夜の翅 月の絆

| モクジ

  夜の翅 月の絆  

 ――明けない夜の果てに、きっと、二人手を繋ぐ世界がある。

 背中から生えた闇色の翅が、日の光を浴びて焼ける音がした。箱庭の世界を象る男神たいようは、女神つきを喰らった魂を持つ妖精を赦さない。
 銀の柵に囲われた籠の中で、シエルラは白金の長い髪を散らしていた。
 肋骨の浮き出た青白い身体を起こすと、足枷の鎖が床と擦れて音を立てる。強く歯を食いしばって涙を堪えながら、震える手を籠の外へと伸ばした。
 窓から零れ落ちるわずかな陽光でさえも、翅を焼く猛毒にしかならない。逃げ出すこともできず、ひたすらに翅が熱と痛みを宿す。
 ――このまま、太陽に焼き殺されて死んでしまうのかもしれない。
「ねえ、生きてる?」
 不意に、柔らかな声が頭上から降り注ぎ、伸ばした指先が冷え切った手に包まれる。
 シエルラの指先を握っていたのは、美しい青年だった。首元まで覆う服の上から真昼に不釣り合いな黒いローブを身に纏い、彼は夜闇を溶かしこんだ髪を陽光に晒していた。人形のように整った顔に嵌めこまれた銀の瞳は刃物のように研ぎ澄まされ、一糸纏わぬ痩せた少女の姿を映し出している。
 小さく頷いて青年を睨みつけると、彼は繋がれた手に力を込めて、赤く熟れた果実のような唇を釣り上げた。
「この子、僕が買うよ」
 青年は近くにいる男に何十枚もの金貨を渡して、シエルラを囲う籠の鍵を受け取った。金属がぶつかるような音がすると、閉ざされていた籠がゆっくりと開かれる。
 壊れ物を扱うようにシエルラの裸身を抱きあげて、青年は歩き出す。彼の腕は思いの外力強く、疲弊した身体に沁み渡る他人の熱は酷く心地よかった。その熱に身を任せると、重たくなった瞼が落ちそうになる。
 だが、目を閉じようとしたシエルラを咎めるように青年が額を合わせてきた。
「僕はルシオ。夢に落ちる前に、君の名を聞かせて」
 囁いた青年に、シエルラは消えそうな声で己の名を紡いだ。


 一筋の光さえ差し込まない闇夜を、シエルラは一人で彷徨っていた。空を見上げても失われた女神つきは見当たらず、目的地も分からぬままに足を動かす。だが、どれだけ歩いても何処にも辿りつくことはできない。
 静寂に包まれた夜は風のざわめき一つなく、底知れない恐怖が足元から這い上がってくる。膝から崩れ落ちたシエルラは、溢れ出す涙を乱暴に拭い無音の闇に向かって手を伸ばした。
 すると、震えるシエルラの手を誰かが握りしめた。一切の体温がないかのように冷え切った指先が、シエルラの心を繋ぎ止める。
 その手を恐る恐る握り返そうとした時――、世界は反転する。
 深く沈んでいた意識を引き摺りだされて、シエルラは重たい瞼を開いた。霞んでいた視界が明瞭になり、衣擦れの音と共に奪われていた聴覚が戻っていく。
 頬に感じるのはかたく冷たい床ではなく柔らかな白布で、何処かにうつ伏せに寝かされていたことを知る。極端に痩せ細った腕に力を込めて、シエルラは少しずつ身体を起こした。
 まず目に入ったのは、おびただしい数の美しい少女たちだった。否、一瞬、生身の少女たちに見えたが、目を凝らせばそれが作り物の少女たちだと分かる。滑らかな白磁の肌を薄闇に浮かべ、輝く宝石を瞳に埋め込んだ少女たちは背に大きな翅を広げていた。その翅は一様にして闇に染まり、金や銀の鱗粉がまぶされている。
 ――ああ、妖精人形だ。
「目が覚めた? 何日も眠り続けるから、死んでしまったのかと思った」
 耳慣れない声に肩を揺らすと、刃物の煌めきを閉じ込めた銀色の瞳がこちらを見つめていることに気づく。
 美しい、青年だった。透き通るような白皙の美貌は息を呑むほど整っていて、鮮やかな赤の唇には酷薄な笑みが浮かんでいる。
 彼はルシオ。シエルラを買った人間。
 思わず彼から距離をとろうとした途端、身体に激痛が走り、喉の奥から悲鳴が零れ落ちる。
「そんな傷だらけなのに、いきなり身体を動かそうとするからだよ」
 ルシオは呆れたように溜息をつきながら、シエルラの白金の髪に手を伸ばした。男性にしては細く長い指先が、シエルラの髪を撫でては梳いていく。
 彼の視線から逃れるように、シエルラは顔を俯かせる。
 いつの間にか、傷だらけだった裸身には包帯が巻かれ、肩から背中にかけて露出したドレスが着せられていた。
「寒そうだったから着せたんだけど、お気に召さなかった?」
 シエルラは彼の質問に答えることなく、訝しげに目を細めた。
「……妖精を買うなんて、どういうつもり? 翅は渡さないわよ」
 この翅は罪の種、この翅は妖精の魂。手折られれば朽ち果て、奪われれば死に絶える。シエルラの言葉が意外だったらしく、ルシオは目を瞬かせてから苦笑した。
「もしかして、神殿に売られると思っているの? ばかだな、もう、君の翅にそんな価値はないよ。だから、あんなところで売られていたんじゃないか」
 ルシオは部屋の片隅に立てかけられた一枚の鏡を指差す。その指先を辿ると、鏡には寝台で身を起こす少女の姿があった。何処にでもいる少女と変わらないように見えるが、痩せこけた少女の背には、向こうの景色が透けるほど淡い白銀の翅・・・・が揺れていた。
「……色が、抜け落ち、て」
 元々闇色だった翅の変わり果てた姿に、シエルラは絶句する。
「夜にしか生きることのできない妖精にとって、陽光は毒に等しい」
 冷ややかな彼の掌が、シエルラの肩甲骨をそっと撫でる。骨ばった指が翅の表面を撫でつけると鋭い痛みが走り、シエルラは堪らず息を乱した。
「太陽に憎まれているのに、日の光なんて浴びるからだよ」
 耳元で囁くルシオに、シエルラは反射的に手を振り上げた。だが、その手は容易く掴まれてしまい、乱暴に寝台の上に倒される。うつ伏せにされた身体をよじり、シエルラは金の瞳で彼を睨みつけた。
「そんなに怯えなくても、とって食うような真似はしないよ。愛らしい外見に似合わず、手負いの獣のような子だね。今にも僕の喉笛を食いちぎりたいって顔をしている」
「お望みなら、食いちぎってあげるわ」
 ルシオは、剥き出しのシエルラの肩に触れる。
「強がるのは良いけど、身体が震えているよ。なにも少ない命を無暗に散らすことはないだろう? しばらくは安静にしていた方が良い」
「少ない、命……?」
 ルシオが何を言っているのか分からず、シエルラは唇を戦慄わななかせた。
「翅は妖精の魂そのものだ。男神たいように焼かれて翅を痛めた妖精が、長く生きられるはずないだろう」
 鏡に映る白銀の翅は、良く見ると所々が破れていた。動揺して寝台の上で動かした指先が、細々こまごまとした何かに触れる。
 それが何であるか気付いて、シエルラは口元を手で押さえた。
 粉々になった翅の欠片が、金の鱗粉を振り撒いて散っていた。薄闇に寄り添う残酷な輝きに、シエルラは目を見張る。
「改めて自己紹介をしようか。僕はルシオ、人形師だよ」
 微笑んだルシオに、シエルラは何も言うことができなかった。


 たくさんの少女人形たちが、宝石の瞳でシエルラを見ていた。
 背に黒い翅を広げた彼女たちは、髪や瞳こそ違うものの、一様にして同じ容貌をしている。春の陽だまりのように微笑み、今にも泣き出しそうな様子で目を伏せ、時には激しい怒りに顔を歪ませている者もいる。
 ――数多の表情を浮かべた彼女たちを見る度に、シエルラは不思議な既視感・・・を持った。
 今、床に座り込むルシオの手に抱かれた人形は、男神たいように祈りを捧げる信徒のごとく凪いだ表情をしている。妖精が神に祈りを捧げるなど皮肉以外のなにものでもないが、だからこそ、客には好まれるのかもしれない。
 ルシオの細い指先が、少女人形の白く滑らかな裸身に豪奢なドレスを着せて、艶やかな髪に瞳と同じ宝石の髪飾りをつける。その手つきは驚くほど柔らかで、彼は何かを懐かしむように穏やかな顔をしていた。その人形が愛おしくて堪らないのだと、彼のすべてが物語る。
 彼が愛でる人形と同じようにドレスを着せられ、髪飾りをつけられたシエルラは小さく溜息をついた。貧しい家に生まれおちた自分には不釣り合いなものだが、シエルラのような死にぞこないに惜しげもなく金貨を払う人間なので、彼にとって大したものではないのかもしれない。
 妖精は太陽を崇める神殿から忌み嫌われる存在だが、裏では富裕層に人気の愛玩物として出回っている。妖精を題材とする芸術家は彼らを相手にしているため、表だって商売することこそできないものの、必然的に実入りは多くなる。ルシオとて例外ではないのだろう。
 寝台の上で頬づえをつきながら、シエルラは人形に触れるルシオに視線を遣った。
 彼は、毎日シエルラの部屋を訪れる。
 朝から夜まで人形作りに没頭する日もあれば、部屋中に存在する人形たちに微笑みかける日もあり、シエルラを構い倒して出ていくだけの日もある。彼にとって、シエルラは好きな時に愛でる人形のようなものかもしれない。きっと、彼が創り出す少女たちとシエルラの間には違いなど存在しないのだ。
 綺麗なドレスを着せて、宝石が映えるように肌を磨いて、滑らかな指通りになるように髪に櫛を通す。一つの作品を仕上げるように、彼はシエルラを扱った。
「どうかしたの?」
 シエルラの視線に気づいたルシオは、人形から手を離して首を傾げる。
「……貴方、わたしのこと、買ったのよね?」
「そうだよ、君を買ったのは僕だ」
「支払った金貨の価値を、わたしに求めないの?」
 彼はシエルラに何かを無理強いしたりしない。人形のように飾り立てることはあっても、無体を働くことはない。愛玩用の妖精として売られていたシエルラにとって、彼の行動は良い意味で予想を裏切るものだった。
 彼は目を丸くしてから、肩を震わせて俯いた。どうやら、笑っているらしい。
「何が可笑しいの」
「自分に金貨と同じ価値があると思っているのが、可笑しくて。お金のことなんて、僕は別にどうでも良いんだ。腐るほどあるから興味ない」
 シエルラは眉をひそめた。彼が裕福な人間だと言うことは理解できるが、シエルラ自身には何の価値もないと言われたような気がして苛立ちが募る。
「男神《おがみ》を祀る世界で、彼に憎まれた妖精に価値なんてあるわけないだろう」
「……翅は罪の種。女神を殺した愚か者の魂の欠片、だから?」
 太古の時代、背に美しい翅を広げた女神つきを喰らった愚かな青年がいた。彼は女神の伴侶たる男神たいようの怒りを買い、その魂を幾千の欠片に砕かれる。砕かれた魂は罪の種と呼ばれ、この箱庭に生まれる幾千の魂へと宿された。
 妖精は罪の種を宿した人間の果てであり、その翅は太陽に憎まれた魂そのものなのだ。
 シエルラたちは、背に広がった黒い翅によって夜を生きざるを得なくなる。二度と日の当たる場所では生きられず、あたりを見渡し手を伸ばしても、ひたすらに先の見えない闇が広がっているだけだ。
「しかも、君は妖精の中でもさらに惨めな死にぞこないじゃないか」
 シエルラはきつく目を瞑る。
 悪夢のような光景が脳裏に浮かんで、血が滲むほど強く拳を握りしめた。一夜で綻んだ花のように、闇色の翅が背に広がった日。泣き叫んだシエルラを見てかすかに笑んだ家族たちが、何本もの手を伸ばしてくる。その手に握られた凶器が肌を抉った瞬間、駆け抜けたのは身体の痛みだけではなかった。
 裏切られたと思ったときにはすべてが手遅れで、血だらけのまま逃げ出して――。それでも、逃げ切ることは叶わず気付けば囚われていた。売り出されることに怯え、買いとられた先では死を宣告された。
 すべて、何かの間違いだと思いたかった。妖精となった以上に不幸なことなど、起こって良いはずがない。
 だが、ルシオの言葉を肯定するかのように翅が痛みを訴える。
「それなら、……どうして、ルシオはわたしを買ったの? 惨めな死にぞこないを、わざわざ買ってやる必要なんてなかったでしょう」
 近いうちに死んでいく妖精など、彼にとって何の価値もないはずだ。厭味を込めて問いかけると、彼はシエルラの頬に手を伸ばす。
「終わりが見たかったんだ」
 彼の手が頬を撫で上げて、やがて、シエルラの頤を掴んだ。顔を上げさせられ、無理やり視線を合わせられる。
「夜の牢獄を彷徨う妖精の、翅を散らす瞬間が見たかった。散り際に美しい花を咲かすのか、それとも、惨めなまま朽ちていくのか」
 赤い唇を釣り上げ、銀の眼を細めて彼は嗤った。


 暖炉の中で火の粉が爆ぜる音を聞きながら、毛布に包まって膝を抱えたシエルラは宙を見上げた。
 寝台の横に備えられたテーブルには、今朝、ルシオが置いて行った食事がある。シエルラのために用意されたスープは、運ばれて来た時は温かだったが、今では湯気一つ出ていない。
 部屋の扉が開かれると、黒いローブを纏ったルシオが顔を出す。
「まだ、食べていなかったの?」
 手つかずのスープに眉をひそめると、彼はシエルラの顔を覗き込む。白く滑らかな手が、シエルラの頬に触れた。
「泣いているの?」
 彼の指先が弾いた透明な滴を見て、シエルラは自分が涙を流していることに初めて気づいた。次々と溢れ出しては珠をなす涙を、彼は乱暴に拭っていく。
「何が悲しいの? 泣いてるだけじゃ分からない」
 シエルラはルシオの言葉を無視して、小さく首を横に振った。
 彼は不機嫌そうにシエルラを見下ろして、盛大に溜息をついた。
 何も言わないシエルラに痺れを切らしたルシオが、無理やり毛布をはぎ取ろうとする。必死で抵抗しようとするものの、弱った身体では叶わず、身体を包みこんでいた毛布が奪われる。
「ああ、……翅が、落ちたんだね」
 寝台の上に散っていたのは、シエルラの背に広がった左右の翅のうちの一つだった。
 今朝方、翅は根元から腐り落ちるようにして失われた。金色の鱗粉が薄闇に舞った光景を、シエルラはいつまでも忘れないだろう。
「君は遠くないうちに死ぬと言っただろう? 翅が落ちたくらいで泣くのはやめなよ」
「……っ、どうして、そんな酷いことを、言う、の」
「酷いこと?」
「貴方には、分からない! 死にたくなくて逃げてきたのに売られて……、こんな風に死を待つ気持ちなんて、こんな惨めな気持ちなんて、貴方は、知らないでしょう!」
 一夜で綻んだ花のように、背中に広がった黒い翅。あまりの恐怖に泣き叫んだシエルラを見つめる家族の顔が脳裏を駆け廻る。貧しくても幸せだと笑い合っていたはずなのに、シエルラの翅を見て彼らは目の色を変えたのだ。
 妖精の翅は、神殿に持っていくと一生遊んで暮らせるほどの高値で買い取ってもらえる。困窮した暮らしから脱出したいと心の底で願っていたならば、娘が妖精となったことを喜ばないはずがなかった。
「皆、嫌い、嫌い、嫌い!」
 ――シエルラ、分かって。私たちのことを愛しているでしょう?
 囁く声は、自分たちのために死んでくれ、と言っていた。翅が妖精の魂そのものだと知りながら、彼女たちは尤もらしくシエルラに死を強いようとしたのだ。
「そんなに、苦しむわたしを見ることは楽しかった? 今にも死にそうな妖精は、貴方の良い暇つぶしになった……?」
 瞬間、ルシオの手がしなやかに振り上げられ、シエルラの頬を強く叩いた。不意の衝撃で傾いだ身体は柔らかな寝台の上へと崩れ落ちる。叩かれた頬が熱を持ち、シエルラは茫然とルシオを見上げた。
「不幸自慢は、もう十分だろう? 妖精なんて皆似たような境遇だ。可哀そうだね、辛かったね、と言ってほしいなら他を当たれば良い。僕は慰めない」
 ルシオは羽織っていた黒いローブをゆっくりと脱いだ。そうして、露わになったものにシエルラは息を呑む。
 ――彼の背には、見覚えのある翅が広がっていた。
 夜闇を溶かしこんだ翅は濡れたような艶を持ち、繊細な紋様が輝く銀の鱗粉に彩られている。それは夜を生きざるを得ない妖精の証だ。
 彼が襟元を緩めると、服の下に隠れていて見えなかった傷痕が現れる。鎖骨から胸元にかけて刻まれた、刃物で抉られたように引きつった傷痕だった。
「この傷は、実の姉につけられたものだよ。翅が背に広がった日、幼かった僕に彼女は刃物を振りかざした」
 シエルラに見せつけるように刻まれた傷痕をなぞって、ルシオは笑った。その笑みが酷く儚げであることに、彼は気付いていないのかもしれない。
「いつも微笑んでくれた、優しくて美しい僕の姉さん。恵みを授けてくれる男神に、いつも祈りを捧げていた、人。だから、……姉さんは、僕の翅が赦せなかった。罪の種を、男神を悲しませた愚か者の魂を、彼女は愛せなかったんだ」
 皆まで言わなくとも、姉に襲われた彼が何をしたのか容易に察することができた。そして、ルシオの創り出す人形たちに抱いた不思議な既視感の正体を理解する。
 あの少女たちは、彼が手にかけてしまった実の姉を模していたのだ。
 血縁関係にあるのだから、人形がルシオの面影を持っていても可笑しくはない。
「惨めな気持ちなんて死ぬほどした。――だけど、どれほど嘆いても誰も助けてなんてくれない。妖精は独りだ。僕も君も、独りで夜闇を彷徨い続けるしかない」
 視界が、再び溢れ出した涙で霞んでいく。それは頬を叩かれた痛みが理由ではなかった。
 妖精が独りだと言うならば、どうして、ルシオはシエルラを買ってくれたのだろうか。独りで夜を彷徨うならば、シエルラのことなど見捨てれば良かっただろう。
 薄暗い部屋の中、涙するシエルラの目には、彼の瞳だけが銀色の光を宿しているように見えた。
 かつて、――夜を照らした女神《つき》の光は銀の色を纏っていたと言う。
 夜を彷徨うシエルラを、彼は確かに照らしてくれたのだ。独りで生きろと口にしながら、この手を握ってくれたではないか。それが彼の気紛れでも、同情でも、繋がれた手が真実であることに変わりはない。
「このまま、死ぬまで泣いているつもりなの?」
 彼はテーブルの上に置かれたスープを匙で掬いあげて、シエルラの口元に運ぶ。無理やり含まされたスープは冷たくて、少しも身体が温まることはなかったが、次々と涙が溢れ出して止まらなかった。
「残された時間を、どう使っても結末は変わらない。君は遠くない未来に死ぬ」
 ルシオは残酷な未来を隠さない。シエルラが辿る道を最初から言い聞かせて、少しでも希望を見いだそうとする前に踏み躙った。それが悪意ではなく善意によるものだと気付いたのはいつだっただろうか。
 言葉こそ辛辣でも、触れる手つきが乱暴だったことは一度もなく、彼は満足に動けないシエルラの世話を当然のように焼いてくれた。
「君は、どうしたいの」
 散ってしまった片方の翅を見て、シエルラは唇を噛んだ。もう片方の翅も、遠くない未来に腐り落ちてしまうだろう。それは嘆いても変わることのない未来だった。
「独りで、……いたくない」
 何も見えない暗闇を、たった独りきりで歩きたくない。たとえ、散り際に美しい花を咲かすことはできなくても、惨めなまま独りで朽ちたくない。
「わたしを、看取ってくれる?」
 ルシオは悲しげに目を伏せて、それから優しくシエルラの手を握りしめた。


 暖炉に火が熾《おこ》されなくなってきた頃には、シエルラの身体は一人で起き上がることができないほど弱り切っていた。足早に巡る季節は残酷で、自分に赦された時間は確実に擦り減っているのだと、否応なしに理解させられる。
 小さな庭園を、カンテラの淡い光が照らしている。月の浮かばぬ闇夜に、幾百もの固く閉じた白い蕾が浮かびあがる。
「綺麗」
 それは、シエルラにとって馴染み深い花だった。花弁を綻ばせる朝を迎えるために、彼女たちは太陽を待ちわびている。
 思わず蕾に手を伸ばしたシエルラに、隣に座っていたルシオが苦笑する。
「陽光の下で見た方が、花が開いて綺麗なんだけどね。いくら光を遮ったとしても、君を日中外に出すわけにはいかないから」
 ルシオはともかく、痛んだ翅を抱えるシエルラは、わずかな日の光でさえも命取りになる。いくら翅を隠したとしても、太陽の下で過ごすことなど不可能だった。
「故郷にも、同じ花が咲いていたわ」
 明かりに照らされた白い蕾は美しかったが、記憶の中に咲く花と同じではないことが胸を締め付ける。もう二度と、日の下で花開く姿を見ることはないのだ。
「わたしたちだって、小さな頃は太陽の下で駆けまわっていたのよね。温かな日差しに包まれて、鮮やかな景色を、……生きていたのよね」
「シエルラ」
「それなのに、もう、夜にしか生きられない」
 温かな世界を照らす太陽は毒に等しく、月を殺した罪の種を抱いて、夜の牢獄で息を忍ばせることしかできない。妖精の末路は悲惨だ。生きている分、シエルラたちは幸運なのかもしれない。
 だが、陽光を浴び過ぎた翅が腐り落ち、シエルラが闇夜からも見放される日は遠くない。
「仕方のないことだと、……きっと、ずっと前から分かっていたの。それでも、この運命を恨まずにはいられなかった。そうしなければ、痛くて苦しくて、壊れてしまいそうだった。ルシオは違うの?」
 太陽から嫌われたのも、人から狙われるのも、何一つシエルラたちに非はない。遠い昔の愚かな青年が犯した罪など、シエルラたちは知らない。
「最初は、どうして僕だったのかと考えたよ。罪の種なんて欲しくなかった、妖精になんてなりたくなかった、と嘆いてばかりだった。妖精にならなければ、僕は……、姉さんと一緒にいられた」
 膝を抱えたルシオは、シエルラに顔を向ける。
「でも、どうにもならないことを嘆くだけでは、世界は何も変わらない。だから、すべてを受け入れたいと思ったんだ。受け入れて、僕は僕にできることをしたかった」
 確かな覚悟を滲ませた声に、シエルラは泣きたくなる。妖精になったことを嘆き悲しんで、泣き叫ぶことしかできなかった自分とは違うのだ。
「シエルラ。君の目には、世界はどんな風に見えている?」
 ――この世界は、醜い。
 浮かんだ想いに、シエルラは唇を引き結んだ。この人を前にして、これ以上本心を口にすることができなかった。薄汚い心を語り尽くせば失望されてしまうのではないか、と恐怖が背筋を這いあがる。
「僕の目には、この世界がとても醜く見えるよ」
 だが、零れ落ちたルシオの言葉は予想だにしないものだった。その銀色の瞳に映る世界は、シエルラとは違うのだと思い込んでいた。
「だけど、こんなにも醜い世界だと知っていても、僕たちは生きなければならない」
 ルシオは微笑んでいた。今まで見てきたどのような笑みよりも美しく、慈愛に満ちた微笑みだった。
「どんなに、痛くて、苦しくても……?」
 シエルラがか細い声で口にすると、ルシオが指を絡めてきた。繋がった手に宿った温もりが心の水面に波紋を広げる。逸る鼓動を抑えることもできずに、シエルラは彼を見つめた。
「それでも、生きるんだ」
 自分は、彼のように生きることができなかった。家族や世界に対する怨嗟の焔は、常にこの胸で燻り燃え上がっている。目の前に横たわる現実のすべてを受け入れることもできず、温かな寝台で眠りに就いて家族が抱きしめてくれた日を夢見ている。そのような夢が叶うはずがないと知っているのに、諦めきれずにいる。
「痛くても苦しくても、――終わりが、見えていても。僕は君に生きて欲しいと願うよ」
 繋がれた手が離れると、ルシオはシエルラの身体をそっと抱きしめた。彼の胸に耳を寄せると、脈打つ鼓動が聞こえた。
「指先から伝わる温もりも、耳を澄ませば聞こえる鼓動も、――僕はずっと、忘れていたから。それが泣きたくなるほど愛おしいものだと、僕に思い出させてくれたのは君だ」
 ――彼に抱きしめられていると、独りではないと感じる。目の前に広がるのは暗闇だけなのに、温かな光に導かれているような気分になる。
 頬に触れたルシオの冷たい指先に、シエルラは顔をあげた。視線が交わった瞬間、どちらともなく唇が重ねられる。ついばむような接吻は次第に深くなり、彼の手がシエルラの白金の髪をかきあげて、逃がさぬように強く後頭部を掴んだ。固く閉ざしたシエルラの唇を冷たい舌が割って、呼吸さえも奪い取るようにすべてを絡めとる。
 息苦しさで肩を震わせたシエルラを、銀色の瞳が映し出していた。
 ルシオは柔らかな黒髪を夜風に靡かせて、シエルラの肩に口付けを落とす。ドレスから覗く肩口には、小さな傷痕が幾つも刻まれている。愛しむかのように、彼は冷たい唇で傷痕の一つ一つに触れた。
「ねえ、笑って。シエルラ」
 今にも泣き出しそうな声に、シエルラは彼の背に手を伸ばした。


 酷い、雨の日だった。太陽が雲隠れして、降り注ぐ雨が地面を打つ音だけが静寂に響いていた。
 起き上がることもできなくなったシエルラの傍には、ルシオが控えていた。
 刻まれた紋様が剥がれ落ち、粉々になった翅の欠片が寝台に散っていく。所々破れた翅は、最後の力を振り絞るようにして黄金の鱗粉を薄闇に振り撒いた。
 熱に浮かされて息を乱したシエルラが宙に手を伸ばすと、その手をルシオが強く握りしめた。
 出逢った時から変わらない、冷たい指先だった。
「あの日も、……貴方は、わたしの手を握ってくれた」
 銀の柵に囲われた籠に囚われたシエルラを、彼が買いとった日。それほど長い月日が流れたわけではないのに、随分と昔に思えた。
「喋らなくて、良いよ」
 シエルラは力なく首を振った。叶うならば、この命が在る限り彼と話していたかった。
 朦朧とする意識の中、ひたすらに籠の外へと手を伸ばした瞬間が鮮明に蘇る。希望など見えなくても諦めることができず、シエルラは縋るように未来を望んだ。
 あの日、あの時、彼が手を握ってくれたことは、シエルラの人生で一番の幸福だったに違いない。この命が幸せなものだったとは思わないが、最期を共に過ごしてくれる人に出逢えたことは、紛れもなく幸いだった。
 シエルラの存在を確かめるように、彼は細く長い指を絡めてくる。
「赦さないよ。一人だけ死んで逃げるなんて」
 その言葉とは裏腹に、彼の声は雨音にかき消されてしまいそうなほど小さかった。
 ――シエルラが消えた未来で、彼はどのようにして生きていくのだろうか。何も見えない暗闇を、かつてのシエルラのように独り彷徨うのかもしれない。
 握られた手を胸元に引き寄せて、シエルラは震える唇を開いた。
「ルシオ。世界は醜くて、妖精は惨めな夜でしか生きられない」
 持ち得る限りの愛情を声にのせて、彼の名を呼ぶ。
 神が象った箱庭で、罪の種を抱いた妖精は夜の牢獄を彷徨い続ける。月のない夜を歩き続けても、何処にも辿りつけないのかもしれない。
「だけど、貴方が生きる世界は暗闇なんかじゃない」
 何故ならば、シエルラの世界は暗闇ではなかった。闇に浮かぶ銀色の光が、最期の一時、彷徨う手を引いてくれた。
「わたしが、貴方を照らす月になる」
 罪の種を抱いた妖精が、失われた女神を騙ることは傲慢なのかもしれない。それでも、シエルラの闇をルシオが照らしてくれたように、願わくば彼を導く光となりたい。
 ルシオの瞳から堰を切ったように涙が溢れ出した。次々と零れ落ちる透明な滴が、シエルラの頬に雨のように降り注ぐ。
 冷えた指先が頬に触れて、柔らかな口付けが何度も落とされる。瞼に、頬に、唇に、分け与えることのできない魂を注ぐように、ルシオは泣きながらシエルラに触れた。
 ――二人で、夜の果てを目指そう。
 暗闇に別れを告げて、優しい月の光を頼りに何処までも歩いていこう。明けない夜の果てに、きっと、二人手を繋ぐ世界がある。
 夜闇の中で、ルシオが何度もシエルラの名を叫ぶ。

 繋がれた手を胸に抱いて、シエルラは微笑んだ。

| (番外編)美しい人 | モクジ
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