かごめ

かごめ

「かごめかごめ籠の中の鳥はいついつ出やる」
 隣に住まう人は、いつもあたしの道の先にいる。
 八つも歳が違う、生まれた時から一緒にいる男の人。
 彼は歳を重ねるごとに、外界を恐れるようになった。固い殻で自分を覆い尽くして、全てから逃れるように内に籠っていった。
 ひたすらにに敵意や悪意、――好意までも撥ね退けてしまう、寂しい人。
 籠の中の男の人は、それでも、いつも微笑んでいる。
「夜明けの晩に鶴と亀が滑った後ろの正面だあれ?」
 夜明けの晩に、何が起こったとしても、彼は一切感知しないだろう。
 たとえ、あたしが死んだとしても――。
 彼はあたしの道の先を、後ろを振り返ることなく進んでいるのだから。


           ◆◇とある少女の想い◇◆           


 酷い、雨の降る夜だった。
 噎せ返るような湿気は、生温かな空気を孕んで不快感を誘い出している。夏の夜の雨は、憂鬱の象徴のようなものだ。
 小母さんは出かけているらしく、マンションの隣室は人の気配の一切しなかった。
 それでも、彼がいつものように、奥深くの部屋で時を過ごしていることを、あたしは知っていた。
 目前の黒い扉には、遠い昔にあたしが書いた落書きが残っている。懐かしさと共に眉を顰めながら、あたしは扉を開けた。
 葉くんは、予想したとおりにそこにいた。
 突然開いた扉に驚いてた彼は、あたしの姿を目に捉えた途端に安堵したように息をつく。
「加奈ちゃん」
 白色を通り越していっそう青い顔、大きな猫みたいな目、赤く熟れた唇だけが薄ら寒いまでに生を主張している。
 葉くんは窓の傍に座り込んでいた。
 夜風が舞い込む短夜に、濡れた黒髪が月明かりに照らされて、艶やかに光っている。
「何で頭濡れているの?」
 部屋を本当に滅多に出ることのない彼に、あたしは訝しげな視線を遣る。お風呂に入ったのであれば、気に入りのパジャマに着替えているだろうに、今の葉くんの姿は明らかにそれとは違う。
 彼は、あたしにコンビニの袋を見せつけてきた。
「冷蔵庫になかったから、プリン買ってきたんだ。傘差すの忘れちゃった。雨って濡れるんだったね」
「当たり前でしょう、雨なんだもの。――、それよりも、よく、コンビニまで行けたね」
 葉くんは、――重度の人見知りだ。
 昔から初対面の人には言葉を交わさないどころか視線すら合わせることはなかった。幼いころは何とも思っていなかったけど、今思い返すとあの年の少年がする行動にしては、異様に徹底していて奇妙だった。
 大人になってからも、人見知りは治っていない。
 でも、彼は人見知りだけど、人嫌いではない。そのことが、あたしには不思議でならない。
 あたしの記憶では、葉くんには友人もいるし、恋人がいた時期もある。
 変人だけど基本的に人は良いし、いかにも不健康そうだけど中々に格好良い人なのだ。
 尤も、恋人に関しては、彼と少しでも過ごせば、百年の恋も冷めると言ったところなのだろう。
 彼の恋人が七日の峠を超えたことは一度も見たことがない。
 恋人と違って今も彼と付き合いのある友人たちは、人間ができている素晴らしい方々ばかりだ。どうして彼と友達でいられるのか、あたしには良く理解できない。
「……本当、衆目に曝されることを考えだけで、家に帰りたくなった。レジの女の子怖い。外ってあんなに息苦しかったけ」
「アルバイトの女の子なら凄く対応の良い人だった気がするんだけど……。だいたい、葉くんは誰でも怖いでしょう」
 言葉に詰まって頬をかく葉くんに、あたしは続ける。
「そんなに外が嫌なら、家政婦さん雇いなよ。小母さんはお仕事忙しいんだし、葉くん、お金は無駄に持っているんだから」
「自分の家に他人を入れるなんて考えられないよ」
「わがまま」
「だって、他人だよ? 身内なら構わないけど、他人が僕の食べる物を作って、僕の服を洗って、僕の仕事部屋を掃除するなんて……耐えられないよ」
 黒いパソコンが一台と、ベッドしかないこの部屋を葉くんは仕事部屋と呼んでいる。
 この部屋から滅多に出ることがない彼にとって、この部屋は一種の要塞なのだと思う。その要塞に入れる権利を与えられたあたしは、特別だと思っても構わないのだろうか。
 それとも、人が好きだけど外が嫌いな葉くんの、暇つぶしの玩具なのだろうか。特別だなんて思うことがおこがましいのかもしれない。
「……葉くんの身内って小母さんだけでしょう。その言い方だと、小母さんは葉くんが死ぬまで、葉くんの面倒を見なくちゃならないよ」
「母さんに他に趣味はないから大丈夫だよ」
「小母さんは趣味で葉くんの面倒を見てるんじゃないと思うよ」
 あたしは、小さく溜息をついた。
「……もういい年なんだから、自分で最低限の生活はできるようにならなくちゃ。小母さんもまだ若いんだし、色々とあるんだよ?」
 いつまでも、このままではいられないことを彼は知っているはずだ。
 時の流れが残酷であることは、子供のあたしにでも分かる。
 あたしと彼が進んでいる限り、あたしは彼に追いつくことができないように、いつかは小母さんも葉くんを置いて逝ってしまうことを彼は理解しているだろうに。
「それができないなら、さっさと結婚して身内作って、その人に面倒見てもらいなって」
 葉くんは目を見開き、感嘆したようにゆっくりと頷いた。
「…………加奈ちゃん、相変わらず頭良い」
「葉くんが言うと嫌味にしか聞こえないよ……」
 あたしの通う学校を、首席で入学して首席で卒業した葉くんが笑う。
 あたしが辿ってきた道の先には、いつも彼の姿がいる。葉くんが歩いて踏みならした道を、あたしは進んでいるのだ。
 可愛げもない自分が、何を恋する乙女みたいな真似をしているのだろう。
「そっか。うん。それはとても良案だね、採用だよ」
 あっさりとあたしの言葉を受け止めた葉くん。
 あたしの心は、だんだんと黒ずんでいく。醜い嫉妬心に染まっていくあたしは、綺麗な葉くんと並ぶことなんてできないのだと、認めなくてはならなくなる。
 そんなの、嫌なのに。
「でもね、葉くん。さっきの言葉には続きがあってね」
「……?」
「今の葉くんには、お嫁さんは来ないと思うんだ。――葉くんは、こんななんだもん」
 今まで、恋人が出来たこと自体が異常なの。
 こんな男に懸想する女の気がしれない。
 だって、この人を好きになることは、絶対に間違っているんだ。間違っているんだよ、だから、この人をあたしの前から掠め取らないで。
「大丈夫。いろいろと考えがあるんだ、僕も大人になったんだよ」
 お願いだから、大人になったなんて、言わないでよ。
 二人で遊んだ昔の日々も、貴方にとっては年下の小娘に振り回された煩わしい思い出でしかないのだろうか。
 公園で歌った二人だけのかごめかごめも、葉くんは忘れてしまったのかもしれない。
 あたしのことなんて、もう鬱陶しいと思っているのかな。
「……、今日が何の日か知ってる?」
 震える声で、紡いだ言葉は、情けないほど子供っぽくて涙が滲んだ。
 あたしはまだ、貴方のように大人になれないのに、貴方は大人になっていくんだね。
「もちろん」
 彼はそんなあたしに気付くことなく、笑顔でお祝いをしてくれた。

「お誕生日おめでとう、加奈ちゃん。今日で十四歳だね」

「……ありがと、う。忘れてなかったんだ」
 追いかけても追いかけても、あたしと貴方の差は埋まらない。涙でしょっぱい誕生日、一つ追い付けば一つ離れていく。縮まることのない距離が胸を締め付ける。
 零れ落ちた涙は、部屋の暗さが隠してくれるはずだ。月明かりは、あたしを照らすことはない。あたしと葉くんは、こんなにも離れているんだ。
「母さんが張り切って、ケーキ用意してたからね。もうすぐ帰ってくると思うから、ついでに相手をしてあげて」
 その言葉と示し合わせたように、玄関の開く音がした。
「うん。……葉くんも、後でおいでよ」
「……、そのうちね」
 物理的にも、心理的にも、貴方とあたしは一生離れ離れだ。
 寂しい、人。
 部屋の中に座り込む猫背の影は、子供を孕んだ女に似ていた。
 彼が見初めた籠女かごめの赤子が生まれる未来は、彼に新しい家族ができる日は、果たして来るのだろうか。
 扉を閉めて、小さく息を吸う。
 あたしはぼろぼろと涙をこぼして呟いた。

「お嫁さんなんて、……来なければいいのに」

 穢いその言葉は、消えることなくあたしの中に沈みこんだ。



           ◆◇とある青年の呟き◇◆           



 月明かりに照らされた部屋は、薄暗く心を落ち着かせてくれる。
 僕は人間が好きだ。
 一人では生きていけないことを、僕自身が一番分かっている。僕みたいな人間は、他者に依存することでしか世の中を渡っていけないから、人という存在は愛おしい。
 でも、外界は嫌い。
 たくさんの雑音、煩わしい世間の言葉。
 期待と羨望の眼に見つめられた息の詰まる日々は、僕の中で大きな傷となって今も残っている。
「かごめかごめ籠の中の鳥は」
 寝転がって口にする歌は、成立しない二人だけのかごめかごめ。昔、遊んだ、色褪せることなく綺麗な思い出の一片だ。
 記憶を辿ると、加奈ちゃんと過ごしてきた日々はどの記憶も美しく鮮明で、僕の中で唯一の綺麗な場所だ。
 きっと、彼女は気づいていないだろう。
 籠の中の可哀そうな小鳥は、僕ではなくて、自分自身であることを。
 彼女が赤ちゃんの頃から知っている、八歳も年下の女の子。
 可能な限り彼女の傍にいて、可能な限り僕の価値観を教え込んできた。幼くなにものにも染まっていなかった彼女は、当然ながら僕を拒むとなく、自覚することすらなく自らの心の内側に招き入れた。
 それが、すりこみ・・・・であることを知っていたのは、きっと僕だけだ。
 周囲の大人は、年下の女の子の世話を焼く青年を、年上の青年を慕う少女を、微笑みを携えて見つめていた。
 一緒にいる二人を、兄妹みたいに思っているだろう。
「いついつ出やる」
 いつまでも、いつまでも出してなんてあげない。
 ずっと、そこが籠の中であることに気付かずに、僕のことだけを見てればいい。殻に籠っているのでは僕ではなくて、哀れな籠の女は君だってことを知らずにいればいい。
「夜明けの晩に鶴と亀が滑った」
 夜明けの晩に鶴と亀が滑ったことなんて、彼女はきっと感知しない。
 僕だけを見つめて、僕が依存することを赦して、僕にすべてを委ねて笑ってくれる。
「後ろの正面だあれ?」
 後ろの正面に存在する誰かなんて、彼女の未来に広がる可能性なんて、一生気付かなければいい。
 加奈ちゃんの未来を奪った分、誰よりも幸せにしてあげるから。
 その幸せは、僕が刻んだ幸せで、決して加奈ちゃんのものではないと分かっている。
 おそらく、そのことを彼女に教える日は、永遠に来ないと思う。
「……もう、一四歳か」
 あと二年したら、お世話をしてくれる身内ができる。
 彼女は僕を拒まないだろう。

 その時に幸せそうに微笑むであろう加奈ちゃんの姿が、なんだかとても切なかった。



                 かごめ とある雛鳥のすりこみ