花と蝶々

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  3.心臓の在り処  

 翌日、強い陽光が降り注ぐ時刻、外庭に出たザフルは小さな果樹園の前で足を止めた。
「人の家のものを勝手に食うな、泥棒」
 壊れて罅割れた噴水の縁に腰かけて、リズクが果実を口にしていた。ファラーシャが丹精を込めて育てた実りを奪われて、ザフルは眉間に皺を寄せる。
「赦せ、腹が減っていたんだ。お前、昨日は良くもやってくれたな。せっかく歩み寄ってやろうと思ったのに酷い仕打ちだ。なんだ、あの蹴りは。しばらく動けなかったぞ」
「それは、どうも。……そのまま家に帰れよ」
 彼の装いは昨夜と変わらず、上等な衣には砂が付着していた。ザフルと別れた後も止まり木の近くに残っていたのだろう。
「お前がここにいる限り、俺は塔から離れるわけにはいかぬ」
 リズクは立ち上がって、ゆっくりとした足取りで近寄ってくる。黄金の眼差しに射抜かれて、ザフルは一歩も動くことができなかった。
「相変わらず生意気な目をしている。立派なのは志だけで、何もしなかった愚者の眼だ」
 瞬間、ザフルは肩を掴まれ地面に引き倒された。景色が一瞬にして変わり、背中を強く打ち付けた衝撃で舌を噛みそうになる。気づけば、ザフルは大柄なリズクに組み敷かれていた。何が起きているのか理解できずにいるザフルに、彼は微笑する。紛れもない嘲笑だった。
 ブラウスの襟から無骨な手が入り込み、左胸の膨らみに触れた。
「……っ、何を、する!」
 頭に血がのぼって右手を振り上げるが、容易く片手で手首を握り込まれた。そのまま腕を捩じられて、ザフルは息を詰まらせた。
「やはり、心臓の持ち主はお前で間違いないのか。……俺もたいがいだが、お前も昔と変わり過ぎだ。同じなのは髪色くらいか? 塔の男が本命かもしれない、と焦ったぞ」
 ザフルの左胸で脈打つ宝石を撫ぜながらリズクは呟く。ザフルは圧し掛かる彼を血の気の失せた顔で睨み付けた。苦痛で額に汗が滲むが、弱って怯える姿など晒したくなかった。
「……ああ、そういうこと。お前、僕がザフルになる前の知り合いか。どうりで思い出せないわけだ。それで? 七年以上前の知り合いが、何のために僕を探していたの?」
「心臓を返せ。それがお前の胸にある限り、この塔は永久に開かぬ鳥籠のままだ。俺は自由になりたい。新しい時代に旧王朝の置き土産なんて不要だろう? 邪魔なんだよ、神を捕えた鳥籠など壊してしまえ」
 リズクはザフルが抱える秘密どころか、旧王朝が興った当時の真実さえ理解しているのだ。
 異民族を焼き払った強大な力を持つ神が、どうして止まり木で何百年も大人しくしていたのか。旧王朝が亡びた今となっては、彼がこの地に留まる理由もない。
 神は飛び立たないのではない、飛び立てずにいるのだ。
 御伽噺は嘘ばかりだ。塔に燃える炎は神がいる証などではなく彼の悲鳴に等しい。神は自らの意志で国を守護しているのではなく、心臓を騙し取られ、弱り切って塔に囚われているのだ。
 ――何せ、神の心臓はザフルの胸に在るのだから。
「良いよ。鳥籠を壊したいのは僕も同じだから」
「やけに聞き分けが良いな。何を企んでいる? 命が惜しくないのか。俺はお前に死ねと言っているんだぞ」
 怪訝な顔をするリズクに、ザフルは首を横に振った。
「命なら、とうの昔に捨てた。初めから僕のものでもなかった」
 借り物の心臓を胸に、偽りだけ並べて生きていたのだ。ザフルという少女は初めから存在しない。止まり木にいる間――ファラーシャの傍にいる時だけ在る幻だ。
「穏やかな日々の終わりなど覚悟していた。こんな幸せな時間が続くはずない、すべては優しい夢だ、と。夢が醒めるのは必然だ。……生きたいなら、離れれば良かったのに、傍にいたかった。離れがたかったんだ。お前は愚かだと嗤うだろうけど」
 生きたいと願うならば、ファラーシャのもとを離れて国外に落ち延びるべきだった。許された時間は多くあったというのに、この地に留まることを選んだのはザフルだ。
「ああ、愚かだ。母親と良く似ている。あの女も男のために身を滅ぼした」
 リズクの苦虫を噛み潰したような表情が、一瞬、記憶の深淵に掠る。毒婦とも呼ばれた美しい母は、父の亡きあと、贅沢に溺れ、たくさんの愛人を囲って過ごした。そのような女が恋い焦がれ、愛したのは――。
「似ているなんて初めて言われたよ。でも、そうか。血は争えないんだな」
 母が男によって破滅に導かれたように、ザフルもファラーシャのためならば、どうなろうとも構わなかった。それこそが正しい道なのだと、疑いもせず信じ切っている。


 日中の暑さを忘れる真夜中、ザフルは塔の最上階に続く扉を開いた。夜の冷たさを帯びた風が薄手の寝間着越しに肌を撫ぜる。
 まるで夜空に焦がれるかのように、ファラーシャは座り込んで天を仰いでいた。緋色を纏った赤き神の炎が、彼の寂しげな横顔を照らしていた。
「このような夜更けに出歩くと、悪い魔物に攫われますよ」
 ザフルの来訪に気づいた彼は、初めて会った時と同じ言葉を口にした。
「生憎と、魔物に攫われるほど可愛くはないんだ」
 ザフルが肩を竦めると、ファラーシャは困り顔で手招きをする。
「そんな薄着で外に出るものではありません。夜は冷えるのですから」
 ザフルは彼に歩み寄って、その顔を覗き込むように身を屈めた。
「なら、お前が温めてよ」
 彼は相好を崩して、小柄なザフルを自らの膝の上に載せた。寒さを遠ざける彼の熱に安堵して、ザフルはかたい胸板に頭を預ける。月日が流れ、ザフルが子どもでなくなっても、変わらず抱き締めてくれるのだ。
「……また、怪我をしていますね。しばらくは止まり木から出ないように言ったのに、仕方のない子だ」
 ファラーシャは心配そうに声を震わして、ザフルの右手に指を絡めた。リズクに強く握られたため、手首には紫の痣ができていた。
「ごめん。僕はお前を心配させてばかりだ」
「本当です。痛いのも苦しいのも嫌いなくせに、傷ばかりつくって。危険な目に遭ったところで、どうせ大した抵抗もせず、逃げることだけ考えているのでしょう」
「まるで見てきたような言い様だな。ずっと止まり木にいるくせに」
「見なくても分かります。ザフルのことですから。貴方は誰かを傷つけることが大嫌い」
 二人きりで過ごした日々は、互いに対する理解を深めるには十分過ぎた。当人以上に相手のことを知っているかもしれない。
「……ファラーシャは誰かを傷つけたことがあるよね。僕もあるよ。生きるために必死で、傷つきたくなかったから邪魔する者に剣を向けた」
 ザフルの脳裏に浮かんだのは、七年前の革命だった。恐怖に支配されるがまま逃げ回った過去は、今もなおザフルの心を蝕んでいる。どれほど忘れたいと願っても、誰かを傷つけた感触を身体は覚えている。
「だけど、あんなのだめだ。怖い。力は誰かに振り翳すべきものじゃないんだ。……だって、多くの人々にとってあの革命が必要なものだったとしても、僕は武力で都を制圧した新王を恐ろしく思ったよ。誰かを傷つけた僕も、嫌だったよ」
 綺麗事だけで世は立ち行かない、理想だけで命は繋げない、犠牲を払わずに得られるものなど存在しないと頭では理解している。だが、革命が為された夜の正当性を認めたくはなかった。喪われた命や流れた血を肯定することはできなかった。
「だけど、誰も傷つけずに生きていくには、この地は辛いでしょう。貴方にとって敵ばかりだから。……何処か遠くに行こうとは思わないのですか」
 ファラーシャが余所の土地をすすめたのは、記憶する限り初めてのことだった。
「なんだ、ようやく僕を追い出す気になったのか」
「違います。はぐらかさないでください」
 ファラーシャの眼差しは真剣だった。誤魔化すつもりだったが、滅多にない彼の我儘を叶えないわけにはいかない。
「遠く、ね。そうだな、最初は砂漠を渡って国外に逃れるつもりだった」
「ならば、どうして、こんなところに留まるのですか」
 彼はザフルを抱きしめる腕に力を籠めた。答えを怖がっているのか、彼の指先が少しばかり震えていた。
「分からない?」
「だから、はぐらかさないでください」
 遠い場所に逃れることを考えていたのは真実だった。子どもの身で砂漠を超えることは厳しかっただろう。だが、この地に留まるよりは余所に行った方が希望はあった。
「すべて失くしたはずなのに、いつの間にか大事なものができていた。余所には、お前がいないもの。だから、僕はここにいた」
 幼い頃、ザフルが求めていたのは手の届く距離にありながら遠い、母の愛だった。醜く生まれたザフルは、彼女に愛されることはなかった。優しくされたのも、彼女の気紛れで共に蝶を眺めた一度きりだ。
 いつも母の腕に抱かれる赤子に、父に頭を撫でられる幼子に、幸せそうに笑い合う恋人たちに焦がれていた。ザフルには与えられることのなかったものに憧憬を抱いた。
 求めていた特別な想いが、素敵なものが、今のザフルの隣にはある。ファラーシャが与えてくれたのだ。
「お前が止まり木を離れられないなら、僕もここを離れたくなかった。花は蝶に、蝶は花に寄り添うものなんだろ。……お前のことが好きだから、一緒にいたかったんだ」
 何もかも失った夜に出会った少年は、いつしかザフルにとって一番の宝となった。名を授けられた時から、ザフルの傍にはいつもファラーシャがいた。
「好き? 貴方は何も知らないから、私を好きだと言える。私になんて心を開いた」
 昔から変わらず、ザフルが好意を示す度に彼は否定する。疑いの芽を潰さず、心の底から信じてくれることはない。
 己を貶めて俯く彼は、迷子になって途方に暮れる幼子のようであった。
「何も知らないなんて嘘。僕は知っているよ。お前は優しくて、寂しがり屋で、独りが嫌いなくせに独りでいようとするんだ」
 誰よりも近しい場所に在りながら、ザフルは彼の心の最奥に触れることができない。彼の笑顔に隠された悲しみに気づく度に、ザフルはどうしようもなく泣きたくなる。傷を癒すことはできなくとも、せめて、その痛みを分かち合いたかったのだ。
「私は貴方とは違う。小さくて、弱くはない。だから……」
「うん。ファラーシャは強い生き物だから、孤独の痛みにだって笑っていられる。だけど、僕は、それが嫌だよ。お前が傷ついているのに痛いとも言えず、涙を流せずにいるのが嫌なんだ。大好きなお前が苦しんでいるのが、こんな場所で独り生きていくのが赦せないんだよ」
 悲しみを抱えたままでも、彼は生きていくことができるだろう。だが、それが彼にとって幸せな生き方とは思えなかった。
 ファラーシャは唇を引き結んで、長い睫毛に縁取られた目を伏せた。
「私はここで過ごすことに苦痛を覚えたりしない。それほど弱くはできていない、独りでだって生きていけます。独りでしか、生きられない」
 まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。己は弱者ではないから、どのような境遇に在ろうとも傷つきはしない、と無理をしている。
「それは、とても寂しい生き方だよ。自分以外を必要としていないということだ」
 彼は外の世界を求めていないのだ。他者の存在を拒むために、心を固い殻で覆ってしまっている。それ故、ザフルの声は彼の最も柔らかく繊細な場所に届かないのだ。
「それの何が悪いのですか。皆、私のことを拒む。都合の良い時だけ擦り寄って、優しくして、要らなくなったら捨てる。……祀られた神も同じだ。狡猾な人間は火の精霊を騙し、その力を自分たちのために利用した」
 ザフルは燃える神の炎に目を眇める。旧王朝は神を騙して異民族を焼き払っただけでなく、その後も彼の力を盾に取って傲慢な真似を繰り返した。
「そうだな。時に人は残酷だ。自らのために何かを犠牲にすることを厭わない。弱い生き物なのに悪知恵ばかり働くから、火の鳥だって利用した」
 ファラーシャの眼差しは凪いでいた。ここで、せめて落胆してくれるならば、彼の傷はまだ浅かったのだろう。彼はすべて諦めているからこそ、ザフルの肯定にも揺るがないのだ。
「僕たちは間違っていた。精霊を騙した古の王も、後継となった歴代の王たちも、皆、過ちを犯してきたんだ」
「間違っていたと、認めるのですか」
「うん。僕たちは神に甘えて心を腐らせ、自ら立ち上がろうとしなかった。己の力で道を切り開かなかった者に、正しさなんてあるわけがない」
 人にはない強大な力を持つ火の鳥は、旧王朝を興した王の目にさぞかし魅力的に映ったのだろう。卑小な人間が野望を抱くのは必然だったのかもしれない。
 だが、忘れてはいけなかったのだ。人より秀でた力ある生き物だとしても、彼は心ある存在だ。傷つけられたら痛みを覚え、裏切られたら悲しくなる。
「ああ。やはり、貴方は美しい」
 ザフルは不相応な賛辞に目を白黒させる。過去、彼に褒められたことは幾度もある。だが、美しい、と告げられたことは一度たりともなかった。
「貴方は心が、その魂が高潔で美しい。……だから、私はとても惨めになる。貴方は美しいのに、私は醜い化け物だから」
 ファラーシャの声は悲しいほど震えていた。彼は縋るようにザフルの頬に、頤に、瞼の上に指を這わした。
「どうして、醜いなんて思うんだ」
 ザフルはできる限り柔らかに問いかける。彼がことさら己を卑下する理由が分からない。こんなにも美しく純粋な生き物の何処に醜さがあるというのか。
「誰にも愛されないから。誰もお前を愛さない、と言われたから。――きっと、貴方も同じ」
 ザフルは反論しようと唇を開くが、彼の笑みを前にして口を噤んでしまった。
 彼の笑顔は常と変わらない。穏やかで優しげなのに、何処となくもの悲しい。まるで誰にも嫌われないために笑顔を浮かべているかのように思えるからだ。
 ――誰もお前を愛さない。
 その言葉は呪いとなって彼に刻み込まれているのだろう。どれほど思いの丈を打ち明けたところで、その呪いがある限り彼の内側に響くことはないのだ。
 リズクに居場所を突き止められた時点で、最早、ザフルに猶予はない。ファラーシャと見た七年間の夢は必ず醒める。
 それまでに、お前は愛される存在だと、幸せになるべきだと、どうしても伝えたかった。
 夜闇を遠ざけ始めた暁の空を見つめて、ザフルは強く拳を握った。


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