桜雨の夢

 桜雨が、降り注ぐ。
 薄紅色の花弁が一片、地に落ちた。

       ◆◇◆◇◆◇             

 春の夜の冷たい空気が頬を撫ぜる。月が昇る頃、私は幼馴染である和泉いずみの家をそっと抜け出した。
 あてもなく歩いているうちに、やがて辺りが深い霧に包まれていく。次の瞬間、霧の向こうに色鮮やかな花木が象る小さな庭園が現れた。
 庭園の中央には、美しい青年の姿があった。小さく息を吸ってから、私は竹箒で地面を掃く彼に声をかける。
「……っ、今晩は」
 私の声に気付いた彼は、顔をあげて優しく微笑んだ。
「いらっしゃい」
 榛色をした彼の髪が、夜風に靡いた。青空を溶かしこんだような瞳が、波立つ私の心をそっと落ち付かせてくれる。
 ――彼の名は、知らない。
 この庭園が何処に在るのかさえ私には分からなかった。ただ、毎夜、和泉の家を抜け出すと、いつもこの庭園へと辿りついた。
「走ってきたのですか? 顔が赤いですよ」
 彼に会えるため顔が火照るのだとは言えず、私は誤魔化すように彼の言葉に頷いた。
 私の様子に首を傾げた彼は、口元に優しい笑みを携えたまま黙り込んだ。私も何を喋れば良いのか分からず、少しの照れ臭さと共に目を伏せる。
 彼と過ごす沈黙は不思議と苦ではない。彼が傍にいるだけで、私の心はひどく穏やかで、温かな気持ちを抱くことができた。だが、折角、共にいるというのに、言葉を交わさないのは勿体なく思えた。精一杯の勇気を振り絞って、私は彼に向けて唇を開いた。
「その……、今日も綺麗に桜が咲いているのね」
 庭園の中央には、一本の桜の大樹がある。樹齢何年になるのか知らないが、かなりの年月を経た桜だ。私がこの庭園を訪れてから一月半、薄紅の花は枯れることなく咲き誇っていた。
「この桜は散りませんよ。この庭のすべては、君のような人のために在りますから」
 その言葉に目を瞬かせると、彼は太陽を知らない手を私に差し出してきた。
「お嬢さん。少し、話し相手になっていただけませんか?」
 私は頷きながら彼の手をとった。
 ――、この時間だけが、私の救いだった。
 彼が誰であろうと、微笑みを向けてくれるならば良かった。熱に浮かされたように、その他のことは朧になり忘れてしまう。
「良かった。僕は外に出ませんから、お嬢さんのお話が、いつも楽しみなのですよ」
 彼の嬉しそうな声音に、私は曖昧に笑むことしかできなかった。私が彼に話してきたことは、ほとんどが嘘で塗り固められている。
 親を亡くして、学校に通っているものの授業についていけず友人もいない。辛いことがあれば、それを理由に直ぐに逃げてしまう。
 とてもではないが、彼には言えなかった。
「どうして、外に出ないの?」
 気にかかっていたことを問えば、彼は困ったように眉を下げた。そのような表情をさせた原因が自分にあることに気づき、私は慌てて首を振る。
「……、言い難いことなら、無理には言わなくて良いの。ごめんなさい」
「謝らないでください。悪いのは何も言わない僕の方ですから。……僕は、お嬢さんのことが好きなので、知ってほしくないことがあるだけなのですよ」
 頬に熱が集まることを感じて、私は視線を下げた。好き、という言葉に籠められているのは、恋情でも愛情でもない。話し相手に対する好意でしかないことを、私は知っている。舞い上がってはいけない。
「どうか、年寄りの秘密の一つ赦してくださいね。歳をとると隠し事が増えて、正直に生きられなくなってしまうものなのです」
「嫌だわ、そんな素敵な姿をしているのに」
「お褒めいただき光栄ですが、僕は君が思うよりも、ずっと年寄りですよ」
「そんな風には見えないわ、……、だって、とっても綺麗だもの」
 私と違って、彼はとても綺麗で眩しい。
 卑怯で穢い自分に対する劣等感が募るばかりだから、綺麗なものは妬ましいはずだった。それなのに、彼の傍にいると落ち着く自分がいる。
 だからこそ、彼に対する想いが、特別だと自覚することができた。この想いが、恋であることに私は気付いた。
「この庭も大好きなの。昔、お父様たちが話してくれた場所に似ているから」
 桜の大樹がある庭園。生前の父母が良く話してくれた、私の名を貰ったという場所に、ここは似ている。
「……、そうですか。いつでも、いらっしゃい。僕はここにいます」
 その微笑みが、どれだけ私を支えているのか、彼は知らないのだろう。

       ◆◇◆◇◆◇                    

 教室に入った途端、談笑していた級友たちの視線が私に集まる。その視線に耐えながら、私は急いで帰り支度をした。
「あら、今日もお帰りになるの?」
 私は黙り込んで、足早に彼女たちの横を通り過ぎる。
「和泉さんも、どうして、このような方を引きとったのかしら」
「お大事に。明日もお休みになったら?」
 紡がれた言葉の直後、嫌な笑い声が教室を満たす。私は唇を噛みしめて教室から立ち去った。
 勉強についていけないことも、級友から相手にされないことも、いつものことだ。
 帰路についてから数分で、住まわせてもらっている和泉の家へと着いた。今ごろ、和泉は店で客の相手をしているだろう。見つかれば咎められるため、彼には会いたくなかった。
 裏口から息を潜ませて家に入り、与えられた部屋に向けて歩き出す。
「若旦那様も、どうしたのかしら」
 聞こえてきた下女たちの声に、私は足を止めた。
「幼馴染だって言っていらしたけど、本当なの? 旦那様なら、もっと良い家の方をお選びになるはずだもの」
「誑かしたのかしら」
「嫌ねえ、あんな小娘には無理よ」
 柱の陰に隠れて、そっと胸元に手を当てて息を吐く。
 言われ慣れた言葉だ、気にして傷つく必要などない。和泉が私を引きとったことを苦々しく思っている者など山ほどいる。
 七つ年上の幼馴染で、幼い頃から私の面倒を見てくれる兄のような存在である和泉。彼の家は、古くから続く呉服屋で、今では彼はその若旦那だ。本来ならば私などが幼馴染になれる存在ではない。幼い頃に彼に出逢い、交流を続けていたことも偶然が重なった結果でしかなかった。
静花しずか? 帰っていたのか」
「……、和泉」
 振り返ると、店に出ているはずの和泉が立っていた。黒紅色の長着に、濡羽色をした髪を肩口で結えた彼は、私の姿に眉をひそめた。切れ長の瞳には鋭い光が宿り、作り物のような美貌には影が落ちていた。
「こんな所で何をしている。まだ、学校の時間のはずだが」
「……、気分が、悪くて」
 俯き、消えそうな声で言うと、和泉は私の手を掴んだ。そのまま、近くにあった部屋へと強引に押し込まれる。
 背の高い彼に見下ろされて、私は彼から視線を逸らした。
「それは、昨日も聞いた」
 和泉の大きな手が額に伸ばされて、私は身を震わす。
「熱はないな。顔色も良い」
 淡々と事実を述べる和泉の手を、私は乱暴に振り払う。
「……っ、具合が悪いの! 放っておいて!」
「本当、なんだろうな」
「……、本当、よ」
「俺は、嘘つきは嫌いだ。ちゃんと、目を見て話せ!」
 和泉の怒鳴り声に、私は胸の奥が引きつるのを感じた。震える私の姿に気付き、和泉が傷ついたように顔を歪ませるので、私は唇を噛んだ。
「……正直に言ってくれ。俺は、お前が心配なんだ」
 和泉は、いつも私のことを気遣ってくれている。身寄りのなくなった私を、幼馴染であるという理由だけで引きとってくれたことも感謝している。
 だが、唇からこぼれ落ちた言葉は、その想いとは正反対のものだった。
「私が、いつ、学校に通わせてなんて言ったの?」
 目の前で、和泉が手を振り上げた。次の瞬間、甲高い音が鳴り、頬に痛みが走った。私の頬を打ってしまったことに、和泉の瞳が揺れた。
「……っ、すまない」
「……、もう良い、和泉となんて話さない!」
「静花!」
 引き止める和泉の手を振り払い、私は廊下を走った。逃げるように自室へと飛び込んで、急いで扉に鍵をかける。
「……、静花。開けてくれ」
 部屋の扉を叩く和泉を無視して、私は膝を抱えた。
「手をあげてしまって、すまない。だが、俺はお前が心配なんだ。……、何か、辛いことがあるのか?」
 辛いことなど山ほどある。だが、和泉に言って解決するような問題でないことは分かっていた。
 これは、私の甘えでしかない。
「放って、おいて」
 自分の身勝手さに泣きたくなった。優しい和泉は、幼馴染である私を見捨てることができない。そのことを知っている私は、酷い言葉を口にして彼を傷つけている。
「……、また後日、話をしよう」
 和泉が去ってから、熱を持った頬に手を当てて、私は嗚咽を漏らした。
 薄暗い部屋に午後の日差しが差し込む。温かな日に照らされると己の醜さが浮き彫りになる気がして、私は障子を閉めた。
 早く、夜が訪れればいい。夜になれば、彼に会えるはずだ。

       ◆◇◆◇◆◇                     

 皆が寝静まった頃、涙の痕を拭って、私は和泉の家を出た。闇色に包まれた世界を、月明かりを頼りに少しずつ歩を進める。
 ――夜に抜け出す度、いつも、不安が襲いかかる。
 あの庭園への行き方を知らない私は、ある日突然、彼に会えなくなるのではないかと怖くなるのだ。
 暫く歩くと、深い霧が辺りを覆っていった。庭園に辿りつける、彼に会うことのできる喜びで、胸が震えた。
「いらっしゃい」
 優しい榛色が出迎えてくれて、私は自然と笑みをこぼす。だが、彼は私の姿を目にした途端、眉をひそめた。
「……、頬が腫れてますね。それに、目も赤い」
「……、なんでも、ないの。気のせいよ」
 私の言葉に、彼は複雑そうに目を伏せたが、それ以上は何も言わなかった。代わりに、私の頬や目元に労わるように指を這わしてから、結えられた私の髪に触れた。
「今日は、髪を結えたままなのですね。初めて見ました」
「その、……」
「これは、どちらの服ですか?」
 今日は学校に行った時の格好で外に出てきてしまった。和泉との言い合いが原因で、着替えるどころではなかったのだ。
 市松模様の着物に、裾刺繍の施された濃色の袴。黒い革のブーツを履き、結えた髪には和泉が贈ってくれた紫苑色のリボン。
 だが、中身は、二月ふたつき前までの擦り切れた小袖を着た私と変わらない。いくら外見を着飾ったところで、周囲の人間の好意を享受して甘えているだけの子どものままだ。
「学校のものよ。見たことあるでしょう?」
「ああ、……今は、女人も学を学ぶのですね」
 彼の声には、わずかな悲しみが籠められているように思えた。
「……本当に、見たことないの?」
「すみません。僕は外に出ないので、世間に疎いのです。――、この庭と、この桜だけが僕の世界ですから」
 そう呟いた彼の横顔は、何処か寂しげだった。
 私は、苦笑した彼の手に一本の桜の枝があることに気づく。
「……、折ってしまったの?」
「はい」
「可哀そうだわ。まだ、こんなに綺麗に咲いているのに」
「良いのですよ。この庭のすべては、……君のような人のために在ると言ったはずです」
 桜の枝を片手に、彼が近づいてくる。伸ばされた手に思わず身を固めると、彼の手が私の髪に触れる。和泉が贈ってくれたリボンを解いて、まるで、代わりにでもするかのように、彼は私の髪に桜を飾った。
「綺麗ですね」
「……、そうね。この桜は、いつも、綺麗に咲いているもの」
 彼は首を振って、微笑する。

「綺麗なのは、君ですよ」

 心臓が早鐘を打って、胸が熱くなった。
「僕などの相手を、嫌な顔一つせずしてくれる。僕は、……君と会えることが嬉しいのです。このような何もない地、お嬢さんにはつまらないでしょうが……」
「そんなことないわ! 私、……、好きだもの」
 何が好きとは口に出せなくて、声は徐々に小さくなった。
 彼の青い瞳が、赤くなった私の顔を映し出している。
「……、ありがとう。とても、嬉しいです」
 心の中で、静かに揺れる灯がある。
 いつになったら、貴方に伝えられるのだろうか。
 私の中で唯一の、清らかで美しいこの想いを。

       ◆◇◆◇◆◇                    

 自室の隅に座り込んで、彼が髪に飾ってくれた桜の枝を掌にのせた。あれから数日経つと言うのに、不思議なことに花は枯れることなく咲き続けていた。
 学校では、今日も授業について行けなかった。級友に話しかけても相手にはされない。
 ――、分かっていたことだ。
 和泉の家に引きとられているものの、私は学校になど通える身分ではない。両親は裕福な家で育ったようだが、二人とも家の反対を押し切って駆け落ちしたために、縁は切られている。
 それに、自分に誇りを持って生きている級友たちにとって、私のように中途半端で煮え切らない人間が我慢ならないことは理解できた。同じ空間にいるのも気分が悪いと思っているのだろう。
「静花。また、学校を早退したのか?」
 眉をひそめた和泉が、部屋へと入ってくる。
「……、勝手に入ってこないで」
「声をかけたのに、気付かなかったのはお前だろう。……、この間は、叩いて、すまなかった」
 彼は前髪をかきあげながら、気まずそうに呟いた。
「もう良いわ。私が悪かったもの」
 あの時は、酷い言葉を口にした私に非がある。
 普段の鋭い表情から誤解されがちだが、和泉は心根の優しい人間だ。他人に対する思いやりや責任感も人一倍強い。
 彼を傷つけるような、自分勝手でどうしようもない言い草をした私が悪い。
「……、少し、話をしないか」
 和泉の誘いに、私は何も言わない。それを肯定と受け取ったらしく、彼は私に問う。
「学校は、つまらないのか? 何か、気に入らないことでも?」
「……、別に、何もないわ。ただ、……具合が、悪くなっただけで」
 私の消えそうなほど小さな声に、和泉が大きな溜息をついた。
「俺は、お前の保護者だ。何かあるなら、正直に言え」
「私の保護者は、お父様とお母様よ」
 私と大して年の離れていない和泉を、保護者などと思えるはずもない。
「お前を引きとった俺が、今のお前の保護者だ。……、あの人たちは亡くなっただろう」
 和泉の言葉に、私は両手で耳を塞いだ。
 両親が事故に巻き込まれ、まだ若い命を散らしたのは、二月も前の話だ。葬式もろくに行えなかった私の代わりに、和泉は二人を弔って、身寄りのなくなった私を引きとってくれた。
 七つ年上の幼馴染は、立派な青年だ。幼い頃から、手を差し伸べて優しく助けてくれた彼を、家族同然の存在として大切に思っている。
 だからこそ、不出来な自分を、もっと嫌いになってしまうのだ。私は、何一つ彼の優しさに応えられない。
「……、だって、学校なんて、通ったことないもの。皆、私のことなんて、相手にしてくれない。勉強も、ついて行けないの」
 昔から、父母や和泉から勉強は教わっていたが、授業についていくには足りない。いきなり学校に通えと言われても、ついていけるはずもない。
「が、頑張ったよ。でも、全然、わかんなくて、……」
 分からないならば、学べばよい。これが甘えだと言うことも理解しているが、私はどうしようもなく泣きたかった。
「……今は辛くとも、これからの時代、学べば道は広がるだろう。俺は、お前に苦労してほしくない。たった一人の大切な幼馴染だ」
 いつも眉間に皺を寄せる彼が、本当はとても優しいことを知っている。だからこそ、幼馴染でしかない私を、世間の悪評を覚悟の上で引きとってくれたのだ。
「この家の人たちから見たら、私なんて、ただの孤児よ。若旦那様は血迷ったと、皆の噂になっているわ」
「……、静花」
「独りにして。ちゃんと、明日は学校に行くから」
 勉強についていけなくとも、誰にも相手にされなくとも、私は和泉の好意を無碍にするわけにはいかない。
「その言葉が本当ならば、お前が嘘つきではないことを、俺に教えろ」
「え?」
「毎晩、何処に抜け出している?」
 和泉の問いに、私は顔を青くする。
 ――気づかれていたのだ。
 睨みつけてくる和泉に、私は目を伏せた。
「いつものリボンはどうした? ……、その桜の枝は?」
「……、り、リボンは、失くしたの、ごめんなさい。桜の枝は、自分で折ったわ」
「このあたりの桜など、すべて散っている」
 言葉に詰まった私の肩を、和泉が強く掴む。
「静花! ……、頼むから、正直に言ってくれ! 俺は、お前が心配なんだ!」
 何も答えなった私に、和泉が怒鳴り声を上げた。私の肩を掴んだ彼の手に、痛いほどの力が加えられる。
「……、何処に行こうが、私の勝手よ。良いじゃないっ、……私のことなんて、皆、どうでもいいくせに」
「……っ、どうでもいいわけ、ないだろう!」
 和泉の手を無理やり振り払って、私は叫ぶ。
「知っているのよ、影で皆が私のことを何て呼んでいるのか!」
 卑しい子ども。その言葉を、何度耳にしたことか。
「確かに、両親は駆け落ちだった、家には認められない結婚だったわ、……! だけど、二人が想い合って生まれた私に、卑しいことなんて何もないわ!」
 零れ落ちる涙は止まることを知らず、嗚咽と共に流れていく。
「もう、嫌、……皆、大嫌い! 独りなのに、私には、彼、だけ」
 優しい微笑みを湛えて、庭園で待っていてくれる人。唐突に現れた静花を受け入れて、逃げ場所を与えてくれた。逃げ出したい現から、一時の間だけでも、解き放ってくれる。
 どうして、縋らずにいられるというのか。
「……っ、俺では、駄目なのか? ずっと、お前の傍にいてやる」
 和泉の声を無視して、私は駆けだした。
 向かう場所など決まっていた。

       ◆◇◆◇◆◇                    

 夜闇の中、私は薄い霧に覆われた庭園に辿りつく。
「いらっしゃい」
 私の姿に気づいた彼が、こちらへと歩いてくる。
 その姿を目にした途端、私は崩れ落ちて地面に膝をついていた。
 近寄ってきた彼の手が、私の頬に触れた。私に視線を合わせるように、彼は屈みこむ。
「……、こんなに目を真っ赤にして。綺麗な顔が台無しですよ」
 温もりのない指が、私の涙を拭う。いつもなら飛び上るほど嬉しいはずなのに、今日は少しも嬉しくなかった。
「和泉が悪いの、よ」
 嘘だった。和泉は何も悪くない。悪いのは、毎夜、彼に会いに来てしまう自分の方なのだ。
 不器用だが本当は優しい和泉が、幼馴染でしかない私のために、傍にいてくれると言ってくれた。
 その想いから目を逸らして、私は逃げ出したのだ。
「居場所なんて、ないのに。あそこに、いたくないわ」
 私は、何処にいれば良いのだろう。和泉が向ける優しさを同情としか思えず、都合の良い時だけ彼を頼って生きている自分が嫌だった。それなのに、逃げてばかりの卑怯な己を、いつまで経っても捨てられない。
 何もかもが嫌だと嘆いて、幼子のように駄々を捏ねて、ただ甘えているだけだった。
「……、だから、この地に逃げてきたのですか?」
 彼の言葉に、私は顔をあげる。優しい笑みを湛えているのに、空色の瞳には何処か責めるような色が滲んでいた。
「知っていました。君が、この庭を逃げ場所としていたことを。……この庭園は、逃避を願う者の前にしか姿を現さないのです。現と繋がっていても、夢のように朧な場所」
 生い茂る花木を見渡して、彼は呟く。
彷徨ほうこうの末にこの庭に辿りつく人々は、皆、己の運命に嘆いています。辛く苦しい現から逃れるために、この庭園を逃げ場所とするのです。僕も、また、現と繋がっていながらも夢のように朧な存在」
 彼からの告白に、驚くことはなかった。
 彼に出逢ったのは春の夜だった。だが、彼に似た青年の話は、両親から聞かされていた。
「……、知っていたわ」
 目の前に佇む人が、私と同じではないことなど気づいていた。
「だって、貴方、……私に名前をくれた時から、少しも老いていないのでしょう?」
 駆け落ちした若い頃の両親は、桜の大樹がある庭園で、一人の青年に出逢ったそうだ。榛色の髪に青空の瞳をした、優しげな面差しの青年だったらしい。
 若い頃の両親は、その美しい青年に魅入って、私の名付けを頼んだ。
「ありがとう。とっても、素敵な名前だわ」
 静花。風のない静かな夜に、咲くことを約束された花。
 母が医師から、子は流れる、と言われていたにも関わらず、私はこの世に生を受けた。
「守って、くれたのね」
 生まれおちた私の唇には、一枚の桜の花弁が挟まれていたらしい。彼は、与えてくれた名の通り、私に生を約束してくれていたのだ。
「……、静かな夜の出逢いでした。その恋人たちは、家から逃げる最中、この庭園まで辿りついたのです。女性には、一つの命が宿っていました」
 過去を追慕するように、彼は語る。
「その時、可愛らしい少女が彼らの傍で笑う姿が、僕には見えました」
 名付け親の青年は、母の胎内にいた私が、女であることを言い当てた。まるで、未来を知っているかのように。
「君が庭園に辿りついた日、僕が見た未来よりもずっと君は成長して……、綺麗になっていて、とても驚きました。時が経つのは、早いものですね。時に置いて行かれた僕と、流される君では、当然のことなのでしょうが」
 苦笑して差し出された手に、私は迷うことなく自分の手を重ねた。体温のない手に、震える指を絡ませる。
 彼は私の手を引いて、桜の下まで歩く。
「……、遠い、遠い昔から、僕はこの地にいます。今の姿に至るまで、自分が何であったのかさえ忘れているのです」
 静かに降り出した春雨が、私と彼に降りかかる。儚い雨の幕に覆われて、彼の姿が視界で霞んだ。
「人であったのか、物の怪であったのか。それとも、この桜であったのか」
 彼の指から伝わる温もりはなく、生温かな私の熱だけが繋がれた手に宿っていた。同じように雨に濡れていると言うのに、私と彼は異なる存在なのだ。
 だが、同じ存在でなければ、共に在ってはいけないのだろうか。
「そんなの、どうでもいいわ。貴方が私と同じでなければ、一緒にいてはいけないの?」
 雨に濡れ落ちた花弁を手に乗せて、彼は微笑と共に頷いた。
「君は、僕には勿体ない存在です。永遠に変わらない僕に、これ以上君を付き合わせるつもりはありません。……、君には、幸せになれる未来があります」
「……っ、未来なんて、いらない! 貴方だけで、いい。ずっと、貴方と一緒にいたい!」
「いいえ、君は未来を生きるのです。僕ではない誰かに恋をして、血を繋げて、……幸せに死んでいく君の姿が見えるのですよ」
 わずかに掠れた彼の声に、私は声を張り上げる。
「嘘よ! ……、だって、私が好きな人は、……貴方、なの、に」
 言えなかった気持ちが、胸の奥から溢れ出す。望んだ形で伝えることもできず、惨めに縋るようにして、綺麗だった想いを口にしてしまった。
 私は、堪え切れずに彼の胸に飛び込んだ。
「好き、なの」
 彼の名前さえ、知らなかった。同じ存在ですらなかった。それでも、この想いを抱くには、その微笑みだけで十分だったのだ。
 貴方がいれば、それ以外などいらない。その微笑みを向けてくれる限り、私は歩むことができる。辛くても苦しくても、彼さえいれば、生きていける。
 彼はゆっくりと首を振って、私を拒んだ。私の身体が、彼から離されていく。
「君の想いは、恋ではなく迷いです。その迷いを捨てれば、君は、歩いていけます」
 そうして、彼は私の恋のすべてを否定した。
「僕のことなど忘れて、どうか、幸せになってください。……、静花」
 彼は最初で最後に、ひどく優しい声で私の名を呼んでくれた。微笑んだ彼の頬を伝う滴が、雨なのか涙なのか、私に知る術はなかった。

       ◆◇◆◇◆◇               

 地に落ちた花弁を拾い上げて、月の光に翳す。
 あの日と同じ雨が、頬を濡らしていた。
「こんな場所にいると、風邪を引く」
 不意に、雨が遮られ、私は振り返る。そこには、傘を片手に佇む愛しい人の姿があった。十六の頃、彼に抱いた清らかな想いとは違うが、私は和泉を愛しく想う。
 ――、榛色をした彼、名も知らぬ初恋の人。貴方と別れた日に残された痛みは、共に過ごした優しい記憶を幾度も蘇らせる。
 貴方を憶えたままに、私は二度目の恋をした。貴方を憶えていたからこそ、私は幸せになれた。
「忘れないわ、……ずっと」
 今ならば分かる。十六の私が貴方に抱いていた想いは、迷いなどではなく恋であったことを。
 私は、貴方に触れたかった。
 触れたいほど愛しいと想うことが恋であると、私は思うの。
「……、ねえ、名前をくれる?」
 未だ膨らみのない胎を撫でて、私は微笑む。
 涙で霞む瞳に、あの頃と何一つ変わらぬ姿で、微笑みを湛えた彼が映り出す。

 それは、桜雨の見せた優しい夢。



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