想紅

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  03  

 零れ落ちそうになる悲鳴を唇を噛むことで堪え、雪代は小さな身体を震わせた。
 首元に牙を穿たれる度に感じる痛みを、もう、何度経験しただろうか。血を啜られる音を耳にしている間、雪代の意識は遠くへと追いやられ剥き出しの憎悪だけが胸を焦がす。
 首から乾いた唇が離れると、月明かりが美しい男を照らし出す。金を塗した輝く髪に、艶やかな椿の紅を宿した瞳が良く映えていた。青白い肌は溶けて固まった蝋のように滑らかで、その下に流れる腐敗した血の味を知っている。
 雪代は乱れた息を整えようと、浅く呼吸を繰り返す。唇を濡らす血を舐め取る男の舌が、酷く淫らだと思った。
「姉、上」
 父と兄が旅立ってから、たった一人で雪代を育ててくれた人が恋しい。男の冷たい身体ではなく、温もりに満ちた柔らかな姉の身体に触れていたい。
 そうして、愛していると囁いてほしい。
「忘れろ。――お前を棄てた姉のことなど」
「……ちが、う」
 棄てられてなどいない。あの人は古い約束に逆らえず、泣く泣く雪代を男に渡したのだ。そうでなければ、姉が自分をこのような目に遭わせるはずがない。
「あの女は、自分のためにお前を利用していた。そこに肉親としての情などあるはずがない」
「違う、……そんなの、違います」
 かつて、泣きながら嘘をついてくれと懇願した姉は、雪代を私欲のために利用したわけではない。彼女は雪代が幼い頃から精一杯大事にしてくれた。雪代に神を騙らせたのも、里の安寧を保つために仕方のないことだった。
「優しい幻に縋るのは楽で良いな。だが、お前の誕生を喜んだ者など、此の世の何処にもいない。……いるとすれば、私のようなの世の者だけだ」
 雪代は軽く目を見張って、それからころころと嗤った。
「喜ぶ? ――わたしのことなんて、憎いくせに」
 好んで雪代を踏み躙る男が齎す行為に愛情などあるはずもなく、男の肌から伝わるのは凍てつく想いだけだ。雪代の誕生を喜んだならば、何故、このようなことを繰り返すのか。
「お前の誕生は喜ばしい。ずっと待ち望んでいたからな。だが、私と違って神に愛されたままのお前は憎い」
 自嘲するような薄笑いを浮かべた男を、雪代は不思議に思う。初めて目にする、憂いを帯びた表情だった。
「……山の神は、屍であろうと見捨てたりしません」
 古来より、山の神は死した魂さえも愛しみ迎え入れてくれた。雪代自身、神を騙って死者を導く真似をしたことが何度もある。
「お前たちを庇護した山の神ではない。この地から遥か西におわす、かつての私が人生を捧げた豊饒を司る女神のことだ」
「貴方が、神に仕えていたのですか?」
 確かめる声は驚きのあまり上擦ってしまった。淫虐に身を委ねる男が、神に身を捧げて生きる者と結びつかない。
「これでも、昔は女神に好かれていた。私が死ぬまでは、な」
 男は雪代の身体を胸元に引き寄せ、遠い何かに思いを馳せるように呟いた。
 死ぬまで、という言葉に雪代の胸が少しだけ騒いだ。耳を澄ませても、男の左胸から鼓動が聞こえることはない。触れ合った肌の奥からは、朽ちかけた肉の香りがした。
「嬲られ、穢されて私は死んだ。そこに人としての尊厳などなかった。私は酷い陵辱と共に最期を迎えた」
 それは、まるで今の雪代のようだ。穢れから守られていたというのに、容易く踏み躙られてしまった。
「凄惨な最期を迎えた者は、土の中から起き上がり生き血を吸う。魂が女神の腕に抱かれることはなく、屍に囚われたままになる。――つまるところ、女神に見放された者の末路だな」
 それは、雪代には到底納得のいかない話だった。
 神に見放された者が生き血を吸う屍となる。だが、神とは暴力の果てに死した者さえも見捨てるというのか。男は望んで凄惨な死を迎えたわけではない。見放されるのではなく、救われるべき存在なのではないか。
 雪代にとっての神とは、慈悲深い存在だ。供物として冬山に捧げられた乙女を山の神が娶らなければ、雪代たち里の民は生まれなかったのだから。
 雪代の言いたいことを察したのか、男は溜息を一つ零した。
「女神は美しいものを好む。私は決して穢されてはならなかった。清らかで無垢であったからこそ、彼女は私を愛してくれたのだから」
 緩んだ白小袖の襟元を強く握りしめて、雪代は目を伏せた。それは男の身の上に同情し、憐れみを覚えたからではない。幽かな期待による高揚を抑え込むためだった。
「安らかな眠りは遠く、この身には果てのない時だけが残された。孤独に気を狂わし、悲しみに心を病ませても、終わることはできない」
 穢れた魂が神から見放されるならば、でなくなった雪代も神の手から逃れることができるのだろうか。
「……それで、も。わたしは、ずっと……」
 ――ずっと、神の手から解き放たれたかった。
 皆が雪代を大切にしてくれた。それは幸せなことだったのだろう。だが、彼らが大切にしたのは雪代という少女ではなく、神の依り代である巫女だった。
 巫女であるが故に、雪代は神を騙らねばならなかった。雪代という一人の少女の言葉は誰にも届かない。届くのは偽りの神の言葉だけだ。
 巫女でなくなった自分には何の意味もないと知りながら、今でも、ただの少女になりたいと願ってしまう心がある。
 生きることを望んでも、滅びの運命は変わらない。それならば、せめて何も知らない里の者たちと同じように、春の訪れを信じていたかった。
「残念だが、どれだけ穢されても……、穢しても、お前が神から見放されることはないだろう」
 雪代の首筋に唇を落として、男は鋭い牙を突き立てた。
 以前よりも丸みを帯びた胸元を、男の無骨な指が探る。骨と皮だけだった幼い身体に現れた変化が憎かった。
 ――姉と里の者たちは、どのように過ごしているのだろうか。
 男に攫われてから流れてしまった年月を思って、雪代は顔を歪めた。

* * *

 深い眠りから覚醒すると、あたりは既に薄暗くなっていた。潰れた布団に身を横たえていた雪代は、背後から腹にまわされた腕に気づいて眉をひそめる。
 身体を反転させると、そこには瞼を閉じた男がいた。微動だにしない男は息一つせず、雪代の知る屍と変わらない。恐る恐る両手を伸ばして男の頬を撫ぜると、血の通わぬ肌の冷たさが感じられた。
 ――神のものであることを、望んでいた男。
 何故、彼が雪代を手酷く扱い傷つけるのか、今ならば少しだけ分かる。
 女神に愛されていたかった男は彼女から見放され、山の神から解き放たれたかった雪代は彼に愛され続ける。限りなく似た境遇にあったにも関わらず、二人は同じにはならなかった。本当に望んだものを相手が手にしているからこそ、互いが妬ましくて仕方ないのだ。
 男の頬を撫ぜていた手を、今度は彼の白い首筋にあてる。細い首だった。雪代の両手でも絞めることができそうだ。
 両手に力を籠めながら男の顔を見ると、いつの間にか彼は長い睫毛に縁取られた目を開けていた。
「……無意味な、ことをする。私をくびり殺そうとしたところで、何も変わらない」
 呆れの滲んだ男の声に、雪代は頷いた。既に死した男を殺そうとしたところで、彼の時が尽きることはないのだ。
「私を終わらせることができるのは狼の血だけだ。お前の身体で未だ眠り続ける、山の神の血」
 男は自らの首にかけられた雪代の手を掴み、そっと口元に持っていく。
「はやく、……はやく私を終わらせてくれ、雪代」
 雪代の細い手首に男の冷たい唇が落とされた。薄い皮膚の奥に流れる血潮に焦がれて、その先に齎されるであろう終わりを待ち望んで、男は紅い瞳を揺らした。
「そんなにも、終わりたいのですか」
 自らの終焉を求めて、男は異国であるこの地に辿りついた。気の遠くなるような時間をかけて、ようやく、山の神に手が届いたのかもしれない。
 それでも、生きることを願う雪代には、彼の望みを理解することができない。
「果てのない時とは、……果てのない、命ではないのですか」
 朽ちることのない身体とは、永遠の命だろう。冬に呑まれゆく世界で絶えることなく在り続けられるのは、幸せなことではないのか。
「身体が朽ちることはなくとも、心は永久を生きることはできない。果てのない時とは、……永遠とは、即ち不幸だ」
 静寂に呑まれてしまいそうなほど小さな声だったが、男の言葉は雪代の胸に強く響いた。脆い心の奥底を揺さぶられ、胸が痞えて息ができない。
「安らかな眠りが幸福なことだと、お前は知らないのだな」
 心底憐れむように口にした男に、雪代は堪らず腕を振り上げて彼の頬を叩いた。雪代の平手を受けても、男は顔色一つ変えることはなかった。
「死が、幸せなことだと……? だから、すべて受け入れろと言うのですか」
 男は何も言わない。ただ、雪代を静かに見つめていた。
 雪代は男の紅い瞳から逃れるように身を起こし、そのまま室の外へと駆け出した。
 障子戸に手をかけて、振り返った雪代は顔を歪める。
 そこには、儚げに笑う男がいた。
 きっと、それは雪代の知らぬ女神に愛されていた男の顔。春のひだまりが似合うであろう、凍てつく冬に相応しくない穏やかな青年の幻影だ。
 室を飛び出した雪代は、着の身着のまま屋敷の外へ向かった。冴え渡る空気は冷たく、吐き出した息は白く染まる。灰色の雲に覆われた空から、大粒の雪が降り注いでいた。
 この雪に、冬に、雪代たちは滅ぼされる。春を待ち望む願いは叶わず、何もかも終わりを迎えてしまうのだ。
 ――それが幸福なことだなんて、どうして思えるだろうか。
 雪に足をとられながら、雪代はあてもなく歩き始める。森を支配する椿たちは、風に葉を揺らして雪代を迎え入れた。



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