farCe*Clown

第三幕 捕らわれ人 21

「起きろ」
 小鳥のさえずりなど聞こえるはずもなく、希有は低い男の声で目を覚ました。
 カルロスとの面会の後に放り込まれた牢、その鍵を開けたのは、昨夜にカルロスの傍にいた褐色の肌をした男だった。
「……、はい」
 男は、手に持っていた何かを地面に置いて、地べたに座るように希有を促す。
「黒髪のまま出られると面倒なことになる。お前ごときのせいでカルロス様が非難を受けるなど御免だ」
 彼が持ってきたのは、染髪料だったらしい。
 男の手は丁寧に希有の髪を染めていった。
 黒が祝福の色だと言われたが、実際、リアノにとってどれほど重きが置かれるものかは分からなかった。だが、わざわざ罪人の髪を染めるということは、黒色の持つ影響力はそれなりにあるのかもしれない。
「……出来た芝居ですね、本当」
「無駄口は叩くな」
 沈黙の横たわる牢で、数分とも数時間とも感じられるような時間が流れて行く。
 やがて、男は懐から時計を取り出した。
「処刑の時間だ」
 温かみの欠片もない声に、肩を竦めて希有は応える。
「人生最期の、晴れ舞台ですもの、……張り切っていかなくてはなりませんね」
 声は、情けないほど震えていた。


               ☆★☆★               


 曇天の空の元、城門の外に存在する広場には多くの観衆が集まっていた。
 希有に向けられる視線は、明らかな敵意と、かすかな好奇心を孕んだものだった。
 縄を引かれ、希有はゆっくりとした足取りで歩を進める。
 火が付く寸前の爆薬のような肌を刺す空気は、一つの波紋で暴動に繋がりかねない。
 この雰囲気は、オルタンシアが慕われていた証でもあるのかもしれない。
 突如、観衆の中から声が上がる。
「よくも、オルタンシア様をっ……!」
 嘲りと怒りの混じった声と共に投げつけられた石が、米神に直撃する。
 直後に上がった歓声に、吐き気がした。
 続くように投げかけられる罵声ばせいと石のつぶてを避けることはできなかった。流れる血を拭うこともできずに、希有は前を見据えたまま歩み続ける。
 縄を引く褐色の男は、相変わらず無表情だった。
 この手の視線には慣れているつもりだったが、久方ぶりに味わったそれらは酷く不快なものだった。
 この処刑は、彼らにとって一種の見世物でもあるのだと知る。
 オルタンシアに対する純粋な敬意から駆けつけた人間もいるのだろうが、見世物を見たいがために広場に集まっている人間も少なくないはずだ。
 臆病なリアノにとって、自分たちが安全な立ち位置で見られる過激な娯楽は、珍しいものなのかもしれない。
 米神から流れる血は口元に滴り、鉄の味が舌を撫ぜた。
 思えば、日本にいた頃はこんな風に血の味を感じることは、たいして珍しくはなかった。時折会いに来た母親は、希有を見てあの子と比較し、癇癪を起こすことが多々あった。
 当然と言えば、当然だったのだろう。
 母親が愛してやまない優秀な娘を行方不明にさせたのは、苛立ちだけを覚える愚鈍な娘だったのだ。
「……、はは」
 冤罪で投獄され、死刑に科せられるなど、この世界に来てから碌な目にあっていない。
 だが、シルヴィオが傍にいる間は、彼が希有を守ってくれていたのだ。
 今さら、そのような単純なことに気付いて、シルヴィオと他の人間たちの差に失望を抱いた。
 人間など、所詮しょせんは程度の知れたものだと分かっていたというのに、失望を抱いてしまった。
 ――、希有は、いつだって自分を含めた人間を蔑んでいた。
 綺麗になれない自分が、堪らなく嫌だった。
 希有の中には、いつだって、二つの想いがあった。
 ――あの子を守りたいと願った綺麗で大切な思いも、あの子を妬む醜くて切り捨てたかった思いも、どちらも希有にとっては真実だった。
 だが、あの子を愛おしいと思う反面で、殺したいほど憎かったなど、希有にだけ心を赦していたあの子の前でどうして言えたというのだ。
 人間は、どうして一貫していないのだろうか。
 ただ一つの想いだけで、人を見つめることができないのだろうか。
 憎むのならば、憎むだけで良いだろう。どうしてそこに愛なんて美しいものを加えてしまったのだ。
 愛するのならば、愛するだけで良いだろう。どうして、美しいそれに憎しみなど混ぜ合わせてしまったのだ。
 綺麗な心だけで人を見つめられたのならば、きっと絶望を知らずに済んだ。あるいは、愚かな心だけを知っていたならば、希有の運命は変わっていたのではないだろうか。
 ようやく、人間を諦められるはずだった。
 優しいものから目を逸らし、綺麗で儚いものなんて何一つないと思いこむことができたはずだった。
 すべてを疑い、信じられるものなど何一つないと、思っていられるはずだった。
「……ばか」
 あの青年が希有の前に現れなければ、こんな感情を抱えることもなかった。
 透き通るように清らかで、それでいて息のできないような苦しさに気付かずに済んだ。
 シルヴィオは、その手を血に汚すことも厭わない罪人だった。希有と同じように、人殺しであった。
 それなのに、彼は希有と違って、優しさを胸に陽だまりを浴びて、微笑んでいた。
 歯止めをかけることも叶わずに、ただ、どうしようもなく惹かれてしまった。走りだした感情は、ひたすら加速を繰り返して、希有の手には負えない場所まで駆け抜けた。
 矛盾を抱えて、それでも笑うことのできる、正しくない人。
 彼に抱いた想いの名は、知らない。
 ただ一つ理解できるのは、それは、かつて希有があの子に向けていたような、矛盾し相反する二つを持っていたことだけだ。
 初めは偽善だと思っていた彼の弱さ、その優しさが愛おしかった。
 それと同時に、希有と同じ人殺しであるのにも関らず、綺麗なものを持っていることが赦せなかった。憎くて堪らなかった。
 二つとも、真実だった。
 今なら、今ならば笑って受け入れられる。
 どちらも間違いではなく、二つ揃っているからこそ、希有はシルヴィオに惹かれた。
 ――、ちぐはぐな心を抱えた男を、自分の命さえも放り出して生かそうとした。
 刹那の想いだと、人は嗤うだろう。
 それでも構いはしない。
 短い時を共にしただけで、それほどまでに心を砕ける人に出会えたことを、運命と思うことの何が悪い。
「……ばか、シルヴィオ」
 希望をもって裏切られることが怖かった。それ故にすべてを疑うことでしか、己を守ることができなかった。
 光を望まなければ、暗闇に堕ちて彷徨うことはない。優しさから目を逸らせば、綺麗なものなど無視してしまえば、惨めにならない。
 ――、信じることは素晴らしいことだと誰かは謳う。それならば、疑うことはいけないことだったのだろうか。
 違う。どちらも、正しくもなくて間違いでもないのだ。
 穢れの中に美しさを秘め、綺麗さのなかに愚かしさを含んでいる。人間は美しく、それ故に愚かでもあるのだ。
 それでも、人は共に在ることを止めない。人を想うことで抱く苦しみの中に、確かな幸せを感じて歩んでいる。
 胸を焦がす切なさは、生きている証なのだ。
 人は人に救いを見出せる。

 希有を救ってくれたのは、――きっと。

「皆の衆よ、よくぞ集まってくれた」
 皺枯れた大きな声が辺りに響いた時、ざわつきは一斉に止んだ。
 その声を発した老人は、処刑が良く見える位置に、幾人かの護衛を連れて座っている。
「この度は……、リアノを悲劇が襲った」
 カルロス・ベレスフォードは、芝居がかった仕草で額に手を当てた。
「皆が愛した。私も愛していた、優しく気高き我が弟は死んだ」
 悲愴そうに聞こえる声に、カルロスが真実何を思っているのか見抜ける人間など皆無だろう。
「……嘆かわしいことに、弟の遺言の子どもは、現れない」
 カルロスにとっての邪魔者は、今も姿を潜めている。
 故に、カルロスはシルヴィオが必要だったのかもしれない。彼こそが、遺言の子息に繋がる唯一の手掛かりだったのだ。
「さらに、その遺言を発表したリアノの宝と呼ぶべきオルタンシア女史が、凄惨な最期を遂げることとなった」
 脳裏に蘇るオルタンシアの死体。共に過ごした彼女を襲った死は、あまりにも惨かった。
「我らは、女史がリアノに与えた恩恵を決して忘れてはならない。一つの死の恐怖から我らを救ってくれた彼女を、未来永劫みらいえいごう、愛し続けるべきだ」
 カルロスの言葉に応えるように、民衆から喝采が湧く。
 それに応えるようにして、カルロスはさらに声を張り上げた。
「同時に、……女史を死に追いやった者を決して赦してはならない」
 カルロスの視線が、希有を射抜いた。
 緊張の糸を立ち切ったカルロスの言葉は、民衆の怒りに油を注ぐには十分すぎた。
 彼らにとって、希有は、愛すべきオルタンシアを殺した罪人でしかない。 罵声の嵐の中、唇を噛みしめて、竦んだ身体を奮い立たせる。
「罪人よ、面を上げよ」
 希有は、仮面をした執行人を見据える。
 残念ながら、ギロチンのような処刑技術は盗まれていないらしい。希有の目前にいるのは、見るからに凶暴な斧を構えた男だ。
 あの牢獄で何度も見た悪夢は、奇しくも現実となってしまった。
 一息で死ぬことは赦されないかもしれない。あの悪夢のように、痛みにのた打ち回り、盛大に血をまき散らして、人としての形さえ留めずに死んでいくこともあり得る。
 その死体を、あの日オルタンシアの家で見たような蛆が、欠片も残さずに食い潰していくのだ。
 魂の失せた希有の骸は、彼女の死と同じ道を辿っていくのだろう。
 震える自らの足を見なかったことにした。
 込み上げる吐き気を抑え、滲んだ涙を堪える。
「何か言い残すことはあるか?」
 愉悦をはらんだ声に、顔を上げてカルロスを睨みつける。
 見上げた空に、眩しいほどの太陽はない。
 ――、寄生虫には相応しい、最期の空だ。
 今にも泣き出しそうな空、降りしきるだろう雨は希有の死を悼んでくれるだろうか。
 視界の端で、鈍色に斧が光った。
 呼吸一つできない息苦しさと逸る心臓に目眩がする。脳内を侵すように這いずりまわる、浮遊するような恐怖は、ひたすらにおぞましい。
「わたしは……、幸せです」
 それでも、きっと、希有は幸せなのだ。
 誰に愚かと蔑まれ嗤われることになろうとも、希有は満ち足りているとうそぶいてみせる。
「では、処刑を執り行おう」
 カルロスの言葉と共に、執行人が斧を持ちあげる。
 これまで生きてきた十七年間に終わりを告げる日だというのに、思い浮かぶのは、何よりも愛していたあの子ではない。
「……、シルヴィオ」
 ただ、瞼の裏に映るのは、微笑む彼の姿だけだった。