月虹彼方

第一幕 蒼の皇子 02

 白銀に輝く片翼かたよくの翼は、少年が月の女神に愛された証だった。
 淡く輝く金髪に、蒼穹の瞳。整ったかんばせは、真朱しんしゅが妓女だった母と暮らしていた妓楼であれば、直ぐ様人気になったに違いない。
 あまりの美しさに、十三を迎えたばかりの真朱には、彼が精巧な人形のように見えた。
青嵐せいらん様」
 半年前に出逢ったばかりの真朱の父――冠士良かんしりょうが、少年の名を呼んだ。
 翔青嵐しょうせいらん
 それが、しょうの民を統べる皇帝の血を継いだ、この美しい少年の名前だと聞かされていた。
「この度は、母君のこと真に残念でございました」
「……、愛や恋などに現を抜かし、来るはずのない男を思うあまり、気を病んで死んだ。あのような女が死んだところで、心は痛まぬ」
 それは、亡くなった実母に向ける言葉とは思えなかった。柳眉をひそめた青嵐は、士良を睨みつけている。
「まさか、あの女を弔いに来たわけではなかろう。……、私に何の用だ、かん家の当主」
 見る者を凍りつかせるような眼光は、齢十五の少年が浮かべるものではなかった。
「青嵐様は、未だにをお持ちでないでしょう?」
「……、貴様のような胡散臭い術師は、こちらから願い下げだが」
「私は皇帝陛下の影であり、冠家の当主です。青嵐様の影には相応しくありません」
 士良に両肩を押されて、真朱は青嵐の前に突き出される。
 長く伸ばした前髪の隙間からでも、青嵐の瞳にはっきりと蔑みの色が浮かんでいるのが見えて、真朱は肩を震わせた。
「私の娘です。青嵐様より二つほど幼いですが、一番相応しいでしょう」
「影など、――冠家の術師など要らぬ」
「仕来たりを無碍むげになさるおつもりですか? 流石、愚かしい裏切り者――月の民の血を継ぐ御方は、我ら翔の民とは違いますね」
「月の民から見れば、貴様たち翔の民の方が愚かであろうに。月神から翼を授かれなかった罪人の身で、今も月に翔ることを夢見ている」
 天上を指差して、青嵐が口元を釣り上げた。
 彼が指差す天つ空には、白銀の翼を持った月の民が暮らす場所がある。穢れ滅びゆく大地の代わりに、美しき女神――月神が創造したと言う名の桃源郷が広がっているのだ。
「……、我らは罪人ではありません。月神が我らを拒絶したのではなく、彼女から翼を授かった月の民が、我らを拒んだだけなのですから」
「翼を授かれなかった時点で、貴様らは月に住まう権利を持たぬ。片翼の私のように、な」
 青嵐の背に生える白銀の翼は、両翼を持つ月の民と違って、左翼だけしか存在していない。それは、彼が月の民の血を半分しか継いでいないことを示していた。
「所詮、貴様も私も、穢れた大地に置いていかれた身だ」
 青嵐は小さく溜息をついてから、真朱を見た。
「……、影のことは、好きにしろ。その娘、気紛れに飼うのも一興だ」
「お眼鏡にかなったようで、何よりでございます」
 深々と拱手きょうしゅした士良に、青嵐は唇を釣り上げる。
「大切にする保証はないぞ? 酷い飼い方をするかもしれぬ」
「構いません。冠家の術師は、皇族の影、皇族に従う者。主である皇族に使われるためだけに、生まれてくるのですから」
 冠家は翔国が成立した頃から、皇族に仕えていた一族だ。
 比翼術と呼ばれる異能を手に入れ、皇族を支える影として存在し続けてきたと、拾われた日から真朱は言い聞かせられていた。
「では、私は陛下に呼ばれていますので、失礼します。――真朱、冠家の術師として、相応しい働きをしなさい」
 去っていく士良の背中を見つめながら、真朱はわずかな心細さを感じた。
 半年前に、路地裏を這うように生きていた真朱を見つけ、冠家に迎えてくれたのは士良だ。今まで、母と自分の前に一切顔を見せなかったことに対する恨みはあるが、自分を拾ってくれたことは少しだけ感謝していた。
 母が死んでから真朱の心は虚ろで、生きる理由などなかった。それでも、妓楼を追い出され路地裏で生きることになろうとも、真朱は生を投げ出すことができなかったのだ。
 ――自分の存在が何の意味も持たず、誰にも知れずに死していくことが嫌だった。
 あのままでは、長くは持たなかったであろう真朱を拾って、生かしてくれたことは感謝していた。
「貴様、名は、なんと言う」
 立ち尽くす真朱に近寄ってきて、青嵐は品定めするような眼差しを向けてきた。彼の唇から零れ落ちる威圧的な声が、真朱の気持ちを萎縮させる。
かん真朱しんしゅです。青嵐様」
 俯いたまま名を口にすると、青嵐は真朱の前髪を無理やり掴みあげる。
「目を隠すな、不愉快だ」
「……っ、やめて、ください!」
 非難の声を無視して、青嵐は真朱の顔を見つめる。彼の目には、怯えて身を竦ませる真朱の姿が映し出されていた。
「なるほど。……、貴様も、私と同じ半端者か?」
 唇を噛みしめて、真朱は小さく頷いた。
 彼の言うとおり、妓女を母に持ち、冠家の血を半分しか継がない自分は、術師としても徒人としても半端者でしかない。
 冠家に迎え入れられた時も、初対面の親族たちに散々罵られたものだ。彼らにとって、真朱は一族の面汚しだ。古くから続く術師の血脈に、穢れた妓女の血が紛れたのだから、彼らにとっては当然の反応だったのだろう。
「冠家の術師は、皆、私のように蒼みがかった瞳をしているはずだ」
 真朱の朱色の瞳を見て、青嵐は自嘲した。
「……、まあ、良い。私に押し付けられる影など、どうせ、ろくな物ではないと分かっていたからな。半端者には、半端者が相応しいということか」
 青嵐は右手を真朱の前に差し出した。
「今日から、私が貴様の主だ。――、誓え。決して私を裏切らないと」
 美しい蒼の瞳が、一瞬、翳ったように見えた。その瞳は、欲しい物があるのに叶わないことを知って、手を伸ばすのを我慢している子どものように思えた。
 ――、真朱と同じ、子どもだった。
「……、誓えば、傍に、置いていただけますか」
 零れ落ちた真朱の言葉に、青嵐は一瞬だけ目を丸くして、それから面白そうに唇を釣り上げた。
「貴様が望むならば、傍に置いてやってもいい。その代わり、貴様が死ぬまで使い切るぞ」
 真朱は、無言で床に膝をついた。そして、忠誠を示すように、彼の右手の甲に口づけを贈る。
 ――、傍に置いてくれるならば、この孤独から解放されるならば、それで構わないと思った。
 この命は、路地裏で死に絶えていくだけのものだった。生きる意味も、大切な者も呆気なく喪ってしまった身だ。
 ただ、置いて行かないでくれるならば、それで良かった。
 残りの命で誰かに寄り添うことができるならば、そうやって生きていけるならば、幸せだった。

 真朱は、ずっと、死ぬため・・・・の理由が欲しかったのだ。