春告姫

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  一の章 01  

 甘い香りを載せた春風が、セーラー服のリボンを揺らす。くせのある長い黒髪を押さえながら、十六歳になったばかりの美春は足を止めた。
 生まれ育った新潟と違って、京都の桜は四月のはじめから大振りの花房をつけている。
 祖母の暮らす箏桜ことのさくら神社。
 古い桜が一本だけ祀られた境内は、四年前と変わらない。苔むした石畳はひび割れて、桜の樹に巻かれた注連縄はところどころ解れていた。
 かつては《桜さま》という名で親しまれていた神社も、今となってはひどい寂れ様である。山の中腹という交通の便の悪さもあいまって、参拝客の一人すら見当たらない。
「美春、どうしたの」
 先を歩いていた少女が、心細げに美春を振り返った。
「お姉ちゃん」
 二つ年上の姉である秋穂あきほは、美春とよく似た顔をしかめた。
「入学式、疲れちゃった? ごめんね、美春が同じ高校に来てくれたのが嬉しくて、いろんなところに連れまわしちゃったから」
「違う! 疲れてなんかいないよ。お姉ちゃんが校舎の案内してくれて嬉しかった。……その、桜が綺麗だったから、立ち止まっちゃっただけなの」
 薄紅の花があまりにも鮮やかで、歩みを止めずにはいられなかった。桜の香りが肺に染みるほど、心の奥底がくすぐられて、懐かしさに胸が詰まるのだ。
「……そう。でも、あたしは桜なんて嫌い。ここの桜なんて、特に」
 秋穂の声は弱々しく、瞳には涙の膜が張っていた。彼女のまなざしは何よりも雄弁に、ここに来たくなかった、と語っている。
「ごめんね、お姉ちゃん」
 美春は困ったような笑みを浮かべることしかできなかった。
「ねえ、やっぱり、おばあちゃんの家に泊まるのは止めよう? 帰ろうよ」
「今から帰るの? もう夕方だから、最終の新幹線にも間に合わないよ」
 明日から週末と言うこともあり、高校の入学式を終えた美春たちは新幹線に飛び乗った。
 新潟から京都まで、東京を経由して四時間以上の道のりに加え、祖母の家までバスとタクシーを乗り継いできた。引き返したところで、今日中に新潟に戻ることはできない。
「でも」
「こっちには四年も来ていなかったんだよ。おばあちゃんも寂しがっていたし、わたしも久しぶりに箏のお稽古つけてほしいな」
「それなら、おばあちゃんを新潟に呼べば良いもの。こんな神社、おばあちゃんがいなくたって困らないでしょう」
 秋穂は眉を曇らせた。
 普段の姉は、穏やかで優しい気質ではあるものの、頼りない性格をしているわけではない。むしろ、しっかり者として評判だ。
 ただ、美春のことになると、彼女は極端に心配性になる。
「もう、何を心配しているの? お姉ちゃんたちにとって、四年前のわたしの言葉は、ぜんぶ妄想。悪い夢なんでしょ? なら、わたしは何処にも行けないよ」
 ことさら明るい声を心がければ、秋穂はわずかに口角をあげる。
「そう、そうよね。ぜんぶ美春の見た悪い夢」
 秋穂は泣きそうな顔で駆け寄ってきて、美春の手を握った。名残惜しげに御神木の桜を見てから、美春は姉に続く。
 春になると、薄紅の少年の幻がいっそ強くなって、あばら骨の奥が痛む。記憶のなかで笑う彼が、心に無数の針を刺していく。
咲哉さくや
 秋穂に聞こえぬよう、美春は彼の名を呼ぶ。
 ――四年前、この神社で、美春は十日間ほど行方不明になっていた。
 否、十二歳の美春は、一年間こちらとは別の世界で過ごしたのだ。家族に否定され、夢だと諭されたその異世界に、美春の心は今も囚われている。
 境内を抜けると、古めかしい平屋が現れる。長い歳月で歪んだ引き戸は重たく、秋穂と力を合わせてようやく開いた。
「お邪魔します!」
 大声で挨拶してみるものの、返事はなかった。代わりに聞こえたのは、奥座敷から流れてくる箏の音色だ。
「お稽古の準備しているのかな? 気がはやいね」
 ローファーを脱ぎながら、美春は首を傾げる。一足先に廊下にあがっていた秋穂は、溜息をひとつ零した。
「美春が来るからって、張り切っているのよ。お箏なんて嫌い! って、いつも外に飛び出していたあなたが、毎日、毎日、練習しているんだもの。どれだけ上達しているのか楽しみなんだって」
 小さい頃、祖母を訪ねる度、箏の稽古をつけられた。外で駆けまわるのが好きだった美春は、じっと耐えていた秋穂を置いて逃げてばかりいたものだ。
「昔は嫌いだったの。でも、今は好きだから。お姉ちゃんも一緒に弾く?」
「嫌よ。美春みたいに上手には弾けないもの。終わったら声かけて。おばあちゃんに挨拶するから」
 唇を尖らせた秋穂は、美春の荷物まで担ぐと、居間へと姿を消してしまった。
 廊下に残された美春は、祖母に会うため座敷を目指す。
 ふと眺めた窓の外は、日が暮れて、すでに薄闇に包まれている。鏡のような窓ガラスには、美春の姿が映し出されていた。
 小柄な体躯、うねりを帯びた長い髪に、ふわふわとして落ち着かない前髪。丸みを帯びた輪郭は子どもらしさが抜けず、年齢より幼く見られることが多い。
 だが、もう四年前の少女ではなかった。十二歳だった女の子は何処にもおらず、ここにいるのは十六歳になった娘なのだ。
「あっ、コンタクト」
 目の乾きを感じて、美春はぴったりと眼球を覆っていたコンタクトレンズを外した。
 現れたのは、爛々と輝く薄紅の両眼・・・・・
 普段は黒いコンタクトレンズで隠しているその色は、生まれながらのものではない。桜の花弁を幾重にも重ねた色を、秋穂や母が嫌っていることも知っていた。
「おばあちゃん?」
 座敷には、筝が一面あるだけだった。美春がもたついている間に退席したのか、先ほどまで演奏していた祖母の姿はない。
 花霞の模様があしらわれた、漆塗りの飾り箏。
 その前に立った美春は、スカートの裾を押さえながら正座する。祖母が使っていたであろう箏爪を指に嵌めて、深呼吸をひとつした。
 絃を爪弾けば、音が波紋のように広がって、美春の心までも揺らしていく。
 思うがままに、美春は指を動かしはじめる。
 幼い頃は、箏など大嫌いだった。祖母のことは好きだったが、稽古中の厳しい態度が苦手で、外で身体を動かしている方がずっと楽しかったのだ。
 ――少なくとも、四年前まではそうだった。
 今となっては、学校から帰宅するなり箏に触れる。行方不明になった十日間を、咲哉と過ごした一年の記憶を手繰り寄せては、絃を弾くことに執着した。
『お前の筝を聴いていると、僕は穏やかでいられる。誰も恨まずに、誰も憎まずに、春宮とうぐうの役目を果たせる気がするんだ』
 咲哉の言葉は難しくて、今でも半分も理解できない。
 ただ、病弱で床に臥せることの多かった彼が、筝を奏でると安らいだから、美春は筝が好きになった。自分のためではなく、彼のために演奏することが喜びだった。
「会わないうちに、ずいぶんと腕をあげましたね。稽古から逃げていた昔が嘘のよう」
 顔をあげれば、祖母がまなじりに皺を寄せて笑んでいた。
 紫紺の留袖を纏った姿には、年齢にふさわしい毅然とした美しさがある。懐かしい彼女は、あいかわらず姿勢が良くて、爪の先まで淑やかだった。
「本当? いっぱい弾いていたからかな」
「毎日、毎日、筝ばかりに夢中で困る、と、お前の母は心配していましたよ。あの子からの電話の半分は、お前のことですからね」
「どうせ、うるさいって言っていたんでしょ?」
 仕事の都合がつかず、新潟に残った母を思う。外遊びばかりしていた娘が、箏にかまけて家に籠りがちになった。そのことを心配して、祖母に相談していたのだろう。
「うるさいなら、とっくに止めさせていますよ。……よく、ここまで来ましたね。お前にとっては、良い思い出のない土地でしょうに」
「ううん、良い思い出ばかりだよ」
「本当に?」
 祖母のまなざしから逃れるよう、美春はうつむいた。
「あのね、四年前のことだって、わたしはお姉ちゃんたちの言うひどい目になんて遭っていないの。無事に帰って来たもの」
「十日も行方知らずになったことを無事とは言いませんよ。警察沙汰にもなったというのに。現代の神隠し! なんて、新聞に取り上げられたときは倒れるかと思いました」
「うわあ、懐かしい。こっちの新聞だけで良かったよね。新潟に帰ってからは変な人にも絡まれなかったし、皆、なんにも知らなかったよ」
 京都の地方紙で小さく取り上げられたらしいが、幸い全国ニュースにはならなかった。こちらにいたときは記者に迫られたものの、新潟に戻ってからは問題なく生活することができた。
「こちらは、しばらく奇妙な参拝客が増えましたけどね。他人様ひとさまの趣味に口出しできませんけれど、不躾な質問ばかり投げてくるものですから困りました。美春は帰って来たのだから、箏の姫君とは違うというのに」
 祖母は額に手をあて、溜息をついた。
「箏の、姫君?」
「美春には話していませんでしたか? むかし、昔。可哀そうなお姫様がいたのですよ。それは高貴な生まれだったそうですが、政争に巻き込まれ、命を狙われて。宮中から、この鄙びた山まで追い遣られた彼女は、命より大事な箏まで奪われて、毎日泣き暮らしていたそうです」
 祖母の話に耳を傾けながら、美春はそっと箏を撫ぜた。
 命より大事な箏を奪われた姫君の絶望は、美春にも分かる気がした。別れの痛みは時の流れとともに膿んで、どうしようもなく心を苛むものだ。
 傷が癒えることはない。理不尽に引き裂かれた咲哉への想いは、今も痛んでいる。
「この山の守り神だった桜は、姫君を憐れみ、やがて箏になりたいと願うようになりました。姫君が大好きな箏になれたら、彼女が笑ってくれるのではないか、と。桜はあるはずもない幻の絃を弾くように枝葉を揺らし、花弁を落として、いつしか本当に箏の音色を奏でるようになったのです」
「変なの。桜が箏になったの?」
 可哀そうな姫君に捧げるために、幻の絃を現実に変えて、桜は音を紡いだのか。
「だから、ここの神は、箏の桜、とも呼ばれます。桜の神と姫君は結ばれ、その血は秋穂やお前に繋がりました。お伽噺ですけれど、私たちの先祖はあの桜なのですよ。そして、あなたの嵌めているその箏爪は、姫君の形見と言われています」
「でも、お姫様は」
 美春と違って帰らなかった、と祖母は言ったはずだ。
「ええ。桜の神に愛された姫君は、子どもだけ残して異世ことよに攫われました。この神社が建てられたのは、そんな人攫いの桜が、これ以上誰かを連れていかないように、という祈りです。……とはいえ、この祈りも私の代で終わりでしょうね」
「お母さん、出て行っちゃったもんね」
 箏桜ことのさくら神社は、女系で血を繋いできた。神社を守るのは決まって女の役目で、とうに亡くなっている美春の祖父も婿養子である。
 しかし、祖母たちの一人娘だった母は、婿を取ることなく京都から新潟に嫁いでいった。秋穂と美春を生んですぐ離婚してしまったが、新潟から帰らなかったため、この神社には跡を継ぐ人間がいないのだ。
「違います。御神木が枯れるからですよ」
 一瞬、美春は祖母が何を言っているのか理解できなかった。
「どうして? あんなに元気なのに」
 境内の桜は、昔と変わらず大振りの花をつけていた。
「今年は咲きましたが、来年は分かりません。根から、腐りはじめているそうです。おそらく病なのでしょう。長く生きた桜ですから不思議では……。美春、そんな顔をされては、稽古などつけられませんよ」
 美春は自らの顔に触れた。情けないほど眉がさがっていて、泣きたいのに泣けない子どもみたい、と他人事のように感じた。
「お前は、あの桜が好きでしたね。桜の周りを楽しそうに走って、罰当たりに木登りまでしていた小さなお前を、昨日のことのように思い出せます。――だから、四年前のお前は、本当にあの桜に攫われたのかもしれませんね」
 それは祖母なりの慰めだったのかもしれない。誰もが否定した美春の記憶に、そっと寄り添う言葉だった。
「信じて、くれるの?」
 咲哉のことを否定される度、美春は揺らぎそうになる。異世界など存在しない。すべて美春のつくりだした幻だったのではないか、と疑ってしまうときがある。
「いいえ。けれども、否定したくないのです。美春は、その場所で幸せな日々を過ごしたのでしょう? それが本当のことでも、嘘のことでも。お前が幸せであることが一番ですから。ただ、秋穂たちを責めないでください。お前を愛しているからこそ心配なのです」
「分かっているの。お母さんや、お姉ちゃんの気持ちも」
 だからこそ、四年間、京都に行きたい、とだけは言えなかった。
 この神社にある桜に会いに来ることが、家族を傷つけると分かっていた。彼女たちは神隠しなど信じていなかったが、また美春がいなくなるのではないか、と恐れている。
「それでも、ここに来たかった。ひどい子でしょ?」
 祖母は皺の寄った目元を緩めた。
「お前は優しい子です。……箏の稽古は明日にしましょう。その爪も差し上げます。少し休みなさい、夕飯の用意をしていますから」
 座敷をあとにする祖母を見送って、美春は唇を噛んだ。



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