想紅

モドル | ススム | モクジ

  02  

 雪暮ゆきぐれの薄暗い空の下、雪代ゆきしろは長い黒髪を風になびかせ、黄金に彩られた瞳を細める。
 紅袴の裾を捌いて一歩前に進むと、集まった里の者たちが一斉に膝をつく。雪代よりも一回りは年上の男女たちは、黙したままこちらを見つめている。その黒々とした目に滲むものが期待なのだと、誰よりも分かっていた。
「巫女様、よろしくお願い致します」
 巫女。
 それは生まれた時から雪代に付き纏う身分だった。黄金の目は山の神――狼の血を色濃く継いだ証であり、神の血の薄れた里にとって、巫女とは神託を人々に伝える依り代であった。
 雪代は目を瞑り、深く息を吸い込みながら開く。降り積もる雪の白を反射した円らな瞳で、里の者たちを見下ろす。
「喜べ、我が子らよ」
 雪代は声を張り上げて唇を釣り上げた。怯まず堂々と言葉を紡ぐことが、何よりも大切なのだと知っている。
 雪代が紡ぐのは、神の言葉なのだから。
「春の訪れは遠くない」
 平伏していた里の者たちは次々と顔をあげ、安堵の溜息と共に口元をわずかに綻ばせた。
「では、あと、あと少しの辛抱なのですね」
 里で一番年嵩の男が涙ぐんで口にする。その男の腕に抱かれた年老いた女に目を遣って、雪代は頷いた。
「しばし耐え得ることができたならば、お前の母も春を目にすることができただろう。すまなかった」
 痩せこけた老女は、一昨日、明けない冬に耐えきれず命を落とした者だった。
「いいえ、いいえ……、貴方様のせいではございません。ですが、母の死を憂いてくださるならば、どうか送り出してやってください」
 屈み込み地面に膝をついた雪代は、老女の額に手をかざす。そうして、里を囲う椿の森を抜けた先にある冬山を指差す。彼女の魂を導くように、何度も同じ動作を繰り返した。
 男は泣いて母の亡骸を抱きしめる。その光景を見ていられず、雪代は立ち上がって瞼を閉じる。
 ゆっくりと目を開いた雪代は、努めて柔らかに微笑む。
「山の神は、何と仰っていましたか?」
 神の依り代となっていたが故に何も憶えていないのだとうそぶいて、雪代は里の者たちに尋ねた。
「春の訪れは遠くないそうです。巫女様」
「まあ、それは何と喜ばしいことでしょう。はやく姉上にお伝えしたい」
「ええ、きっと、里長様も御喜びになるでしょう」
 雪代は彼らと少しだけ歓談をしたあと、自らが暮らす里長の屋敷へときびすを返した。闇を孕み始めた空に浮かぶ雲は様相を変え、ひときわ風が冷たくなってきていた。これから夜にかけて吹雪になるだろう。
 やがて見えてきた屋敷に入った雪代は、戸を閉じて奥にある室を目指す。中央に火鉢の置かれた小さな室に、一人の女が座っていた。
「姉上。ただいま戻りました」
 雪代の声に顔をあげた女は、目を細めて微笑んだ。艶やかな黒髪を揺らして立ち上がり、彼女は雪代の傍に近寄って来る。
「おかえり、雪代。こんなに冷えるまで御苦労だった」
 姉は雪代の頬に手を伸ばし、労わるように優しく撫でた。
「……わたしは、何も」
 雪代は拳を握りしめて唇を噛んだ。労わってもらえるようなことをしてきたわけではない。
「卑下するのは止めよ。そなたがいるから里の者たちも心休まるのだ。……疲れただろう、次の祭祀まで屋敷で休むと良い。そなたが身体を壊したら大事だ」
 黒い瞳を不安そうに揺らす姉に、雪代は頷いた。里には雪代しか巫女はおらず、代わりを務められる者はいない。
 冬を生きる里の者たちは少しの不調でも命取りになる。まして、雪代は里で一番幼く十五を迎えたばかりの子どもなのだ。亡き父の代わりに里長を務める姉が決めたとおり、祭祀以外の理由で屋敷を出るのは控えるべきだった。
 その時、戸口から物音が一つした。
「誰か、来たのか?」
 眉間に皺を寄せた姉に、雪代も首を傾げる。吹雪になりそうな夜、外に出る者などいない。雪代たちに用があるのであれば、明るくなってからにするだろう。
「姉上。確かめて参ります」
 このような夜更けに訪ねて来るのだから、よほどな事情があるに違いない。
「その必要はない」
 しかし、雪代を制するように冷ややかな声が室に響いた。
「……何故、貴方様がここに?」
 震えながら口にした姉の視線の先に、男が立っていた。
 美しい、男だった。見たこともない金の髪に、森に咲く椿の花と同じ色をした瞳。透けるように白い肌とはっきりとした顔立ちは、里の者とは異なっている。
「約束の娘を貰い受けに来た」
 唇を釣り上げた男に、姉の顔色が蒼白に変わる。心細くなった雪代は、無意識のうちに彼女の袖を掴んだ。
「お、お待ちを。雪代は、まだ子どもだ! 貴方に相応しい娘になるまで、あと、あと、数年は……」
「女、私は機嫌が悪い。本来ならば娘が生まれた時、私に報せなければならなかったというのに、お前たちは怠った」
「……っ、それ、は」
「諦めろ。――もう、終わりだ」
 男の言葉を聞いた姉が、両手で顔を覆って泣き崩れる。涙する姉に驚いた雪代は彼女の肩を抱こうとするが、それは叶わなかった。いつの間にか近くに迫っていた男が、雪代の肩を強く掴んで引き止めていた。
「離してください!」
 身をよじって抵抗するが、雪代は非力だった。力任せに振り向かされ、無理やり男と向かい合わせにさせられる。狂い咲く椿に良く似た瞳に、怯える少女が映し出されていた。
「久しいな、雪代」
 ――甘く囁いた声に、一つの記憶がほころび始める。
 幼く巫女としての自覚の浅かった頃。愚かにも一人椿の森に足を踏み入れた雪代は、美しい男に出会った。
「約束を憶えているか?」
 絶えず降る雪を背にして、椿を見上げた男の姿が鮮やかに思い出される。あの時拒んだはずの手が、再び雪代に差し伸べられていた。
「共に来い。お前は私に与えられたものなのだから」
 男の瞳に宿された紅が揺らいだ時、雪代の全身から力が抜けた。身体の自由を奪われ、声一つあげることができない。
 男は痩せこけて小さな雪代の身体を抱きあげて歩き出す。背を丸めた姉が、蹲って咽び泣いていた。
 そこで、雪代の意識は闇に沈んだ。


 ――私を終わらせてくれ。
 男の声がまるで呪いのように何度も繰り返される。囁いた男は夢か現か、一方的に口にされた約束が今になって雪代の心を騒がせた。
 ――あの時、雪代は何と答えたのだろうか。
 身を包む寒さに、雪代は固く閉じていた瞼を薄らと開いた。
 黄金の眼に飛び込んできたのは、未だ目覚め切らぬ雪代を見下ろす美貌の男だった。男の無骨な指先が雪代の額に触れ、前髪をかきわける。幼い日の記憶と変わらず、その手に温もりを感じることはなかった。
「目が覚めたようだな」
 やがて雪代は己が男の膝を枕にするように寝かされていることを知る。驚いて勢いよく上半身を起こすが、男が咎めることはなかった。
 男から離れるために後ずさった雪代は、周囲を見渡して息を呑む。
「ここ、は?」
「私の屋敷だ。お前たちが足を踏み入れることを厭う、椿の森の奥深くにある」
 雪代は顔を青くする。里の者たちが森を忌避して近寄らないのは、狂い咲く椿に支配された森が人を迷わせるからだ。
「姉上のもとに、帰してください」
 この屋敷が森の奥深くにあるならば、一人で里に戻ることなどできない。戻ることができるのは、ここから里までの道を知っている男だけだ。
「あの女のもとへ帰ってどうする。あれはお前のことなど微塵も愛していないのだから、今度こそ殺される」
 男の言い様に雪代は眉をひそめた。
「無礼な。姉上は決してそのようなことを致しません」
 亡き母の代わりとなって、雪代を十五年間育んでくれたのは年の離れた姉だった。微塵も愛していないというならば、早々に見限っていたはずだ。
「愛しているならば、何故、姉はお前に神を騙らせたのだろうな。――お前には、神の言葉を聞くことはできない」
 冷や水を浴びせられたように、雪代の身体から熱が奪われる。動揺のあまり小刻みに震える身体を諫めようとするが、上手く取り繕うことができなかった。
「神の依り代となれぬ巫女など、の世の者にとって何の意味もないだろうに」
 黄金の眼は山の神の血が濃い証。それを持つ者は生まれた時から巫女として――山の神の依り代として育てられる。山の神と彼に捧げられた乙女を始まりとする里の者たちにとって、依り代が口にするのは神の意志であり絶対の言葉だった。
「何故、それを、知って……」
 だが、巫女である雪代が口にしてきたのは里長である姉の言葉に過ぎない。冬に呑まれ雪に沈みゆく真実を知らぬ者たちを欺くための残酷な嘘だった。
「山の神を知っている。お前と同じ眼をした立派な狼だった。――神の言葉など聞けなくとも、その眼があるだけで誰もがお前の嘘を信じただろうな」
 嘲笑を浮かべる男に、雪代は血が滲むほど強く唇を噛む。
「神はずっと昔に滅びたはずです……、彼と会うことなどできるはずがありません」
 山の神が滅びたからこそ、里長の一族は皆を欺き続けなければならなかった。里の者たちの心が安らかであるように、滅びの運命を隠し続ける必要があった。
「貴方は、何なのですか」
 眩い金髪と紅い瞳をしている者など、雪代は男以外では知らない。彫りの深い顔は、雪代たちと同じ民の血ではないだろう。冬山に囲われ椿の森に囚われた里に外の血など混じりようがないというのに、彼は何処から来たのだろうか。
 幼い頃、椿の森で出会った人。あれから十年の歳月が流れたにも関わらず、男の姿は当時のままだ。山の神を騙って死者を弔っていた雪代は、その意味を理解し始めていた。
「貴方からは、死の香りがします」
 目の前の男は、屍と良く似ているのだ。死者の肌は暗い影を帯びた白をしていて、彼と同じで蝋を塗ったかのように滑らかである。その身体からは生きている者特有の香りが感じられず、代わりに朽ちかけた肉の甘い匂いがする。
 微笑んだ男は温もり一つ宿さぬ指で雪代の頬に触れた。
「人にしては、なかなか鋭い鼻を持っているようだな」
 頬を滑っていた男の指先が首筋に移る。彼の指がなぞる場所から悪寒が走り、雪代は顔を歪めた。室は息が白むほど冷えきっているはずなのに、身体の奥が火にくべられたように熱く感じられた。
「お前は、まるで雪のようだ。踏み躙られる前の、あの柔らかで儚い白。穢れから遠ざけられ、守られて生きてきたのだな」
 先ほどまで微笑んでいたはずの男が歪に唇を釣り上げる。青紫色をした薄い唇の奥に、白く長い獣の牙を見た。
「だから、穢したくなる」
 男が腕をあげた直後、雪代の身に衝撃が走った。背に感じた床の固さに、一瞬、息が止まる。押し倒されたのだと気付いた時には、既に何もかもが手遅れだった。背の高い男に馬乗りになられ、喉から悲鳴が零れ落ちる。
「ずっと、お前を待っていた。色濃く狼の血を宿した娘を、願っていた」
 腕を掴む男の手に籠められた力に涙が滲む。怯える雪代のことなど気にもせず、男はゆっくりと顔を近づけてきた。
 男の唇から伸びた舌が、雪代の唇に滲んだ血を舐め取った。必死になって男の下から抜け出そうとするが、無駄な抵抗に終わってしまう。
 やがて男の金色の髪が頬を擽り、乾いた唇が首筋に落とされる。冷たく濡れた舌がゆっくりと首を這いずり、尖った獣の牙が特別薄い膚(はだ)に触れた。
「雪代。神が私に与えてくれた、約束の娘」
 鋭い牙を穿たれて、声もあげられないほどの痛みに身体が痙攣する。上手く息をすることができず、繰り返す呼吸は手負いの獣のように荒かった。
「今度こそ、私を終わらせておくれ」
 最後の力を振り絞って伸ばした指先は空を切り、緩んだ袂から滑りこんだ大きな手に目眩を覚える。何もかもが遠ざかって、雪代をつくるすべてが崩れ落ちる音がした。
 霞む視界で揺れる狂い咲いた椿の紅に、雪代はかたく目を塞いだ。


 熱を失くした身体は氷のように冷たく、鈍い痛みが全身を包んでいた。床に散った白い小袖を手繰り寄せて、寒さに震える己の身体に被せる。
 戸の隙間から零れ落ちる光は淡く、少なくとも夜を超えたことを知る。いつも通りの朝を迎えていたなら、これから姉と朝餉(あさげ)を共にしていただろう。
 つい先日の記憶であるはずなのに随分と遠く感じられた。
 裸同然の身を床に投げ出した雪代の隣には、一糸乱れぬ男が膝を立てて座っていた。
「山の神は、約束を違えたのか?」
 冷え切った声が頭上から浴びせられる。眉間に皺を寄せた男は、責めるように雪代を睨みつけた。
 雪代は何も聞こえなかったかのように、顔を伏せて自らを強く抱きしめる。
 その態度が男の癇に障ったらしく、乱暴な手つきで髪を掴まれ、無理やり顔をあげさせられる。髪を掴むものと反対の手が振り上げられたのを見て首を竦ませると、ぶたれなかった代わりに顎先を強く掴まれた。
「何故、私の時は終わらない?」
「……知ら、ない」
 喉から絞り出した声は酷く掠れていた。男が憤りを覚えている理由が分からず、身体は昨夜の悪夢に震え出す。
「あの女が言ったように、子どもだからか」
 独り言のように口にした男は、苛立ちを隠さず雪代の首筋に噛みついた。気を失いそうなほどの激痛に、視界で火花が散る。悲鳴が声にならず、乱れた吐息だけが唇から零れ落ちた。
 一方的に振るわれた力に心が軋む音がした。巫女であるが故に大切に守られてきた雪代は、乱暴を受けたこともなければ、責められたことすらない。
 男の言葉は間違いではなかった。神のものであったが故に、穢れから守られ生かされていたのだ。
「どうし、て」
 何故、自分がこのような目に遭わなければならないのか。姉に従って神を騙り続けたことが悪かったのだろうか。悲しみとも怒りともつかぬ想いが心を黒く塗りつぶし、嗤いが唇から零れ落ちた。
 もう、ただの少女としての在り方を認められず、巫女としてしか生きられなかった少女は何処にもいないのだ。
 ――ここに在るのは何の意味も持たないもの。
 神のものでありながら穢されてしまった肉の塊なのだと気づいた瞬間、雪代は自らの舌を噛み切ろうとしていた。
 だが、顎に力を籠めると同時、男の指先が口内に入れられた。舌の代わりに噛んでしまった無骨な指から、なまぐさい血が広がる。腐り切った味と匂いに吐き気が込み上げて涙ぐむと、雪代の耳元に乾いた男の唇が掠った。
「死ぬのか? お前が欺き続けた者たちを冬に置き去りにして、一人だけ楽になるつもりか」
 囁いた男に、雪代の瞳から一筋の涙が流れる。
 この男の指を噛み切って、そのまま舌を噛んでしまえば良い。そうすれば、少なくともこの惨めさから解放されると知りながら、それを選ぶことができない。
 ――死ぬことなんて、できるはずがなかった。
 まだ、里には心細げに過ごしている者たちが多くいる。春は遠くないという雪代の嘘を信じて、彼らは明けない冬を生きているのだ。
 最期まで苦しむであろう彼らを置いて、たった一人死ぬことなどできない。たとえ、彼らが雪代を神の依り代としか見ていなくとも、食べ物や衣を優先的に譲り受け、大切に守られてきたことに変わりはない。
 何より、彼らは姉が愛し守りたいと願った人たちだ。
「里に、帰して」
 嘘をつくことしかできないが、それを神の言葉だと思わせることはできる。姉が望んだとおりに、彼らの心に安息を与えなければならない。
 首筋を押さえて泣き崩れる雪代に、男は首を横に振った。
「帰さない。お前は山の神が私に与えたものだ。――果てのない時を彷徨った末にようやく手に入れた、私の望みを叶える娘」
 掌に伝わる生温かな血に、ただ、雪代は嗚咽する。美しい貌をした男は、雪代の姿にわずかに眉をひそめた。


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