華英

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  2.腐敗の花は毒を滲ませて  

 黎明の空は仄暗く、夜の名残が色濃く感じられた。開けた窓から冷たい朝風が吹き抜けて、離宮の裏手にある森から木々が葉を揺らす音を運んでくる。
 わたしの視線の先には、板張りの床に身を投げ出した男がいる。昨夜、この室に籠ったきり、疲れて眠りに落ちてしまったのだろう。
 美しい男だ。涼しげな目元に、高い鼻梁と形の良い唇。端麗な容貌は、あまりにもつくりものめいていて、生白い肌と相俟って命の気配を感じさせない。紐で結わえられた長い黒髪が床に広がり、それは無残にも散らされた花を思わせた。
 まるで生ける屍のような男は、十年の時を共に過ごした、わたしの家族だった。
 わたしは衣の裾が汚れることも厭わず、彼の近くに屈み込んだ。骨ばった両肩を揺らしてやると、彼は苦しげな声をあげて目を覚ます。幸福な夢から引き離すのは躊躇われたが、眠る彼を見ていると、このまま息を引き取るのではないかと恐ろしくなるのだ。
「おはよう、夜明」
 薄い瞼の下から現れた黒々とした瞳が、鏡面のごとくわたしを映した。大人になれない丸みを帯びたおとがいに、青玉の両眼をした小柄な少女だ。淡紫を基調とした華やかな襦裙じゅくんを帯で締め、肩口で揺れる短い金髪に真珠の花飾りをつけている。
 夜明はゆっくりと首を傾げて、夢現であたりを見渡した。まるで何かを探すような仕草の後、ようやく彼は乾いた唇を開く。
「僕は、夢を見ていたのか」
 ともすれば風に攫われてしまいそうなほどか細い声だった。抑揚がないため、彼の心を窺うことはできない。だが、彼が目覚める度に夢に焦がれ、夢を惜しんでいることだけは長年の付き合いで知っていた。
「……今日はとても天気が良いから、庭園を散歩しよう? さっき覗いたら、綺麗に花が咲いていたの」
 ことさら明るく提案すると、夜明はわたしの髪を一房とって鼻先を近づけた。
「花の香り。もう、春なのか」
 その呟きに、わたしは彼に気づかれぬよう歯を噛んだ。巡る季節さえ、彼にとっては肌で感じ取ることができないほど遠いものになってしまったのだ。身体は少しずつ老いていくというのに、心ばかり時の流れから切り離されている。
「うん。暖かくなってきたから、新しい衣を仕立ててあげる。夜明の髪に映える青い布を貰ったのよ」
 わたしは離宮に届けられた上等な布を思い浮かべる。闇を溶かした彼の黒髪には、深い青の衣が良く似合うだろう。
「珍しい贈り物だな。誰からだ」
凛麗りんれい様、だって。布と一緒にいろんなものを包んでくれたの。夜明が食べられそうな桃もあったから、あとで剥いてあげる」
 病弱な夜明は食が細く、柔らかな粥や果物だけで過ごすことも多い。骨と皮になっても生来の美しさが損なわれることはなかったが、初めて会った時に比べると恐ろしいほど死の影が濃くなっていた。
「凛麗、懐かしい名だ。兄上の死で王宮に戻ってきたのか」
「陛下と縁のある人?」
 夜明が兄上と呼ぶのは、先日、崩御した国王陛下だけだ。夜明は今でこそ離宮に幽閉されている身だが、かつては王弟として皆に傅かれていた人である。高名な呪術師でもあり、陛下からも信を置かれていたと聞いている。
「兄上の一人娘だ。僕の姪にあたる」
「ああ、他国に遊学に行っていた王女様だ。そっか、王女様からの贈り物。お返しをした方が良いかな」
「金細工や宝石の髪飾りでも見繕え。あれは煌びやかなものに目がない」
 凛麗様について少なからず知っているような口ぶりだった。もしかしたら、夜明が王弟だった頃に親しくしていたのかもしれない。
 十年前、わたしが夜明と暮らし始めた時、十六歳の彼は既に離宮に閉じ込められていた。そのため、王宮にいた彼のことは分からない。どのような人々と過ごし、生きていたのか。彼の十六年間は、わたしにとって未知の物語だった。
「庭に出るのだったな。先に行け。僕はこれを仕上げてから向かう」
 夜明はかたわらにある白布の被せられた塊に触れた。薄汚れた白い布から零れ落ちているのは華奢な手足で、そこには古びた文字が複雑な紋様となって刻み込まれていた。刺青のごときそれは、呪術師にだけ赦された神秘――呪いの証だ。わたしは彼の隣にある塊が何であるのか知っている。
「あまり根を詰めないでね」
 わたしは夜明に背を向けて、室をあとにした。
 腐りかけの肉の香りと、澱んだ魂の匂いが染みついていた。あれは乙女の屍だ。彼の日課は、亡くなって間もない少女の骸を使い、呪術によって人形をつくることである。恋人を愛撫するように痛んだ肌に触れ、彼は死した乙女を美しく仕立てるのだ。魂なき虚ろな身体をした乙女たちは、離宮のそこかしこを彷徨っている。長年暮らすわたしですら、合わせて何人いるのか把握できていない。
 中庭に出ると、草木が一斉に青い花・・・を咲かせていた。一面を青く染め上げた庭は異様だが、離宮では当然の光景だった。ここで育つ限り、どんな草木であろうとも青い花しか咲かすことはない。
 これは呪いなのだと、いつしか夜明は教えてくれた。
 遠い昔、国の真中にある泉に封じた龍の悲しみが、地中に根を張る植物を伝って溢れ出し、この国を青く侵しているのだと言う。
 わたしは花のしとねに飛び込んで、何よりも美しい清らかな色に抱かれる。柔らかな花弁に頬を摺り寄せ甘い香りに目を閉じれば、脳裏を過るのは憶えのない景色だった。
 ――そこは夜明けを迎える直前の森だった。
 霞がたなびく薄闇には、いくつもの煌びやかな光が浮かんでいた。風に揺らぐ大樹の葉、宙に舞った金色の長い糸、赤く染まった美しい衣。雨粒が弾ける度に、鉄錆と苔むす土の匂いが立ち込める。
「こんな記憶、知らないのに」
 わたしは幾度も同じ情景を繰り返し、雨降る暁の森に招かれる。この目に焼きついた見知らぬ記憶は、一体、何を意味しているのだろうか。
「そこで何をしている!」
 突然の叫び声に、わたしは勢い良く身体を起こした。宙に飛び散った花粉の向こう側、庭園の入口に一人の女が立っていた。
 照りつける太陽のごとき女だった。釣り上がった眼にはすべてを燃やす苛烈さがあり、引き結んだ唇には強い意志が感じられた。美しい絹の深衣と豪奢な装飾品、指先まで洗練された佇まいが、彼女の身分の高さを示していた。
 視線が交わった途端、女の顔から血の気が失せていく。恐ろしいものを見たかのように、彼女は腰を抜かしてしまう。高く結い上げられた黒髪で、煌びやかな飾りが懐かしい音を立てて揺れている。
「あの、大丈夫?」
 わたしは慌てて彼女のもとに駆けつける。いかにも健勝そうな女だが、夜明と同じく身体の弱い人で、具合を悪くしたのかもしれない。
「……っ、触るな!」
 わたしが彼女に伸ばした手は乱暴に叩き落された。予期しなかった衝撃に思わず尻餅をつくと、彼女は立ちあがってわたしから逃げるように後ずさった。隈なく白粉を叩いた面に汗を滲ませて、彼女はわたしを見下ろしていた。
「どうして、今さらになって現れる? これは、なんだ。悪い夢、なのか」
 声を引き攣らせた彼女は、ぞっとするほど冷たい表情でわたしを睨みつけていた。ぶつけられた怒りに、わたしは自らを抱き締めた。
「悪い、夢?」
「もう、もう、十分だろう。これ以上、夜明に何を望むんだ。あれを縛り付けて楽しいか、嬉しいのか! そんなに、私が、私を……!」
 彼女が何を言っているのか理解できなかった。どうして初めて会った女に、わたしと夜明の関係を咎められなければならないのか。
「貴方、誰? わたし、貴方なんて知らない」
 辛うじて反論を絞り出すと、彼女は大きく目を見張った。黒い瞳を涙に濡らして、彼女は荒くなった息を整えるために浅く呼吸を繰り返す。わたしは思わず彼女に手を伸ばしかけたが、先ほど拒まれたことを思い出して躊躇う。
 やがて、女は穴のあくほどわたしを見つめ、大きく首を横に振った。
「違う。そんなわけがない。……すまない、取り乱したようだ。人違いだ。人違いに、決まっている。あまりにも似ていたから、勘違いを」
 女は胸元できつく拳を握り、自分に言い聞かせるかのように呟いた。力を籠め過ぎたのだろう。彼女の掌から滴った赤い血が衣を汚していた。
「痛いの? 大丈夫?」
 恐る恐る問いかけると、彼女は苦笑をもらした。
「大丈夫だ。突然、乱暴をしてすまなかった」
「謝らないで、痛くなかったから良いの。もしかして、夜明のお客様? 離宮に貴方みたいな人が来るのは初めてだけど」
 離宮を訪れる生きた人間は、わたしが知る限りで三人しかいない。夜明のために必要な物資を運んでくれる後宮の宦官、乙女の屍を仕入れてくれる壮年の武官、そして先ごろ亡くなった国王陛下だけだ。
「ああ、まあ、客のようなものだ。お前は夜明の知り合いか?」
「夜明は家族なの。ずっと一緒」
「そう、なのか。……私がいない十年のうちに、あいつは新しい家族を迎えていたのか。私は夜明の姪で凛麗と言う」
「凛麗様! 綺麗な布をくれた人ね。ありがとう、とても素敵な色だったから、あれで夜明の新しい衣を仕立てるのよ」
「気に入ってもらえたならば何よりだ。是非、それを着た夜明に会いたいものだな」
 彼女はとても優しい笑みを浮かべた。最初に手を叩かれたことは驚いたが、恐ろしい人ではないようだ。彼女自身が言っていたように、動揺していただけなのだろう。
 ――何故、彼女はわたしと対面して心を乱したのだろうか。
「凛麗。国に戻ったのか」
「夜明!」
 不思議に思ったが、夜明の登場で疑問は霧散してしまった。駆け寄って彼の腕をとると、その表情にわずかな翳りがあることに気づく。
「陛下が御隠れになったんだぞ。父の死に戻らぬほど薄情な娘になったつもりはないさ。……葬儀は終わった。何故、花を手向けに来なかった。父上はお前のことを長く気にかけていたというのに」
 凛麗様の非難に、夜明は目を瞬かせた。理解できない、と言わんばかりの彼の態度に、凛麗様は眉根を寄せる。
「僕は気が狂って離宮に幽閉されている身だ。表に出るべきではない。……それに、かつて兄上に刃を向けた僕が、あの方を弔うことなど赦されはしない」
「違う。そんなの建前だ。お前は父上を憎んでいるから葬儀に参列しなかった。そうだろう」
「凛麗様?」
 急に語気を強めた凛麗様に、わたしは驚いて声をかける。
「いつまで死者に拘って、こんな墓場に身を置くつもりだ! お前は生きているんだ。あの子だって、お前に幸せな未来を生きて欲しかったに決まっている」
「黙れ。俺からあの子を奪った兄上の娘が、その心を語るな」
 わたしは夜明の腕を強く抱き締める。滅多に感情を面に出さない彼が、怒りと悲しみに打ち震えていた。彼にもたらされた変化が恐ろしい。すぐにでも凛麗様に立ち去ってほしかった。夜明の前から消えてほしかった。
「あれは父上の責ではない! 一部の臣下が暴走した結果だ。そもそも、遅かれ早かれ、あの子は殺されただろう。荒ぶる龍を宥めるためには、神子の血肉を捧げる必要がある」
「何からも守られた貴方が、あの子の死は正しかった、と僕を諭すのか」
「ならば、代わりに民に死ねと言うのか! 仮にも王族だったお前が!」
 二人は互いを睨みつけて視線を外さない。張りつめた空気のなか、先に痺れを切らしたのは凛麗様だった。彼女は乱暴に髪をかきあげて大息をつく。
「こんな意味のない口論をしに来たわけではない。……近いうちに、私の即位式が執り行われる。王族として参加してほしい」
「断る。僕は離宮から出るつもりはない」
「お前があの子を忘れられないのは分かる、どれだけ愛していたのかも。だが、ここにいれば身体は悪くなるばかりだ。毒に侵されていない王宮で過ごす方が、お前にとっても良いはずだ」
「王宮に戻ったところで、もう、手遅れだ。見れば分かるだろう」
 夜明はわたしを腕に抱きつかせたまま、離宮に向かって大股で歩き出した。夜明に引き摺られながら振り返ると、凛麗様が悔しそうに唇を噛んでいた。


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