太陽と灰

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  03  

 ライナス、と呼ぶ声がする。何処か甘えたような声で、少女はずっと待っているから、と笑った。揺れる赤い髪、小さな身体が愛しくて、ライナスは手を伸ばそうとした。
 だが、触れた途端、少女は泡のように弾けてしまった。
「イーディス」
 まどろみから目を覚ましたライナスは、ソファに預けていた身体を起こす。窓の外では日が沈んでおり、月明かりが差していた。仮眠のつもりが、ずいぶん長く寝ていたようだ。
「起してくれなかったの?」
 部屋の隅に控えていたスタンは、呆れたように肩を竦めた。
「俺の仕事は子守りじゃない。悪夢でも見たのか? ひどい顔だ」
「二年前の夢だった」
「王立学院を卒業した日のことか」
 ――イーディス・ティセ・ディオルは諦めろ。
 あの日の女王の言葉が、今も忘れられない。
ライナスは、母である女王から特別愛されていることを知っていた。故に、あの頃のライナスは望めば何でも手に入ると勘違いをしていた。
「母親としても、女王としても。灰の民を息子の隣に置くことは、赦せなかったのだろうね」
 灰の民は、国の加護を受ける代わりに、未来を選ぶことができない。長い歴史のなかで虐げられてきた彼らは、身の安全を保証してもらうために、国の道具となることを選んだ。
 道具に恋する王子を、女王は赦さなかった。貴族の娘や異国の姫と結ばれた方が、国にとっても有益であり、親としても嬉しいのだろう。
「イーディスは、遠くない未来に死ぬ。僕を置き去りにして」
 ライナスたちが当然のように想像する未来を、灰の民たちは手にすることができない。彼らに与えられた時間は、ライナスたちよりもずっと短い。
 それを分かっていながら、ライナスは彼女に手を伸ばした。長くは共に在れないと知りながらも、傍にいるのは彼女であってほしいと願った。
「諦めようと思ったこともあるんだ。僕の隣にいない方が、彼女は幸せになれるのではないかと、考えたこともあった。――でも、だめだった。傍にいてほしい」
 諦めようと思う度、灼熱のような赤が胸を焦がす。自分ではない誰かの隣で笑う彼女が赦せなくなる。
「分かっている。俺は、お前があいつのためにしてきた努力も、ずっと見てきたのだから」
 ライナスは、イーディスを蝕んでいく灰化を止めたかった。暇潰しで入った王立学院だったというのに、必死で学び、魔力の研究に力を注いだのは、彼女を助けたかったからだ。
「結局、彼女を救う術は見つけられなかったけどね」
 だが、その研究が実を結ぶことはなかった。結果を求めれば求めるほど、絶望的な事実が明らかになる。
 彼女を救う術など、何処にもないと思い知らされた。
「それでも、お前の想いは無駄にならない。……無駄になど、させるものか」
「いつも、ごめんね」
「昔のお前は、俺にそんな風に謝ることはなかった。口うるさい御目付役だと、俺のことなどバカにしていた。……変わったのは、イーディスに会ってからだな」
 子どもの頃から仕えてくれる騎士は、珍しく穏やかに微笑んでいる。
「そうだよ。彼女が、僕を変えてくれたんだよ」
 人の痛みも分からなかった子どもに、誰かを想う心を教えてくれた。

    ◇◆◇◆◇

 ライナスの部屋の前には、青い顔をしたスタンが立っていた。
「ああ。もう、四日経ったのか」
 スタンは小さな欠伸を噛み殺す。学院で一緒に過ごした仲ではあるが、この青年騎士の欠伸などはじめて見た。
「お疲れみたいね」
「あいつが研究にかまけて仕事を溜めていたのが悪い。おかげで護衛の俺まで寝不足だ」
「ライナスの研究、うまく行っていないの?」
「うまく行ってないというより、元からうまく行くはずがなかった。ライナス自身も、結果に関しては覚悟していたが」
「そう。ライナスは休んでいるのよね? 今日は帰った方が良いかしら」
「お前を勝手に帰らせると、あいつの機嫌が悪くなって面倒だ。せめて、顔だけでも出していけ。流石に、もう起きているだろう」
 イーディスはゆっくり扉を開けた。
「ライナス?」
 彼の名を呼んでみるが、返事はない。室内の静けさに溶け込むよう、小さな寝息が聞こえるだけだった。
 ソファに近寄れば、目当ての人物が眠っている。
 立派な青年になった彼に、少年らしいあどけなさは残っていない。それでも、あの頃と変わらぬ寝顔に見えたのは、何故だろうか。
 艶やかな金の髪に、イーディスは手を伸ばす。初めて会ったとき、この髪と瞳を太陽のようだと思った。
 人々を照らし、恵みを与えてくれる。そんな優しい陽光だ。
 彼の人柄は、陽の光のように優しく柔らかなものではなかったが、彼がイーディスに夢と希望を与えてくれたことに変わりはない。
 ライナスの隣にいると、何度も忘れようとして、されど忘れることのできなかった想いが溢れそうになる。ともに過ごした記憶が心を乱していく。
 手を繋いで、大樹に身体を預けて眠ったこと。
 スタンに見張られながら、図書館で二人して試験の勉強をしたこと。
 十四歳になり、はじまった灰化に泣き喚いたイーディスを、強く抱きしめてくれたこと。
 赤い髪を、好きだと言ってくれたこと。
「イーディ、ス? おはよう」
 彼は眠たそうに瞼を開いた。彼の髪に触れていた手を離して、イーディスは苦笑する。
「もう昼になるわ。ひどい顔色よ。まだ休んでいたら?」
「いや、大丈夫だよ。顔色が悪いのは君の方だ。また無理をしていたの?」
 身体を起こした彼は、イーディスの肩に触れた。そうして、熱がないか確かめるよう、額を合わせてきた。
 金色のまなざしに吸い込まれて、イーディスは瞬きを忘れた。
 互いの視線が溶け合ったとき、柔らかなものが唇に触れる。かさついた彼の唇は、思っていたよりずっと熱かった。
「拒まないの? 調子に乗ってしまうよ」
 どうして、と問う暇もなく、もう一度、唇が触れ合った。ただ口を合わせただけなのに、どうしてこんなにも苦く感じられるのだろうか。
 彼を拒むことなど、イーディスにはできない。
 どうしたって嫌いになれない。幸せだった過去を、イーディスは忘れられない。
 優しく頭を撫でて、まぶしいほどの熱を与えてくれた。焦がれて止まず、ずっと欲しかった男が目の前にいるのだ。
 手に入らないと知りながら、この手を伸ばしたくなってしまう。
 後頭部に添えられたライナスの手が、赤毛をそっと梳いていく。慈しむように、愛おしむように触れてくる彼のことが分からない。
「イーディス」
 抱き寄せられたとき、イーディスは彼の肩越しに一輪の花を見た。ライナスの机には、四日前、イーディスが飾った薔薇があった。
「まだ、飾っていたの?」
「君が持ってきてくれたものだから」
 イーディスは立ちあがって、花瓶の前に立つ。ライナスは止めなかった。
 鮮やかな赤を宿していた花は、今ではイーディスの髪や腕と同じ灰色に染まっている。数日前までは誇らしげに咲いていた赤い花も、色を失くして惨めなものだった。
「灰化が進んでいる。すぐに朽ちるわ」
「それでも、綺麗な花だよ」
 何を思って、ライナスはこの花を綺麗と言うのだろうか。
 遠くないうちに、この花は朽ちるだろう。魔力の喪失は、灰化とは死と同義なのだから。
「綺麗なんかじゃない。とても醜いもの。私と、同じ」
 灰色に染まりゆく自らの身体を思い出し、イーディスは自嘲した。生きながらに魔力を失う自分は、この花と同じように朽ちていく。
「イーディス」
 咎めるように名を呼ばれる。イーディスは唇を釣りあげて、無理に笑ってみせた。どのような表情をすれば良いのか分からなかった。
「私が長く生きられないことを知っていたから、あなたは私と縁を切ったの?」
「卒業の日。君は、僕を待ってくれていたの?」
 ライナスは、イーディスの質問には答えない。代わりに、質問を返してきた。
「待っていたわ。でも、あなたは最初から来るつもりなんてなかったのね。あんなに一緒にいたのに、あなたの嘘一つ見抜けなかったの」
 学院にいた頃、イーディスはいつもライナスと共にいた。あの頃、あれほど近くに感じていた彼は、今では遠い場所にいる。身体は近くにあっても、心は遠く離れてしまった。
 だが、そのことを受け入れなければならないのだ。
「約束を破られたことは、あなたに縁を切られたことは、とてもつらかった。だけど、あれで良かったのかもしれない、と思うの」
 独り言のように、イーディスはつぶやく。
 イーディスとライナスの関係は、王立学院を卒業する日に終わるべきだった。それこそが、逆らうことのできない運命だったに違いない。
「あなたは、ずっとは私の傍にいてくれない。この国の王子なんだもの」
 国の道具である灰の民と、女王のちょうを受ける第五王子。
 誰が見ても釣り合う存在ではない。二人を隔てる壁が、幼かったイーディスには見えていなかった。ただ、それだけのことだったのだ。
「イーディス。もし、君が死ぬまで傍にいてあげると言ったら、……喜んでくれる?」
 背後から抱きしめられて、イーディスは手に持っていた花を落とした。
 彼の言葉が嘘であることなど分かっている。だが、そっと髪に口づけられて、心の水面にさざなみが立った。
 イーディスは、浅く呼吸を繰り返して心を静めようとする。
「君がいてくれるなら、僕は何も要らないんだ」
 耳に届いたのは、どこまでも勝手な響きを持っている言葉だった。それなのに、動揺してしまった自分が信じられなかった。
「嘘、つき」
 振り返ったイーディスは血を吐くように叫んだ。
「……っ、嘘つき、嘘つき! 最初から、約束なんて守るつもりなかったくせに!」
「違うと言っても、君は信じないだろうね」
「信じないわよ! だって、ずっと待っていたのに。あなたは来なかった!」
 彼の言葉を疑うことを知らぬほど、イーディスは彼を慕っていた。彼がイーディスとの約束を破ることなど、考えもしなかった。
 あの幸せな日々が、ずっと続くと信じていたかった。
「期待させるような嘘をついて、……傷つけるだけなら、どうせ離れるなら! どうして、もっと早く見捨ててくれなかったの!」
 イーディスは歯を食いしばりながら、部屋を飛び出した。これ以上、ライナスの近くにいたくなかった。
 離宮を出て、イーディスは崩れ落ちた。
 重なり合った唇が、触れ合った身体が熱を持っている。ばからみたいだった。口づけが嬉しかった。抱きしめられたとき、すべて委ねたくなった。
 いつだって、イーディスを惑わすのは彼なのだ。
 視線の先には、魔力を失って灰色になった手がある。
 魔力とは生命力の一種だ。それは、正常な状態に命を保つため、必要不可欠な力。
 イーディスたち灰の民は、齢十四を過ぎると、身体の末端から徐々に魔力を失っていく。灰の民は、魔力の器である肉体と魔力そのもの相性が極端に悪い。成長するにつれて器と魔力が反発し合い、生きながらに灰化が起こるのだ。
「……もう、やだ」
 徐々に灰色に変わりゆく手を見つめて、イーディスは声を押し殺した。
 一度始まってしまった灰化は、決して止まることはない。
 灰の民の寿命は、たいてい二十数年だ。十六であるイーディスは、早ければ、あと数年で死んでいく。
 死ぬまで傍にいてあげる。そんな嘘に喜びを感じるなど、愚かにもほどがある。
 胸の奥底に沈めていた恋心が、止める間もなく息を吹き返す。
 イーディスたち灰の民に、明るい未来など存在しない。誰かを大切に想ったところで、遠くない日に別れは訪れてしまう。そのうえ、イーディスが想う人には、手を伸ばしたところで届かない。
 二年前、王立学院を卒業したとき、ライナスに縁を切られたことは悲しく、イーディスの心に深い傷を残した。
 だが、傷つくと同時にほんの少しだけ安心した。ライナスへの想いを捨てれば、イーディスは死への恐れを軽くすることができたのだから。
 灰化で父母を失くし、孤独になったイーディスにとって、ライナスは心の拠り所だった。それさえ失えば、イーディスに残るものなど何もない。空っぽになってしまえば、死さえも受け入れられるはずだ。
「ライナス」
 すべて忘れてしまいたい。そうすれば、訪れるであろう死に怯えることもない。
 だが、この胸を熱くする想いを忘れてしまえば、自分が自分でいられなくなる気がした。

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