farCe*Clown

第三幕 捕らわれ人 18

 闇が覆い尽くす空のもと、シルヴィオは小さく息を吐いた。
 乱れたと呼吸と速まる鼓動に包まれて、思い出すのは心を抉るようなあの瞬間だった。
 振り返った刹那に見えた、地面にひれ伏す少女。黒を纏った細く小さな体が、脳裏に鮮明に浮かび上がった。
「っ……!」
 強く唇を噛みしめると、喉が震えた。
 ――、シルヴィオの心は、矛盾している。
 大切だと口にしながらも、必要ならば切り捨てることを厭わない。その逆も然りだ。
 そのように育てられた自分を、己自身が一番理解していた。
 だからこそ、庭園ではあんなにも大事にした少女を、後悔の一つも抱かずに切り捨てることができるはずだった。
 絶望、悲哀、怨恨、どれでも構わなかった。
 それらを希有が浮かべていれば、シルヴィオは躊躇なく彼女を切り捨てることができただろう。
 罪悪感など欠片も抱くことなく、ただの過去として記憶の奥底に閉じ込めることなど、容易いはずだった。容易くなるように育てられたのがシルヴィオなのだ。
 義務も責任も、すべては、己の存在理由にしか抱いてはいけない。
 他に重きを置けるほどシルヴィオの器は広くなく、また周囲もそれを望むどころか厭うだろう。
 かつて、同じようにして、シルヴィオは大切に思っていた少女を失った。
「何故……、どうしてっ……!」
 希有は、笑っていた。
 自分が辿る運命を知りながら、誰が見ても幸せとしか思えない微笑みを浮かべていた。
 本心は決して違うだろうに、幸せだと己さえも騙そうとしていた。
 彼女は、死を恐れていた。怯え恐怖し必死に逃げていたというのに、彼女は笑って自分の命を諦めたのだ。
 それは、生を諦めて死を受け入れたわけではない。
 彼女は、シルヴィオを生かすことを選んだのだ。
 誰を踏み躙ってでも生きると言った彼女が、その言葉さえも投げ出して、シルヴィオを生かした。己の命か相手の命か、二つ並べた選択肢の中で、彼女は己の未来を断つことを選んだのだ。
 恐れていた死に、最悪の形で向き合うことを選んだ。
 それがどれほどの覚悟であったかなど、考えるまでもない。
「ははっ……」
 月と星が姿を現したであろう夜空を見上げた。
 太陽の光が喰われた夜空は、月や星の輝きが暗黒に滲むだけだ。それだけが、ほんの僅かな明かりを夜に与えてくれる。
 暗闇に閉ざされた世界で、闇に溶け込んでいく少女の姿が、シルヴィオの頭に浮かんだ。
 ――彼女は、満ち足りていると思い込んだまま、死んでいくのだろうか。
 恨み辛みを胸の奥に押し込めて、気付かないふりをして、幸せを謳いながら物言わぬ骸と化すのだろうか。
 その想像に、背筋が凍りつく。
 己を守るように取り繕っていた荒っぽい口調も、幼い顔に影を落とす寂しげな笑みも、牢獄で熱に浮かされたシルヴィオを抱いて頭を撫でてくれた温もりも、すべてが失われてしまう。
 ただ一つ与えられた、救いさえも失われてしまう気がした。
 シルヴィオにとっての救いは、その言葉ではなく希有だ。
 彼女の死んだ瞬間に、シルヴィオを救ってくれた彼女の存在は色褪せていくだろう。
 それは、何よりも恐ろしくおぞましい想像だった。胸を掻き毟りたくなるような不快な想像が、頭にこびりついて離れない。
 覚束ない足取りでシルヴィオは歩き出す。
 希有を思い脳裏に描いた算段は、今までの様々な努力を踏み躙るようなものだった。
 それでも構わないと、思ってしまった。
 何を踏み躙ったとしても、それで彼女が助かるのであれば、すべてを壊しても構わない。
 ――、必ず、生きて再びまみえよう。
 その時には、小さな胸で抱きしめて、優しい魔法をもう一度かけてほしい。

 生まれや血に囚われ続ける男を、ただのシルヴィオに戻す、魔法を。