優しい爪

 正午に近づく時計を見つめながら、俺は小さく欠伸をした。
 淡々と教科書を読みあげる低い声が、俺を眠らせるための呪文のようにさえ感じられた。
 学ぶことは、決して損にはならないため嫌いではない。ただ、既に分かっている授業を受けることは億劫でもある。
 教師の声が、チャイムと同時に止まる。
「では、今日はここまで。また次の時間に」
 初老の男性教師は現代文の教科書を閉じ、皺ひとつないスーツで一礼した。 彼が教室を出た途端、溢れだしたような騒がしさが教室を満たした。
 俺は机の中に教科書を入れて、席を立つ。これから朱里と過ごす昼休みだと思えば、今までの眠気も何処かへ消え失せてしまった。
 逸る気持ちを抑えながら、自分の席と正反対に位置する彼女の席へと歩み寄る。
「朱里、行こう」
 おそらく、俺の顔は笑っているに違いない。
 朱里は一瞬だけ目を丸くした後に、ほんの少しだけ口元を綻ばせて返事をした。
「……、はい」
 俺は朱里の手を引いて教室を出る。
 数人の女子の視線を感じたが、すべて気づかないふりをした。
 以前までの俺を取り巻いていた女子には、ひどいことをしたと思っている。昔の自分がどれほど酷い人間かなど、自分自身が一番分かっていた。
 それでも、同情するのは彼女たちの自尊心を傷つけることになるし、朱里を悲しませることになる。
 だから、俺はずっと気づかないふりをし続けるのだろう。卑怯者と思われようとも、それこそが最善だと思っている。
 第一に、償えなどと言われたところで、俺には彼女たちに差し出せるものがない。唯一できることといえば、謝罪をすることだが、それでは彼女たちは満足しないだろう。
 廊下に出ると、行き交う人間は俺たちのことなど気にすることなく、各々の目的地まで足早に移動していた。
 女子の視線で緊張していた朱里の身体から、強張りが溶けていくのを感じる。
「持つよ」
 朱里の持っていた鞄を奪い取るように持つと、彼女は慌ててお礼を言う。
 いつも淡々とした彼女の珍しい姿に笑みを零して、隣り合うようにして歩を進めた。
 薄いフレームの眼鏡の奥で、彼女の小動物みたいに大きな目が揺れている。
「颯さん。今日は何処で食べましょうか。晴れていますから、屋上ですか?」
「ううん、中庭」
 教室で弁当を食べると周囲からの視線が鬱陶しいので、最近はいつも校内の静かな場所で食事を取るようにしている。
 朱里は俺に申し訳なさそうにしているが、俺としては二人きりの方が幸せだから何の問題もなかった。
 最近、まるで朱里の父母の道を辿っているかのように感じる時がある。
 俺は周りを捨てたいとは思わないけど、朱里と二人だけでもきっと幸せだとは思う。
 一月しか付き合ってないのに変な話だとは我ながら思うけど、俺はこの先も彼女を手放す気がないのだから、仕方がない。
 落ち着かない様子で俺の隣を歩く彼女は、俺にとって初めての特別・・なのだ。
 中庭に出ると、既に幾人かの生徒たちが昼食を取っていた。室内用の観葉植物の植木鉢と共に昼食を食べるカップルの脇を通り抜けて、校舎の渡り廊下の真下、コンクリートの上に腰を下ろす。
 朱里も噂は知っていたのか、納得したように頷いていた。
「……中庭に好き好んで近づく生徒は、居ませんね」
「そうそう。奇人変人の巣窟に、わざわざ足を踏み入れようとは誰も思わない」
 御藤高校の色もの中の色もの、自分が定めた身内以外の他者に、一切の興味がないような奇人変人が集まるのが中庭だ。
 持っていた荷物を朱里に返すと、彼女は少し大き目の鞄から二つの包みを取り出して片方を俺に渡す。
「いつも、ありがとな」
「…………、どういたしまして。今日は和風にしてみました」
 大きめの黒い弁当箱には、彼女の言葉通りのメニューが詰まっている。どれも手が込んでいるのが、一目で分かる代物だった。
「相変わらず、凄いね。早起きして大変だった?」
「元々、そんなに遅く起きる方ではないので平気です。少しずつ上手くなっている気がして、……少しだけ、楽しいです」
 以前、彼女の言葉の端々から感じられた冷たさは、ほとんど消えていた。
 その変化は俺が及ぼしたものだと思うと、少しだけ胸が熱くなった。
 何にも関心を持てないが故に何の感情も抱かなかった俺と、人の感情を恐れるあまりに心を閉ざしていた彼女は、とても似ていた。
 彼女が少しずつ俺に心を開いてくれるならば、俺も彼女のように変わっていけているだろうか。
「そっか」
「そうなんです」
 幸せそうに笑う彼女の細い指が、弁当箱の蓋を開ける。
 俺は朱里の細長い指を見つめながら、気になっていたことを口にした。
「朱里ってさ、爪、短いよね」
 箸を口に運ぼうとしていた朱里は、動きを止めて首を傾げる。そんな仕草が、堪らなく可愛いことを、彼女は知らないのだろう。
 今も冷たく固い印象を抱いてしまうのは、皆が遠くからしか彼女を見ていないからだ。本当はとても優しくて、でも、不器用だからその優しさが周囲が感じ取れないことを知らないのだ。
「随分と、唐突ですね。何か問題ありますか?」
「ううん、問題はないよ。他の子みたいに伸ばさないのかなって思っただけで」
 暫く朱里は考えるような仕草をした後、少しだけ悲しそうに目を伏せた。 その反応を見て、俺は後悔する。
 彼女は、他の子を引き合いに出されることが苦手だ。
 俺からしてみれば朱里は、可愛くて良い子だが、周囲からの評価は違う。悪意の混じった視線をひどく恐れている彼女にとって、他者との比較は苦しみ以外の何ものでもない。
「……、えと、その、ごめん、朱里」
 どうすればいいか分からずに、思わず謝罪の言葉を口にした。これでは、逆効果だと気づいたのは言葉にしてしまった直後だった。
 朱里はどうしようもないほど女癖の悪かった俺の過去を結果としては知っている。それについては、何の言い訳もできない。唯一の救いは、過去の俺が仕出かしてきたことの内実を、彼女が知らないことだ。純情な彼女には、とても語れるものではないので、一生秘密にするつもりだ。
 彼女は何も言わずに、黙って俺を見ていた。
「あー、朱里?」
 そして、暫くの沈黙の後、こちらが申し訳なくなるほど控え目な声で聞いてきた。
「爪の長い女の子の方が……好きですか?」
 瞳を潤ませて俺を見上げた彼女の精一杯の主張に、不覚にも顔を赤くしてしまったのは俺の方だった。
 比較してはいけないと分かっているけど、やっぱり、朱里は今までの女の子たちと違う。
「……俺が好きなのは朱里だけだから。爪が長くても短くても、朱里なら何でもいいよ」
 歯の浮くような恥ずかしい台詞だと思いつつも、心からの言葉であるからこそ、俺の声は堂々としていた。
 嘘つきな俺も、彼女の前では正直者になるらしい。
「――――、ありがとう、ございます」
 少し言葉に詰まった後に、彼女は恥ずかしそうに目を細めた。一瞬の沈黙の後に喋るのは、彼女なりの照れ隠しだった。
 共にいるうちに、何となく彼女の癖が分かってくることが嬉しい。朱里のことを知る度に、より彼女の傍へと寄り添えたような気がする。
 風に舞う髪を撫でる細い指の先、薄いピンク色をした爪から、俺は視線を外せなくなっていた。
 朱里は今時にしては珍しく、髪も爪もそのままだ。もちろん、手入れはしているのだろうが、髪を染めたり爪に色を塗ったりはしない。
 俺が今まで付き合ってきた女の子たちとは、全く正反対に位置する女の子。 あまり笑わないから誤解されがちだが、顔立ちはとても可愛らしい。どこか小動物を思わせる大きな瞳が、眼鏡の奥に隠れている。
 時折、彼女がどれほど可愛いのか周囲に示したくなる。
 それと同時に、俺だけが彼女の可愛さを知っていればいいという、醜い矛盾した思いもある。
「ただ、何で爪を伸ばさないのか気になったんだ。よく教科書とかページが捲れなくて困ってるだろ?」
 この間、一緒に図書室で勉強した時、随分と苦労していたのを憶えている。
「良く見てますね。確かに、あんまりにも短いので不便ではあります」
「じゃあなんでそんなに短く切るの?」
 彼女は首を捻った後、いつもの調子を取り戻して淡々と喋り始める。
「料理をするときに爪が長いのは不衛生です」
 実に、彼女らしい言葉だった。
 確かに、料理をする際に爪を伸ばしていては、衛生面から考えるとあまり良いとは言えない。
「朱里、弁当も手作りだもんな」
「お弁当を自分で作るようになったのは、颯さんの分も作るようになってからですけどね。弟にも好評なんですよ?」
「……朱里、弟、いるの?」
 初めて耳にする情報だった。
「はい、三つ下なんです。とっても良い子で、可愛くて、何でもできるんですよ」
 朱里は自慢するように、弟のことを口にする。
 彼女が言うのであれば、本当に言葉通りの弟なのだろう。
「へぇ……、そっか、弟の分も作ってたんだ」
 面白くなかったことは、朱里には言わないでおこう。
 彼女の弟に嫉妬していたなんて、どうしようもないにもほどがある。
 彼女らしい理由に俺は納得したが、朱里はさらに続けた。
「……、それに」
 あの日までの硝子の瞳ではない、瑞々しい色を携えた瞳が、俺の姿を映し出した。
「颯さんに触れても、傷つけないでしょう?」
 躊躇いなく頬に伸ばされた手は、冷たかったけれども、とても優しかった。
 どこまでも慈しみに溢れた朱里の手に、俺は頬を寄せる。
「本当……、反則」
「反則、ですか?」
 彼女は、建前や嘘を言えない。
 それは時に、俺の心を苛々させることもある。
 だけど、彼女の言葉はすべて真実だから、こんなにも俺の心に響くのだ。 誰よりも早く、彼女の傍にいられるようになれて良かった。
「朱里は朱里のままでいて、赤ちゃんみたいな爪の、優しい手をしたままで」
 お世辞にも滑らかとは言い難いその手の優しさを知っているのは、俺だけでいい。
「……? 分かりました」
 爪の先から髪の毛一本まで、誰にも渡したくない。危うい均衡で保たれているこの女の子を、いつまでも守ってあげたい。
 そう思えることが、彼女が俺にとっての特別である証だ。
「大好きだよ」
 心からの言葉を贈れば、彼女は頬を赤らめて微笑んでくれる。
 好きになれるものを知らなかったから、いつもさみしかった。それが、今ではもう、昔のような寂しさを感じることはない。
 隣には、優しい手をした女の子がいる。

 彼女を好きな自分のことを、俺はきっと好きになれるから。