徒花と眠り姫

鈴蘭の眠り姫 06

 人形にも痛覚はある。
 人を模した玩具は、より人に近い存在である。
 首を絞める手に徐々に力を込めると、彼女は苦しげな表情をするだけで、身動ぎ一つしなかった。
 親指で引っかけるように首の骨を衝くと、苦しげな息が零れ落ちる。
 このまま首を締めれば、俺は既に死んでいる彼女を、もう一度殺せるのだろうか。
 そうしたら、彼女は俺のものになるだろうか。
 不意に、泣き笑う俺の視線と彼女の黒い瞳が交わる。闇を溶かしこんだ瞳には、何一つ苦渋の色が浮かんでいなかった。
 彼女は、すべてを受け入れるかのように、俺を見つめていた。
「ご主人様」
 彼女は何一つ、俺に抵抗することはなかった。
「……抵抗、しろよ」
 名を与えられていない不完全な人形。
 それ故に、彼女は主人の行動のすべてを、単純に受け入れるわけではないのだ。最後の最後には受け入れるしかないだろう、だが、それまでならば抵抗の一つくらい可能なのだ。それにも関わらずに、彼女は俺の暴力を甘んじて受け入れていた。
「悲しんでいるのですか」
 絶対の服従を強いられていない彼女が、俺の行為を拒むことはなかった。
「お前は、死ぬのが……、怖くはないのか」
 死は、恐ろしい。
 自分が消えていくことを、受け入れることなどできるはずがない。
 人間にはいつか死が訪れる。
 だが、たいていの人間はその瞬間を知らずに生きている。或いは、遠い未来にあるものとして、漠然とした想像を重ねながら、生きながらにして死を少しずつ受け入れていく。
 それが、とても幸せな生き方であることさえも、知らないのだ。
 ああ、始めから命尽きる時間を知らされていた時、人はどうすればいいのだろうか。
 限られた時間を精一杯に生きるなんて、俺には無理だった。
 何が楽しくて、何が嬉しくて、何が幸せなのかも、俺には良く分からなかった。ひたすらに残された時間に怯えて、心を満たすものは理由も分からない後悔だけだった。
「怖いよ、……俺は、死ぬのが怖いんだっ……!」
 俺の存在を、俺が消えてえしまった時、誰が憶えていてくれる。
 愛されたことのない俺は、誰の記憶に残れるのだろうか。人形屋敷の主、人の温もりを知らない俺は、生きていた証さえもを残せない。
 寂れた屋敷で、人知れずに朽ちていくしかないのだ。
「既に一度死を迎えている人形に、死はありません。痛みも苦しみも感じますが、それは死に直結したものではないのです。貴方様が死を恐れるように、私は死を恐れることはありません」
 心なき彼女たちに、死は存在しない。痛覚は身体の危険信号ではないのだ。
「ですが、人形の私にも恐れと呼ぶべきものがあります。人形が恐れることは、主人のために在れなくなることだけでございます」
 首を絞める俺の手首に、冷たい手が触れる。
 彼女は俺を咎めるわけでもなく、拒むわけでもなく、包み込むようにして細い指を絡めてくる。
「貴方様から与えられるものならば、すべて喜びに変わります」
 起伏のない声が語るのは、きっと彼女にとっての真実。
「それが、痛みでも苦しみでも、構いはしません。すべて、貴方様からの贈りものなのですから」
 肉感的な唇が、止めとばかりに弧を描く。

「愛する貴方様のために在れることだけが、私の幸せなのです」

 どこまでも献身的な言葉が、ひどく胸に痛かった。
「……っ、どうして」
 彼女の青白い頬に、透明な水が珠をなしている。
 それが俺の流す涙だと気づくまでに、そう時間はかからなかった。
「どうして、愛するなんて言うんだよ! 俺みたいな先のない人間に、愛なんてあっても、無駄だって分かるだろ」
「無駄かどうか判断するのは、私ではありません」
「俺は、もう死ぬんだよっ……! なのに、愛なんて」
 不幸な星の下に生まれた。
 生まれたときから、俺の時間は定められていた。
「愛なんて……、いまさら、知りたくもなかった」
「もう、長くはありませんか」
 楼家の呪術の代償を押し付けられた俺の身体は、生まれたときから長くないと言われていた。
 それ故に、父さんは俺をこの屋敷に閉じ込めたのだろう。
 決して屋敷から出そうとせず、人形の中に紛れ込ませるように俺を隠した。 俺の存在が一族に知られれば、父さんは人形を作ることができなくなるどころか、当主の座からも転げ落ちる。人形を作る代償の重さなど、一族に知られるわけにはいかないのだ。
「この命が長ければ、とっくの昔に外に出てた。日の光を浴びて、ばかみたいに笑って! ……たくさん愛して、愛されて、生きてたんだ」
 外の世界に羨望を抱き続けていた。
 本や映像の中に蔓延るものが、外の世界に溢れていることを学んだのは、そう遠くない昔の話。
 俺の運命が定められていなければ、俺がこの家に生れつかなければ、当たり前のように手にできるはずだった輝かしいものたち。
「生きてた、はずだったのに……っ……!」
 その中で、ひと際強く惹かれた、不確かで、それでいて温かな光。
 愛を感じたことなど一度もないのに、俺はいつの間にか、その光に焦がれていた。
 誰かと繋がりたかった。
 たくさん愛して、愛されて生きたかった。
 いつしか、そんな日常が溢れかえっている外の世界が、何よりも妬ましくなった。
「温もりが、欲しかった」
 俺を育てたのは、体温のない人形たち。
 父さんの命で、俺のすることを拒むことのない奴隷。
 冷たい手に温もりと言葉を求めても、俺の命令の通りに与えられたすべては虚しいだけだった。
「独りが寂しくないように、抱きしめてほしかった」
 何度、独りの夜を越しただろうか。
 ただ、抱きしめてくれる腕を求めていた。
 胸に巣食う寂しさを、虚しさを消してくれる何かを、この命が尽きるまで寄り添ってくれるものを求めていた。
 泣きじゃくる俺の頬に、彼女は手を伸ばす。
「温もりはございません。私は、屍です」
 体温のない指先が、熱を持った瞼に触れた。
 次の瞬間に、彼女は俺を抱き寄せた。自分の身体に俺を重ねるように、細くも力強い腕が俺の背中にまわる。
 絹糸のような黒髪が、俺の頬を撫ぜた。
「ですが、貴方様が寂しゅうないように、いつまでも抱きしめていましょう」
 不完全な人形。
 名を与えずに、口づけだけを贈られた彼女は、時折俺の命令なしに動く。 それが、彼女に心があるからではないことは知っている。
 だが、冷たい肢体が絡みつくことが、心を揺らす。
 人形に愛されたところで、俺の望んだ温もりは手に入らない。
「私が、貴方様のお傍に」
 美しい女の囁きが嘘か真かなど、分かりはしない。
 ただ一つ言えることは、俺のこの思いは、紛い物と責められるべきものなのだということだ。
「……傍に、居てくれ」
 人形しかばねに恋した俺は、世界で一番の愚か者だ。
 だが、この気持ちが紛い物と呼ばれても、俺にとって何よりも尊い真実であることを、どうか彼女だけは知っていてほしい。
「俺が死ぬときには、共に滅びてくれ」
「はい。黄泉の先までは御供できませんが、私は貴方様に壊されましょう」
 人形にたましいはない、あるのは虚しい忠誠だけだ。
 俺の死に付き合わせたところで、人形の彼女は黄泉の国には行けない。
 永遠を約束されるはずだった彼女の道を、俺の我儘で途絶えさせる。身勝手に始めさせた彼女の時間を、俺の我儘で終わらせる。
 それが、どれほど罪深いことか。
 だが、たった一つの譲れないものくらい、俺の手で壊させてほしい。

「愛してくれ」

 人形とは、口づけで目覚め、名で存在を約束させることで完成する。
 男女問わず、人形を揶揄して眠り姫と呼ぶのは、そのためだ。
 人々の幻想、童話の中に生きる美しい女に人形は似ている。
 彼らは主の手によって、主人への完全なる服従をその肢体に刻み込む。
 夢のように優しく愛おしい、主人だけの奴隷となるのだ。
 俺が彼女に名を贈ることは、生涯ないだろう。
 俺の望む彼女は、俺に服従する奴隷ではない。
 俺を愛してくれる、たった一つの存在。
「未来永劫、愛しております。ご主人様」
 俺が愛する、たった一つの存在だ。
 俺に口づけた彼女が幸せそうに見えたのは、きっと、身勝手な俺の願望なのだろう。
 触れ合った唇の冷たさに震えながら、俺は彼女に縋りついた。

 この恋が不毛であることなんて、知っていたんだ。



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