華英

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  3.追憶に朝の光を夢見て  

 寝台に横たわる夜明の肌は、いつも以上に血の気がなく生白かった。身体は酷く痩せ細り、落ち窪んだ目と血管の浮き出る骨ばった手が憐れみを誘う。わたしは彼の死期が遠くないことを、前もって教えられている。彼は時の流れと共に弱るばかりで、健康が回復することはないのだ。
 夜明は悲嘆することなく、やがて訪れる死に身を委ねている。だから、わたしも彼の死を素直に受け入れるべきなのだろう。
 ――わたしは、彼のために在るのだから。
 深い眠りに落ちた夜明が、愛おしむように何かを口にした。声にならなかった言葉は、窓から入り込んだ春風に攫われていく。
 今までのわたしならば、彼を起していただろう。二度と彼が目覚めぬことが恐ろしくて、その瞳にわたしを映してほしくて、彼の眠りを妨げたはずだ。
 だが、今日はそれができなかった。彼は夢に抱かれている間だけ幸福でいられる。ならば、わたしの我儘で彼を現に戻してはいけなかったのだ。
「良い夢を」
 わたしは夜明の黒髪を一度だけ撫ぜてから、自室で彼の衣を縫うために廊下に出た。歩いていると、彼の創り出した屍の乙女と遭遇する。美しく仕立てられた彼女は、困ったようにわたしの肩を繰り返し叩いてから、細い指で庭園を差した。彼女の伝えたいことを察するのは容易だった。
「今日も、いらしているの」
 庭園の傍では、凛麗様が咲き誇る花々を眺めていた。あの日以来、彼女は頻繁に離宮に足を運んでおり、その度に乙女たちはわたしに報告してきた。
 彼女はどうしても夜明に即位式に出てほしいようだが、わたしが彼女の来訪を彼に告げたことはない。既に断られているのだから、未練がましく離宮に通ったりせず引き下がるべきだ。どうして凛麗様は諦めないのだろう。
 わたしは乙女に礼を言って、立ち尽くす凛麗様のもとに向かった。
「凛麗様。また、夜明に会いに来たの?」
「ああ、お前か。……いいや。少し散歩していただけだ」
 嘘だ。凛麗様は夜明に会うために離宮のまわりをうろついているのだ。瑞々しい命を宿した生者のくせに、死の匂いに満ちた離宮などに出向くのだ。
 わたしは拳を強く握って、念入りに化粧した凛麗様を見上げる。
「夜明のこと、好き? だから、毎日、性懲りもなく離宮に来るのね」
 わたしが質問すると、彼女は息を呑んだ。真紅の深衣の袖から覗く指先の震えが、彼女の想いを物語っていた。即位を控えた多忙の身でありながら夜明に会いに来るのは、それだけ彼のことを恋い慕っているからなのだ。
「ああ、好きだ。ずっと昔から、好きだった。私はあいつの許嫁だったから」
 許嫁という存在は知っている。将来、婚姻する相手のことだ。
「夜明の、伴侶になるの? 貴方が?」
「……なれなかった女が、私だよ。夜明は神子を、華英かえいという名の娘を妻に望み、周囲の反対を押し切って娶ったんだ」
 華英。初めて耳にした名は、彼に似合いの美しい名だった。
「とても綺麗な名前ね」
「名だけではなく、身も心も綺麗過ぎた娘だったよ。見目麗しく、心優しい子だった。私はあの娘ほど美しく純真な女を知らない」
 凛麗様の眼差しは、初めて会った日、わたしを責め立てた時のものと同じだった。彼女はわたしに誰かを重ねているのだ、とようやく気付く。だから、顔を合わせた時、あんなにも彼女は取り乱した。
「凛麗様がわたしと間違えたのは、その人?」
 彼女は悲しげに頷いて、わたしの頬に片手を添える。まるで何かを確かめるように、彼女はわたしの顔や首筋、髪に触れていった。
「あの娘の髪は、もっと見事な金色で、長く真っ直ぐだった。だが、青い双眸も、愛らしい容貌も瓜二つだ。気を悪くするだろうが、亡霊を見ているかのようで驚いたんだ」
「そう。華英は、もう、死んでいるのね」
 亡霊と呼ぶくらいだ。夜明の妻だった娘は、わたしと彼が家族になる前に亡くなっているのだろう。以前、夜明と凛麗様が口にした『あの子』が華英なのだ。
「……ああ、離宮の裏にある森で刺殺された。何度も刺されて、遺体は酷い有様だったよ」
 一部の臣下が暴走した結果だった、と凛麗様が言っていたことを思い出す。その者たちによって華英は殺されたのだろう。
「華英を殺した人たちは、どうなったの?」
「神子は我が国の民ではなく、龍に捧げる供物に過ぎない。人ならざるものを殺したところで、罪科にはならない。……そんなものを妻に迎えた夜明を批判する声はあっても、殺した彼らを糾弾する人間はいなかった」
 つまり、周囲の反対を押し切って迎えた妻を亡くした夜明を、誰一人庇わず、憐れみもしなかったのだ。不相応な者と連れ添った彼が悪い、と国王陛下さえ考えていたのかもしれない。
「人でなかったとしても、夜明が望んだ子だよ。どうして、そんなにも反対されたの?」
 夜明は優れた呪術師であり、王弟としても尊敬されていた。それは届け物をしてくれる宦官や武官の言葉でもあり、兄である陛下の評価でもあった。夜明はたいていの望みならば叶えることができる地位と力を持っていたのだ。
「華英が、龍の悲しみを慰めるために生まれた女だったからだ。――この国は、もともと荒ぶる龍に支配されていた。彼を泉に封じ、その上に私たちは繁栄を築いてきたんだ」
「知っている。青い花は、全部、龍の悲しみなの」
「龍は自らを封じた人々を恨み、憎み、国を青く侵し始めた。彼の悲しみによって育った草木は、毒を持った花を咲かせるんだ。少しずつ人を死に至らしめる毒だ。……そんな龍を宥めることができるのは、神子の血肉だけだ」
 一面に青い花を咲かせた庭に視線を遣って、凛麗は顔をしかめる。わたしの大好きな青を、彼女は親の仇のように見つめていた。
「夜明は、昔は病を知らぬ丈夫な男だった」
 わたしは凛麗様が何を言いたいのか察し、夜明の身体が弱い理由に思い至る。年を重ねるほどに彼が弱っていったのは、病気などではなく、龍の毒が齎した結果だったのだろう。
「この離宮は夜明の墓だ。王に刃を向けた弟を殺すこともできず、父上はあいつを毒に侵された離宮に幽閉した。……夜明は、華英が殺されてから別人になった。あんなに明るく優しかったのに、今では離宮にいる屍たちと変わらない」
 わたしは凛麗様の語る夜明を知らなかった。わたしが目覚めた時には、彼は既に生きながらにして死んでいた。無表情で淡々とした様子からは、明るくて優しい彼など想像がつかない。
「変わってしまったのは、悪いことなの?」
「悪いに決まっている! 未来の幸福を放棄して、あいつは過去に溺れたんだ。……まだ、十六だった。華英の死を忘れるほどの栄華を、あいつは手に入れることができたはずだ。父上だけではない、皆が夜明を誇っていたのだから」
 わたしは凛麗様の理屈に違和感を覚えた。彼女が口にしたのは、夜明ではなく周囲が思い描いた未来だった。彼が栄華を求めているとは思えない。そんなものを望んでいるならば、彼は離宮から出ようと画策していたはずだ。何の抵抗もせず、黙って現状を受け入れたりしないだろう。
「私は夜明を放っておけない。こんな場所に、あいつを閉じ込めたくないんだ。父上は亡くなった。私ならあいつを王族として、優秀な呪術師として、もう一度取り立ててやれる」
 凛麗様の言っていることは間違いではなかった。実際、女王として即位すれば、彼女は夜明を王宮に戻すことができるだろう。
 だが、わたしは彼女の思い描く未来が、どうしても腑に落ちなかった。
「それは、夜明が望むことなの?」
 わたしの知る夜明には欲というものがほとんどない。煌びやかな宝飾品と絹の衣、目にも鮮やかな美味なる食事、誰もが心を奪われる絶世の美女。どの贈り物にも彼が関心を示すことはなかった。
 屍の乙女と戯れて、悲しみで咲く花の褥で眠る。緩やかに腐り落ちていく日々こそ、彼の過ごした十年間だった。
「お前は、ここで夜明に死ね、と。そんな残酷なことを言うのか」
「それが夜明の選んだ道なら、彼はここで死ぬべきだもの」
 わたしのすべては夜明のために在る。彼が望まないならば、彼を王宮に連れて行く必要はないのだ。
「……夜明には、会わせてくれないのだな」
「疲れて眠っているの。即位式のことなら、わたしから伝えておくよ」
 凛麗様と夜明を会わせたくなかった。彼女の存在が、龍の毒よりもなお夜明を侵す悪いものに思えてならなかった。
 何より、わたしと夜明の過ごした十年間を否定されたことが赦せなかった。
 凛麗様と別れたわたしは、自室に行くのを止めて、夜明の眠る室に戻った。彼は目覚めを迎えており、寝台で茫洋と上半身を起こしていた。凛麗様の語った明るくて優しい人など何処にもいない。
 ここにいるのは、生きながらに死んだ、わたしの夜明だ。
「どうした。凛麗でも来ていたのか」
「……うん」
「困ったものだ。今さら僕に何を望むというのか」
 ――この離宮から夜明が出ることを、凛麗様は望んでいる。
 彼女の言い分が正しいかどうか、わたしには判断できない。わたしは夜明を外に連れ出さなければならないのだろうか。彼と過ごした離宮での日々が、突然現れた凛麗様に、外の世界を生きる人に否定されてしまったことが悔しい。
「夜明。抱き締めても、良い?」
 返事を聞く前に、堪らず、わたしは夜明に触れた。衣が乱れるのも構わず寝台に乗り上げて、薄い彼の身体に背中から抱きついた。
 剥き出しの項に頬を摺り寄せる。腐り落ちる屍の香りがする、氷の肌だった。昔の彼ならば、きっと、太陽の香りと優しい熱が宿っていたのだろう。
「お前の髪は柔らかいな。肌に触れても痛くない」
 誰と比べているのか、わたしは知ってしまった。華英の髪は柔らかで短いわたしのものと異なり、太く真っ直ぐなものだったのだ。
 わたしと同じ姿でありながら決定的に違う少女が、彼を抱き締める光景が目に浮かぶ。
「かたくて、痛い方が、良かったの?」
「どちらでも構わない。お前は華英ではないのだから」
 それを慰めとして受け取るのは、あまりにも傲慢だった。夜明は事実を告げているだけだ。お前は僕の妻ではない、代わりにさえならない、とわたしに突き付けているのだ。
「ねえ、……どうして、わたしを十年間も傍に置いたの」
 わたしの世界には夜明しかいなかった。治らぬまま膿んでいく傷のような、緩やかに腐敗していく日々しか知らなかったのだ。だからこそ、それを壊してしまう変化など要らなかった。ずっと、彼には生ける屍でいてほしかった。
「傷を塞がないために。あの子を、忘れないために」
 華英が生きていた頃も、死んでからも、彼には彼女しかいないのだと思い知らされる。わたしの中心に夜明がいるように、彼の心にはいつまでも華英の存在が息づいている。彼はすべてを彼女に捧げてしまっているのだ。
 ――わたしの夜明が、とても遠くなってしまった。
 否、初めから、わたしと夜明は近しくなどなく、全部、わたしの独り善がりだったのだ。


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