farCe*Clown
第一幕 囚われ人 09
窓一つない牢獄に、本日二度目の食事を持って監守が現れた。二度目の食事は夜の合図だ。
予想したとおり、今日の監守はシルヴィオを牢に連れてきた男だった。
初日に会って以来、数回食事を運んできた少年でなくて良かったと思う。
いざとなれば、作戦を変えてでも少年に危害は加えられただろうが、あまり、それはやりたくなかった。
その少年でないならば、誰を傷つけても良いと思っているわけでもなかったが、できることならば子どもを傷つけたくないと思うのは仕方ないことだ。
仕方ないという言葉は、なんて便利なものだろうと吐き気がした。
「食事だ」
「あ、あの……」
今までの思考を断ち切って、希有は声を出した。
監守に近づきすぎないように一定の距離を保つことを忘れずに、入口に向って歩み出す。
希有はわざと上目づかいで看守を見上げた。
できるだけか弱く、儚い少女を演じなければならない。今にも折れてしまいそうな、決して捕食者にはなれない女の子になる。
「……何だ?」
「その……。布と、お湯をいただけませんか?」
「――罪人に許可なく、物を与えてはいけない規則になってるんだがな」
「ですが……、体はべたべたですし、着替えも、できれば……」
「そんな簡単に俺の一存では決められんな」
「……っ、お願いします! どうせ、死刑になるのならば……、せめて少しでも綺麗なままで死にたいのです」
「そうかい。だが、ただお願いされても……なあ」
「な、何でもしますわ。だから、お願いします、お慈悲を」
止めに、目元を軽く隠しながら涙を流す。頬を冷たい滴が流れた時、監守の纏う空気が揺れたのを感じた。
「――そこまで言われるとな」
嬉しそうな顔で、監守の男が肩を竦めた。そのまま、彼は腰に下げた鍵を手に、希有の牢屋を開けた。
希有は内心でそれに安堵しながら、震えるような仕草をした。
恐怖しながらも、期待もしている。そんな風に思われた方が都合がいい。
「ああ、怖がらなくていいぞ? そんなに酷いことはしない」
酷いことをしないなど、大嘘に決まっている。やはり、元々、悪さを企んでいたのかもしれない。
監守は、下卑た笑い声をあげながら、希有に近づいてくる。
「何で、お前さんみたいな娘がこんな牢屋にいるんだ?」
寝たふりを続けるシルヴィオから、幽かな吐息が感じられる。
監守はシルヴィオを一瞥することもなく、大股で希有の元へと寄って来る。
希有は早まる鼓動を落ち着かせるために拳を握り締めた。
――、シルヴィオに話した作戦は簡単だ。
希有が、監守を牢屋の中に誘い込み、シルヴィオが後ろから監守の足止めをする。
逃げられるギリギリまで、希有は監守を引きつける。
これは賭けだった。
シルヴィオがこの時点で希有を見捨てて逃げれば、それまでの話だ。人間は平気で裏切る、だからこそ、希有はそれを恐れてもいる。
だが、――今は、シルヴィオを信じよう。
自分らしくないことだと分かっているが、あの瞳には、そう思わせてくれるだけの何かが在った。
「――わたしにも、分からないのですっ……、いつの間にか、あの方が死んでいて。気づいたら、このような場所まで、連行されて。わたしは何もしてないのです! あの方を、人を、この手で殺すなんて……」
顔を手で覆って、タイミングを見計らいながら希有はしゃがみ込んだ。ぐずぐずと嗚咽を漏らす。
辺りを見渡せるように、手に隙間を持たせるのも忘れない。
「わたしは、何も、していないのです……」
「おい、泣くなよ。なんだ、冤罪なのか? それなら、ちょっと我慢したら出してやる。カルロス様もそこまで鬼ではないだろう」
一瞬、視界の端にいるシルヴィオが、監守が呼んだカルロスという名に反応したのが分かった。
幽かに聞こえた衣擦れの音に、心臓が止まりそうになる。
できるだけ自然に、希有は監守を盗み見た。監守は、先ほどの衣擦れの音など気にしていないようだった。
「……カルロス様、ですか?」
その名は確か、希有を連れていった国軍の者や、この監守が言っていた名前だ。
「本当に何も知らねえんだな、お嬢ちゃん」
「……、すみません」
「カルロス様は、先王の兄だ。この間、先王崩御の際に、最も王位に近いものとして名乗りを上げた」
「そうなんですか……、その、わたし……、本当に何も知らなくて」
顔がほど良く涙で濡れた頃に、希有は手を完全に離さずに顔を上げた。
「ああ、それは知らなくて当然だ。カルロス様のことに関しては、まだ民には公表されていない。王城でも、噂話程度にしかなっていないからな」
「え、……?」
公表、されていないとはどういうことだろうか。
「だが、全部、時間の問題だろうよ」
得意げに監守は言う。
「先の王が崩御した際に、民や臣下に向けて、とある重心から遺言が発表されたんだ。――何でも、次の王位は息子に譲るってな」
「それならば、なぜ、ですか……」
どうして、その崩御した王の兄が、王位に名乗りを上げているのだろうか。どの程度まで王が権力を誇っているのか分からないが、少なくともその遺言は完全に無視されるものではないはずだ。
監守は首を振った。
「王位の継承者は、――崩御した王に、息子はいねぇんだ」
「遺言の御子息が、いない?」
「正妃は亡くなっている。正妃の唯一の子であった王女は、公爵家に嫁いで、もう結構な年だ。王家の濃い血を引いていようとも、女は王位を継げない。なら、カルロス様が国王になるに決まってる」
目前の監守はカルロスに通じていても、おそらく下っ端なのだろう。そのため、知らされていないだけだ。
シルヴィオが投獄されている。つまり、カルロスと戦っているであろうシルヴィオは、当然、カルロスにとって邪魔な人物に与している。
シルヴィオの側は、負けたか劣勢なのだ。
導き出された答えは簡単だった。
――、遺言の子息は確かに存在するのだ。
想像していたよりも、随分と面倒な側の立場にシルヴィオはいるようだ。
それでも、シルヴィオに着いて行くのが最善なのだろう。彼の元に行けば、少なくとも、すぐに死刑にされるような事態にはならないはずだ。
「それより、お嬢ちゃん、もっとこっちに……」
手招きする大男を余所に、希有は俯いた。考えた最善が外道なものでも、生き残ることができればそれでいい。
世界は慈悲をくれない、何かを害することでしか活路を開けないのであれば、いくらでも希有は穢くなろう。
――、もう、何を失っても、怖くはない。一番大切な者は、隣にはいないのだから。
「それだけ、……聞かせていただければ……」
怖くない。
「あ?」
「もう十分だって言ってるんだよ! シルヴィオ!」
希有の叫び声と同時に、床に横たわっていたシルヴィオが俊敏な動きで立ち上がる。
滑らかな動作で、風を切ると音と共に懐剣が鞘から引き抜かれた。
桜色の髪を宙に舞わせて、鋭い瞳が瞬時に標的を射抜く。監守は、懐剣を翳した青年が、後ろに迫っていることに気付かない。
短い刀身が白光を放ち煌めいて、まるで流星のようだった。目で捉えきれない速さで動く剣筋に、鼓動が跳ね上がったのを感じる。
勝負にも、なるはずがない。
決着は、一瞬だった。
「…………がっ……!」
身体を襲う衝撃に硬直し、監守の体が弓なりに揺れた。その半開きの口から唾液がだらしなく流れる。
小さな懐剣で、シルヴィオは寸分の狂いもなく監守の体を突いた。扱い慣れた得物を使うかのように、流麗な動きだった。
その剣先は、監守の左胸を突き抜け、希有の前に顔を出す。短い懐剣が男の厚い胸板を貫通するなど、常人のなせる技ではない。
「……すまない。――国のためだ」
わずかに散った血飛沫に、以前に誰かが面白げに語っていた話を思い出す。
剣の達人は、芸術的な死体を作る。
人体を知り尽くした彼らは、どこを傷つければ一瞬で殺すことができるか、全身くまなく熟知している。力の使い方を知っている彼らは、どのような大男でも大した労もなく殺してしまう。
あれは、確か物語やゲームの中の話だったはずだというのに、現実で同じことが起こっている。
おそらく、衝撃とは裏腹に、監守は大した痛みもなく死んだのだろう。
シルヴィオの手の腹の肉刺を見たときから、それなりに剣が使えるのだろうと思っていた。何度も潰れたであろう肉刺は、長年積み重ねられてきたものに見えたからだ。
だが、まさか、これほどまでに使える人間だとは思っていなかった。
これは脅威だ、希有ならば決して野放しにはできない。だからこそ、彼は死刑囚として拘束されていたのだろう。
「容赦、……ないんだな」
「お前の言う足止めでは不十分だ」
彼の言うとおり、足止めだけにするならば、それほど成功率の高い作戦ではなかった。シルヴィオ一人が逃げだすなら容易かっただろうが、彼は希有を見捨てる選択をしなかったのだから、尚更だ。
「意外、だよ」
情けないことに、絞り出した声は、震えていた。
シルヴィオが躊躇いなく人殺しができる人間だとも思っていなかった。窮地に陥っている最中に、他の囚人を助けようとまで言った男だ。まさか、他人の命を奪えるなど想像できなかったのだ。
そのため、希有は足止めは期待したが、完全な口止めまでは期待していなかった。
だが、蓋を開けてみれば、この結果だ。
――なんて、矛盾した男なのだろう。
その矛盾を自覚しているのかは分からないが、どちらにせよ、この男はおかしい。
愛していると囁いた唇で次の瞬間には平気で裏切るように、救いたいと願った心で彼は容易く人を殺すのだ。
おそらく、どちらも彼にとっては真実なのだろう。故に、背筋が粟立つような恐怖がある。
「確かに足止めだけするのは難しいだろうけど……。シルヴィオに人が、殺せるとは思ってなかった」
「二人で逃げるならば、徹底的にやるべきだろう」
もしかしたら、この青年は、希有を見捨てる選択肢など考えもしなかったのかもしれない。
希有を見捨てない代わりに、監守を殺すとは思いもしなかったが、彼はそれができる人間だったのだ。
希有は目を伏せる。
恐れている瞬間が訪れたとき、希有はシルヴィオのように直接人を殺すことができるだろうか。
どれ程息巻いても、実際にそれが成せるかどうかは別問題だ。結局のところ、希有はこの手で直接は人を殺したことがないのだから。
「そんな目で見るな。……人を殺したことは、今回が初めてではない」
月明かりに照らされた、目鼻立ちのすっきりした横顔。悲しげなその表情は、額縁に閉じ込められた絵画のように美しかった。
「…………、そう」
こと切れた監守の腰から、一振りの剣と鍵を取り出して彼は腰に差した。剣を携える姿は、驚くほど様になっている。
シルヴィオは冷たくなった監守の体を見ながら、続ける。
「怖がらないのか?」
敢えて希有から視線を外したその仕草は、希有を気遣っているのだろう。
だが、彼の口元に一瞬見えたのは、愉悦をはらんだ、ぞっとするような笑みだった。
希有はシルヴィオに悟られぬように、小さく肩を震わした。
「何で、怖がる必要がある?」
「眼前で人が殺されたと言うのに、お前は落ち付いているな。叫び声の一つでもあげるかと思っていた」
「落ち付いてなんか……」
心臓は早鐘を打っている。
それが恐怖から来るものではなく、シルヴィオに対する認識の誤解から生まれたものだと思い込みたかった。
そうでなくては、虚しいと感じた。
あまりにも呆気なく死んでいく人間も、容易く人を殺せる男も、何もかもが恐ろしいと感じてしまった希有は、何と罪深いのだろうか。
自らが提案し片棒を担いだ悪事を、受け入れることさえもできないというのか。
彼が人を殺したことを、希有が恐怖することなどあってはならない。
「もう平気。だって、生きている間に、人を殺さない人間なんていないことをわたしは知っているから。それが直接的か間接的かは、別として」
「……身も蓋もない台詞だな」
「皮肉は要らないよ」
「褒め言葉のつもりだったんだがな」
シルヴィオは希有を鼻で笑って、監守の死体から勢いよく懐剣を抜いた。
剥き出しの刃から滴る血が、生命の象徴だとはとても思えなかった。物言わぬ骸になった瞬間から、鮮やかな真紅も、錆びた黒に変わっていく。
その身に流れる血潮のように、生きているからこそ、価値あるものは存在するのだ。
「とても良い剣だな」
監守の懐から布を取り出して、シルヴィオは懐剣を拭いている。手慣れた動作に、彼が剣の扱いに相当慣れていることを再認識した。
「そんなの分かるのか?」
「刃の輝きが違う。特別な何かを施されているな。専門家に聞かないことには、何が施されているは分からないが……」
「そう……、でも、わたしには関係ないから、いい。これで身が護れるなら十分だから」
「保身どころか、容易く人を殺せる」
「わたしにも、か?」
「傷つける部位によっては、お前みたいな素人でも、人一人殺すことは簡単だろう。良く切れる」
「そんなに凄い代物を、あの魔女はなんでわたしにくれたんだ……」
「さあ。オルタンシアは高名な学者で、城の重臣でもあったが、……相当な変わり者だったからな」
「ああ、……それは、凄く分かる」
様々な意味で彼女は変わっていた。紛れもない天才であり、恐れを抱くほどの化け物でもあった。
大した関わりがあったわけではない。オルタンシアは、希有に最低限の衣食住を提供するだけだった。彼女は話しかけても応えてくれないことがほとんどであり、時折、誰もいないはずの空き部屋の前で独り言を繰り返すばかりだったのだ。
何とか会話に応えてくれた時も、本当に必要最低限の受け応えしか行わなかった。
それが、彼女自身の本来の性格だったのかは、彼女が死んだ今となっては判断できない。
記憶に在るのは、理解しがたい非凡な彼女の姿だけだ。
ただ、思い返せば、そんな彼女との生活を希有は少しだけ気に入っていたのかもしれない。
オルタンシアは、希有の中身には関心がなかった。彼女の傍では、希有は一人でいられて、誰に邪魔されることなく自分自身でいることができた。それは、異世界で在るこの地では当然のことだったが、それだけで希有にとっては有り難かった。
牢屋を出て、シルヴィオが鍵を閉める。
動かない監守の死体が一つ、冷たい床に転がっていた。
「……朝方には監守の交代時間だ」
――監守は、仕事をしていただけだ。多少の悪さには手を汚していたのだろうが、そのようなことは関係ない。
希有は自らの死の代わりに、別の人間を殺した。
代替品のように身代りにして、盾にして、己の命を守ったのだ。
シルヴィオも、同じだ。国のためだなんて言って、自らの命の代わりに他者の命を身捨てた。監守の男も、シルヴィオが守るべき国民の一人に含まれることを、彼は気づいているのだろうか。
これで、――希有もシルヴィオも、罪人だ。
この罪を裁かれることは、希有が恐れる死だから、シルヴィオの手を取って逃げよう。
自らが死に追いやった人間の死を悼むなんて、最悪の綺麗事だ。それを心の中で行い、この所業を消化してしまおうとしている時点で、希有は昔の希有ではなくなってしまっている。
もしかしたら、希有の心はもう、狂ってしまっているのかもしれない。
どうしようもなく醜く、救いようのないほど愚かであっても、生きたいと願う心は捨てられない。
泣き笑いを浮かべて、希有は言った。
「今のうちに、できるだけ遠くに逃げよう、シルヴィオ」
シルヴィオは、何も言わずに頷いてくれた。
それを嬉しいと感じてしまうことは、きっと間違っているのだろう。
薄暗い牢獄で二つの影は手を取りあい、城内の闇へと溶けていった。
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