少女伯爵とおいしい絵
はじまり
その絵を見たとき、キアラは恋に落ちた。
町の画廊に飾られていた一枚の絵。髪をひとつに結んだエプロン姿の女性に、口髭の立派な男。そして、二人の間に座った可愛い男の子。
彼らが囲む食卓には、料理が並べられている。
熟れたトマトと豆を煮込んだスープは、甘酸っぱい夕焼け色をしていた。籠に詰められたパンは、稲穂のような金に輝いている。
決して豪勢な食事ではなかった。しかし、舌に優しい味が染み込んで、堪らずキアラは一筋の涙を流した。
ここには、キアラの亡くしたすべてが詰まっている。
暖かな食卓の絵は、今でも忘れ得ぬ、キアラにとって最もおいしいものだった。
1. 訃報
キアラ・ファルネティは、南部の小さな土地を治める伯爵家の当主だ。
齢十六。緑がかった黒髪、闇色のドレス、漆黒のヴェール、全身黒づくめの少女である。透けるような白い膚と、ヴェール越しに光る紫水晶の瞳だけが、彼女を彩るものだった。
伯爵邸の応接間で、キアラはうっとりと頬に手をあてる。視線の先には、たった今飾ったばかりの静物画がある。
楕円の白い器に飾られた、溢れんばかりの果実の絵だった。
芳醇な葡萄は紫に熟して、舌のうえで甘く弾けた。産毛に包まれた桃は、皮下にある無垢な果実の、その瑞々しさを醸し出している。サンザシの真紅からは、今にもはち切れそうな甘酸っぱい香りを感じた。
「おいしい」
恍惚とした表情で、キアラは絵画の前から動かない。隅々まで舐めまわすように、瞬きも忘れて絵に魅入られていた。
「気に入った? キアラ様」
傍らに立っていた青年――エヴァルドは、金褐色の瞳を不安げに揺らしていた。
全体的に、淡い色彩の青年である。
ほとんど金に近い茶髪に、血の気のない肌をしている。一目で分かるほど痩躯で、背もさほど高くはなかった。容貌には可愛い少年だった頃の面影があり、男らしい力強さとは無縁である。
この秋に二十を迎えたはずだが、実年齢より幼い印象を受ける。
「とっても素敵だったわ! 今回も」
「良かった。サビーノ様、喜ぶ」
「サビーノによろしく伝えてくれる? しばらく会っていないけれど、元気にしているのかしら? 前々からお願いしている件も、まだ返事が……」
そのとき、キアラの言葉を遮るように、応接間の扉が開かれた。
「お話し中のところ、申し訳ありません!」
飛び込んできたのは、伯爵家では古参の侍女だった。ここまで駆けて来たのか、お仕着せの裾が乱れて、息が弾んでいる。
「まあ。どうしたの? チェレステ。領内で何か問題が起きたのかしら」
チェレステは首を横に振る。彼女は壁際に立つエヴァルドを一瞥して、痛ましげに口を開いた。
「サビーノ・アルディーニ様が、亡くなったそうです」
瞬間、キアラは息を呑んだ。
血の気が引いて、その場に崩れ落ちそうになる。咄嗟にエヴァルドが支えてくれたが、キアラの腰を抱く彼もまた、動揺に身を震わせている。
「嘘、でしょう?」
「キアラ様」
窘めるように名を呼ばれたことで、すべて現実なのだと理解させられた。忠義ある侍女が、不謹慎な冗談を言うはずもない。
すなわち、訃報は紛れもない真実だ。
「サビーノ様」
エヴァルドの呆然とした声が耳朶を打つ。
キアラは彼を見上げて、歯を軋ませた。かける言葉が見つからなかった。青紫の唇を噛みしめて、彼は迷子の子どものように立ち尽くしていた。
サビーノ・アルディーニ。
エヴァルドが使用人として仕える主人は、幼い頃にキアラが見初めた絵の制作者である。当時から十年以上、キアラが援助し続けている画家だった。
2. 疑惑
丹念に梳られた黒髪が、複雑に編み込まれていく。器用なチェレステの指先は、そのままキアラの頭上に漆黒のヴェールを被せた。
鏡台に映るキアラは、首元の詰まったドレスに、レース編みの長手袋を嵌めていた。揃えたように、どちらも深い闇色をしている。
全身を黒で覆った姿は、窓外の秋晴れに反して陰鬱なものだった。しかし、キアラにとって十年以上も慣れ親しんでいる恰好だ。
「キアラ様。大丈夫なのですか?」
いつも頼りにしている侍女の顔は蒼白だった。心配してくれているチェレステを安心させるため、キアラは朗らかな笑みを繕った。
「大丈夫よ、エヴァルドが一緒だもの。それに領内を歩くのはいつものことでしょう?」
「ですが、その! アルディーニ様の家は、五日前に強盗が押し入ったばかりですのに」
五日前、画家サビーノ・アルディーニは町はずれの自宅で強盗に殺された。遺体はひどい有様で、家にあった包丁で繰り返し何度も刺されていた。
「強盗なら、なおさら町に長く留まったりはしないもの。……きっと、遠くへ逃げてしまったのね」
「でも」
チェレステは涙ぐんでいた。のどかな伯爵領は、殺人など滅多に起きることのない場所だ。彼女の不安も分からなくはない。
「エヴァルドを一人にしたくないの。遺品の整理をするなら、傍にいてあげたいわ。あれは、とても苦しいことだから」
サビーノが殺されてから、エヴァルドはそのまま伯爵邸に留まっている。葬式に出ることもできないほど落ち込んで、客間に引き籠ってしまった。仕えていた主人が殺されたのだから無理もない、と皆が言うだろう。
そんな彼が、昨夜、キアラに声をかけたのだ。
サビーノの
工房にある遺品――制作途中の絵の整理をするために、帰りたい、と。
「あまり、遅くならないでくださいね」
チェレステもまた、憔悴していたエヴァルドを気にかけている。彼がサビーノの家に帰ると聞いて、伯爵家の使用人が口々に心配の声をあげていることを、キアラは知っていた。
もう十年以上の付き合いだ。小さな男の子だった彼を知っているからこそ、伯爵邸の人間はエヴァルドに同情的だ。
「いってきます」
チェレステと別れて、キアラは門に向かう。すれ違う者たちは、やはりエヴァルドを案じており、それとなくキアラに声をかけていく。
「ごめんさい、待たせたかしら」
門に背を預けたエヴァルドは、ゆっくりと瞬きをしてから、首を横に振った。のんびりとした彼らしい仕草だったが、面差しは憂いを帯びている。
「大丈夫、待っていない。……ありがと。遺品の整理、手伝ってもらえると思わなかったから。嬉しい」
エヴァルドは精一杯強がるように口角をあげた。元気がないのは、仕えていた主の死から、いまだ立ち直れていない証なのだろうか。
――それとも、別の理由があるのか。
キアラは猜疑心を押し殺して、エヴァルドの隣に並んだ。
「行きましょう。帰りが遅くなると、チェレステを心配させてしまうから」
サビーノの家は伯爵邸からは遠く、小さな町のはずれに位置している。
町に続く小路を歩いていると、喧騒が心地良い調べとなってキアラの耳に届いた。領民たちの朝は早く、ほとんどの人間が仕事をはじめている。
ファルネティ伯爵領は、面積こそ広くないが、実り豊かで肥沃な土地である。
領民の大半は農耕に従事し、古くは穀物生産で知られていた。時代とともに果樹や野菜の生産もはじまり、キアラの両親が存命だった頃から、舶来の果物を育てることにも力を入れている。
華やかな王都のように洗練された文化はないが、豊かで実りある土地だ。キアラは自らの治める領土と、そこに暮らす人々を愛していた。
「キアラ様!」
少女の声がした瞬間、背中に衝撃が走った。前方に転びそうになるが、寸でのところでエヴァルドが抱き留めてくれた。
「だめ。いきなり飛びついたら、びっくりする」
エヴァルドの視線の先には、柔らかな茶髪を三つ編みにした五歳くらいの少女がいた。両手にひとつずつ小さな花束を持っている。
「ご、ごめんなさい! キアラ様。あのね、あたし」
キアラも良く知る少女で、領内で一番大きな菜園を持つ家の娘だった。
伯爵領は狭く、情報が瞬く間に駆け巡るような土地だ。ほとんどの領民同士が誰かしらと顔見知りであり、キアラも領主として彼らのことを把握していた。
「まあ、アマンダ。どうしたの? こんなに朝早くから。お寝坊さんのあなたが珍しい」
ドレスの裾が汚れることも気にせず屈み込んで、アマンダと目を合わせる。彼女は恥ずかしそうにうつむくと、秋桜の花束を渡してきた。
「今、お邸に行くとこだったの。キアラ様、お花あげる。画家先生が死んじゃったって、おばあちゃん言ってたから。元気ないと思ったの」
キアラは目の奥が熱くなるのを感じた。
守るべき民に心配をかけるような領主では、後ろ盾をしてくれている祖父に叱責されるだろう。だが、こうして気にかけてもらえることが嬉しかった。
「ありがとう。心配してくれたのね」
「良いの。キアラ様は、いつもあたしたちのために頑張ってくれているんでしょ? はやく元気になってね。エヴァルドの分もあるよ。あげる!」
アマンダはもう一つの花束を、エヴァルドに差し出した。
「俺にもくれるの?」
「うん。画家先生とエヴァルド、とても仲良しだったから。元気出してね」
いじらしい少女の言葉に、キアラは目を伏せた。
サビーノという男は、親子ほど年の離れたエヴァルドと仲が良かった。使用人というより、傍からすると家族のように親しい間柄に見えた。
「ありがと、おちびさん。でも、危ないから、一人で外に出ちゃだめ。サビーノ様みたいに殺され……」
「うーん、と。あのね! あたし、もう帰らなくちゃ。おばあちゃんが待っているから」
説教がはじまる前に逃げようと思ったのか、アマンダの背中は驚くほどの速さで遠ざかっていった。
贈られた花束から甘い香りがした。あの小さな手で、これだけの花を集めるには、さぞかし時間がかかっただろう。
キアラを想って、朝早くから摘んでくれたのだろうか。
「優しい子」
「ええ。ファルネティの子だもの」
まるで自分のことのように誇らしかった。ファルネティ領の民の心根が優しいならば、それは一族が土地と人を大事に治めてきた証でもある。
キアラもまた、連綿と繋がってきた血に恥じぬ領主でありたい。
「ここの人、皆、優しい。余所者の俺たちにも、はじめから親切だった」
「呆れた、まだ余所者なんて言うの? あなたたちだって、私の守るべき大事な民よ」
サビーノたちは十年以上伯爵領に住んでいるが、もとは余所から流れてきた人間だ。尤も、気風の良いサビーノも、穏やかなエヴァルドも、領民たちと打ち解けるのに時間はかからなかった。
「その。サビーノのことは、守ってあげられなくて申し訳ないけれど」
領内の平和と人々の生活を守ることは、キアラの大事な役目のひとつだ。
「……キアラ様のせいじゃない」
気遣ってくれる言葉は、耳に心地よかった。いつだってエヴァルドは、キアラを元気づけようとしてくれる。
キアラは彼に気取られぬよう拳を握る。
サビーノを殺した強盗は、いまだに捕まっていない。あの日、すぐに伯爵家の騎士に命じ、捕縛のために人員を手配したにもかかわらず、影すら捕まえることができなかった。
故に、日増しに疑惑が膨らんでいく。
――サビーノ・アルディーニは、本当に強盗に殺されたのだろうか。
秋風がキアラたちの間を通り抜けた。やがて実る秋の香りを漂わせながら。
エヴァルドは風になびいた髪を手で押さえながら、穏やかな笑みを浮かべていた。以前と変わらぬ笑顔を遠く感じるのは、キアラの気のせいなのだろうか。
3. 血痕
人気のない町はずれ。サビーノの家は、日常生活を営むための大部屋と絵を描く
工房の二部屋を中心に造られている。
「足もと、大丈夫? 暗いから気をつけて」
半歩先にいるエヴァルドが、気づかわしげに振り返った。
工房を除けば、この家は太陽の光がほとんど差し込まない。入ってすぐの大部屋は、鎧戸がひとつあるだけで昼間でも薄暗かった。
「平気よ。何度も来ているもの」
「付き合わせて、ごめん。……帰って来るの、一人だと少し怖かったから」
不安げに吐露するエヴァルドは、嘘をついているようには見えない。
主人が亡くなって五日しか経っていないのだ。彼と過ごし、彼が亡くなった場所へ向かうことに恐怖を抱くのは不自然ではない。
それにもかかわらず、キアラは言い知れぬ胸騒ぎを覚えていた。
エヴァルドとの付き合いは、サビーノの援助をはじめたときからであり、すでに十年以上になる。子どもの頃から現在に至るまで、たくさんの思い出を共有してきた。
故に、キアラはこの青年を誰よりも理解しているつもりだった。少なくともサビーノが殺されるまではそう信じていたが、今は自信を持てずにいる。
近しいと思っていた男が、ここ数日、得体の知れない誰かに見える瞬間があった。
「キアラ様?」
名を呼ばれて、キアラは我に返る。
「ごめんなさい、少し考え事をしていて」
心配そうに眉をひそめるエヴァルドは、昔から慕っている年上の男だ。領地の問題に頭を悩ませているときも、祖父に叱責されて涙していたときも、黙って不安な気持ちを受け止めてくれた人だった。
何も変わらない、キアラの知る幼馴染だと、誤魔化すように何度も心に言い聞かせる。
「なら、良いけど」
エヴァルドは大部屋から
工房に続く扉を開く。
扉の先は、黄金の光に満たされていた。天井が高く作られており、大きな窓から光が零れていた。絵を描くときに不自由しないよう、陽光を取り込んで明るい。
やや傾いた床には、使い込まれたもの特有の威厳がある。絵の具の香りを深く吸い込んで、キアラはあたりを見渡した。
いくつものイーゼルが立ち並んでいる。キアラが依頼していたものに限らず、個人的な制作も含まれているのだろう。
一様にして食べ物に関連した静物画だが、総じて未完成だった。
思えば、サビーノは工房にキアラが立ち入ることを渋っていたため、実際に彼が絵を描いていた場に入ったのは初めてだ。
エヴァルドは慣れた様子で工房の真中に移動し、イーゼルに固定された
画布を指差した。大きさは彼の上半身ほどで、他の作品と比して面積の広い画布だ。
「これ、あなたが依頼していた絵」
すぐに、自室に飾る予定だった絵と気づく。依頼したのは、製作者が亡くなるほんの数日前のことだった。
辛うじて木炭で素描はされていた。今回もまた果物の絵らしく、編み籠の中に果実の輪郭がとられている。特徴的なのは、籠から飛び出したいくつかの果実が、画面全体に散っていることだった。落下することなく宙を漂い、重力に逆らうように浮かんでいる。
「……その、左上の赤い汚れは」
「たぶん、サビーノ様の血」
画布の左上に赤黒い染みが散っていた。乾いてこそいるが、澱んだ赤黒い色彩に、死の味を感じずにはいられない。
「ここで、殺されたのよね」
死んだサビーノを発見したのは、エヴァルドの頼みで、野菜を届けに来た老婆だった。先ほど花を贈ってくれたアマンダの祖母である。
町はずれまで足を運んだ彼女は、一向に返事がないことを不思議に思い、家のなかへ立ち入ったのだという。
そして、無残に殺されたサビーノと対面したのだ。
「騎士さんたちが教えてくれたけど……。床に向かって仰向けに、こう倒れていたんだって。たくさん刺されて、血だまりが広がっていた。絵を描いているとき、背後から襲われたんだと思う」
エヴァルドは両手を力なく掲げると、仰向けに倒れる真似をした。よくよく見れば、彼の足下に血痕が残っている。
キアラは道中に少女から貰った花束を、そっと床に撒いた。
「絵を描いている途中に襲われるなんて、さぞ無念だったでしょうね。ここにある絵は、もう永遠に完成しないもの」
未完成の絵の数々は、製作者を亡くし、永久にあるべき姿になることはない。言葉にした途端、その事実は重くキアラに圧し掛かった。
本当に、画家は死んでしまったのだ。
「幽霊でも、いたら良いね」
「幽霊?」
「そうしたら、ぜんぶ完成させてくれる」
キアラは返事に困った。
霊魂の存在は信じていない。死んだ人間が現れるならば、とっくの昔に、亡くなった両親が会いに来てくれたはずだ。
「サビーノでなければ、だめよ。幽霊なんかに、彼の絵は完成させられない」
「そう?」
「そうよ。……他の誰でも、だめなの。彼の絵だけが特別だったのよ」
サビーノ・アルディーニ。
亡くなった画家、キアラにとって特別な絵を制作する男を思い出す。
ひどい猫背であるため多少は威圧感も薄れていたが、口髭をたっぷりと生やした恰幅の良い男だった。
はじめて会ったとき、幼かったキアラは熊のように大柄なサビーノが恐ろしくて、チェレステのお仕着せを掴んで怯えたものだ。
彼が気の良い男だと知ってから恐怖を抱くことはなかったが、当時は後ろに控えていた男の子――エヴァルドの方が、ずっと身近に感じられた。
エヴァルドは少しばかり困ったような顔をしていた。何か言いたげに、彼は唇を開いては閉じている。
「なあに? 変な顔をして」
「その。特別って、言うけど。サビーノ様、王都の画壇にいる人たちと違う」
「……? 知っているわ」
キアラとて、そのことについては重々承知している。南部の田舎町でキアラのためだけに筆をとる画家は、王都の画壇で名を売る者たちとは異なる。
だからと言って、サビーノの絵が劣っているとは思わない。
数年に一度伯爵領を訪れる祖父も、彼の絵の色遣いを褒めていた。祖父はキアラと違って芸術に造詣の深い人なので、サビーノは純粋に腕が良い画家だったのだろう。
「キアラ様、知らなかったと思うけど。あの人、二十年近く前、師匠の顔に泥塗って逃げた。画壇から追放された人間」
「追放?」
エヴァルドはさらりと語ったが、はじめて聞く話だった。
「だから、不思議。どうして、名もない画家を援助しようと思ったの? 自分の財産を削ってまで」
両親が馬車の事故で夭折したため、キアラは幼くして家督を継いだ。様々な事情が絡んだ例外的措置であり、現在キアラは王都で要職に就く祖父から、領地運営を学んでいる最中でもあった。
そして、成人である十八歳に達するまで、大半の財産は祖父の手で凍結されている。キアラが私的に使える分は限られており、そのほとんどがサビーノの援助に費やされていたことをエヴァルドは勘付いていたのだ。
「だって、おいしかったの」
「おいしい?」
訝しげに目を細めた彼を余所に、キアラは続けた。
「小さい頃、町の画廊で一枚の絵を見たの。食卓の絵よ。優しげな母親と口髭の立派な父、そして小さな男の子。テーブルには暖かな料理が並んでいた」
――そこには、キアラの失くしたすべてが詰まっていた。
抱きしめてくれた母も、頭を撫でてくれた父も、彼らに愛された幼いキアラも、絵のなかには色褪せずに残っていた。
この手から零れてしまった愛しいものが、絵のなかには在った。
「おいしい、と思ったの。父母と囲んだ、あの幸せだった食事を、もう一度味わえた気がしたのよ」
あの日、キアラは恋に落ちた。
絵に籠められた食事を味わって、失われてしまった幸福を思い出した。
「サビーノは、あの絵を譲ってはくれなかった。……でも、彼が描いた絵を見ると思い出せる気がするの、幸せだったときのことを。だから、おいしいって、思うのよ」
伯爵邸には、キアラが描かせたサビーノの絵が多く飾られている。すべて料理や果実などの食べ物に纏わる絵であり、眺める度に、キアラは幸福の味を噛みしめた。
エヴァルドは黙って、キアラの言葉に耳を澄ませていた。
「変わっている」
「……わ、悪い?」
「悪くない。だって、おいしいなら、キアラ様、ずっと幸せでしょ? 俺、あなたが幸せなのが、いちばん嬉しい」
キアラは頬を赤くする。エヴァルドは言葉を選ばない。思っていることを素直に口にするので、いつもキアラばかり照れくさい。
気恥ずかしくなって、キアラは血の散った絵画に視線を戻した。
「……それにしても。ここには何が描かれる予定だったのしかしら。エヴァルドは分かる?」
血で赤黒く染まってしまった左上にも何かしらの果実の素描があったはずだ。しかし、今では描かれているものが分からない。
「林檎、かな」
エヴァルドは細い指で、赤黒い染みのあたりを丸くなぞった。
「ここに林檎がある。血の赤じゃなくて、絵の具の赤が混じっている。ここだけ、色を塗っていたんだと思う」
もう一度、彼は赤い果実の輪郭を描くよう、ゆっくりと指で辿った。
「エヴァルドは、とても目が良いのね」
キアラには血と林檎の赤の見分けがつかない。画面全体が暗い色調であるため、絵の具も乾いた血と同化して見えた。
「目が良い? あなたがそう言うのなら、そうかも」
エヴァルドは大して興味がないのか、言葉を濁した。キアラは苦笑して、別のイーゼルに立てかけられた画布を指差す。
「ねえ。こっちは? 何が描かれていると思う?」
こげ茶のテープルに淡い色彩の花束が飾られており、傍には純白の丸皿がある。皿の上に何かを載せようとしていたのか、木炭の線が残っていた。
「木苺のケーキ、かな? この間、王都で食べたらしいから」
「木苺のケーキ? しっとりしていて、舌に溶けると甘酸っぱさで楽しくなるの」
描かれてもいない菓子を想像しながら、キアラは右頬に手をあてた。口のなかに柔らかなスポンジが溶けて、木苺の爽やかな酸味が歯で弾ける。
キアラは夢見心地のまま、今度は隣の画布に目を向ける。こちらは何が描かれているのか断定できた。
ふくよかな陶器のティーポットに、繊細な取っ手のカップが揃えてある。下に敷かれた生成りのクロスは細やかなレースで縁取りがされていた。
「ティーセットね! 可愛い。お茶会の絵かしら? 紅茶の香りがするわ。とっても素敵な味わいなの。浮かべられているのは、何の花弁?」
カップを満たす飴色の水では、可憐な花弁が揺れていた。花弁から芳醇な香りがして、キアラは頬を緩めた。
「薔薇? この緑、たぶん、茨だと思う。陶器に茨を描こうとしていたなら、浮かべる花弁も揃える」
「茨? まあ、良く気づいたわね」
茶器の表面にごく細い緑の曲線が引かれていた。これが茨になるならば、紅茶で揺れているのも薔薇の花弁なのだろう。
「キアラ様、いつも幸せそうに絵を食べるね」
絵を食べる。奇妙な言葉だったが、キアラの行為はそんな風に呼ぶべきものかもしれない。
「だって、おいしいのだもの」
キアラは何度目か分からない主張を繰り返す。一般的に理解されにくい感覚であることは分かっている。だが、サビーノの絵を見ていると本当に味が感じられるのだ。
「おいしいなら、良いこと。あなたが絵を見ているときの幸せそうな顔、好き」
エヴァルドは目を細めた。花が綻ぶような控えめな笑顔だった。
「……私だって、好きよ」
彼の穏やかな笑みが、いつも傍にいてくれた年上の男の子が、ずっと昔から大好きで堪らなかった。
だからこそ、キアラの胸は痛んでいる。
4. 隠蔽
工房の片づけをしていると、時間はあっという間に経過した。ひと段落がついて、キアラたちは大部屋に戻る。
「薔薇の紅茶はないけど。赦して」
備えつけの厨にいたエヴァルドが、カップを差し出してきた。中身が何であるのか気づいて、キアラは目を細めた。
「エヴァルドの淹れるハーブティーも好きよ。ミルクをたっぷり加えて飲むと、ほっとするの。優しい味よ、あなたみたいに」
カモミールを使ったハーブティーに、温めたミルクと蜂蜜を加える。子どもの頃から、彼が作ってくれる甘く贅沢な飲み物がキアラは大好きだった。
「俺を優しいなんて言うの、キアラ様だけ」
「そうかしら?」
「そう。優しいの、キアラ様。俺みたいなのに手を伸ばす。伯爵さまなのに」
揶揄するような《伯爵さま》という呼び方に、キアラは唇を尖らせた。
「仲良くなりたかったのよ、あなたと」
強引に迫ったことは認めるが、当時のキアラは、可愛らしい男の子と一刻も早く仲良しになりたかったのだ。
領内に住む同じ年頃の子どもたちは、皆良い子だったが、それ故キアラに遠慮していた。あのときのキアラが親を亡くしたばかりということもあり、隔たりはさらに大きくなっていた。
余所の土地から流れてきたエヴァルドに対してだけ、キアラは気構えずにいられた。落ちついた雰囲気と、何処か抜けたのんびりとした性格に癒されて、キアラはすぐに彼のことが好きになった。
「未婚の娘が男と一緒にいるんじゃないって、お祖父様に散々怒られたくせに。懲りずに、俺と会うし」
普段は王都で暮らしている祖父にとって、孫娘が画家の使用人と仲良くしている姿は異様な光景だったらしい。きつく叱られたが、何が悪いのか理解できなかった当時のキアラは、エヴァルドと会うことを止めなかった。
祖父の怒りを理解し、弁えるべきことを弁えるようになった今でさえ、エヴァルドのことだけは我儘を通している。
「どうして、この子は俺のとこに来るんだろう、って不思議だった」
「迷惑だった?」
「ううん、嬉しかった。……キアラ様が、あのとき絵を見初めてくれて良かった。それがなかったら、あなたと会えなかった。サビーノ様も、俺があなたと一緒にいるの、喜んでいた」
主人のことを思い出したのか、エヴァルドは顔を歪めた。
「サビーノのこと、悲しい?」
両親を亡くしたとき、キアラはとても息が苦しかった。何年も前に遺品の整理を終えて、喪が明けた今も、黒いドレスを脱げずにいる。
エヴァルドは逡巡してから、キアラの紫の両目を覗き込むように顔を近づけてきた。突然のことに、キアラは場違いにも頬を染めてしまった。
「エヴァルド?」
早鐘を打つ鼓動が、彼に届きそうで怖かった。
「キアラ様。悲しい、って言ってほしい?」
熱に浮かされそうになった頭に、冷や水を浴びせられる。
彼の問いは、悲しくないと言っているのと同義だった。
主の死により、エヴァルドは悲しみに暮れていると思っていた。キアラは彼が悲しんでいると信じたかったのだ。
「……どうして、悲しくないの?」
「いつか、こんな日が訪れると思っていたから」
いつかサビーノが殺されると思っていたという意味か。それとも、人はいずれ死ぬという一般論なのか。
「あなたがおいしいと言う絵、たくさん色を重ねて、あんな風になる。表面を削ったら、別の色が隠れている」
「なあに? 突然」
「目に見えるもの、いくらでも嘘がつける。――ねえ、あなたには、俺とあの人がどんな風に見えていたの?」
「どうって……。仲の良い、家族みたいだと。私だけではなくて、みんな、そう思っていたはずよ」
町を連れ立って歩くサビーノたちは、険悪な関係とは思えなかった。領民たちも、画家先生のところは仲が良い、とうわさしていたはずだ。
エヴァルドは、まるで何かを諦めるかのように視線を落とした。
「勘違い。あの人にとって、俺は奴隷みたいなものだった」
穏やかではない言葉だ。いつも凪いでいたエヴァルドの淡い瞳の奥に、炎のような鋭い光が差し込んでいる。
「あの人は、ひどい男」
十年以上、それこそサビーノが余所の土地にいた頃から、エヴァルドは彼に仕えていた。当たり前のことだが、キアラよりもサビーノについて詳しい。
彼がひどい男だと言うならば、本当にサビーノは――。
「なんて、ね。嘘」
「……嘘?」
「そう。ただの冗談」
平坦な声で答えた彼は、一瞬にしてもとの調子に戻っていた。
「たちの悪い冗談は、やめて。心臓に悪いわ」
「ごめん。……お詫びに、工房にある絵、気になるのがあれば持っていって良い」
「それは、買い取らせてもらえるなら嬉しいけれども。サビーノの御家族に許可を貰わないと」
「平気。サビーノ様、家族なんていない」
キアラは声を失くす。画壇を追放された話のときもそうだった。サビーノのことを守るべき民だと言いながら、ほとんど彼のことを知らない。
生まれも育ちも、歩んできた人生さえ、何一つ分からなかった。
「なら、エヴァルドは、どうしてサビーノのところにいたの?」
この人は、何故、画家に仕えていたのか。キアラの援助を受ける前の貧しかった頃から、どうして傍にいたのか。
「行き場がなかったから」
「なら、サビーノとは、好きで一緒にいたわけではないの?」
エヴァルドは答えなかったが、沈黙は紛れもない肯定だ。
「キアラ様。訊きたいのは別のこと。違う?」
苦しくて、息ができなくなりそうだ。
エヴァルドの言うとおり、キアラが尋ねたかったことは、もっと別のことだ。
――サビーノが亡くなった日、エヴァルドはキアラと一緒に伯爵邸にいた。
しかし、それは訃報が届いたとき同じ場所にいたというだけで、エヴァルドの無実を証明するものではない。
影も形も見当たらず、煙のように立ち消えてしまった強盗は本当に実在したのか。
それこそ幽霊のように、キアラはまぼろしに惑わされているだけではないか。
喉がからからに乾いて、舌先が口腔に張りついている。
長らく育ててきた想いが、この人を慕う恋心が目を曇らせてしまう。そこにあるはずの真実を正しい形で捉えようとせず、キアラの信じたいものを――キアラの見たいものだけを映し出そうとしている。
サビーノがひどい男だと言うならば、仕方なしに彼のもとにいたというならば、エヴァルドは彼を憎んでいたのではないか。
重苦しい静寂のなか、キアラは喉元を引きつらせる。震える唇を、やっとのことで開いた。
「……チェレステに、怒られるから。もう、帰らないと」
零れそうになった涙を、必死になって堪えた。こんなにも卑怯な自分をキアラは知らなかった。
――あなたが、サビーノを殺したの?
疑惑を口にしてしまったら、何もかもが終わってしまう気がした。
傍にいてくれた人が、また何処かへ消えてしまう。帰らぬ人となった両親のように、エヴァルドまでもがキアラを置き去りにする。
「送ってあげる」
キアラたちは、夕焼けに染まる道を二人で歩いた。
どちらからともなく繋がれた手に、キアラは縋りつくように力を籠める。だが、嵌めた手袋に遮られて、温もりひとつ分からなかった。
互いの肩が掠るほど近くにありながら、本当の意味で触れ合うことはなく、はじめから二人は隔てられていたのかもしれない。
エヴァルドの前髪が風に舞いあがって、彼の淡い双眸があらわになる。その目が映している世界は、おそらくキアラと同じではないのだ。
小夜啼鳥が遠くで鳴いている。
伯爵邸に帰ったキアラは、夜半を過ぎても眠れず、寝室に飾られたいくつもの絵を眺めていた。
額縁に収められた絵は、どれも晩餐の光景や食物そのものを題材としている。
キアラは絵に詳しいわけではない。芸術に造詣が深いのは王都で暮らす祖父で、キアラは著名な画家の名前すら言えない。サビーノの援助とて、彼が世間的に評価されることを望んだからではなく、自分のために絵を描いてほしかっただけだ。
おいしい絵。
キアラは他の誰が描いた絵を見ても、おいしいなんて思わない。王都に足を運んだ折、祖父が自慢げに披露してくれた蒐集品の数々にも味は感じられなかった。
飾られた絵の一枚に吸い込まれるように、キアラは呼吸を忘れる。
五日前、エヴァルドが納品に訪れてくれた絵だった。サビーノの死を知らされてから、応接間から寝室へ移したものだ。
皿に盛られた種々の果実は、実に繊細な色遣いをもって、キアラの心を強く揺さぶる。
たくさんの果実の味が、次々とキアラの口内で踊る。やがて訪れる腐敗さえも忘れて、絵に籠められた果実は瑞々しい甘露を滴らせていた。
舌先を撫ぜる幸福の味に、不意に塩辛さが混じった。いつのまにか流れた涙が頬を伝って、唇を濡らしていた。
「エヴァル、ド」
きっと、強盗なんて存在しなかった。
この小さな土地は、皆が皆、誰かしらの顔見知りだ。怪しい人間が領内にいたならば、余所者を見かけた者がいた。ひとつも報告があがらなかった時点で、すでに答えは出ていた。
「どうして」
どうしても、キアラは信じたくない。
たとえ憎んでいたとしても、降り積もった恨みがあったとしても、エヴァルドが自ら人殺しに手を染めると思えない。
キアラは背中から寝台に倒れ込んだ。柔らかな羽毛に身を沈めて、紗の垂らされた天蓋を見つめる。
――サビーノも、今のキアラと同じような光景を、死の間際に見たのだろうか。
殺されたサビーノは仰向けに倒れていたという。エヴァルドは、
画布に向かう無防備なときに背後から襲われ、そのまま殺されてしまったのだろうと零していた。
包丁を手にしたエヴァルドが、イーゼルの前に腰かけるサビーノに迫る。そして、その背に刃を突き立てる光景を思い浮かべて、キアラは目を丸くした。
「あお、むけ?」
刺されたサビーノは、画布の左上に血痕を残しながら、天を仰ぐようにして床に倒れ込む。しかし、その想像はあまりにも違和感の残るものだった。
「……そ、う。だから」
だから、彼は画家を殺したのか。
キアラは寝台から飛び降りた。衣装棚から黒のショールを掴んでて、薄絹の寝間着のうえから羽織る。着替えて髪を結わえる暇も惜しくて、キアラは寝室を飛び出した。
チェレステはすでに就寝の挨拶を済ませ、自室に下がっている。警備の騎士たちも、この頃は強盗の情報を探しに近隣まで出向いており、伯爵邸にはあまり残っていない。今ならば、誰にも覚られずに邸を抜け出すことができる。
キアラは伯爵邸をあとにして、月明かりに照らされた道を走った。
5. 秘密
サビーノの家、
工房に飛び込んだキアラは、そこに佇む男を捉える。
青白い月光を浴びながら、キアラに背を向けた彼は宙を仰いでいた。
「……何処へ、行くつもりだったの」
傍らにある大きな鞄は、生前のサビーノが遠出をする際に使っていたものだ。
「夜の一人歩き、危ない」
「答えて! サビーノを殺したから。だから、出て行くの? でも、そんなの。だって、あれは!」
目に見えていることが真実とは限らない、とエヴァルドは言っていた。
重ねた絵の具の下に隠された色のように、取り繕われた表面を剥がしたとき、思いもしなかった真実が現れる。
キアラは、ずっと疑いもしなかった。
おいしい絵の数々が、本当は誰の描いたものだったのか。
「エヴァルド。……サビーノの絵は、あなたが描いていたものだったのでしょう?」
キアラに背を向けていたエヴァルドが、ゆっくりと振り返る。
青白い面は月光に溶けてしまいそうなほど儚かった。無理をするように口端を吊り上げて、彼は不格好な笑みをつくる。
「やっと。気づいたの?」
キアラは目を伏せる。
エヴァルドは未完成の絵に詳しかった。何が描かれているのか、何を描こうとしていたのか、まるで作者本人が語っているように話していた。
サビーノの血が散った絵にある林檎も同じだ。自分が描いたものだからこそ、内容を理解していたのだ。
そして、何よりも奇妙だったのは、サビーノが死んでいたときの状況だ。
「サビーノは、仰向けに亡くなっていた。絵を描いている最中に背後から襲われたのではないか、とあなたは言ったけれど。――
画布に向かっていたなら、どうして仰向けに倒れるの? 後ろから刺されたなら、前に倒れるでしょう」
今朝、アマンダに後ろから飛び付かれたキアラは、前方に転びそうになった。背後から刺されたサビーノも、同じように前に倒れるはずだ。
そもそも、絵を描くとき、たいていの人間は前傾姿勢になる。サビーノはひどい猫背でもあったから、まさか後ろに仰け反って絵を描いていたなんてことはないだろう。
前かがみになっているとき背後から刺されたならば、画布に向かって、うつぶせに倒れ込む。あの絵は万遍なく血塗れでなければならなかった。
しかし、実際に血痕が残されていたのは左上部分だけだ。
まるで、サビーノと画布の間に、飛び散った血を遮る誰かが存在したように。
「画布に向かっていたのはエヴァルド、あなただった。背後から襲おうとしたのが、サビーノ。あなたは、抵抗の末にサビーノを刺したの」
すべては憶測に過ぎないが、おそらく正解であろうとキアラは確信していた。
画布の前で揉める男たちが目に浮かぶ。襲われたエヴァルドは、サビーノから凶器を奪って彼を刺した。結果、サビーノは天を仰ぐようにして亡くなった。
エヴァルドは笑ったような、泣いているような曖昧な表情を浮かべていた。
「そう、あの人は俺を殺そうとした。――俺が、ぜんぶ、キアラ様に話すと言ったから」
キアラは凍りついた。
エヴァルドは笑みを崩さずに続けた。
「困るよね、今さら正体をばらされたら。あの人、俺に絵を描かせて、キアラ様から貰ったお金で贅沢していたから」
キアラの頭に死んでしまった男の姿が浮かぶ。気の良い男だった。他人を犠牲にしてまで利益を貪る男には見えなかった。
しかし、見えていることだけが真実ではないのだ。
「どうして、教えてくれなかったの? だって、十年以上なのよ。……っ、そんなに長い間、あなたは」
微塵も気づくことのなかった自身を棚に上げて、キアラは責めるように問うた。キアラに秘密を打ち明ける機会など、過ごした年月のなかにいくらでも存在したはずだ。
「言うこと聞いてれば、いつか認めてもらえる。愛してもらえる。ばかな夢を見ていた。――あんな人間でも、父親だったから」
「ちち、おや? だって、サビーノには家族なんていない、と」
「いない。俺は不義の子。血は繋がっていても、家族じゃない」
父の代わりに絵を描き続けた青年は、過去に思いを馳せる。
「サビーノ様が師匠の顔に泥を塗ったの、俺が原因。あの人は、師匠の援助者だった貴族に手を出した。どこかの家の夫人だったらしいけど、詳しくは知らない」
それだけで、もうキアラはすべてを理解してしまった。
エヴァルドの母が貴族であり、何処かの家に嫁いでいた人間ならば、画家との間に生まれた子どもなど醜聞でしかない。そして、そんな女に手を出したサビーノが画壇で成功するはずもなかった。
貧困に喘ぎながら、彼は不義の子を連れて、ファルネティ伯爵領に流れ着いたのだ。
「それでも、サビーノ様、筆を折れなかった。必死になって絵を描いた。……だけど、俺が真似したから。そうしたら、すごく怒って、二度と描かなくなった」
理由が分からない、と戸惑うエヴァルドと違って、何故、サビーノが筆を折ったのかキアラには分かった。
エヴァルドはとても目が良い。おそらく、彼はキアラたちより鮮やかに彩られた世界を感じている。鋭敏な色彩感覚によってつくりだされる緻密な色味は、彼だけに与えられた特別なギフトだった。
キアラが感銘を受けた絵は、サビーノの心を容赦なくへし折ったのだ。
「俺は、ずっと父の幽霊。いつまで、幽霊でいなくちゃだめなの。俺が、俺として認められたいと思うの、そんなにいけないこと?」
本当に評価されるべきは、エヴァルドの方だった。
彼がキアラに真実を告げたいと願ったことの何が悪いのか。幽霊から人になりたいと願ったことで、何故、責められなければならないのか。
「黙って、殺されるべきだった?」
キアラは声にならない悲鳴を堪えて、必死になって首を横に振った。
「刺されそうになったとき、キアラ様の顔が浮かんだ。……きらきらした紫の瞳で、俺を、じっと見ていた。抱きしめると、小さくて、守らなくちゃって感じた、あなたの、顔が。――死にたくなかった。せっかくあなたが見つけてくれたのに、こんなところで終われない。終わりたくなかった」
エヴァルドは肩を震わせて、鞄に押し込まれていた何かを取り出す。粗末な額縁に籠められた一枚の絵だった。
「それ、は」
エヴァルドは小さく頷いた。
「あなたが見初めてくれた一枚。どうしても譲れなかったの、ここに俺のサインが、エヴァルドのサインがあるから」
絵の隅にはたしかにサインがあった。幼いキアラが気づけなかったエヴァルドの名が刻まれていた。
サビーノは息子が絵を描いている事実を隠すために、この絵をキアラに渡さなかったのだ。
今も忘れぬ、最もおいしい絵。
暖かな食卓を囲む家族の肖像、キアラの失くした幸せを思い出させてくれた絵だ。父母を亡くし、悲しみに暮れていたキアラをもう一度歩かせてくれた絵でもある。
そして、キアラは想像した。この絵は、きっとエヴァルドの憧憬でもあった。彼が望んで手に入らなった光景だ。
エヴァルドの睫毛が震えて、透明な滴が一筋流れる。
「嬉しかった。あなただけが、俺のこと、見つけてくれた。俺は、ここにいて良いんだって。生きていて良いんだって、言ってもらえた気がした。……そんな赦しが、ずっと欲しかった」
キアラは今にも崩れ落ちそうな膝を諌めて、エヴァルドに駆け寄った。
「赦しなんて! そんなの、何度だって与えてあげる」
彼の右手――筆を握る大事な手を、キアラは両の掌で優しく包む。胼胝の残る節くれだった指先は、描く人のものだった。
「殺されそうになったから、抵抗しただけなのよ。あなたに殺意があったわけじゃないもの。……っ、だから!」
「それをあなたは信じるの? 誰も証明なんてできない。俺は、ただの人殺し」
「違う!」
「違わない。……助けられたのに、見捨てた。血を流して命乞いする父を、虫けらみたいに眺めて、何度も刺した。ちっとも悲しくなかった。俺は、そうやって誰かを殺せる化け物」
「……っ、そんなこと、ない!」
エヴァルドはそっとキアラの頬に触れた。大きな掌が頬を包み込んで、キアラの視線をあげさせる。
「余所者を庇っちゃ、だめ。あなたは、この土地に住む人たちを守らないと」
エヴァルドだって、キアラの守るべき民だったはずだ。
大切な領民たち、祖先から受け継いできた土地、そのすべてがキアラの宝物だった。しかし、その宝物よりもなお特別なものが、キアラにとってのエヴァルドなのだ。
彼が傍にいてくれたから、キアラは強く在ろうとすることができた。
「ファルネティの人たち、優しい。……俺は、優しく、なれなかった。だから、あなたの民じゃない」
それは決別の言葉だった。惜しむように、エヴァルドは告げる。
「本当は、ね。キアラ様のために、たくさん、おいしい絵を描いてあげたかった。あなたが幸せなら、俺も、幸せ」
涙に濡れた金褐色の瞳に吸い込まれるように、キアラは瞬きを忘れる。
エヴァルド、と呼ぶ声が、彼の唇に遮られてしまった。触れるだけの口付けは羽のように軽く、すぐに溶けてしまった。
「好き。だから、一緒にいられない」
次の瞬間、武骨な指先がキアラの首を覆った。声をあげる暇もなく、彼の腕が一瞬で首を締めあげた。
意識が深い闇へと攫われていく。
さようなら、と囁く人の姿は、遠く何処かへ消えていった。
6. 赤色
キアラ・ファルネティは、一枚の絵の前に立った。
中途半端にデッサンの残る大きな画面は、左上だけ赤い林檎が描かれていた。
別れの日、目覚めを迎えたとき、エヴァルドは傍にいなかった。去ってしまった彼の代わりに残されたのは、サビーノの血に重ねて新しく描かれた林檎だった。
まるで悲しい出来事を隠すように、キアラが綺麗なものだけを目に映すことができるように、彼は赤い果実を残して消えた。
「エヴァルド」
もし、キアラが秘密に気づいていたならば、彼は隣にいてくれただろうか。
――熟した果実が、そっと舌を撫ぜた。
鮮麗な林檎の赤の下には、溺れるような血の色が隠れている。甘い林檎に隠された死の味だけが、キアラとエヴァルドを繋ぐ唯一のものだった。
「おいしい」
強がりを口にして、キアラは目を伏せる。溢れた涙が頬を濡らしていた。
行方知らずの画家を、かける言葉も知らぬまま、今もキアラは探している。