花影を追う

花影を追う

 凍えるような寒さの夜、その花は咲いていた。
 全身を血で染め上げた身体は華奢で、丸い瞳だけが爛々らんらんとした光を放っている。
 棚の影で息をひそめて、横たわる両親を見つめる。優しく抱きしめてくれた父母の腕は千切れ、いつも見守ってくれた穏やかな目はひどく濁っていた。
 つい先ほどまで広がっていたはずの温かな光景は剥がれ落ち、代わりに広がっているのは惨劇だけだ。
 ――青白い月光を受けて、花影かえいは堕ちる。
 その琥珀の瞳を、忘れはしない。

       ◆◇◆◇◆◇       

 左手に負った怪我から、生温かな血が流れ落ちた。熱を持った傷に眉をひそめながら、俺は狙いを定める。
 魔術の施された銃の引き金を引けば、弾丸は一瞬にして敵兵の胸に吸い込まれていく。崩れ落ちる相手の身体を一瞥いちべつした後、別の兵に向けて、もう一度引き金を引いた。
 後方では、先ほどまで聞こえていた激しい剣戟けんげきの音が止んだ。背中合わせに戦っていた大佐も、敵兵との交戦を終えたらしい。
 硝煙が立ち昇る中、大地には骸が折り重なっているだけだった。
 左手の傷がひどく痛んで、俺は堪らず目を伏せてしまう。
「……っ!」
 そのため、俺は近くまで接近していた兵に気付くことができなかった。
 迫りくる剣に咄嗟に身体をねじらせるが、この距離では避けられそうにもない。急所を庇いながら、傷を覚悟して歯を食いしばった時、一瞬の風と共に小さな影が舞い込んできた。
「気を抜くな!」
 甲高い怒号に、俺は目を見張った。怒号の主である少女は、細身の剣で敵兵の急所を一突きにする。
 崩れ落ちた兵を見下ろして、短い黒髪の少女は俺を見た。
「……、大佐。ありがとうございます」
「気にするな。背中を預けているのだから、お互い様だろう」
 首元までしっかりと釦の留められた軍服を身に纏い、大佐は苦笑した。革の手袋に覆われた手に握られているのは、幼さを残す顔には似合わない血濡れの剣だ。それがただの飾りでないことは、誰よりも知っていた。
「残党は散ったようだな。夜になる前に野営に戻るぞ」
 大佐は帝国軍の野営に向かって歩き出した。強く銃を握り直して、俺も大佐に続いた。
「お帰りなさいませ! サキ・エト大佐。ソロモン・グランディー中尉!」
 野営に戻ると、見張り番をしていた軍属の魔術師が迎え入れてくれた。
 野営には、怪我人や死体を含めた多くの帝国兵士たちがいる。敵の侵入を防ぐためにも、結界を張れる魔術師は必要不可欠なのだ。
「ただいま戻った。本部からの連絡が来るまで、引き続き警戒を頼む」
「了解しました! ご苦労様です」
 魔術師の横を通り抜けて、そのまま二人並んで野営の奥へと歩く。
「お前の怪我の手当てをする、ついて来い」
「いえ、この程度の傷で大佐の手を煩わせるわけには……」
 痛む傷に目を遣ってから、俺は苦笑いをした。
 軽傷とはいかないが、利き手の怪我ではないため、銃を握ることくらいならできる。
「医師に見せるのだろうな」
「いえ、……自分で手当てしておきます」
「片手では満足に治療もできないだろう……、医師に見せる気がないのならば、黙ってついて来い」
 大佐の強い言葉に、俺は小さく溜息をついてから従った。ここで頑なに拒めば、無理にでも医師の下に連れて行かれるに違いない。
 救護道具の置かれたテントに入ると、大佐は消毒液と包帯を取り出して、俺の傷口を手当てし始めた。
 小さな手が、俺の腕に柔らかく触れる。傷口を避けながら、労わるように肌を這う指は華奢で、少女そのものだった。
 そう、――目の前にいるサキ・エト大佐は、未だ少女と呼ぶべき年齢なのだ。俺よりも階級が高く直属の上司に当たるものの、年齢は大差ない。
 無論、魔術という代物を扱えるようになった帝国にとって、歳若い者が上へ昇り詰めることは、しばしばあることだ。
 だが、それは並大抵の努力で叶うことではない。
 頬に走る痛々しい傷痕は、大佐の地位に昇り詰めるまでの彼女の人生を物語っていた。可憐な印象を受ける彼女が歩んできた道のりは、決して、平坦なものではない。
「大佐。……、先ほどは、申し訳ありませんでした」
 彼女ならば、俺のように怪我で足を掬われたりしない。
「気にするなと言っただろう? 軍に入って五年、お前は良くやっている。黒花勲章さえ辞退していなければ、今ごろ少佐程度にはなっていたはずだ」
 黒花勲章とは、戦で武勲をたてた者に、皇帝陛下から与えられる勲章のことだ。悪魔と契約した陛下の肌に刻まれた、黒い花の紋様を模して造られたものである。帝国の人間にとって、黒花勲章を貰うことは栄誉以外の何ものでもなかった。
「……、俺には、栄誉なことだと思えませんでしたから」
 戦に出て人を殺したのは、自分の望みを叶えるためだ。その行為を讃えられることは、正直、気分が悪かった。
「実にお前らしい言葉だが、その考え方は軍には向かないな。……、何故、軍人になった。お前は生粋の帝国人で、戦場を駆けずとも幸せに暮らすことができるというのに」
 羨むような大佐の眼差しから、俺は目を逸らした。純血を保つ帝国人に兵役は存在しない。俺のように軍人となる者が少ないことは知っている。
「どうしても、叶えたい望みがあります。だから、軍人になりました」
 大佐は大きな溜息をついて、俺を見つめた。
「それならば、弱さを捨てろ。――強くなって望みを叶えろ、ソロモン・グランディー」
 仮初の名を呼ばれて、俺は曖昧に笑んだ。
「……、今回は、これで終わりなんでしょうか」
 そして、俺は逃げるように話題を変えた。これ以上、自分の中に踏み込まれたくなかった。
 大佐は、逃げた俺を咎めることはなかった。
「そうだな、本部からの帰還命令が下り次第、帝都に戻ることになるだろう。だが、その前に戦の後始末が残っている」
「後始末?」
「お前は、いつも終戦前に帝都に戻っていたから、後始末は初めてになるのか? ――お前にとっては、引き金を引くよりも辛いことになるかもな。覚悟しておけ」
 大佐の言葉に、俺は首を傾げた。
 引き金を引くよりも辛いことなど、今までの人生でたった一度きりだった。それに比べたら、辛いことなどあるはずもない。
 何も言わない俺を大佐が悲しげに見ていたことに、俺は気付けなかった。

       ◆◇◆◇◆◇       

 翌日になって、俺は大佐の言葉を理解した。
「……、なんですか、これ」
 眼前に、敵国の捕虜たちが縛りあげられている。皆が皆、隠せぬ恐怖を滲ませた瞳で、俺たちを見つめていた。
「戦の後始末だ。――魔術師が描いた奴隷印は、既に用意してある」
 皇帝陛下への絶対服従を、強制的に誓わせる奴隷印。それを、軍属の魔術師が描いていることは知っていたが、実際に奴隷印を刻みつける現場に立ち会ったことはなかった。
「優秀なソロモン・グランディー。敗戦国の民が辿る道を知らぬわけではないだろう?」
 後方で、同僚たちが奴隷印を魔術師から受け取っていた。準備の終わった印を一つ手にとって、大佐が俺を振り向いた。
「奴隷印を刻むことが、本部からの命令だ。何人たりとも、悪魔と契り永久を手にした皇帝陛下に逆らうことは赦されない」
 大佐は前方にいる一人の男を見た。男は大佐が何をしようとしているのか気付き、体をよじって逃げようとする。
 次の瞬間、大佐が男の腹を容赦なく踏みつけた。黒いブーツの踵で、男の腹を踏み躙るようにして押さえつける。そして、淡い光を放つ奴隷印を男の首に刻みつけた。
 絶叫が、響き渡った。
 それを合図とするように、周囲にいた何十人もの同僚たちが、一斉に捕虜たちに奴隷印を刻み始める。
「ソロモン。お前は、今日は見学で良い」
 大佐は、無表情でそう言いながら、別の人間に奴隷印を施していく。
 叫び声が響く最中、軍の誰もが表情を殺していた。地獄のような光景から目を逸らそうとした俺を、大佐の瞳が射抜く。
 この光景を招いた責任が、俺にもあるのだ。

       ◆◇◆◇◆◇       

 昼間に見た光景が、頭から離れなかった。
 軍本部からの書状が届いているため、それを大佐に届けなければならないのだが、彼女を前にして平然としていられる自信はない。
 大佐のテントの前で小さく息を吸ってから、俺は唇を開いた。
「大佐、本部からの連絡です」
 テントの中に入ると、彼女はぼんやりと宙を見つめていた。いつも気を張っている彼女にしては珍しい姿に、少しの戸惑いを覚える。
「……ああ、ソロモンか」
 大佐は俺の手から書状を受け取って、一通り目を通した。
「本部は何と?」
「帰還命令だ。六日後に帝都に引き上げろ、とのことだ」
「久しぶりに帝都に戻れるのですね」
 永久を生きる皇帝陛下と、彼の血を継ぐ貴族が暮らしている帝都。魔術師たちが強固な結界を張る、帝国で最も安全な地に戻れるのだ。暫くは、戦に駆り出されることもなく、貴族の護衛任務などが中心となるだろう。
「そうだな、ようやく帝都に戻れる」
 苦笑した大佐に合わせるように、俺は曖昧な笑みを浮かべた。帝都に生きて帰還できることは嬉しいが、それを素直に喜ぶことが躊躇われた。
 ――目的のために、他の何を犠牲にしても構わないと思っていた。
 だが、俺がしていることは、結局のところ、俺と同じような運命を辿る人間を増やしているだけなのだ。
「連絡御苦労だったな。せっかくだから、少し寄っていけ」
「大佐からのお誘いなんて珍しいですね。酒はありますか?」
「そんなものがあると思うか? お前とは違う」
 俺は肩を竦める。真面目な彼女が、酒を一切飲まないのは有名な話だった。
「ああ……、私には理解できないが、ソロモン・グランディーは、今のうちに酒を味わう必要があるのか? たかが一週間で、生死を遂げる者よ」
 揶揄やゆするような口調だ。彼女は、俺のふざけた名前の由来を知っていたらしい。
「珍しくて、ひどい名だな」
「……、名前なんて、持っていませんでしたから」
 あながち嘘でもない。父母を喪った時、かつての名は奪われたも同然だった。名無しになった自分へ重ねたのは、今ではほとんど歌われることのない、古い歌の登場人物だ。
「大佐の名の方が、珍しいと思いますけどね」
 サキ。帝国の人間では、まず聞いたことのない珍しい名前だ。
「お前に比べたら、珍しくはないさ」
 大佐は微笑み、薄い唇を開いた。
「ソロモン・グランディーは
月曜日に誕生
火曜日に受洗
水曜日に結婚
木曜日に発病
金曜日に悪化
土曜日に死亡
日曜日に埋葬された
ソロモン・グランディーは
これでおしまい」
 鈴の鳴るような少女の声が詩を紡ぎ出す。遥か昔に使われていたこよみをなぞる詩を耳にしたのは、幼い頃の話だ。
 一度死んで、遠くない未来に消えゆく自分は、彼《か》のソロモン・グランディーと少しだけ似ている。この生は仮初だ。復讐を果たすためだけに、ソロモン・グランディーは生まれ、死にゆくのだ。
「幼い頃、母が歌ってくれた」
 母親を懐かしむような表情をした彼女に、胸の内の焔が盛る。微笑みを湛えて語ることのできる家族がいたならば、何故、彼女はあのように残虐な行為ができるのだろうか。
「……、あの者たちは、奴隷になるのですか」
 奴隷印を刻まれて泣き叫ぶ人々の姿が、瞼の裏に焼き付いて離れない。怒りと怖ろしさで震えていた俺の隣で、大佐は無表情で奴隷印を刻み続けた。
「大佐は、何とも思わないのですか」
「……、面白いことを言うのだな。私が、彼らに同情すると? 敵国の者に同情したら、戦などできるわけないだろう。私たちは、任務を遂行するだけで、そこに感情は要らない」
 軍で生きていたいのであれば、命令は絶対で、任務に私情を挟む余地など必要ない。年端もいかぬ頃から軍に属していた大佐は、俺よりもそのことを理解している。
「そんな顔をするな。やはり、お前には戦場が似合わないな。……、軍人など、なるべきではなかった」
「……、俺は、望んで軍に入りました」
 ただ一つの目的のために、この道を自ら望んだ。憎悪を捨てて穏やかに生きることよりも、復讐の道を選んだのだ。
「嘘をつくな。望んで軍に入ったならば、どうして、お前は泣きそうな顔をするんだ。神より悪魔を選び、魔術を使って血に濡れた帝国の人間に、そんな顔は似合わない」
 俺は思わず目を伏せた。自分は今、大佐の言うように、泣きそうな顔をしているのだろうか。
「ばかな奴だ。いっそうのこと、すべてから逃げてしまえば楽だろうに」
 大佐の小さな手が、俺の頬に伸ばされた。咄嗟にその手を取って、強く握りしめる。
「神を選ぼうが、悪魔を選ぼうが……、同じ人間でしょう? それなのに、どうして、あのような仕打ちができるのか、分からないんです」
 奴隷となった敵国の民を思い出し、俺は唇を噛む。
 他の国や部族を踏み躙り、その屍の上に国を広げ続けているのが帝国だ。
 二百年前、深刻な資源不足を解決するために、皇帝陛下は人を止めた。陛下が愛しい神を捨て悪魔と契りを交わしたことによって、帝国は魔術を手に入れた。陛下は、他国を蹂躙することで、不足した資源を補う道を選んだのだのだ。
 すべては、守るべき帝国の民のために、と陛下は謳う。
 だが、既に十分な資源を手にしたであろう今、これ以上の戦は必要なのだろうか。
「それを、人殺しのお前が言うのか。殺されるのも奴隷にされるのも、どちらも地獄だろう。何も知らぬお前や、殺されたことのない私がそれを語るべきではない」
 何も言わない俺に、大佐は続ける。
「善悪に答えなど存在するのか? 少なくとも、戦場で生きる私たちは、その答えを出したら動けなくなってしまう。……、だから、何も考えてはいけない」
 大佐は、軽く唇を噛んでゆっくりと息をついた。
「お前と似たようなことを言った者たちが、かつてはいた。それ故に、帝国にとっては邪魔な存在だった。……帝国人ならば、知っているはずだ」
 ――クロフォードの惨劇。
 奴隷解放を訴えていた、クロフォード子爵家が十年前に途絶えた。その惨劇は夜盗の仕業だと発表されたが、それが建前でしかないことは公然の秘密である。
 クロフォード子爵家は、帝国によって、見せしめとして滅ぼされたのだ。
「周知の事実だが、実際に戦場で動く兵士のほとんどが、奴隷と、その血を継ぐ混血の者たちだ。今や、軍なしでは成り立たない帝国に、奴隷は必要不可欠だ」
「……っ、それなら、こんな国!」
 いっそうのこと、滅びてしまえば良い。
「それ以上は言うな。軍に仇なすのであれば、私はお前を殺さなければならない」
 言葉に詰まった俺の唇に指を当てて、大佐は微笑する。
「良い子だ。お前は、ただ、現実から目を背けずにいればいい。目を背ければ、屍に足をとられる。死にたくないのならば、他者を殺せ。私は、お前に死んでほしくない」
「……っ、失礼、します」
 俺は顔を歪めて立ち上がり、勢い良くテントを出た。燃え上がるような衝動が身体中を駆け巡って、堪らず拳を握りしめる。
「それなら、……貴方は、死にたくないから殺したんですか」
 ――、血に濡れた花を、今でも憶えている。
 忘れもしない。琥珀の瞳が瞬いて、花影が堕ちたあの夜の悲劇が、俺を苛め続けている。
「お願いですから、そんなこと……、言わないでください」
 死にたくないから、彼女があの夜をつくり上げたというのならば、それはあまりにも惨すぎる。
 何もかも、知りたくなどなかった。
 彼女のことなど何も知らないうちに、俺は華奢な身体を撃ち抜けば良かったのだ。知らずにいれば、この想いにも気づかずに済んだ。
 今ならば、まだ、引き返せるだろうか。ホルスターに収められた銃の感触を確かめて、俺は踵を返す。
 大佐の休むテントへと戻って、勢いよく中へ入る。
 俺の気配に気づき、振り返った大佐の眦には、透明な滴が光っていた。薄暗いテントの灯りに照らされて、大きな傷の走った彼女の頬を、一筋の涙が流れ落ちる。
「どうして、……泣いて、いるんですか」
 彼女は、敵を屠るのに一切の躊躇を抱かず、奴隷印を刻みつけることにも何も感じない。任務に忠実で、必要であれば血も涙もない軍人になれる人だ。
 彼女が、涙を流す弱さを持っていることなど、知らなった。
「……、泣いてなどいない」
「嘘、つかないでくださいよ」
 小さな身体を震わす姿は、ただの少女にしか見えなかった。

       ◆◇◆◇◆◇       

 少し肌寒い夜、眠りにつくことができずに俺は寄宿舎を抜け出した。帝都に帰還してから、深く眠れない日々が続いていた。
 周囲を見渡せば、青々とした木々が月光に照らされている。
 自然に溢れ美しい建造物が建ち並ぶ帝都は、皇帝陛下を守るために、魔術師たちが強固な結界を何重にも張っている場所だった。軍の寄宿舎がある土地さえも、戦場とはかけ離れた穏やかな地なのだ。
「……、大佐?」
 しばらく歩いていると、前方に軍服を着こんだまま立ち尽くす大佐の姿があった。
 ――月明かりに照らされた彼女の横顔は、俺には泣いているかのように見えた。
「ソロモン。どうした、こんな夜更けに」
 彼女は、俺が思っていたよりも弱い人なのだ。いつも前を向いている琥珀の瞳の奥に、顔を歪める少女の姿が見え出したのは、何時の頃からだっただろうか。
「眠れなくて。少し、向こうまで散歩をしようかと……」
「向こう?」
「ええ。向こうに行くと、綺麗な丘があるんですよ。よろしければ、一緒に行きますか?」
 俺の提案に、大佐は小さく頷いた。
 隣り合って歩くと、やがて、一面を白い花で覆われた丘に辿りつく。
「……、綺麗な場所だな」
 大佐の呟きに、俺は屈みこんで白い花を一つ摘んだ。
「大佐、こっち向いてください」
 振り返った彼女の髪に白い花を飾ると、彼女は虚をつかれたように目を見開く。
「似合っていますよ」
 言葉は、自然と零れ落ちた。
 飾られた花に恐る恐る手を伸ばしてから、彼女は微笑を浮かべる。この世のものとは思えないほど美しい笑みが、そこには在った。大きな傷の走る頬は、わずかに赤く染められていて、瞳には穏やかな光が宿っている。
 鼓動が、一つ跳ねた。
「嬉しいものだな。誰かに贈り物をもらったのは、初めてだ」
 無邪気に微笑む姿は、帝都の街並みを歩く年頃の少女と何一つ変わらない。
「ありがとう」
 その微笑みで、自分の道を見失ってしまいそうだった。
 だからこそ、これ以上の苦い想いを抱くならば、終わらせてしまった方が良い。
 ゆっくりとホルスターに手を伸ばして、銃の感触を確かめる。
「あちらにも、花が咲いているのだな」
 背を向けた大佐に、俺は銃を引き抜いた。震える指で、安全装置を外す。
 青白い月光を受けて、白い花々に影が堕ちていた。
 あの日と同じ花影に、俺は銃を握る手に力を込める。
 記憶の奥底で、幼き頃の自分が泣いている。その泣き声を無視して、俺は狙いを定めた。
 彼女を殺してしまえば、この胸を裂くような想いは、きっと消えてくれる。
 このまま引金を引けば、あの花を手折ることができるのだ。
 それなのに、どうして、手が震えてしまうのだ。
 小さな花を髪に飾られただけで、微笑んだ彼女。琥珀の瞳を細め、笑い、俺に背中を預けてくれた人。
 ――たった一度、涙を見せてくれた、脆い少女。

「まだ……、撃たないのか?」

 黒髪を夜風に靡かせて、大佐は銃を構える俺を振り返った。言葉を失くした俺に構うことなく、彼女はゆっくりと近寄って来る。
 そして、彼女は銃を握る俺の手に触れた。彼女の手袋越しに、わずかな熱が伝わる。その熱は、震える俺の手をなだめるように優しく包み込んだ。
「心臓は、ここだ」
 彼女の細い腕が、銃口を自らの胸元へと導いた。
ユリシス・クロフォード・・・・・・・・・・・
 十年も昔に喪った名を、大佐の唇が紡ぎ出す。
「初めて会った時、直ぐに分かった。あの頃よりも随分と成長していたが、その眼差しだけは変わらない。棚の影から、焔のような瞳で私を見ていた、……あの男の子のままだ」
 ――彼女は、すべて知っていたのだ。
「……、知っていて、俺を、傍に置いたのですか」
「いつ、撃ってくれるのかと思っていた」
 いつか俺に撃たれることを知りながら、戦場で背中を預けていたというのか。
「……っ、忘れも、しない! あの夜、貴方が父母を殺したっ……!」
 あの夜に殺した者たちの血を継ぐ俺を、どうして傍に置いたのだ。
「命令を遂行した。私の命は、燃え尽きるその時まで、帝国のものだから」
 大佐の手が自らの軍服の釦を外す。常に隠されていた彼女の首筋が露わになり、その象牙色の肌には痛々しい印が刻まれていた。
 俺は、その印を知っていた。
「……、奴隷、印」
 何故、気付かなかったのか。
 彼女の黒髪と象牙色の肌、そして、帝国の民としては珍しい名前。皇帝陛下が神を捨てるよりも昔、この地に根付いていた国は何十とあった。黒髪に象牙色の肌をした民族が暮らす小国は、帝国が蹂躙した最初の国だった。
 その血を継ぐ者たちは、生まれながらの帝国の奴隷。選ぶと言うことさえも選べない哀れな者たちだと、かつての俺は両親から教えられていた。
「嘘、だと、言ってください。あ、貴方が、無理やり従わされていたのなら、俺はっ……」
 大佐は、ゆっくりと首を振った。
「選べる道はなかった。私たちの未来など、どれも地獄にしかならない。……、だが、この運命を受け入れて、浅ましく人の血を啜って生き続けていたのは、私の意志だ。――死にたくなかった。だから、他者を殺した」
 彼女は、今までに何百と言う命を奪い続けた。年端もいかぬ少女であった頃から、己の未来のために他人の人生を食い潰してきたのだ。
「私が、お前の父母を殺し、クロフォードを滅ぼした仇だ」
 その中には、俺の家族も含まれている。
「撃て。一瞬でも、現実から目を逸らすな。前を見なければ屍に足をとられると教えたはずだ」
 引金にかけられた俺の指を、彼女は誘う。
 ――強くなって望みを叶えろ、ソロモン・グランディー。
 強くなれと、俺に言った彼女の姿が脳裏を過る。
「幸せに暮らせ」
 瞬間、気付けば、俺は手に持っていた銃を落としていた。
「……っ、俺は、ソロモン・・・・です」
 喉が震えて、声が掠れる。
 ――父上、母上。貴方たちを、今も愛しています。抱き締めてくれた腕の温もりも、優しく見守ってくれた眼差しも、すべて憶えています。喪ってはいけない尊いものだったことを、俺の心は知っているというのに。
 貴方たちを愛しているのに、彼女の命を奪うことができない。
「ユリシス・クロフォードは……、もう、死にました」
 貴方たちの命を奪った少女を前にして、俺は仇をとれなかった。
 握りしめた拳から赤い血が伝って、白い花を穢す。小さな身体のすべてを奪うかのように、俺は彼女を抱きしめた。

「貴方が、……大切、なんです」

 この人が、父母の命を奪い、俺の未来を打ち砕いたことは、変わることのない真実だ。それでも、俺には彼女を撃つことができなかった。
 彼女は俺の胸板を強く叩いた。
「……っ、目の前に仇がいる! お前の幸せを奪い、のうのうと今も息をしている私が憎くないのか! お前に、私は……っ」
 殺してほしかった、と震える唇が紡いだ。彼女は、ずっと、俺の手で殺されることを願っていたのだろう。
「もう、疲れた。終わりたい。……、終わらせてくれる、と、やっと思った、のに……」
 俺の家族を奪い、未来を歪ませた人。彼女を嬲り殺したい衝動も、確かに俺の中には燻ぶっている。
 だが、その衝動に、流されたくなかった。
「……、貴方が憎いです。だから、終わらせてなんてあげません」
 俺を見上げる琥珀の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
 そうして、記憶は過去へと遡り、俺は思い出す。
 あの夜、父母を手にかけて、少女は悲しみにうち震えるように泣いていたのだ。首筋に刻まれた忌まわしい印を押さえ込み、屍に足をとられぬように前を向いていた。
「いつか死に絶える時まで、苦しみ続けてください。……、俺の傍で」
 それが、何よりも、彼女にとって酷なことになる。
 涙に濡れた顔を俺の胸に預けて、大佐は嗚咽を漏らした。見上げた夜空には青白い月が昇り、俺たちを静かに照らしていた。
 ――、花影かえいを、追い続けていた。
 月下に咲き誇る血に濡れた花を、この手で手折るためだけに生きてきたはずだった。憎悪に胸を焼き、泥水を啜り、辛酸を舐めてきた。すべては、復讐のために呑み込んできた苦渋だった。
「共に……、生きては、くれませんか」
 彼女の細い指が、俺の服を握りしめた。腕に抱く彼女は思っていたよりもずっと小さくて、壊してしまいそうだ
 彼女の持つ弱さを知った日から、この花を手折ることなどできなくなっていたのだろう。
 俺たちは、屍を踏み均して歩いて行く。血を啜って醜悪な花を咲かせながら、己のために他者を屠り続ける。

 追い続けていたはずの花影が、今を生きる俺と重なった。



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【本文中の参考サイト様】
Nursery Rhymes Garage
URL:http://nrg.mgjapan.net/
ソロモングランディーの歌の英文を、資料として参考にさせていただきました。