第一章 春暁に白月は昇る 03
白月という男は、落ち着いた雰囲気と違わず実に穏やかな性質をしていた。
鍛え抜かれた強靭な身体や父が護衛として選んだ事実が、彼が軟弱な男ではないことを証明している。だが、あまりにも荒事の似合わぬ男であった。
高窓から青白い月光が差し込んでいる。今宵は満月なのか、酷く明るい夜だった。
紅焔は思う。白月は、きっと、名を体現した男なのだ。澄んだ満月のごとく、夜の闇に溶け込むことは叶わない。世を暗躍する呪術師の一族には相応しくない名と在り方をしている。
「桂花茶かな? 良い香りだね」
控えていた白月が、紅焔が手にしている茶器を指差した。
「桂花、茶?」
普段口するものについてさほど気にしたことはなかったため、紅焔は首を傾げる。聞き覚えのない名称だった。
「うん。桂花で香り付けしたものだと思うんだけど。ええと、桂花は分かるよね? すぐそこの庭にも、桂花の木が植えてあるし」
「まあ、ここにも庭があったのですね」
桂花がどのようなものか分からないどころか、離れ屋に庭があることも初耳だった。
「見たこと、ないの? 立派な御庭だよ。小さいけど、造りは本邸のものと遜色ない」
紅焔は温かな茶を一つ口に含む。意識してみると、確かに甘い香りがした。
「わたくしは見たことありませんけど、きっと、母上のための庭なのでしょうね。この離れは、彼女がわたくしを身籠った時に父が造らせたと聞いています」
「そう、なんだ。当主様は姫様のお母様を大切にしていたんだね」
紅焔にとって、父とは娘にさえ心を向けることのない氷の男だ。他者との慣れ合いを一笑に付し、孤独であることを厭わない。正直なところ、紅焔には彼が誰かを大切にする姿など想像できない。
「血の繋がった双子の妹でしたから、多かれ少なかれ情はあったのかもしれません。詳しいことは知りませんけど」
父がどれほどの想いを母に抱いていたのか、本当に愛していたのか、真実は当人たちの胸の中だ。
「……あの、桂花はね、とても可愛らしい花を咲かせるんだよ。香りも柔らかで、しっとりとしていて、心が落ち着くんだ」
白月は強引に話題を桂花に戻した。あまりにも不自然な話の変え方だったが、かえって彼の気遣いが伝わってくる。
――道具でしかない紅焔を、彼は人として慮ったのだ。
白月に警戒するように、という桃華の忠告が脳裏を過る。だが、紅焔には彼を危険視するつもりはなかった。
彼は闇に蠢く言夭家とはかけ離れた存在だ。そうでなくては、紅焔を人として案じたりしない。
「桂花は、今、咲いているのでしょうか?」
「花の盛りは秋だから、まだ先だね。秋になったら、姫様にも見せてあげる」
他愛もない会話の最中、白月は躊躇うことなく紅焔に約束した。以前、紅焔の食事について提案した時と同じで、彼は紅焔のために行動しようとしてくれるのだ。
紅焔は口元に手を宛てて、ゆっくりと瞬きを一つした。
「白月は、……わたくしが、恐ろしくはないのですか?」
紅焔は彼の態度がいつも不可解だった。彼より長く務めている侍女たちさえ紅焔を恐れているというのに、彼からはそれが一切感じられない。
「恐ろしくないよ。……僕は、もっと恐ろしいものを知っている」
白月は己の左頬に手を伸ばした。節くれ立った彼の指先がなぞるのは、痛ましく刻まれた火傷の痕だった。
かなりの時間が経過しているであろう古傷は、彼が幼い頃に負ったものだろう。今でこそ健勝のようだが、当時は命に係わる大怪我だった可能性もある。
彼は容易に口にすることの躊躇われる、恐ろしい悲劇に見舞われたのだろう。
「不思議なんだ。この傷を負って以来、僕には怖いものなどなかった。死の淵に立った瞬間でさえ、僕は恐ろしいと思わなかった」
白月は淡々とした口調で語っているが、内容は凄まじいものだった。
死にたくないからこそ、侍女たちは紅焔に恐怖を抱く。場合によっては、紅焔が己を脅かす存在だと正しく理解しているのだ。
――恐怖とは生きる意志だ。
恐れを感じないということは、即ち、白月が生に対する執着を持たないことを意味する。
「では、何故、貴方は生きているのでしょうね。恐怖を感じないならば、死に抗う必要もなかったでしょう?」
紅焔が疑問を口にすると、彼は目を細めた。常と変わらぬ穏やかな笑みだったが、紅焔は違和を覚えた。その笑みの最奥に、底知れぬ何かが巣食っているような気がした。
「恐怖はないけど、まだ死を受け入れるわけにはいかない。――僕には、なすべきことがあるから」
それならば、なすべきことを終えた時、彼は迷わず死を選ぶのだろうか。紅焔には確かめることができなかった。
「ごめんね、気味が悪いよね」
窓から入り込む風の音にかき消されてしまいそうなほど、弱々しく掠れた声だった。
「いいえ」
紅焔は首を横に振って、目を伏せた。
白月は恐怖を感じなくなったと言う。彼と同じではないが、紅焔もそれに似たものを身の内に抱えている。
「わたくしには、恐怖が理解できないのです。だって、道具に心は要らないでしょう?」
紅焔は言夭家の呪術師であるが故に、他者に使われるものだ。道具に人の心など不要で、それを求められたことは一度もない。
望まれたのは、この身に流れる災いの血だ。そのための器が紅焔である必要はなく、器には血を持つという価値しかない。紅焔の人格など初めから意味をなさない。
「恐怖を感じなくなった貴方と、それが分からないわたくし。さて、どちらが異常なのでしょうね」
疑問の体こそとったが、答えは明らかだ。本当に異常なのは、人の心など分からぬ紅焔である。
「白月?」
いつの間にか距離を詰めていた白月が、紅焔の手を握った。驚いて顔をあげると、真っ直ぐな彼の眼差しに射抜かれる。言夭家の血を感じさせない白銀の目玉に、無表情の紅焔が映し出されていた。
「分からないということは、いつか分かる日が来ると言うことだよ。だから、そんな悲しい顔をしないで」
「……わたくしは、どのような顔をしていますか?」
「僕には、今にも泣きそうな顔に見えるよ」
紅焔は彼の言葉を嘘だと思った。現に、彼の瞳越しに見る少女は顔色一つ変えていなかったのだ。だが、紅焔は彼の嘘を正すことができなかった。
「大丈夫、姫様は道具なんかじゃない。ちゃんと生きた人間だよ。心のある女の子だ」
紅焔は血が滲むほど強く唇を噛んで、白月から視線を逸らした。
心など分からなくても構わない、道具でない自分など――人としての己など想像できないというのに、いつか分かる日が来ると彼は囁くのだ。
「では、貴方もいつか、再び恐怖を覚える日が来るのでしょうか」
白月は応えず、紅焔の頭を撫ぜた。大きな掌から滲む温もりに、紅焔はかたく目を瞑った。