紫陽花に消ゆ

紫陽花に消ゆ

 紫陽花を、二人で眺めることが好きだった。
 紅紫の花弁を見る度に、朝霞あさかの胸は温かな気持ちで満たされた。身体の弱い夜雨よさめが、また一年、季節を巡ることができて嬉しかった。他愛もない話をして、穏やかな日々が続くことに感謝した。
 彼が大きな手で朝霞の頭を撫でて、包み込むように抱き締めてくれる愛しい日々。男性にしては少し高い夜雨の声が、宮廷文学や詩歌を語る度に、小さな朝霞の胸はいっぱいになった。朝霞が夜雨の話に耳を傾けると、彼は嬉しそうに目を細めて、謳うように朝霞の名を呼ぶのだ。
 今は子どもでも、いつか物語や歌に現れるような、彼に見合う美しく素晴らしい女になるのだと、朝霞は夢を見た。

 ――それでも、終わりは呆気なく訪れるものなのだ。

 降り注ぐ五月雨が、音を立てて庭の石畳に弾かれる。幾重にも重なり合う花弁を濡らした雨中の紫陽花は、色を濃くして匂い立つような美しさを纏っていた。
「夜雨、……夜雨」
 布団に横たわる夜雨の頬は、熱に浮かされて赤く染まっている。鴉の濡れ羽色をした髪が、滲んだ汗で彼の首筋に張り付いていた。
 美しい紅紫の瞳は虚ろで、苦しげな喘ぎ声が朝霞の耳に届く。
 朝霞が夜雨の手を握ると、彼はわずかに微笑んで握り返してくれた。その力があまりにも頼りなくて、朝霞は唇を噛む。
「あさ、か……? 泣かない、で」
 力を振り絞って手を握り返してくれる夜雨の顔を、朝霞は直視することができなかった。堪えていた涙が止め処なく頬を伝っては、横たわる彼の着流しに吸い込まれていく。
 どうして、と心の中で嘆く声がした。どうして、彼でなければならなかったのか。
「いかないで、いかないでよ」
 震える唇で願ったところで、彼をこの世に繋ぎ止めるには足りない。分かっていても、口にせずにはいられなかった。
「置いて、逝かないで。……夜雨、お願い」
 痩せ細った彼の身体を覆うように、その胸元に顔を埋めて、朝霞は嗚咽を漏らす。
 雨音にかき消されてしまいそうなほど弱く儚い鼓動が、朝霞の夢見た未来を否定する。
「ごめんね、朝霞。           て、ごめんね」
 彼が言葉を紡いだ瞬間、繋いだ手は力を失くした。
 ――庭に咲いた紫陽花だけが、ただ静かに、二人の終わりを見つめていた。



 夕刻の墓地には、人影一つ見当たらなかった。
 彼岸でもない梅雨の日、黒地に藤の花が描かれた小袖を纏い、朝霞あさかは墓石の前で手を合わせた。
 しばらくして、閉じていた瞼を開いて、朝霞は手に持っていた紫陽花を眠る人に捧ぐ。
 絶妙に色を異にした紅紫の花弁たちが重なり合い、大輪の花を彩る。その鮮やかさが、朝霞の胸に痛みを呼び起こした。今年も、また、紫陽花は変わらず咲いたのだ。
 時の流れは残酷なもので、いつの間にか、朝霞はかつて夢見た妙齢の女となっていた。物語や歌に現れるような美しく素晴らしい女にはなれていないが、凹凸のなかった幼い体は丸みを帯び、短かった黒髪は結わえることができるほど長くなった。
 ――隣に並びたかった人は、最早、この世にいないというのに。
「……、雨?」
 顔をあげると、晴れ渡っていたはずの空から透明な滴が落ちてくる。
 降り出した雨に、朝霞は急いで墓地を通り抜け、寺の軒下へと駆け込む。軽く濡れた前髪から滴った雫が、頬から顎先まで伝った。
 小さく溜息をついて、朝霞は空を見上げる。先ほどまでの晴天が嘘のように降り出した雨は、一向に止みそうにない。
 梅雨時にしては珍しく晴れ晴れとした日だったので、生憎と傘を持ち合わせていなかった。
「雨宿りですか?」
 不意に聞こえた声に、朝霞は振り返る。
 寺の庭先――紫陽花が咲き誇る場所に、じゃ目傘めがさを差す青年が佇んでいた。傘に隠されて顔は見えないが、声や身体付きから、おそらく朝霞と同じ年頃の青年だろう。
 酷く線の細い青年だった。黒い着流しの袖から覗く手は、太陽を知らぬような病的な白さをしている。
「……ええ。突然、雨が降り出してしまって。貴方は傘をお持ちだったのですね」
 つい先ほどまで晴天だった分、朝霞には、青年が降り出す雨を予期していたかのように思えた。梅雨の時期とはいえ、日中、空は晴れ渡っていたのだ。朝霞と同じように、傘を持たずに出かけた人も多いだろう。
 青年は軽く喉を震わせて笑った後に、酷く柔らかな声で言った。
「雨の匂いがしましたから」
 ――雨の匂いがするから、きっと、今夜は雨だよ。
 瞬間、朝霞の中で鮮やかに記憶が蘇り、心の水面に波紋を広げた。今は亡き彼も、同じことを口にしていた。
 とっておきの秘密を教えてくれるように、そっと耳元で囁いて、微笑んでくれた顔を憶えている。
「昔、……貴方と同じことを言った人がいました」
 夜雨よさめ
 朝霞にとって何よりも大切だった、年上の幼馴染。
「珍しいこともあるのですね。是非、その方にお会いしてみたいものです」
「……残念ながら、六年前、ちょうど今頃の紫陽花の咲く季節に亡くなってしまった人です。……、今日は、彼の墓参りに来ていたんです」
 今の朝霞や目の前の青年と同じ年頃に、夜雨は亡くなった。縋りつく朝霞に残酷な言葉を遺して、一人黄泉路へと旅立ったのだ。
「風邪を、拗らせてしまったんです。元々、身体の弱い人でしたから……、そのまま帰らぬ人となってしまいました」
 口を閉ざした青年に、朝霞は独り言のように続けた。返事は要らなかった。
 彼と親しかった人間は、この地には自分しか残っていない。あの人を偲ぶのも、今では朝霞だけとなった。
 だから、思い出話を聞いてくれる人が、欲しかったのかもしれない。
「その御人とは、どのような関係で?」
「幼馴染でした。……私は、いつも彼と共にいました」
 口も利けぬほど小さな頃から、朝霞は夜雨と共に在った。
 都の裕福な商人の三男坊に生まれついた夜雨は、元来身体が弱く、比較的長閑《のどか》なこの町に祖母と共に暮らしていた。朝霞の家はその隣家であり、彼の祖母には本当の孫のように可愛がってもらった。
 六つ年上の病弱な少年を、朝霞が慕ったのは当然の流れだった。
 他の子どもたちのように外を走りまわって遊ぶことはできなかったが、彼と二人で庭を見つめて寄り添うだけで、幼い朝霞の心は満たされていた。そんな小さな幸せだけで、ずっと生きていけると思えた。
 朝霞の記憶の始まりには夜雨がいて、今もなお、消えることなく、朝霞の中心で彼は微笑んでいるのだ。記憶は薄れても、想いまでもが薄れることはなかった。
 むしろ、時が経てば経つほど、恋しさは増すばかりだった。
「仲がよろしかったのですね」
「ええ。まるで、家族のように過ごしましたから」
 事実、本当の兄妹のようだと、夜雨の祖母は微笑ましそうに朝霞たちに言った。その時、朝霞は困ったように眉をひそめたものだ。家族のように近しい存在ではあったが、朝霞は彼を兄と思ったことはない。
 幼くとも朝霞は女で、家族としてではなく、恋い慕う相手として夜雨の傍にいたのだ。
「文学や詩歌を教えてくれたり、一緒に双六をして遊んだ時もありました。彼は六歳も年下の私に、いつも優しくしてくれて……、だから、私が彼に懐いたのは自然のことでした」
 忙しい両親や姉たちに放置されがちだった朝霞にとって、夜雨の隣はとても居心地が良かった。朝霞が寂しいと口にすれば、夜雨はいつも構ってくれた。布団の上から身を起こして、嫌な顔一つせず朝霞の相手をしてくれた。
 どんなに体調の悪い日でも、朝霞のために笑ってくれた。
 幼い恋心は、時が流れると共に、朝霞の中で育まれていったのだ。
「それは、きっと、貴方が愛らしかったからでしょうね」
「お上手ですね。夜雨が、優しい人だったからですよ」
 大人になれば、さほど関係ないが、子どもにとって六歳の歳の差は大きい。心も身体も幼く、性別も違う朝霞に合わせるのは、決して楽なことではなかっただろう。
 それなのに、朝霞の記憶には、彼と過ごした日々で困った思い出が見当たらないのだ。
 宮廷文学や詩歌を教えてくれたのも、おそらく、優しい夜雨の気遣いだった。朝霞の好きそうな話題を、意図的に選んでいたのだろう。本人が古典を嗜んでいたということもあるのだろうが、やはり、朝霞に気を遣ってくれていたのだと思う。
 夜雨を語るにつれて蘇る記憶たちに、朝霞は目を伏せた。彼のことを思い出す度に、幸せだった記憶が胸を穿つ。
 五月雨が寺の屋根を打ちつける音が、いっそう、朝霞の心を惑わせた。彼が死した日も、このような雨の降る日だった。
 憂いを帯びた朝霞の表情に、青年が薄い唇を開いた。
「五月雨の空だに澄める月かげに涙のあめは晴るる間もなし」
 ――五月雨の空にさえ、冴えわたる月の光が差し込むこともありますのに、私の涙の雨には晴れ間もありません。
 藤原道長の正妻である源倫子と、その娘上東門院彰子に仕えた赤染衛門の詠んだ歌だ。
 夜雨には、紫陽花の咲く季節には雨の歌を良く教えてもらっていたので、はっきりと思い出すことができる。
 この歌のように、夜雨を求めて朝霞の涙は止まらない。雨雲が開かれ、澄みわたる夜空が現れることはないのだ。滲んできた涙を誤魔化すように軽く拳を握ってから、朝霞は震える唇を開いた。
「春雨の降りしくころは柳のいと亂れつつ人ぞこひしき」
 ――春雨が絶え間なく降る季節に、柳の細く長い枝が風にあおられ酷く乱れるように、私の心も乱れて貴方が恋しいのです。
「後朱雀天皇の歌ですか」
 朝霞の詠んだ歌に、直ぐ様、青年は詠み人の名を口にした。
「……貴方は幼馴染と何との間で、心を乱しているのでしょうかね」
 この歌は、後朱雀天皇が新しい女御を入内させた際、前々から入内していた梅壺女御に宛てて送ったものだ。二人の女御の間で揺れる己の心を、詠んでいるのだ。
「もう二度と会えない人よりも、恋しく想うものがあると口にしたら、おかしいですか……?」
「さあ。おかしいかどうかは、僕には分かりません。ただ、……貴方の幼馴染に対する想いは、その程度のものなのでしょうか」
 それは、まるで朝霞を非難する言葉のようだった。あるいは、彼には朝霞の本心など見透かされているのかもしれない。
「嘘、です。――私の心は彼を想って乱れますが、他に惹かれるものなんてありません」
 雨音に溶け込んでしまいそうな小さな声で口にして、朝霞は苦笑した。
「だって、……彼が死してから六年の歳月が流れたというのに、私の心には、いつも彼がいるのです。もう一度、私の前で微笑んでくれるのではないかと、思わずにはいられないのです」
 夜雨のことを忘れるべきだと、周囲の人々は遠まわしに朝霞に勧めた。
 今でこそ人並みに過ごせているが、夜雨が死んだ当時の朝霞は酷く衰弱していた。悲しみのあまり泣きわめき、満足に食事も喉を通らず、眠る度に夜雨に置き去りにされる悪夢を見た。
 故に、夜雨を忘れることを勧めた周囲の心配は尤もであったのだ。
 朝霞自身も、死者に囚われることが生きている自分に相応しいとは思っていない。夜雨を偲ぶことは、間違っていない。されど、彼を想うあまり生きている己を疎かにすることは、正しくないと感じている。
 ――、それにも関わらず、どうしても、朝霞は前を見て生きることができなかった。
「幸せだった頃の思い出に縋ってしか、……生きられなかった」
 忘れるには、あまりにも、夜雨の存在が大き過ぎた。朝霞を形成する大部分は、彼によって作られているのだ。欠けてしまえば、朝霞に残るものなど何があるというのか。
 この心さえも夜雨に育まれたものだというのに、忘れることなどできるはずがない。
 朝霞は目を伏せて、軽く唇を噛んだ。
 ――だが、彼を忘れられずとも、今の朝霞には彼への想いを断ち切る必要がある。そのために、思い出に咲く紫陽花を手に彼の墓前に向かったのだ。
 近づく夜闇と共に冷え込んできた風が、二人の間を通り抜けた。
 黙って朝霞の話を聞いていた青年から視線を逸らし、朝霞は目尻に溜まった涙を隠すように拭った。
「……、そろそろ、帰らないと」
「今、外に出れば雨に濡れてしまいますよ。日が暮れるまで、もう少し時間がありますから、雨宿りを続けたらいかがですか?」
 青年の提案に、朝霞は首を横に振った。
「いいえ。明日は大事な用事があるので、早く帰らないと家の者に叱られてしまいます」
「大事な、用事?」
「ええ。明日は、……お見合いなのです」
 青年は、朝霞の言葉に何も返さなかったが、蛇の目傘を持つ彼の手は少しだけ震えていた。
「私も、十九になりました。世間様では、いかず後家と囁かれています。今まで我儘を赦してくれた父上も、いい加減、痺れを切らしたのでしょう」
 父は、夜雨の死で泣き暮らす娘を、最初は憐れに思っていただろう。だが、彼が死んでから、六年もの歳月が流れた。姉たちが嫁ぎ子を成していく中、何時までも初恋を引き摺って嫁ごうとしない末の娘に、父はとうとう怒りを露にした。
「相手の方は、……どのような御人なのですか?」
「呉服屋の、若旦那だそうです」
 いつまでも初恋を引き摺って、気づけば夜雨が死した時と同じ十九歳になってしまった。
 見合いの相手は、そのような自分には勿体ない人だ。この縁談を纏めるために、父は随分と苦労したに違いない。好き好んで、直に年増になる女を娶る男などいない。
「私よりも三つも年下の、とても身体の丈夫な人だと聞いています。夜雨と違って、私を置いて黄泉の国へと旅立たない人」
「幼馴染のことは、……もう、良いのですか?」
 掠れ声で紡がれた言葉に、朝霞はゆっくりと瞬きを一つした。
「だって、夜雨は帰って来ない。どれだけ願っても、私と添い遂げてくれることはない」
 あの日、声が枯れるまで彼の名を叫んでも、閉じた瞼が開くことはなかった。腐り行く彼の身体から香る、甘やかで仄かな死の匂いが消えることはなかった。
「夜雨を慕う心は、今日、彼の墓前に捧げました」
 あの紫陽花と共に、夜雨を慕っていた朝霞の心は置き去りにする。
 この想いは、この恋は、終わったのだと言い聞かせなければ、見合いに臨むことなどできなかった。
「ずっと一緒に、いたかった。彼の隣で生きて、共に死んでいくのだと、当たり前のように信じていたかった。でも、……もう、諦めないと」
 年を重ねるごとに、彼と一緒になることは叶わぬ望みだと薄々分かっていたのだ。夜雨が弱く儚い人で、長くは生きられないことは、誰の目にも明らかだった。
 だが、何の根拠もなくとも、朝霞は夜雨と共に在る未来を信じていたかった。
 それは、朝霞の命にも等しい、失くせない、恋心だった。
 あの紅紫の瞳で、ずっと見つめていてほしかった。その瞳に、いつまでも朝霞を映してほしかった。

「それなのに。ねえ、……どうして、会い来てくれたの?」

 言うつもりのなかった言葉が、ついに零れ落ちた。
 未だ弱まらない雨の中に飛び出して、朝霞は佇む青年に駆け寄った。冷たい滴が肌を打ち、朝霞の結えた黒髪を濡らす。
 朝霞は恐る恐る腕を上げて、蛇の目傘を持つ青年の手に指を這わせた。
 そうして、――傘で隠れた彼の顔を覗き込む。
 紫陽花の瞳が、夕闇の中で深い輝きを湛えていた。鴉の濡れ羽色をした艶やかな髪が、首筋から鎖骨へと流れている。何処か女性的な面差しの白皙の美貌が、そこには在った。
 夜雨《よさめ》。
 焦がれ続けた人が、あの頃と何一つ変わらぬ姿で佇んでいた。
「これじゃあ、諦めきれない。……どうして、貴方は死んだの? どうして、夜雨が、死ななければならなかったの?」
 彼は穏やかに微笑んでいた。縋りつく朝霞の手を握り返すことなく、ただ、微笑むだけだった。
「ごめんね、朝霞。君を好きになってしまって・・・・・・・・・・・・、ごめんね」
 そうして、あの日と同じ痛みを朝霞に与えるのだ。美しい笑みを浮かべて、この世で一番の幸せ者だとでも言うような顔をして、朝霞を置いていくのだ。
「分かっていた、僕の身体は長く持たないことを。君と外を駆けまわることも、……共に生きることも、この弱い身体では無理だと知っていた」
 満足に動けない身体を一番嘆いていたのは、他でもない夜雨自身だったのだろう。時折、元気に駆けまわる子どもたちの声が外から聞こえると、彼は酷く寂しそうに目を細めていた。
 どれほど願ったとしても、決して手に入れることのできない健康な身体が、彼は羨ましかったのかもしれない。
 あるいは、自分と違って外を駆けまわることのできる健やかな朝霞の身体が、憎らしかったのかもしれない。
 二人だけの世界が壊れないことを願っていたのは、きっと、朝霞だけではなかった。
「……、幸せになんてできないのに、君に傷を遺した。忘れてほしくなかったから、……愛して、ほしかったから」
「……っ、それなら、今度は……っ、今度こそ、置いていかないで!」
 夜雨のいない日々は、呼吸すら儘ならない時間だった。息苦しくて息苦しくて、何度も首元をかきむしった。悲しみに暮れて涙を流し、初恋を忘れることができずにもがき続けた。
 苦しかった。思い出ばかりが溢れて胸を満たしても、隣に彼はいない。愛しくて幸福だった日々には、どれほど手を伸ばしても、二度と届かない。
 幼さゆえの恋心だったのかもしれない。狭い世界の中で、夜雨しかいなかったから、彼を好いたのかもしれない。
 だが、それでも良かったのだ。
「好きよ。私も連れていって、夜雨」
 紫陽花の季節が巡る度に、流れゆく時を恨まずにはいられなかった。夜雨がいないのに、何度も彼の瞳と同じ紅紫の花が咲き誇ることが憎らしかった。
 ――彼に追いついていくこの身が、厭わしかった。
 そのような日々を生きることは、最早、朝霞には堪えられない。
 夜雨の胸に飛び込んで、その顔を見上げた朝霞は息を呑んだ。彼の笑みは崩れ落ち、見たこともない泣きそうな顔をしていたのだ。
「その言葉を、聞きたかったんだ。これで、……今度こそ、僕は逝ける」
 残酷な言葉が、耳朶を打った瞬間、朝霞の頬に骨ばった彼の指が触れた。
 そして、薄い唇で、紡いだ想いごと塞がれた。
 優しく唇を合わせるだけの口づけに朝霞が目を見開くと、冷たい夜雨の舌が朝霞の唇を舐め上げる。躊躇いがちに朝霞が力を抜けば、彼の舌が唇を割り、何かを確かめるようにゆっくりと朝霞の口腔を探った。
 溢れ出した涙に目を伏せて、降りしきる雨に隠された逢瀬を味わうように、朝霞はすべてを彼に委ねる。優しい温もりや安らかな鼓動が感じられずとも、彼がここにいることを朝霞は信じた。
「好きだよ、朝霞」
 小さく喘いだ朝霞の耳元で、そっと夜雨は囁いた。
「君は僕のものだ。どうか、忘れないで」
 雨音が激しさを増して、縋るように伸ばした腕が夜雨よさめの身体を通り抜ける。微笑んだ夜雨の、透けた身体の向こうには、鮮やかな紫陽花が咲いていた。
 彼の隣で、無邪気に未来を思い描いていた頃と、変わらずに――。



 髪を伝って落ちた雨粒が、頬を流れる。
 どれほどの時間が経ったのだろうか。立ち尽くす朝霞を余所に、激しく降り注いでいた夕立は、いつの間にか止んでいた。
 空を見上げると、曇り空を切り開くように、満天の星が地上を照らしている。
 冷え切った指先で、朝霞は恐る恐る唇に触れた。残された何かを辿るように、細い指を唇に滑らせる。
「好き、……大好き、夜雨」
 耐えきれず、想いは溢れた。
 これから先、どのような人に出逢ったとしても、朝霞にとって夜雨は唯一の人だ。永久に朝霞の心に住まう、清らかで侵すことのできない人となる。
 元より、彼を忘れて生きることなど、できるはずもなかったのだ。彼と共に在れた日々は、朝霞の幸福そのものだった。それは傷ではなく宝だった。
 夜雨の心残りは、朝霞を手に入れられなかったこと。六年前に果たせなかった望みを叶えるために、彼は身勝手にも朝霞の前に姿を現したのだろう。
 幸せに生きろ、と彼は言わなかった。別の人を好きになることを赦してもくれなかった。
「ありがとう。私を、好きになってくれて」
 最期の時まで、酷い人。酷くて、愛しい人だった。
「私は貴方のものよ、夜雨」
 ――どうか、この声が紫陽花に消えた彼の元へ届きますように。

 澄み渡った夜空の下を、朝霞は歩き出した。