泣くな」
 骨ばった指先で頬を撫ぜる人に、コルネリアは縋りついた。
 醜い女の部分が、エデルガルトに嫉妬せずにはいられない。それでも、彼が妻として愛してくれるならば、それを幸福としたい。
「泣き虫だな、コルネリアは。俺にそっくりだ。……さて、どうしたものか。俺とお前の子なら、きっと、この子も泣き虫だ」
 イェルクはコルネリアの腹部を撫でた。とても優しい手つきに、また涙が零れ落ちて止まらなかった。
 コルネリアは、まだ見ぬ我が子に思いを馳せる。
「大丈夫です。だって、この子にはエデルと同じ血も流れているのですから。泣き虫でも、きっと、頑張り屋で優しい子になります」
 この身に宿った命は、イェルクとコルネリアだけの家族ではないのだ。朝焼けの少女にとっても家族となるのだと、ようやく気付いた。
 エデルは可愛い子だ。羨みや妬みを抱いていても、あの子を愛した心も嘘ではない。これからも、きっと愛していける。
 遠い場所で、彼女は背筋を伸ばしているのだろうか。蜜色の眼に悲しみを堪えてはいないだろうか。その孤独を癒すことができなくとも、せめて、寄り添ってあげたい。
「この子が、エデルを愛してくれますように。エデルが、この子を愛してくれますように」

 コルネリアの願いが叶ったのは、それから数年後の話だった。