鏡花

鏡花

 青白い月光が木の間を通り抜け、わずかに足元を照らしている。鬱蒼とした森の中を、あてもなく鏡花きょうかは歩いていた。
 七つの鏡花は、村の裏手にあるこの森で母と暮らしていたが、風邪を拗らせていた母が今朝亡くなった。
「お母、様……」
 母を亡くした鏡花は、血縁である祖母を頼りにして村を訪ねた。しかし、村に入った直後、祖母は鏡花に罵声を浴びせ、大きな石を投げつけてきたのだ。
 投げられた石で切れた額から、止め処なく血が流れている。傷口が熱を持ち、焼けるような痛みで滲んだ涙が視界を霞ませた。
 夜の冷たい空気が肌を刺す中、唇を噛みしめて鏡花は歩く。鬼の子であるが故に忌み嫌われる鏡花を守ってくれていた母は死んだ。もう、誰も鏡花を守ってはくれない。
 やがて、鏡花は木々の開けた地へと辿りついた。そこには小さな湖があり、湖畔には一人の青年が佇んでいた。
 雪白の髪をした美しい青年だった。切れ長の瞳に眩い金色を宿し、佇む姿は凛としている。何より目を引いたのは、彼の頬や首筋を這う蛇のような鱗だった。銀色のそれは、月明かり浴びて輝いている。
「……、綺麗」
 ――、人ではない、と思った。人間が、こんなにも美しいはずがない。
「珍しい客だな。……、そなた、鬼の子か」
 立ち竦む鏡花に気づき、青年が鏡花に近づいて来る。その様子を見つめながら、鏡花は一歩も動けなかった。
「怪我をしているのか?」
 彼は鏡花の身体を抱きあげて、血の流れる額に口づけた。生温かな唇と、割れた舌先を額に感じる。血を舐め取られ、おぞましいはずなのに、その温かさに安堵を覚えてしまう。
 温かくて、鏡花の瞳から涙が零れ落ちた。
「名は、何と言う?」
 彼の唇の奥に、先の割れた真っ赤な舌が見える。
「……、鏡花」
 食べてほしい、と鏡花は思った。

       ◆◇◆◇◆◇       

 早朝、鏡花は目を覚ました。
「……、夢?」
 ひどく懐かしい夢を見ていたようだ。額に手を伸ばせば、祖母に投げられた石が残した傷痕がある。
 布団から出た鏡花は、手早く小袖に着替えて住んでいる小屋を出た。清々しい空気を肌で感じながら、森の中を慣れた様子で歩く。
 暫くして、小さな湖へと辿りついた鏡花は、朝風にさざなみを立てる湖面を見た。
「鏡花」
 名を呼ばれて、鏡花は微笑む。湖の中に、一瞬のうちに美しい青年が立っていた。白髪に金の瞳。彼の頬や首筋を覆う銀色の鱗が、湖面の光を受けて煌めいている。
 鏡花の元へと、彼はゆっくりと湖を歩く。
「白露《はくろ》様。おはようございます」
 この湖を棲家とする白蛇の青年に、鏡花は嬉しそうに目を細めた。
「おはよう、鏡花。随分と早起きだな。まだ、日が昇って間も無い」
「昨夜、白露様とお会いした時の夢を見たので……、早く、お顔が見たくて」
 白露は、鏡花の言葉に苦笑する。
「良く憶えていたな。そなたは、まだ幼かったであろうに」
「……だって、忘れることなどできません」
 額に触れた唇の温かさも、傷を舐めた舌の感触も、今でも鮮明に思い出すことができる。
「いっそう、忘れてしまった方が楽だろうに」
 鏡花の頬に、水に濡れた彼の手が触れる。
「忘れません。この身が朽ちるその時まで……、白露様のことを忘れたくないのです」
 頬に触れた彼の手を握って、鏡花は彼の瞳を見詰めた。
 白露の人間離れした美しい容姿や、肌を這う鱗は、鏡花と彼が異なる生き物である証だ。近寄れば近寄るほど、互いの差異は強く意識される。
 だが、それでも構わなかった。
「だから……、鏡花が死ぬ時まで、お傍にいさせてくださいね」
 白露は悲しげに微笑する。
「……、そなたが望むのであれば」
 湖水が小袖を濡らすことも厭わず、鏡花は白露の身体に抱きついた。
 鬼の血を交えているが故に、人の中で生きることができずとも不幸だとは思わない。
 白露が傍に置いてくれるならば、鏡花は幸せだった。

       ◆◇◆◇◆◇       

 森の中に建てられた小屋は、鏡花と亡き母が暮らしていたものだ。
「いらっしゃい、白露様」
 戸口に白露が立っていることに気づき、鏡花は彼を迎え入れた。
 わずかな家具しかない小屋の床に、白露は腰を下ろす。森の湖を棲家とする白露は、度々、鏡花の住まう小屋を訪れる。
 母と死別してからの八年間、白露は鏡花を気にかけてくれていた。拙い言葉しか使えなかった鏡花に言葉を教え、様々な知識を与えてくれたのも人ならざる彼だった。
 一般に、人ならざる者は畏怖の対象だ。妖怪や神は、時に崇められ、時に忌み嫌われる。
 だが、鏡花には慈しんでくれる彼を恐れる心はない。時折、小屋を訪れては罵声を浴びせてくる祖母の方が、よほど恐ろしかった。
「今日は、どうしたのですか?」
 鏡花が首を傾げながら白露の隣に座ると、彼は視線を泳がせた。それは、彼が照れている時の仕草だった。
 白露は、困ったように鏡花を見る。
「……、手を、出してくれ」
 白露の前に両手を差し出すと、掌に何かが載せられた。それは紅い造花のあしらわれたかんざしだった。職人が丹精を込めて作ったであろう、精巧で美しい代物だ。
「椿の花が、美しいだろう?」
 白露に教えられて、この花が椿という名であることを知る。
「これは……?」
 白露の容姿は、一目で人ならざる者だと分かるため、人里に下りて直接買うことは不可能だ。その上、この近辺には簪を買える場所などない。どのようにして手に入れたのだろうか。
「以前、森を通った商人が狼に襲われたらしくて、な……」
 言葉を濁した白露に、鏡花は察した。森には獰猛な獣が多く暮らしている。商人は狼に襲われて息絶えたのだろう。
「屍の傍にあったもので、すまない。……、だが、そなたに似合うと思った」
 鏡花は、ゆっくりと首を振った。
「大事にします」
 白露が贈ってくれたという事実が、鏡花の胸を熱くする。屍の傍にあった代物でも、少しも気にならなかった。
 嬉しさのあまり滲んだ涙を隠すように、鏡花は造花の椿を見つめた。
「椿とは……、とても鮮やかな花なのですね」
「本物の椿は、造花よりも鮮やかで美しい」
 実際の椿の花を思い浮かべるように、彼は目を細めた。
「人が辿りつけぬ森の深くに、椿がある。春に花を咲かせたら、そなたのために椿を取って来てやろう」
 白露の手が、鏡花の髪に触れる。彼は赤い結い紐を取り出して、鏡花の髪を結えた。そして、鏡花の髪に簪を飾ってくれた。
「それまでは、簪の椿で我慢してくれ」
 微笑んだ白露に、鏡花も笑う。
 春を迎えたら、白露は椿の花を見せてくれるだろうか。

       ◆◇◆◇◆◇       

 外で湧水を汲んで来た鏡花は、小屋の前にある人影に気づく。その姿を見た途端、鏡花は手に持っていた水桶を落とした。
「……、お祖母様」
 鏡花の呟きを拾って、背中の曲がった初老の女が振り向く。
 村で暮らす祖母は、鬼の血を引く鏡花を母と共に森に閉じ込めた人だった。
 自然に神や妖が住まうように、村の北にある山には赤い目をした鬼がいる。彼は気紛れに山を下りては、村々に若い娘と作物を要求するのだ。鏡花の村も何度か鬼に襲われ、母は、その際に鬼の子として鏡花を身籠った。
 ――この地で語られる鬼に纏わる話の一つに、このようなものが在る。
 過去、鬼に穢された村娘が赤い目をした子を生んだ。奇妙なことに、その赤子が生まれた日から、作物は実らなくなり土地が枯れたそうだ。
 それも、一度や二度の話ではないため、この地の人々はその話を真実として考えていた。この地では、鏡花のように赤い目を持つ者は不作の象徴なのだ。
「まだ、……生きておったか」
「おかげさまで、鏡花は元気に生きております。お祖母様」
「お前を、孫だと思ったことなどない!」
 怒鳴り声をあげた祖母に、鏡花は内心で首を捻った。いつもより、機嫌が悪いようだ。
「何か、悪いことでもありましたか?」
「……、村が、今年も不作になりそうだ」
 十五年前、鏡花が生まれてから、村では不作が続いている。今年も、既に飢えで何人か亡くなったと聞いている。
 鋭い視線が、鏡花を射抜く。
 祖母や村人たちは、かつて生まれた鬼の子たちのように、鏡花が不作を引き起こしていると考えている。
「村では、お前のことが噂になっている。春になっても作物が芽吹かず、このまま不作が続けば、……どうなるか、分かっているな?」
 昔生まれた鬼の子たちは、惨たらしく殺され、村人の前に何日も首を晒されたらしい。
「……、ええ。覚悟しておきます」
 それから、祖母は小言をいくつか残して去っていった。
 彼女の曲がった背中を見て思う。
 あと、どれほど、時間が残されているだろうか。せめて、椿が咲く頃までは生きていたいが、それは儚い望みなのかもしれない。

       ◆◇◆◇◆◇       

 曇り空から淡雪が舞う中、鏡花は湖畔に立っていた。
 ――雪は、白露の髪に似ている。
 冬の間、彼はあまり会いに来てくれない。冬になると動きが鈍くなり眠くなるのだ、と本人は言っていた。
 そのため、冬に湖を訪れても、彼にはほとんど会えない。だが、鏡花は何度も湖畔に立つ。彼に会えずとも、それで鏡花の心は落ち着いた。
 湖に近づき、薄く氷の張った湖面を覗き込むと、痩せた少女の顔が映し出された。
 人とは違う赤い瞳が、妖しく光っている。
 この瞳は、鬼の目だ。村に不作が続く限り、村人の疑いは鏡花に向けられ、恨みや憎しみだけが寄せられる。血縁である祖母ですら、娘を穢した鬼の子である鏡花を憎んでいる。
 母亡き今、鏡花を慈しんでくれるのは、白露だけだ。彼だけが、鏡花をただの少女として見てくれるから、彼の傍にいたいと願う。
「……、白露様」
 鏡花が、彼の名を呟いた瞬間だった。
 突如、何者かが鏡花の背を強く押した。
 抵抗する間もなく、鏡花の身体は薄氷の張る湖へと吸い込まれていく。
 痛いほどの冷たさが鏡花の身体を包んだ。激しく揺れる水面越しに、曲がった背中を見たような気がした。
 突然の出来事に、口と鼻から冷水が流れ込む。息ができなくなり、鏡花は必死になって手足を動かしたが、寒さに驚いた身体は思うように動いてくれない。
 もがく鏡花の手を、誰かが強く握りしめた。
 霞んだ目に優しい雪の色が映りだす。彼の姿を見間違えるはずがない。
 彼は、鏡花の身体を水面から出した。水を呑みこんでしまった鏡花は、何度もむせ返る。
「……っ、はく、ろ様」
 鏡花を抱きかかえる白露は、険しい顔をしていた。
「冬の湖に落ちるなど、私が気付かなければ、どうなっていたか……」
「……、ごめん、なさい」
「私は、……そなたの死体など見たくない」
 鏡花は、震える腕を彼の首にまわした。白露が気付かなければ、鏡花は溺死していた。
 背中を押した手の感触が、今も残っている。
 ――誰かが、鏡花を殺そうとしたのだ。
「湖に落ちるような真似はしないでくれ」
 白露は、鏡花が湖に落ちたのは偶然だと思っている。それで良い。自分が殺されそうになったことは、彼には言えなかった。言えば、優しい彼は鏡花を守ろうとするだろう。鏡花の存在で、これ以上彼を煩わせたくない。
「冬場は、……、湖に来るのは控えてくれ」
 白露の言葉に、鏡花は小さく頷いた。今日のように湖に落とされた時、いつも白露が助けてくれるとは限らない。
「春先になれば会いに行く。迎えに行くから、また、昨年のように湖畔で話そう」
 ひどく優しい声だった。冬の湖は凍えるほど冷たかったが、白露の腕の中にいると不思議と温かい。
「……約束、してくださいね」
 この温もりを抱いて春を待てるように、鏡花は彼に縋りついた。

       ◆◇◆◇◆◇       

 小屋の戸口が開けられて、わずかな月光に人影が照らし出される。
「……、白露、様?」
 久しぶりに見た彼の姿に、鏡花は目を丸くする。
「湖まで、散歩をしないか?」
 差し出された白露の手を握りしめて、鏡花は何度も頷いた。春先になれば迎えに来てくれるという約束を、彼は守ってくれたのだ。
 湖に辿りついてから、二人して畔に座る。
 彼に温もりはないが、白露に身を寄せると心までも温かく感じられた。夜の冷たい空気さえも、少しも気にならなかった。
「鏡花、……その、あまり、寄らないでくれ」
「駄目、ですか?」
 鏡花が見上げると、白露は視線を泳がせた。姿形は立派な青年だが、照れている彼は幼い子どものようで、とても可愛らしい。
「白露様は、……鏡花よりも、ずっと長く生きているのでしょう? それなのに、鏡花のような小娘にも照れるのですね」
「生きた年数が、私とそなたで違うのは当然だろう」
 白露と鏡花では、刻んできた時間が違う。それは互いが承知のことであったが、――だからこそ、鏡花は怖い。
「ねえ。白露様は、……鏡花を、煩わしいとは思わないのですか?」
 白露に縋る鏡花を、彼が煩わしく思っていないか不安だった。
「ずっと、そのようなことを考えていたのか?」
 白露の大きな手が、鏡花の頬を撫でた。その手に頬を擦り寄せて、鏡花は彼を見つめる。
「鏡花は、このような目を持っていても、……鬼の血を交えていても、人ですから」
 人から恨み憎まれると言うのに、鏡花は人以外になれない。他の人間のように、月日と共に老いて、大怪我を負えば死ぬだろう。
「……、白露様は、どうして、鏡花をお傍に置いてくださるのですか」
 それは、長い間、胸に秘めていた疑問。
 独りが寂しい鏡花にとって、白露と共に在れることは嬉しい。彼と同じ存在になれなくとも幸せだった。
 だが、白露にとって、同族でない鏡花と共にいることは幸せなのだろうか。
「……、孤独に寂しさを覚えたと言えば、そなたは笑うだろうか」
 白露の言葉に、鏡花は目を見開いた。
「生まれたのが何時であったかは、憶えていない。ただ、……仲間の蛇が次々と死んでいく中、私だけが何百年と生き続けた」
 白露は己の人生を語り始める。
「永く生きた私は、気付けば水神と呼ばれ、人々に崇められるようになった」
 この地では、水神は白蛇の姿をしていると伝えられていた。今では廃れているが、かつて、白蛇は水神として信仰されていたのだ。
「初めは、供物として捧げられた鼠や鳥を喰らうことで満たされていた。だが、時が流れると、人々が湖を訪れることはなくなった」
 月日の流れと共に、廃れていった信仰。独りになって、寂しさを抱えた白い蛇。
「孤独に寂しさを覚えるようになってから、私は……、森に、迷い込んだ者を……」
「人を、……喰らったのですね」
 白露は、強く唇を噛みしめながら頷いた。
「喉が渇くと、人の血を呑みたくなった。飢えを感じると、柔らかな人肉を喰らいたくなった。……、一度味を占めた私は、人以外で飢えを満たすことができなくなった」
 震える白露の手に、鏡花は指を絡ませた。
「暫くしてから、私は己を恥じた。かつて、慕ってくれた人間を喰らったことを悔いた」
 その後、白露は人を喰らうことを止め、渇きや飢えを律することを決めたらしい。
「人を喰らわなくなった私は弱くなってしまった。致命傷を負えば、治すだけの力はないだろう。……だが、これで良い」
 話し終えた白露が、鏡花の顔を覗き込む。
「そなたは、私を恐れるか?」
 白露が自分を見る瞳に、時折、獰猛な光が宿ることに鏡花は気づいていた。十五を迎え柔らかな曲線を描き出した身体は、餌として好ましいはずだ。
 しかし、白露は鏡花を喰らわない。
「いいえ。白露様が人を喰らっても、……お傍にいます」
 鏡花は、出逢った時に夢見た一つの願いを思い出す。それは、人を喰らわないと決めた白露にとって惨い願い。
 ――鏡花は、彼に食べてほしい。
 そう遠くない未来、鏡花は殺される。不作が続く限り、村人たちの憎悪は鬼の子である鏡花に向かって止まらない。彼らは、これ以上鏡花が生きることを赦さない。
 殺される時は、自分の死体を湖に投げ入れるように頼もう。鏡花の血肉のすべてが彼の糧になるならば、どれほど幸せだろう。
「私の傍にいて……、悔いはないのか」
「好きな方と一緒にいられることに、どうして悔いる必要があるのですか?」
「……、人の輪に、戻れなくなった」
「鏡花は、鬼の子です」
 この世に生を受けた瞬間から、鏡花は隔離された。人々に囲まれて生きてることなど、できるはずもない。
「白露様がいれば、鏡花は幸せです」
 鏡花の身体を腕の中に引き寄せて、白露は小さな溜息をついた。
「そなたには、敵わないな」
 抱きしめてくれる腕は、鏡花にとって、一番安心できる場所だ。この腕の温もりが、母を亡くした鏡花を生かしてくれていたのかもしれない。
 胸の内に暖かな光が宿ることを感じながら、鏡花は目を伏せた。
 夢のような日々は終わる。

       ◆◇◆◇◆◇       

 日が沈んだ頃、家の戸口が開けられた。
 そこには、祖母と数人の男たちが立っていた。男たちの手には鍬が握られている。
「何故、……、生きて」
 目を丸くした祖母に、鏡花は理解する。脳裏を過るのは、冬場湖に落ちた瞬間に見えた影だった。何度も見たことがあった、曲がった背中だ。
「……、冬の湖は冷たかったです。お祖母様」
 あの冬の日、鏡花を湖に突き落としたのは祖母だったのだろう。祖母の動揺が、鏡花にそれを確信させた。
「何故、死ななかったのだ。……、鏡花」
 今思うと、あの行動は、祖母なりの慈悲だったのかもしれない。村人に惨たらしく殺さるより、湖に沈んだ方が幸せだと考えたのだろうか。
 祖母の後ろに控える男たちの目は、鏡花に対する殺意と憎悪に染まっていた。
「今日は、何の御用でしょうか?」
 用件など分かり切っていたが、聞かずにはいられなかった。
「――、不作が、終わらない」
 前に訪ねてきた頃よりも痩せた祖母は、鏡花を見ている。その瞳には、以前のような怒りではなく、哀れみが浮かんでいる。
「お前が生まれてから、土地は枯れ、……作物は実らない」
 祖母の言葉に、鏡花は反論しなかった。自分が不作の原因だと思いたくないが、鏡花が生まれた年に不作が始まったことは事実だ。
「やはり、鬼の子に慈悲などかけるべきではなかった! あの子の胎にいるうちに、……殺しておくべきだったのだ」
「……鏡花を殺して災いが去るというならば、好きにしてください」
 村に愛着はないが、母の故郷を不幸にする原因が己に在るならば、鏡花は受け入れる。それが、鬼の子だと知りながら鏡花を生み落としてくれた、母に対する感謝だ。
「ですが、最後に一つ、我儘を聞いていただきたいのです」
 懇願するように、鏡花は祖母を見る。
「鏡花の死体は、森の湖へと捨ててください」
「……、良かろう」
「ありがとうございます、……お祖母さま」
 ――これで、すべてが終わる。
 傍から見たら不幸であっても、母が繋げてくれた命で、鏡花は白露という大切な存在に出逢うことができた。
 鏡花は、幸せに生きたのだ。

「鏡花?」

 その声を聞いた瞬間、鏡花は凍りつく。粗末な小屋の戸口に、白露の姿が在った。
 村人の一人が、悲鳴をあげた。その声を合図に、周囲の視線が白露に釘付けになる。
 雪のように白い髪、琥珀の瞳。頬から首筋を這い、腕にまで及ぶ銀色の鱗。一目で、彼が人ならざる者だと分かる。
「……っ、鏡花! お前は! 今日まで生かしてやった恩を忘れ、化物と通じていたのか!」
 立ち竦む白露の手には、花をつけた椿の枝があった。
 ――ああ、春を迎え、椿は咲いたのだ。
 鏡花と交わした約束。本物の椿を贈るために、彼はこの家を訪れたのだろう。
 鏡花の瞳が、涙に濡れる。
「……、逃げて。逃げてください、白露様!」
 気付けば、鏡花は声を張り上げていた。祖母を突き飛ばして、戸口にいる白露に叫ぶ。
 人を喰らわなくなった彼は、大怪我を負えば、それを治す力がないと言っていた。今の白露は、人間の手でも容易く殺されてしまう。
「……っ、殺せ! 鏡花を、早く!」
 床に倒れた祖母の言葉に、鍬を持っていた村人が鏡花に襲いかかる。
「鏡花!」
 白露の叫び声を聞きながら、鏡花は咄嗟に頭を抱えた。だが、予想していた衝撃は訪れず、代わりに温もりに包まれる。
「……、無事、か。鏡花」
 恐る恐る目を開けると、白露が鏡花を庇うようにして抱きしめていた。彼の胸が血で赤く染まっている。
「……っ、白露様」
 白露は、傷口から血が溢れ出すのも厭わず、鍬を持っていた村人の頭を殴りつけた。白露の胸に刺さっていた鍬が床に転がる。殺気立った白露の姿に、村の男たちは悲鳴を上げて蹲った。
 舌打ちしながら、白露は鏡花の手を握りしめた。白露の血が鏡花の小袖を染め上げる。
「白露様、お怪我を……!」
 鏡花の手を乱暴に引いて、白露は歩き始めた。
 彼の手に握られていた椿の花は、虚しく地に落ちていた。

       ◆◇◆◇◆◇       

 白露の身体を支えながら、鏡花は懸命に足を動かす。
「……、白露様、湖ですよ」
 彼の棲家である湖の畔で、鏡花は腰を下ろした。白露の身体を地面に横たえ、彼の頭を己の膝に誘う。
 白露の胸元に目を遣り、鏡花は唇を噛んだ。彼の傷は想像していたよりも深い。人を喰らわなくなり、弱った彼ではきっと助からないだろう。
 琥珀の瞳が鏡花を見た。その瞳には獰猛な光が宿っていた。
 荒く呼吸する白露の姿に胸が高鳴る。これから起こるであろうことに、鏡花は期待を抱いているのだ。
「……、鏡花」
 彼の指が鏡花の頬を撫ぜた。
「そなたを、……喰ろうてしまいたい」
 呪いのような言葉が、これ以上ない愛の証に思えた。
 彼は水神の成れの果て、人喰いの白蛇。人を喰らって満たされたいと願うことは、不思議なことではない。
 永い時間の中、孤独な寂しさを抱えていた彼は、愛してくれた人間と一つになることを願っていたのだ。
「……、良いの、です」
 鏡花は、精一杯の笑顔を浮かべた。
「全部、差し上げます」
 己の唇を噛み切り、血に濡れた唇を彼のそれに重ねる。舌で彼の唇を開いて、血を分け与えるように、ひたすらに深い口づけをした。
 初めての口づけは、むせ返るような血の味がした。それなのに、ひどく甘かった。
「……、すまない」
 弱々しい謝罪に、鏡花は首を振った。謝る必要はない。彼のおかげで鏡花が幸せだったことに、何一つ非などないのだから。彼の傍に在れたことに、悔いなどなかった。
 鏡花は、結えた髪に飾っていた簪を引き抜いて、己の胸にかざす。
 恐れることなど何もない。これは、永遠に彼と共に在るための尊い誓いなのだ。
「愛しております、……白露様」
 胸に勢い良く簪を突き立てて、鏡花は白露の上に倒れ込む。胸元に赤い花が咲き、造花の椿が地に落ちた。
 鏡花の血を浴びた白露は、ゆっくりと身を起こしながら鏡花の身体を抱きとめた。
「……、愛している」
 人ならざる彼が、人である鏡花へ贈ってくれた言葉が嬉しかった。
 白露は、鏡花の胸元に流れる血を舌で舐めとり、鏡花の指先に口づけた。
 永遠とも一瞬ともつかない間、二人は見つめ合った。
 そして、薄い唇の奥にある鋭い牙で、白露は鏡花の指を噛み砕いた。激しい痛みと共に湧き上がる喜びに、鏡花は目を瞑る。
 ――この魂までも食べ尽くして、強く、強く愛してほしい。
 愛しい人と一つになれるならば、それ以上の幸せなど、きっと、存在しないのだ。

       ◆◇◆◇◆◇       

 唇を濡らす血を拭って、白露は立ち上がる。
 舌の上には、生々しい血の味と共に、愛しい少女の骨の欠片が転がっていた。
 確かな足取りで、白露は湖に近寄る。
 水面を覗き込むと、青白い月と共に傷一つなくなった青年の姿が映し出された。
 その背後に、微笑みを湛えた少女の幻が浮かび上がる。艶やかな黒髪には椿の簪が、血のように赤い瞳には優しい光が宿っている。
「……、鏡花」
 夜風に揺れる水面に手を伸ばしても、彼女の幻には届かない。水に映る月も、鏡に映る花も、決して触れることはできないのだ。
 この結末は、初めから決まっていたのかもしれない。化物と人の恋が、幸せに終わるはずがなかった。
 あの小さな身体を抱くことは、二度とない。
「そなたを、……忘れない」
 鏡に映りし花、最早、触れることの叶わぬ愛しい花。

 彼女は、白露の中で永遠を刻み続けるのだ。



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