恋に終止符

 朝目覚めて鏡を見ると、目元が赤くはれていました。常でさえ綺麗とは言えない顔が、さらに酷い惨状になっています。
 階下に降りれば、母がわたしの顔を見て目を瞬きました。
「あら、あらあら」
 わたしが話す速度よりも倍くらい遅い喋りで、母がわたしの元に走り寄ってきました。
「目が真っ赤ね。蒸しタオルで温めたほうがいいわ、その後すぐに冷やすの」
「いえ、時間があまり……」
 電車の発車時刻を考えると、そのようなことをしている場合ではありません。
「大丈夫。今日は送ってくれるはずよ、ね?」
 母は父を振り返って、悪戯な笑みを浮かべました。
 彼女は、わたしたちを気にかけているのでしょう。
 子育てとは無縁の、――子育てには向いていない人ではあっても、お腹を痛めて生んだ我が子を愛しているという言葉は嘘ではないのかもしれません。
 両親が、わたしたちを愛しているとうい事実は本当なのです。それが、二番目に、という言葉の元に成り立つ関係だとしても、誰が彼らを責めることができますか。
 こんなの、独りよがりな感傷でしかないと、誰よりもわたし自信が分かっています。
 蒸しタオルを持って、わたしに駆け寄る母。そのタオルを用意したのは、おそらく台所に立つ父親なのでしょう。
「ありがとう、ございます……」
「いいのよ。これくらいしかできないもの」
「……、……?」
「私たちは、貴方のことを愛してるわ。――何があっても、棄てたりしない」
「……、何を、言いたいんですか?」
「――何も。知ってほしかっただけよ。はい、皮膚を痛くしない程度にね」
 タオルとは正反対の手に持っていた氷嚢をわたしに渡して、お母さんはリビングのソファへと戻って行きます。
「あ……、おかあ、さ……」
 言いかけた言葉は虚しく、彼女に届くことなく堕ちました。
 台所では、エプロンをした父がこちらを見ています。いえ、わたしに構っていた母を見つめていました。
 わたしの元から彼女がいなくなれば、当然その視線も移ろいでしまいます。
 お母さん、お父さん。
 貴方たちにとってのわたしは絶対ではないけれども、わたしにとっての貴方たちは絶対だったのです。幼い頃の孤独が、今もわたしの胸に棘として残っていることを、貴方たちは知っているのでしょうか。
 愛してるなどと言うので在れば、なぜ、それに見合うだけ、わたしが貴方たちを愛することを認めてくれなかったのですか。
 優しい拒絶は、それ故に幼子にとって手酷い仕打ちになることを、どうして気づいてくれなかったのですか。
 お母さんの前以外では、お父さんの笑みは能面のようです。貼り付けた笑顔の仮面を盾に、貴方はお母さんを守っていたのですか。
 お父さん、貴方は気づいていたのでしょう。誰よりも頭が良くて、お母さんみたいな人と結婚できた貴方なら、わたしのちっぽけな寂しさを理解できないはずがありません。
「……、ほら、早く準備しなさい」
 気づいていても、それは貴方にとって無価値なものだったのですね。愛していると呟いた唇の真意は、容易く捨てられる愛着だと、やっと分かりました。娘も息子も、玩具程度にしか、貴方は愛でられないのでしょう。
 お母さんだけ愛せれば、貴方にとって娘なんて関係ないのですね。

 それならば――、わたしも、貴方たちに甘えたいと願う自分を捨てなくてはならない。

「もう、あんまり酷い言い方しちゃダメよ?」
 母の言葉に、本当の笑顔で優しく微笑む父。
 胸の棘がちくりと痛みます。
 やっぱり、彼らは卑怯だと、わたしは思ってしまうのです。



 クラスの扉を開けると、朝の騒々しさが耳に染み入ります。
 珍しく一人席に着いている颯さんの姿が目に止まりました。右耳のいかにも高そうなピアスが、教室の蛍光灯の光を帯びて輝いています。
 わたしあ教室に入った瞬間、彼は顔をあげました。
 彼は、いつものように笑っていました。小さく手を上げて、わたしに挨拶をします。
「おはよう、日比谷さん」
 以前と何一つ変わらない、――作り笑いでした。
 そうして、わたしは理解しました。
 結局のところ、わたしは彼の周りを取り巻く女生徒と何一つ変わらないとい存在なのです。
 好きなものを見つけられない彼が、少し毛色の違ったわたしに手を出してみた。身勝手極まりない彼の道楽に、巻き込まれただけなのです。
 言葉にすれば、何て簡単なことだったのでしょうか。
 単純な事実に、衝撃を受けるわたしがいることなど認めたくもありません。
 震える喉を諌めるように、わたしは一度瞳を閉じました。
 開いた瞳に、恐れるものは何一つ映りません。
 ここは、わたしの世界。誰にも邪魔されません、たとえ、わたしが渇望した瞳を持つ人であっても、わたしの心は揺さぶられたりしません。
「おはようございます、――塩原さん」
 遊ばれていただけだと言うのに、何を舞いあがっていたのしょうか。空っぽの瞳に魅入られていただけのはずです。
「今日は、いい天気だね」
 晴れ渡る空に視線をやる彼の姿に、唇を噛みしめて、わたしは同意するように言いました。
「ええ、……とても」
 憎々しいまでの青さは、彼だからこそ似合うものです。わたしが青空の下に行こうと願うことが不自然だったのです。
 もう何一つ関係ありません。
 決着をつけましょう。
 決別をしましょう。
 この細い糸を断ち切って、わたしは彼と出逢う以前に戻ってみせます。
 それが貴方の望むところなのでしょう、塩原さん。



 その日の放課後、わたしは担任に呼ばれて教務室へ向かいました。
「お、来たか。日比谷」
 彼は教務室の前で、今まで待っていました、とばかりの仕草で、手に持っていたプリントを差し出しました。
「日比谷、これ、塩原に持って行ってくれるか」
 問いかけは、既に疑問でさえなくなっていました。これは、一度も頼みごとを断らなかったわたしにも責はあるのかもしれません。
「進路調査表、白紙のまま出したんだよ、あいつ。来週までで構わないから、出せって伝えてくれ」
 進路調査表。
 回収の際に個人情報の秘匿を考慮して、裏返しに集めたので気付きませんでした。彼が白紙で出していたことに、わたしは驚きます。
 外面はとてもいい人です。女性関係を無視すれば、優等生と言っても過言ではありません。暇さえあれば勉強しているわたしよりも、彼はずっと頭が良いのです。
 その上、家は確か御三家と所縁のある家で、御藤の中でも中々の高位にある家だったと記憶しています。
「かなり探したんだが……見つからなくてな」
 真夏だというのに涼しい顔をしている教師を見て、わたしは小さく頷きました。汗一つかいていないところを見ると、探してなどいなかったのでしょう。クーラーの効いた教務室から出たばかりと予測します。
「日比谷は本当に良い子だな、助かるよ」
 先生の言うことを聞く子供が良い子なのかは、わたしには分かりませんでした。ただ単に、先生にとって都合が良くて、扱いやすいだけなのかと思いました。
 都合の良い人間は、重用はされても、重宝はされません。それを知りながら、わたしはそこから抜け出すことがいつもできません。
 人が嫌いと言いながら、人との関わりを少しでも持ちたいと、矛盾した願いを持っています。
 結局は、世間から見た理想像と言ったところなのでしょうか。そういう人間こそが、良いように使われて、最後には捨てられるのかもしれません。
 あくまでわたしの考えであり、正しいか間違いかなんて分かりません。分からないことは、分からないので、放っておくことにします。どうせ、大したことではありません。わたしには何も影響のないことなのです。そもそも、本当に正しいか間違いかなんて、誰にも分かりはしません。
 世間が良しとすれば正義で、否定すれば悪なのです。人間とはそういう生き物なのでしょう。大衆が認めた正義こそが正しく、それ以外は悪なのです。わたしもそのことに関しては異論はありません。
 正しいか間違いかは別として、それが一つの世界の形なのでしょう。
 ならば、わたしは受け入れるまでです。
 受け入れなければ――いけないのです。
「…………、だから、人が苦手なのでしょうね」
 わたしが人を苦手になった原因は、たくさん、たくさんあったのだと思います。
 どれも、世界にとっては大したことのない、それでも、わたしにとっては重大なことだったのでしょう。
 わたしは、この世界に確かなものなど何一つないことを知っています。
 間近で両親を見つめてきたからこそ、その中でも、一番不安定で不明瞭なのは人間であることを強く認識しました。
 人間は常に矛盾しています。
 昨日までの正義は、呆気なく明日の悪にもなるのです。人は簡単に意志を覆します。昨日の友は、明日の敵というのは、本当のことなのでしょう。
 生き抜くために自らを変えていくこと。それはある意味、上手な生き方なのかもしれません。
 だけど、わたしには怖くて堪らないのです。
 そんな風に、様々な色を写す瞳が、――色を変える心が。
 完結した世界の中で、ただお互いしか必要としない両親。
 本当は、蔑んでなどいないのです。羨ましがっているだけなのです。彼らは、世界に確かなものがないと知っています。知っていたからこそ、彼らはお互いを確かなものとして鎖で縛り合った。それを馬鹿にすることなど、わたしにはできません。わたしが恐れているものから解放された両親を、羨むことは当然でした。
「幸せは、痛みは、分かち合えるものではないのです。恐怖は伝染して、共有できるけど――、そんなもの、分かち合って何になるのでしょうか」
 胸に燻ぶるこの思いは、あの瞳に対する焦がれだけなのでしょうか。本当に求めているのは、瞳だけなのでしょうか。
 わたしが求めているのは、何なのでしょうか。
 わたしは、別の何かを得るための道筋として、瞳を求めているのかもしれません。
 この問いかけに答えは存在しません。答えなど、出るわけがないのです。出してはいけないのです、その先に待つのは、惨めな自分だけなのですから。

 それならば、わたしが為すことは、ただ一つです。

 彼との決別で、わたしは様々な呪縛から解き放たれるはずです。両親を絶対に思っていた過去からも、訳の分からない思いを抱えて醜くなっていく自分からも、やっと解放されるのです。
 彼と出会い、短い間いい夢を見ることができました。
 これで、自由になれます。わたしは、自らの意思で自由になるのです。遊ばれたのではないのです、遊ばれてあげたのです。
 そう思わなければ――この思いは虚しすぎます。
 わたしは先生から預かったプリントを手に、静かに歩きだしました。真夏の生温かな風に抱かれて、わたしは颯さんの元へと向かいます。
 答えの存在しない問いかけなどに意味はありません。答えの出せない問いも、また然りです。だから、わたしはわたしの思うままに行動しましょう。それが正義でも悪でも、それを判断するのはわたしではありません。
 彼に会ったことの正誤など、関係ありません。
 わたしは確かに、恋をしました。
 初めて、誰かを好きになりました。
 決別を――この恋に終止符を打ちましょう。
「――さようなら」
 彼にとっては遊びでも、きっと、本当にわたしは彼が好きになっていました。空っぽの瞳も含めて、好きなものを何一つ持てない彼を抱き締めてあげたかったのでしょう。
 それがとても高慢な思いであることは、自覚していました。
 惹かれていたことは、確かだったのです。わたしのような人間でも、人を好きになることができたのです。
 それはきっと、素晴らしいことなのでしょう。慰めにしかならないとしても、わたしは心からそう思えます。
 照りつける太陽がかげってきました。日の当たる場所の似つかわしくないわたしが、太陽のような彼と決別するには相応しい空です。

 彼は、わたしにとっては幸せだったあの場所にいるでしょう。