太陽と灰

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  02  

 イーディスの日々が一変し、ライナスの侍女になってから十日余りが経った。
 まだ日も昇りきらない早朝、イーディスは王宮廷内にある薬草園に向かう。広大な庭の隅につくられた薬草園は、薬の材料となる薬草を栽培しており、宮廷薬師全員で管理をしている。薬師の一員であるイーディスにとって、薬草園の世話は欠かせない習慣だ。
「あの人、どういうつもり?」
 ライナスの侍女となるからには、薬師としての仕事は禁じられると思っていた。しかし、蓋を開けてみれば、ライナスは薬師としての仕事も続けていいよ、と許可した。
 そもそも、侍女の仕事とて、御茶を用意する程度のことしか命じられないため、イーディスの負担はほとんどない。あまりにもすることがなくて、侍女として控える意味などないようにも感じられた。
 考えごとをしながら薬草園に入ると、先客が一人いた。
 面識はあるものの、仲が良いとは言えない同僚だった。イーディスより五つ年上の彼女は、こちらを目した途端、きつく眉根を寄せた。
 イーディスは彼女に背を向けて、薬草を摘みはじめる。同僚である灰の民たちから嫌われていることは知っていたので、あえて声をかけるつもりもなかった。
 だが、しばらく無言で作業をしていると、同僚の女が口を開いた。
「あんた、第五王子の侍女になったんだって?」
 イーディスは小さく頷くだけで、何も言わなかった。それが気に喰わなかったのか、女はさらに続ける。
「良いなあ、ずるいなあ。第五王子って言ったら、陛下のお気に入りじゃないの。陛下も良いお歳だし、次の王は第五王子になるかもしれないって、みんな言っているわよ」
「だから?」
 女は大股でイーディスに近寄ってくる。薬草を摘んでいたイーディスの手に痛みが走った。
「なんで、あんたばっかり良い思いをするの」
 革靴でイーディスの手を踏みつけながら、女は吐き捨てた。
 イーディスは溜息をついて、じっと女を見た。澄ましたイーディスが気に食わないのか、女は興奮したようにまくしたてる。
「前々から気に喰わなかったのよ。陛下の覚えもめでたくて、灰の民のくせに学院にだって入学を認められて! おまけに在学中は第五王子にべったり」
 十歳の頃、宮廷薬師をしていた両親を灰化で喪ったイーディスは、すぐさま女王のもとに引っ張り出され、学院に入学することを命じられた。
 それは様々な思惑と政治的な事情が絡んだ結果だった。詳しいことはイーディスも分からない。ただ、自分が利用されたことだけは分かっていた。
 だが、他の者たちからしてみれば、女王から贔屓《ひいき》されているように見えたのかもしれない。
「良いわよね。あたしたち灰の民なんて、国の道具でしかないのに。ちょっと優秀だからって、あんただけ特別扱い」
「何が言いたいの?」
「何も。八つ当たりしたいだけよ」
 次の瞬間、頬を打った熱にイーディスは顔を歪めた。
「これくらいの可愛い嫉妬は赦してくれるでしょう? もう数年もすれば、あたしはあんたより早く死ぬんだから」
 同僚の女は薬草園を去っていく。
 ――魔力の完全なる喪失は、死と同義だ。
 少しずつ魔力を失っていく灰の民は、たいてい二十数年で寿命を迎える。
 初めから、長くは生きられない運命にある。頬の痛みなど、真っ暗で希望のない未来を想う痛みに比べれば、大したことではない。
 イーディスたち灰の民は、短い生涯を国に捧げて、道具のように利用されることしかできないのだ。それが王からの庇護を受ける代わりに、過去の灰の民たちが選んだ道だ。権力者たちに酷使されて、次々と死んでいった悲惨な時代を思えば、道具である今の方が待遇は良い。
 イーディスは、血が滲むほど強く唇を噛んだ。
 学院にいた頃に抱いていた夢や希望は、すべてまやかしに過ぎなかった。幸せな日々は呆気なく終わりを迎えて、夢も希望も泡のように弾けた。
 最早、すべてを諦めて、最期を待つことしかできない。
 摘み終わった薬草を籠に入れて、イーディスは立ちあがった。薬草園を出ると、初老の庭師が仕事をしている。
「おはようございます」
「ああ、薬師のお嬢さんか。今日も朝早くから偉いね。今は第五王子に仕えているのだったかね? 立派な方だと聞くよ。お嬢さんは運が良い」
 庭師は皴だらけの顔で笑った。
ライナスの外面が立派なことは認めるが、人柄は庭師が思うようなものではない。優しげな風貌をしているが、なかなかに捻くれた人だ。出逢った頃の彼は、いつも褪めた目をしていた。自分も含めた世界のすべてを見下しているような、そんな少年だった。
「ええ、そうかもしれませんね。私は運が良い」
 灰の民のなかでも、イーディスは恵まれた人生を歩んでいる。たとえ、誰かに命令されてきた結果だとしても、たくさんのものを与えられてきた。
 多くを与えられてきたのだから、もう何も望んではいけない、と自分に言い聞かせる。
「ああ、そうだ。花を貰ってくれるかい? お嬢さん、好きだったろう」
 庭師が指差した先には、庭の外観を整えるために切られた花々があった。イーディスがいつも相手にしているような薬草と違い、色鮮やかで美しい観賞用の花だ。
「捨てるのは可哀そうですものね」
「お嬢さんが貰ってくれるなら、可哀そうではないさ。何色を持っていく?」
 庭師は優しく問うてくる。地面に落とされた花々のなかで、鮮やかな赤い薔薇が目に留まった。
「赤を。赤い花をください」
 何処か切実な響きを持ったイーディスの声に、庭師は首を傾げた。

    ◇◆◇◆◇

 庭師から貰い受けた薔薇を片手に、ライナスの部屋に入る。
「おはよう、今日はいつもより少し遅かったね」
 書類を片手にしたライナスは、イーディスの顔を見るなり眉をひそめた。
「それ、どうしたの?」
 腫れあがったイーディスの頬に、ライナスは手を伸ばす。イーディスは一歩下がって、彼の手を拒んだ。
「壁にぶつかったの。来るのが遅くなったのは、花瓶を取りに行っていたからよ」
 壁にぶつけたなど大嘘であるが、ライナスはそれ以上追及してこなかった。イーディスのことなど、大して興味がないのかもしれない。
 あらかじめ水を入れておいた花瓶に、イーディスは赤い薔薇を生ける。
「綺麗な赤だね。君の髪に似ている」
 イーディスが花に込めたわずかな想いを暴いて、ライナスは笑う。赤い薔薇を選んだのは、諦めの悪いイーディスの意地だったのかもしれない。
「赤い花しか、なかったのよ」
「嘘つき。ねえ、憶えている? 僕に贈り物をするとき、君はいつも赤を選んだ。私を忘れないでって、不安そうな顔をしながら
「……憶えていないわ、そんな昔のこと」
 目を伏せれば、よみがえる幸福な日々がある。
 二年も前に捨てられたというのに、未だにライナスのことが嫌いになれない。それどころか、侍女になってから、昔のように笑い合えるかもしれない、と心のどこかで期待していた。
 口では嫌いなどと言いつつも、心は彼に恋をしていた二年前と変わらない。すべて諦める決めたはずなのに、イーディスはいつまでも過去にすがっている。
 希望のない未来よりも、幸せだった過去を望んでいるのだ。
「とても可愛くて、いじらしかった。そんなことをしなくても、僕は君を忘れないのに」
 そのとき、部屋の外からライナスを呼ぶ声がした。護衛のスタンが、怒ったようにライナスを手招きしている。もしかしたら、公務の時間が押していたのかもしれない。
「ごめん。少し立て込みそうだから、次に来るのは四日後で良いよ」
 去っていくライナスの背中が、ひどく遠く感じられた。それはイーディスの知らない男のものだった。
 灰色の指で、イーディスは赤い花弁に触れる。
「忘れるわよ、きっと」
小さなつぶやきは、ライナスに届くことなく消えてしまった。

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