春告姫

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  三の章 10  

 箏爪のある室に戻れば、すでに伯の姿はなかった。荷葉は御霊会の準備のために去り、その場には帝と美春だけが残される。
 いつのまにか室には高坏があり、椿餅や枇杷、梅などの木菓子くだものが載せられていた。
椿餅つばいもち。どうしたの、これ?」
「伯が用意させたものだ。好きに食べると良い。私には不要なものだから」
「本当? 懐かしいなあ。喧嘩するとね、いつも咲哉が甘いものをくれたの」
 畳に座った美春は、手を合わせてから椿餅をひとつ摘んだ。
 正直なところ、こちらの食文化はあまり得意ではない。素直に美味しいと感じられたのは、甘い餅や木菓子くだものくらいだ。濃い味つけや砂糖に慣れた身としては、どうしても物足りなさがあった。
 美春の故郷は、都会とは言いがたく、歩いて五分の距離にコンビニがあったりはしない。
 だが、自転車で十分も漕げば、ドラッグストアやスーパーなどがあり、よほど高級なものでなければ、いつでも好きな食べ物を口にできた。
 それはおそらく、とても恵まれたことだった。ほんのりと舌を撫ぜた甘い椿餅に、強くそう思った。
 艶やかな椿の葉に包まれていた餅をほおばっていると、帝は目を細める。
「甘いもので機嫌を直すなど、幼子のようだな。いや、実際そうなのか」
「子どもあつかいしないでよ。もう十六だよ。帝とも、すっごく歳が離れているわけじゃ」
「いいや。お前よりずっと年上だよ、私は」
 帝は二十代の半ばの青年にも、とうに三十を過ぎた男にも思える容姿をしている。だが、帝の外見は、彼がつくられてからの年数とは合致しない。
「どれくらい、年上?」
「百年以上。咲哉が死んで、つくられたのが私だから」
 やはり、帝の原型となったのは、美春の知る少年だったのだ。咲哉が死んで、帝がつくられたならば、誰が彼をつくったのだろう。
 死んだ者と瓜二つの人形など、悪趣味にもほどがある。
「傀儡って、何処にでもいるもの? 内裏にいた女房さんとか、さっきの人たちみたいに。おかしいよ。前はそんなことなかった」
 内裏の外については分からないが、少なくとも内裏に傀儡の影はなかった。あの頃に世話を焼いてくれた女房や神祇官たちは、皆、血の通った人間だった。
「百五十年前は、傀儡子が京から締め出されていた頃だな。……京の外が冬に呑まれていくにつれて、あらゆるものを京だけで賄う必要が出てきた。左京のほとんどは田畑に代わり、流れる川も管理され、足りない労働力として重宝されたのが傀儡だ」
「皆、柊みたいな傀儡子が操っているの? 内裏みたいに、ここでも」
「荷葉をはじめとして、神祇庁にも幾人か傀儡子はいるだろうな。尤も、柊ほど優秀ではないが。たいていの傀儡子は、傀儡を動かすだけで精一杯だ」
「柊って、すごいの?」
「柊がいなければ、私もとうに壊れていた。八重を見ろ、あれほど細やかに動き、話す傀儡など数えるほどだ。複雑な命令をこなすことができるほど、傀儡としては特別なのだから」
「……でも、柊は意地悪だよね。すごい人なのかもしれないけど」
 柊とは仲良くできそうになかった。そもそも、向こうが美春と仲良くする気がない。理由も分からず一方的に嫌われているのは、正直なところ納得がいかない。
 椿餅を食べ終えた美春は、ふと、庭に蛍火のような光が浮かんでいることに気づく。淡い光はひらりひらりと舞い踊り、宙を漂っていた。
「庭におりるのは止めておけ」
 光に吸い寄せられる美春を、帝が引き留めた。
「でも、光が」
 夕闇に浮かんだ光に、どうしてか心がざわついてしまう。
「あまり良いものは見えない。それでも構わないか?」
 歯切れの悪い返事を不思議に思いながらも、美春は低い塀に囲われた庭に降りる。
 光のつぶてを追って、塀の傍まで近寄ったとき、美春は息を呑んだ。絶景だったからではい。むしろ、真逆だったからだ。
「なに、これ」
 神祇庁の庭からは、京の外を一望することができた。
 繰り広げられているのは、地獄絵図だった。
 小高い丘にある神祇庁は、京の門と一体になっている。その門の向こうには、ひたすらにおぞましい光景があった。
 霜の張った紫の土に、幾人もの屍が折り重なっていた。
 ぴくりとも動かない彼らは、肉を腐らせ、一部が白骨化したまま凍りついている。天にすがるような小さな手を見たとき、美春は崩れ落ちた。
 迫り上げる吐き気を押さえるために、きつく胸元を掴む。
「昔は、京の外にも人の住める土地は残っていたが、次第に冬枯れに負けた。当然、冬に呑まれた故郷を捨て、京まで逃れようとする者が現れる」
「京は、その人たちを受け入れなかったの?」
 情けないほど身体が震えて、力が入らなかった。
「京に囲える人間も、使える資源も、限られたものだ」
「だからって! あんなの、ひどい。助けを求めて来たんだよね? あなたを頼ってきたんだよ! あなたが帝ならっ……、あなたが守らなくちゃいけない人たちだよ!」
 命からがら、どうにか京に入れてほしくて、流れ着いてきた人々だろう。骸から突き出た手は、美春より幼い子どものものだった。
 あれらは、すべて人間の屍だ。美春と同じように生きて、笑っていた人たちだ。
 彼らを見捨てたのは、いま美春の傍にいる傀儡ではないのか。
「ならば、すべて京に受け入れるのか? それでは、京に生きる人々が持たない。先ほどお前が食べたものとて、左京を潰したことで得た恵みに過ぎない。人が増えれば、それだけ飢える者も現れる。可哀そうと憐れんで、同情するだけ不幸な者が生まれる」
 頭では、帝の言葉を理解していた。
 左京を潰して田畑に変えて、ようやく京の人間は食べていける。このうえ、余所者まで受け入れては、たちまち飢える者が現れるだろう。
 先ほどの甘い椿餅とて、あの屍のうえに築かれた恵みなのだ。
「なんで、そんな平気そうに言うの」
 だが、帝があまりにも淡々としているから、納得することができない。
 神域に打ち捨てられた咲哉と、門の外で息絶えた命が重なっていく。弔われることもなく、荒廃した野原に残された人々の嘆きが胸を打つ。
 どうして、咲哉の愛した国が、こんなにも哀しい場所になってしまったのか。
「平気だと思うか? 私は忘れない。ずっと、彼らを殺し続けていることを」
 あたりを彷徨う光に手をかざして、帝は眉をひそめる。まるで悲しんでいるような、傷ついているようなその横顔は、とても人形には見えなかった。
「これは魂の欠片だ。炎に焼かれることのなかった彼らは、さまよい続ける。死した肉体(うつわ)には戻れず、されど死出の旅路に向かうこともできずに」
 宙を漂う光が、数多の民の魂というならば、帝はずっと忘れないのだろう。救えぬまま骸となってしまった人たちを瞼に焼きつけるのだ。
「春が、ほしい?」
 いつか彼らを、不毛な冬枯れから連れ出すために。
「欲しい、たとえ何を犠牲にしたとしても。もう一度、この国にあたたかな季節を連れてきたい。それが咲哉の願いでもあったから」
 帝の原型となった、美しい少年。
 彼がこの景色を前にしたら、どれほど苦しむだろうか。
「もう、桜の神は花をつけていない。枯れるのも時間の問題だ。異姫が攫われてくるのは、桜が枯れそうになったときなのだから」
 ――桜が枯れるとき、美春のような存在が攫われてくるならば。
 百五十年前とて同じだったはずだ。十二歳の美春がこちらに来ているときも、桜は枯れそうになっていたのだろうか。
 枯れそうになっていたならば、そのとき、どのようにして回避したのか。
 御霊会の準備が終わり、荷葉が呼びに来るまで、その問いが頭から離れなかった。

◆ ◆ ◆

 御霊会が行われる社殿は、灯台の炎に照らされ、夜の帳が落ちてもなお明るかった。
 四方に朱檻が巡らされており、階段下に敷かれた御座には十数人の男たちが控えている。各々に楽器を携え、桜の花飾りを帯に挿していた。
 それよりも上座にあたる簀子には、有職文様をあしらった袍の、束帯姿の男たちがぽつりぽつりと座っている。
 もしかしたら、百五十年前まで内裏にあった機能は、ほとんど神祇庁に移っているのかもしれない。昔の内裏に仕えていたような、いかにも身分の高そうな男たちは、今では神祇庁に属しているのだ。
 考えてみれば、当然のことだ。傀儡だらけの内裏に、国を治める機能が残っているはずがない。神域があるから形を留めているだけで、最早、内裏はまつりごとの中心ではないのだ。
「柊」
 一足先に神祇庁に入っていた柊は、御簾の垂らされた北側の廂にいた。
 伯と揉めたという八重の言葉どおり、美春たちが到着する前にひと悶着あったらしい。柊の傍には誰も寄りつかず、誰からも遠巻きにされていた。
「伯がおっしゃっていたが、今宵は帝がいらしているとか」
 ささやきは、簀子に座る男たちから聞こえた。
「珍しい。神域から離れず、我らの前には顔も見せぬというのに」
「内裏に嫌気が差したのでは。人の身で、傀儡のような化け物に囲われて生活するなど耐えられるものか。神祇庁に傀儡子どもを招くのとて、嫌で堪らなかったというのに」
 しわがれた声をした壮年の男は、さぞかし苦い顔をしていることだろう。嫌悪感の込められた口調から、容易く表情が想像できた。
「まったく。早う神祇庁に移られますよう、何度も奏上したというのに」
 傀儡を化け物呼ばわりする男たちは、その帝も傀儡であることを知らないのだ。国の主が傀儡であることなど、知らない方が幸せなのかもしれない。
 内裏が傀儡だらけなのは、きっと、帝の秘密を守るためでもある。
「いつ来ても、胸糞悪い場所だ」
「そんなに大きな声だと、聞こえるよ」
 柊は膝を立て、行儀悪く座った。先ほどから周囲の視線が痛い。おそらく、柊のついた悪態も聞こえているはずだ。
 粗野な人だ。見た目は貴公子然としているが、仕草や言動が荒々しい。
「聞かせているんだよ。京の人間は、どいつもこいつも最悪だ。外に広がる地獄を知りながら、自分たちだけ安全な場所で暮らしている」
「まるで、地獄を知っているみたいな言い方」
「知っているさ。妹を除いた家族全員、皆、異形に殺されたからな。今頃、雪の下で仲良く眠っているだろうよ」
 あっさりと告げられた過去に、美春は耳を疑った。
「柊は、京の外にいたの?」
「傀儡子は、もともと京に入ることも赦されない流浪の民だった。今でこそ諸手をあげて歓迎されるが、虐げられた過去を思えば、進んで京を目指す傀儡子ばかりじゃない。俺も荷葉も、最後まで京に入るのを拒んでいた一座の出身だ。……ま、そんなんだから、一座の者は異形に殺された。生き残った俺たちは、どうにもならなくなって京に助けを求めたんだよ」
「柊たちは、京に迎えてもらえたんだ」
 ――京の外に打ち捨てられた、数多の死体とは違って。
「傀儡子は貴重だからな。他の奴らは見捨てられた。外に転がっている屍は、俺や荷葉が辿るかもしれなかった未来だ。……だから、俺たちは、どうしても桜の病を治さなければならない。それが朽ちてしまった者たちにできる、唯一の弔いだ」
 目を伏せた柊は、誰を思い浮かべているのだろうか。失われた家族か、それとも冬に呑まれてしまったすべての人々か。
「異姫など嫌いだ。本当に望むときに現れない救い主に、いったい何の価値がある。お前は幼い俺たちを救ってはくれなかった。帝だって、ずっと苦しむことになった」
 ようやく、柊から嫌われている理由が分かった。
 助けを求めていた幼い柊は、冬枯れの呪いに家族を奪われた。皇族の血が途絶え、神域の門を開く者がいなかったため、帝は百五十年間も苦しんでいる。
 すべて、美春がもっと早くこちらに帰っていたら、起こることのなかった悲劇だ。
 嫌われて当然だとは思わないが、柊が美春を嫌う気持ちも分かる。
「わたしも、あなたのこと好きじゃないよ。だけどね、弔いたい気持ちは分かるの。だから、協力する」
 出逢ったときから、柊には良い印象がない。ろくな説明もせずに美春を従わせようとして、こちらの意志など汲み取ろうともしない。
 だが、柊のことは好きになれなくとも、亡くなった人々のために春を望む気持ちには、共感することができた。
「はっ、昨日の拒絶が嘘のようだな。もう抵抗しないのか」
 美春は社殿の隅に視線を遣った。紫の布が垂らされた高御所には、春を望む帝がいる。
「うん。帝も春を望んでいるから、叶えてあげたいって、思うの」
 咲哉の亡骸に会うために、神域の門を開けようと思っていた。そのために、帝たちの言う《異姫》になりたかった。
 だが、京の外に打ち捨てられた哀しい人たちを目にして、それだけではいけないと感じた。あのような人々を二度と生み出さないためにも、やはり春は必要なのだ。
「はじまったな」
 そのとき、夜闇を切り裂いて、龍笛の音が響いた。
 社殿につくられた舞台では、演奏に合わせて、白い衣を纏った者たちがくるりくるりと舞っている。しなやかな手首に合わせて広がる扇には、絢爛な装飾がされていた。
 篳篥や三鼓、琵琶によって生み出された音が混ざり合い、研ぎ澄まされた旋律をつくる。箏以外からきしの美春にも、長年の研鑽によって裏打ちされた素晴らしいものと分かった。
「箏はないんだね」
 美しい演奏だったが、美春の良く知る楽器は仲間外れにされている。舞台には、寂しげな佇まいで古びた箏が置かれていた。
「箏は神聖な楽器だからな。皇族や限られた者しか赦されない」
「でも、弾いて、って頼まれたよ?」
「本当、何も知らない娘だな。異姫ことひめは、もともと箏姫ことひめと書くんだ。桜花神の伴侶に由来した名前だ。お前がだめなら、もうこの国で箏を弾くのを赦される人間はいない」
 柊は気だるそうに美春の手首を掴んで、掌に《箏姫》と指で書いてみせた。
 ことひめ。
 どちらも読みは同じだが、使っている漢字は違う。箏姫が転じて異姫となり、異世から攫われてきた女を指す称号に変化したのだ。
 やがて音楽は止んで、あたりには静寂が訪れる。いつの間にか、美しい調べを奏でていた者たちも、白装束で舞っていた者たちも消えていた。
 代わりに舞台に現れたのは、神祇庁を束ねる伯だった。彼は堂々とした佇まいで、御霊会に参加している者たちを見遣る。
「今宵はお客人をお招きしている。我らが神に、最も近しい血を継ぐ御方」
「そんなこと欠片も思っていないだろうに」
 美春にだけ聞こえる声で、柊はつぶやく。たしかに、帝が傀儡であることを知っている者からすれば、これ以上ないくらいの皮肉だった。
 傀儡の帝には、神に最も近しい血肉など宿るはずもない。現に、彼は神域の門を開くための箏爪に拒まれた。
「そして、神と等しく異世から現れた者。我らに春をくださる、異姫」
 瞬間、あたりがざわめく。舞台上では、伯が美春を手招きしていた。
「異姫」
 もう一度、呼ばれる。立ちあがった美春は、独りきりで舞台まで歩く。
 あたりに漂う空気は重く、値踏みするような不躾なまなざしに居心地が悪くなる。心臓が早鐘を打って、喉がひどく渇いた。
 漆塗りの飾り箏の前に座って、美春は単衣の袖から箏爪を取り出した。
 祖母曰く、桜に娶られた姫君の形見らしいが、何の変哲もない爪である。神祇庁に納められている本物と違って、特別な力があるとは思えない。
 だが、爪を嵌めていくと、少しずつ心が凪いでいく。
 息をついた美春は、ひとつ絃を鳴らす。そのまま流れるように指を滑らせれば、煩わしいことはすべて遠ざかった。
 先ほどの者たちに比べたら、つたない演奏と非難されるかもしれない。
 だが、構いはしなかった。この場で箏を鳴らすことで、慰められるものがあるならば――。京の外へ、そして神域に囚われたままの咲哉のもとへ音色を届けたい。
「……っ、きゃああ!」
 しかし、美春の願いを嘲笑うよう悲鳴があがった。
 演奏を中断した美春は、はっとしてあたりを見渡す。
 かさり、かさり、とした足音が近づいてくる。饐えた臭いが漂って、粘ついた液体が飛び散る音がした。
 考えるよりも先に、美春は御簾の垂らされた北の廂へと駆け寄った。
 御簾をあげれば、女房たちが怯えて肩を寄せ合っていた。腰が抜けたのか、その場から動けず縮こまっている。
 彼女たちを背に庇って、美春は唇を噛んだ。
 四方に巡らされた朱檻から地面を見下ろせば、蜘蛛そっくりの化け物がいた。
 額に脂汗を滲ませて、美春は唾を呑む。
 異形と呼ばれる化け物が現れるのは、京の外に限った話だと信じていた。桜の神に守られた京だけは、異形の蔓延る冬枯れとは無縁だと思いたかったのだ。
 毛羽立った足に嵌まった無数の目玉が、血の気の失せた美春を映している。
 風に乗って、腐り落ちる花の香りがする。折れ曲がった足を延ばして、異形は美春をとらえようとしていた。
 異形は全身から蜜を垂らして、美春に向かって跳躍する。
「美春!」
 瞬間、美春はきつく抱きしめられた。
 凄まじい衝撃に呻きながら、美春は凍りついた。
 視線の先で、帝が右肩を抉られていた。異形の足は、容赦なく帝の右肩を削り取っている。赤黒い蜜を浴びてもなお、帝の肌が腐り落ちることはなかったが、代わりに肉片に似た何かが崩れている。
 異形から遠ざけるように美春を突き飛ばして、帝は身体を反転させる。
 彼は異形を自らの腕でなぎ払った。その拍子に、昨日、美春が外してしまった彼の腕がぎちぎちと軋みはじめる。
「だめ! 腕が」
 また、帝の腕が壊れてしまう。
 帝は腰に佩いた剣を抜いて、異形を切り捨てる。壊れた玩具のように揺れる異形は、蜜を溢れさせながら動きを止める。
 木々を腐らせ、草を絶やした化け物は、壊れてしまえば、足をもがれた蜘蛛のようだった。
 表皮に咲いた小花がひらりひらり舞う様は、散りゆく桜の花弁に似ている。薄紅ではなく、血に染まったように赤い花を咲かせる、病んだ桜だ。
「無事か?」
 帝は、いまだ立ちあがれずにいる美春に声をかけた。
 表情を曇らせた彼は、自らが傀儡であることを隠すために、血の流れない傷口を掌で覆ってしまう。
 対する美春は、衣を汚しただけで、怪我ひとつ負ってはいない。
「なんで、庇ったりしたの? ……っ、あなたが帝なら、咲哉の場所にいるなら! 傷ついちゃ、いけないのに」
 礼を告げることも忘れて、帝を問い詰めてしまう。
 この国で最も守られるべき人が、美春を庇ってはいけない。一番大切にされるはずだった咲哉の居場所を奪ったならば、傷ひとつなく守られているべきだ。
「ああ。……っ、なんて、こと」
 腰を抜かしていた女房たちが、口元を手で覆う。おののく彼女たちは、垂らし髪を揺らしながら泣き崩れている。
「春宮の祟り! こんなにも時が流れたというのに、まだ私たちを恨んでおられる」
 誰もが青ざめるなか、澄ました顔の伯と、眉間にしわを寄せた柊だけが例外だった。
 帝は、ぞっとするほど冷たいまなざしで、壊れた異形を睨む。
「恨みも憎しみも、時の流れでは薄まらない。むしろ、募るだけなのだろう」
 帝は形の良い唇を歪めた。まるで自嘲するかのように。
「伯!」
 社殿に飛び込んできたのは荷葉だった。髪や衣の裾を乱れさせた彼女は、よろけながら伯のもとに参じる。
「つ、爪が! 箏の姫君の爪が、盗まれて!」
 その言葉を聞いた直後、美春は社殿から飛び降りていた。向かうのは、数刻前に見せてもらった箏爪のもとだ。



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