太陽と灰

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  04  

 第五王子ライナスの成人を祝うために、宮廷は朝から賑わっていた。夕刻を過ぎた今も、侍女たちが式典の準備をしている。
 ライナスと揉めた日から、イーディスは彼に会っていなかった。侍女としても、宮中に仕える人間としても、仕事を放り出して最低なことをしている自覚はあった。
 だが、ライナスはイーディスを責めなかった。それどころか、スタンを遣いに寄こして、侍女の仕事は好きなだけ休んで良いと言ったのだ。
 そのことを言い訳にし続けて、侍女としての役目を終える日を迎えてしまった。
 せめて、成人を祝う言葉だけは伝えよう、とライナスの部屋を訪れたのは、夕刻になってからだった。
 扉に背を預けていたスタンは、イーディスに気づくなり呆れたように肩を竦めた。
「ライナスなら中にいる。祝いの言葉の一つでも贈ってやれ、喜ぶ」
「喜ぶ、のかしら」
うつむいたイーディスは、なかなか一歩が踏み出せなかった。スタンは溜息をついて、扉を開くと同時、イーディスを突き飛ばす。
「……っ、ちょっと!」
「仕える主の成人も祝えないほど、お前は薄情ではないだろう」
 同時、扉が勢いよく閉められた。外側から押さえつけられているのか、叩いてもびくりともしなかった。
「こんばんは、イーディス」
正装に身を包んだライナスは、それは美しかった。彼と自分は違う存在なのだと、強く思い知らされる。
「……おめで、とう」
 遠く離れてしまった彼に、イーディスは消えそうな声で伝える。
「ありがとう。僕の誕生日、憶えてくれていたんだね」
 忘れるはずがない。彼が生まれてきたことに感謝し、心から祝った大切な日だった。
 互いに何を言えば良いのか分からず、しばしの沈黙が落ちる。
「その。短い間だったけど、ありがとう」
「こちらこそ。昔みたいに君が傍にいてくれて楽しかったよ。君にとっては、大嫌いな僕の侍女は苦痛だったかもしれないけど」
 イーディスはゆっくりと首を振った。
「私があなたを嫌えないと、知っているでしょう?」
 口では嫌いと言ったところで、心はそうはいかない。幸せだった過去を忘れることも、彼に抱いた恋心を捨てることもできなかった。
「うん。お人好しの君は、一度好きになった人間を嫌いになれないと僕は知っていた。知っていたから、君の優しさにつけこんだ。――君の異動を命じたのは母上だけど、それを頼んだのは僕だよ」
「え?」
「おかしいと思っただろう? 僕の侍女を希望する者は山ほどいるし、宮廷薬師である灰の民だって、数は少ないけど君の他にもいる」
 彼の言うとおりだった。イーディスに八つ当たりをした同僚など、数は少ないものの灰の民は他にもいる。侍女に灰の民を命じるにしても、イーディスである必要はない。
「君に会いたかった。真っ赤な髪を揺らして笑った君を、もう一度だけでも見たかった。……君の傍は心地よくて、僕はその場所が好きだった」
 イーディスは、堪らず泣きたくなった。
 そのようなことを言うならば、何故、卒業の日に約束を破ったのだ。イーディスはずっと待っていたと言うのに、彼が来ることはなかった。
 ――伝えたい言葉があるんだ。
 あの日、彼はイーディスに期待を抱かせた。
「今の君は、昔と違う。何もかも諦めて、笑うことを止めて、自分の殻に籠ってしまっている。少しも幸せそうじゃない」
「勝手なこと、言わないでよ」
 昔のように笑えなくなった理由など、たった一つしかない。
 父母を亡くしたイーディスにとって、心の支えはライナスだった。
 子どもだったイーディスが、自分と同じように寂しさを携え、傍にいて対等に扱ってくれるライナスに惹かれないわけがない。意識的にも無意識的にも、当然のように彼を慕った。そのことを、聡いライナスは知っていたはずだ。
 それなのに、卒業の日、彼は約束を破った。それだけではなく、一方的にイーディスとの縁を切ったのだ。
「殻に籠ることは悪いことなの? 傷つきたくないから、逃げることの何処が悪いのよ。……っ、生きながらに魔力を失う恐怖なんて、あなたには分からないでしょう」
 ライナスが好きだと言ってくれた赤い髪さえも、毛先から灰色に染まっていく。少しずつ、誇れていたはずのものが失われていく。
 すべてを失くして、最後には朽ちていくのだ。大切な人を置いていく痛みも、置いて行かれる寂しさも、イーディスは知っていた。
 欲しいものなど、手に入ったところで意味はない。
 そして、イーディスが本当に欲しかった人は、手に入るはずがなかった。
「どうせっ……! 手を伸ばしたって、欲しいものなんて手に入らない! それなら、何も思わずに生きていた方が良い。何にも望まないで、誰も想わないでいた方が、……死ぬことが怖くないもの!」
 すべてを、諦めようと思った。何も望まず、誰も想うことなく生きるのだ。そうすれば、死への怯えを少しでも軽くすることができる。生きることへの執着をなくせば、死を受け入れられると信じていた。
 そうでもしなければ、己の運命を認めることなど、イーディスにはできなかった。
「嫌なのよ。何かを望むことも、手に入らない人を想うことも!」
 望んだところで、想ったところで――たとえ、手に入ったところで、最後には何の意味もなくなってしまう。
「遠くない未来に死ぬから、何も望まないの? 違うだろう。君が全部諦めようとしているのは、ただの怯えだ。君は望みが叶わずに絶望することも、想いに応えてもらえずに失望することも、味わいたくないだけだよ。だから、自分の寿命を言い訳にして生きている」
「……っ、違う!」
 必死の反論は何よりもの肯定だった。だが、それを認めてしまえば、この二年間、自分は何をしていたのか分からなくなる。
「僕は君が心配なんだ。いつだって、君の存在が心に在る」
「止めてよ。聞きたくない!」
「どうか聞いて。ずっと、君だけが僕にとって大切な子だと、知ってほしい
 優しい響きを持った言葉に、イーディスは唇を噛みしめる。
「それなら、……どうして、来てくれなかったの?」
 言うつもりのなかった問いが零れてしまう。
 卒業の日、イーディスは彼を信じて待ち続けていた。だが、彼が来ることはなかった。何か事情があったのかもしれないと思い、彼に会おうとしたが、そのすべては拒絶された。
 一方的に切られた縁は、二年間戻ることはなかった。
 心の支えを失ったイーディスは、与えられた宮廷薬師の身分を理由にして、逃げるように仕事に没頭した。それ以外に、どうすれば良いのか分からなかった。
「君に伝えたいことがあった。だから、……約束を破るつもりなんて、なかった」
 伝えたいことがあるから、学院の庭で待っていてほしい、と彼は言った。イーディスが笑顔で頷くと、必ず来るから、と彼は約束してくれた。
「だけど、あの頃の僕は子どもで、周囲や自分の立場を本当の意味で分かっていなかった。君を守る力を持っていなかったのに、僕は、この想いを君に伝えようとしてしまった」
 ライナスの金の瞳が、柔らかに細められる。
「好きだよ。君の時間が限られたものだとしても、僕は君に幸せであってほしい。全部諦めたりしないで、昔のように笑って生きてほしい」
 イーディスの頬を、彼の両手が包む込む。そっと額を重ね合わせて、彼が微笑んだ。
「一緒にいよう。僕の傍で笑っていてほしい。……あの日、君に伝えたかった言葉だ」
 ゆっくりとした足取りで、彼が去っていく。その背中を見つめながら、イーディスは床に崩れ落ちた。
「ライナスは行ったのか」
 部屋に入って来たスタンに、イーディスは応えない。今までの出来事が信じられず、両手で顔を覆って頭を振る。
 頬を涙が濡らしていた。優しい笑みと共に告げられた想いが、胸をかき乱していた。
「好きなんて、嘘でしょう?」
 二年前、彼はイーディスとの縁を切った。
 それは、長い間、イーディスのことを疎ましく思っていたからなのだと、心の何処かで感じていた。三つも年下の小娘で、王子である彼には釣り合わない灰の民だ。口にしていなかっただけで、イーディスのことを厭っていたのではないかと思っていた。
「嘘ではない。二年前、王立学院の卒業式のあと。女王陛下がライナスに苦言をしたことを知っているか?」
「なに、それ」
「灰の民を、いつまで傍に置くつもりだ。守れる力も持たないというのに、その人生を背負うことなどできるのか、と」
 いつも無愛想なスタンの声は、わずかに上擦っていた。
 ――十四のイーディスは、何も考えていなかった。
 王立学院を卒業してからも、自分とライナスの関係は何一つ変わらないと信じていた。目の前の現実にさえ気付かずに、二人を取り巻く環境が変わっても、彼との関係は続くものだと疑いもしなかったのだ。
 それは、ライナスも同じであったのだろう。だが、彼は目の前に広がる現実を、卒業の日に女王の手で知った。
「学院を卒業したばかりのライナスは、第五王子という力以外、何も持っていなかった。その力も女王の前では意味などない。お前と共にいたいと願っても、叶える力などなかった」
 座り込んでいたイーディスを立たせて、スタンは問う。
「イーディス。お前は、何故、ライナスの傍にいたかった?」
 ライナスと初めて会った時、彼は仮面のような笑顔を張りつけていた。外面は立派な第五王子だったが、中身は捻くれた少年だった。世渡りが上手くて猫かぶりで、内心では自分も他人も含めた世界のすべてを見下しているような男の子だった。
 最初は彼のことなど、好きではなかった。うすら寒い笑顔と意地悪な態度に、苛立ちや怒りがなかったと言えば嘘になる。
 だが、傍にいるうちに、彼は少しずつ自然な笑顔を見せてくれるようになった。その笑みを知るうちに、彼がとても寂しい人であることを分かってしまった。
「寂しかったの」
 イーディスも、寂しかった。
 灰化により父母を亡くし、身寄りのなくなったイーディスには、女王からの命令を断ることなどできなかった。命じられるままに入学した王立学院では、周りは自分よりも年上で、向けられる視線も決して優しくはなかった。
 その中で、ライナスだけがイーディスを対等にあつかってくれた。彼自身が見下す世界の一部として、彼はイーディスを自分と対等な存在として見たのだ。決して、善意や優しさによるものではなかったが、イーディスは嬉しかった。
 それは、心にあった寂しさが消えていくきっかけとなった。
「一緒にいれば、寂しくないと思ったの」
 彼と一緒にいるうちに、イーディスの寂しさは満たされた。ふたり手を繋いでいれば、あの頃のイーディスは死への恐怖に打ち勝てた。
 思い返せば、そこには優しい記憶が溢れている。傷ついたことも数多くあったが、イーディスは確かに幸せだったのだ。
「ずっと、隣にいたかった。ただ、それだけが、望みだった」
 手を繋いでいられたら、それだけで良かった。隣に居られたら、他には何も望まなかった。
 イーディスは彼の隣で生きたかったのだ。
「その望みを、お前は諦められるのか?」
 すべて諦めれば良いと思っていた。そうすれば、遠くない未来に迎えるであろう死を受け入れられると信じていた。
 暗くて何も見えなかったはずの未来。だが、それは本当に暗闇に閉ざされていたのだろうか。
 違うはずだ。太陽はずっとイーディスを照らしていた。頑なに目を瞑り、気付かないふりをしていただけなのだ。
 零れる涙をぬぐって、イーディスは立ち上がった。

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