華英

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  6.雨夜に暁の幻を映して  

 華英が亡くなったのは森の真中に聳える大樹の近くだった。彼女の血を受けた地面は苔生し、悲惨な光景の面影は少しも残っていない。
 夜明は膝をついて何もない地面に指を這わせた。虚ろな瞳に彼女の死の場面を描いて、彼は湿る土に頬を摺り寄せる。
 肌で弾けた水に顔をあげると、木々の隙間から大粒の雨が零れ落ちていた。降り出した雨はあっという間に視界を曇らせ、わたしたちを水浸しにする。
 ここにいるのは、妻を亡くした哀れな男と、土塊の人形だけだ。
 わたしは彼が求める華英にはなれない。身体はつくりものに過ぎず、彼女の欠片を持っていても変わらない。雨に打たれる彼を温めることさえできないのだ。
 ――だが、きっと、この身は虚ろではない。
 彼の愛した女の魂は宿らぬが、代わりに空の器に注ぎ込まれたものはある。わたしは夜明の悲しみを注がれることで心ある人形となった。彼の胸にある絶望を背負って生まれた人形なのだ。
 だからこそ、わたしは夜明の望みを理解してあげられる。
「夜明。ずっと、お別れをしたかったんだね」
 暁の名を持つ人。光満ちる世界で、愛した人と幸せになれるはずだった男。彼の後悔は、妻を看取ることのできなかった悲しみに根差している。
「十年前、彼女は視察に向かう僕を笑顔で見送ってくれた」
 わたしは震える声を紡ぐ彼の喉を撫ぜ、その頭を強く抱き締めた。彼の心に響かぬとしても、冷たい雨のなか独りきりにしたくなかった。
「王宮に帰った僕に渡されたのは、変わり果てた彼女の欠片だった。美しい金の髪も、柔らかな血肉も、見知らぬ誰かのために龍に捧げられた後だった」
 華英は神子。その血肉の一欠けらでさえ、荒ぶる龍を宥めるためのものであった。夜明もいつか訪れる別れを覚悟していただろう。だが、それはあれほど不幸な形で齎されるものではなかったはずだ。
「別れの言葉さえ、告げられなかった。苦しかっただろう、悲しかっただろうに。僕は傍にいることもできず、独りきりで死なせてしまった」
 喪失を抱えた彼の十年間、わたしが彼と共に過ごした月日に思いを馳せる。
 彼の悲しみで生まれたのがわたしならば、夜明は愛しい記憶だけを抱いて眠ることができるだろうか。彼の眠りには優しいものだけあれば良い。幸福な夢を見られるように、悪い記憶のすべてはわたしが抱えてしまおう。
「眠ろう、夜明。あなたの愛した人に会えるよ」
 その身のほとんどを龍に捧げられたとしても、彼女の魂は何処かにある。夜明を満たしていた愛は消えてなどいないと信じている。雨は血を洗い流し、繁茂した苔はすべてを隠したが、彼女の名残は彼の傍にあるはずだ。
 青玉のように澄んだ目を、わたしは細める。どうか彼女の笑みに似ていますように。
「華英」
 夜明は震える腕を伸ばして、わたしの頬を撫ぜた。彼の暗い双眸には、きっと、わたしではなく愛した彼女が映し出されているのだろう。いつだって彼の心を捉えて離さず、死んだことで永遠にまでなってしまった少女が、ほんの少しだけ憎くてとても羨ましかった。
 華英。わたしと同じ姿をした、美しいひかりよ。どうか可哀そうな少年を迎えに来て、傷だらけの身体を温めてあげてほしい。
 やがて、降りしきる雨のなか、夜明の身体は力をなくして弛緩した。投げ出された華奢な手は、まるで見えない誰かと手を繋ぐような形をしていた。
 わたしは彼の両目を閉ざして、痩せた身体をもう一度強く抱いた。
「良い、夢を」
 夜明。貴方が幸福のまま眠りに落ちたならば、この命にも、魂にも、意味はあった。土塊の身体は虚ろにつくられたものだからこそ、貴方の苦痛を受け入れることが叶ったと思わせてほしい。
 何者にもなれなかったわたしに愛など分からないけれども、どうか、この胸の痛みにその名を与えてほしい。

「夜明。貴方はあかつき。わたしを照らす、優しい朝の光」

 腐り落ちるだけの醜悪な日々だったとしても、貴方はわたしのひかりだった。
 ――愛しい人よ、どうか安らかに。


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