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序幕 疑惑を抱く臣下 29

 宰相セシル・ソローは、薄暗い回廊を一人歩いていた。
 向かう先は、先日即位したばかりの王――シルヴィオ・リアノの元だ。
 淡い赤の髪をなびかせ、麗しく微笑む青年を思い出し、セシルは重たい溜息を零した。
 先王とは似ても似つかない顔をした美貌の青年は、即位した直後から、平然とした顔で執務に参加するようになった。
 周囲の困惑と混乱は計り知れないほどであり、新王に向けられた疑いの目は徐々に数を増やしている。
 宰相であるセシルも、シルヴィオが遺言の子息であるとは思えていない。 先王は、セシルに一言も息子の話などしなかったのだ。遺言状が彼のオルタンシアの手で公表された時も信じられなかった。
 シルヴィオが育てられた家が、王女ベアトリスが降嫁したローディアス公爵家ということもあり、渋々ながら現状が受け入れられている状態だ。
 ――、シルヴィオという青年が王家の血を引いているとは、誰もが思ってはいないのだ。
 元々、オルタンシア・カレル・ローディアス・・・・・・は、ローディアス家の人間だ。数年前に家を離れているとはいえ、彼女の籍が公爵家にあることは変わらない。
 先王の遺言の発表者が彼女ということもあり、ローディアス公爵家が手を組んで、無理やり王を仕立て上げたと考えている者も少なくはない。
「シルヴィオ様、失礼します」
 大多数の貴族が恐れていることは、先王の甘さに付け込み手にした己の権力がはく奪されることだろう。偽者の王であることに問題を感じているのではなく、その才覚を振るうシルヴィオ自身に危機感を抱いているのだ。
 セシルが恐れていることは、貴族たちとは違う。
 セシルは、この国が乗っ取られるかもしれないということを案じている。
 もしも、シルヴィオが王家の血筋ではないのならば、リアノは、国を守護してきた権利を、蟲を喪う破目になる。
 それだけは、何としてでも避けなければならない。
 臆病な民の暮らすこの国を治めるためにも、その蟲はなくてはならない存在だ。
「セシルか。先日言われた案件については、処理した。そこの束だ、確認してくれ」
 席について黙々と書類に目を通すシルヴィオが、セシルに目もくれないまま早口で喋る。
 セシルは、机の端に重ねられた書類を手に取り目を通す。
 確認するようにすべてを読んでから、セシルは作業を続けるシルヴィオを見た。
「一週間後の会議の内容は……」
「俺も出席する会議だろう? 把握した。お前が置いていった分の仕事は、もう終わらせた」
「……、全部ですか」
「ああ、だから、別のものに取り掛かっている」
 化け物だろう。
 先王は、人柄は良かったが、仕事はあまり早くなかった。優秀かと聞かれれば、残念ながらセシルも首を傾げるしかない。
 その先王の息子とされている青年が、こうも優秀だとは思っていなかった。外見だけではなく、内面も含めて、彼らは全く似ていない。
 故に、皆は疑いを持ってしまうのだ。

 目の前の青年は、本当に先王の息子なのか。

 セシルの視線に気づいたのか、シルヴィオが唇を開く。
「疑っているのか?」
 背筋が粟立つほどに鮮麗な笑みを浮かべて、シルヴィオが喉を震わした。毒のような美貌に、セシルの額に冷や汗が伝う。
「当然か。先王とは似ても似つかない容姿と……、他にもお前は言いたいことがあるのだろうな」
「……、そのような、ことは」
「だが、俺は王の血を引いている。そうでなくては、こんなもの集められはしないだろう」
 シルヴィオは、セシルに向けて一枚の紙を見せびらかす。
 セシルが恐る恐る受け取ったその紙には、人名がつらつらと並べられていた。目に入った姓を確認すれば、そこに連なる名は、全て貴族、或いは城に務めている者の名だった。
「全員、始末しろ」
 シルヴィオが言い捨てた言葉に、セシルは思わず息を呑んだ。
 達筆な文字で書かれた名前は、中位の貴族の当主までが連なっている上に、即位したばかりのシルヴィオが顔を合わせたこともないような人間が大半だった。
「……、正気、ですか?」
 セシルは、震える声で訊き返す。
 これだけの人数を処断することが、国にどれほどの影響を与えるか彼は分かっているのだろうか。
「国が腐りきる前に、うみは全て出すべきだろう?」
 何の悪びれもなくシルヴィオは肩を竦めた。
 楽しげな声音に、セシルの胸に沸々と怒りがこみ上げる。
「ですが、これでは反発を招きます!」
 シルヴィオの言うことが分からないわけではない。
 先王の治世から、この国は少しずつ腐り始めている。
 先の王位継承に関する騒動もあり、シルヴィオが即位した今でも、国の上層は混乱が続いていた。
 そして、その混乱に乗じて、或いはそれよりも以前から悪さをしている人間が多々いることは、セシルとて理解していた。
 しかし、あまりにも分が悪すぎる。
 まだ王としての地盤の固まっていない状態で、このようなことを実行しようとしているシルヴィオの思惑が分からない。
「反発を招くようなやり方でしか、お前は処分を下せないのか? それでは、無能もいいところだな」
 それを面白そうに見つめて、シルヴィオは白く長い指で己の頭を叩いた。
「宰相の肩書は、飾りか? セシル・ソロー」
 十以上も年下の男に厭らしく名を呼ばれて、セシルの眉間に皺が寄る。
「やり方は、私に任せると仰りたいのですか。――随分と無責任な命ですね」
「無責任? 俺は、お前に機会を与えてやると言っている。それとも、今、ここで殺してもやろうか?」
 平然としたシルヴィオの態度に、セシルの手が僅かに震えた。
 彼の言葉は、冗談ではなく真実だろう。
 セシルが生きているのは、先王の死後カルロスに付かず、城で責務を全うしていたからに過ぎない。
 カルロスに与した人間の大半は、あの騒動の直後にシルヴィオの命で処断された。死した者、死を免れたものの一生表舞台には立てないであろう人間たちを見たとき、戦慄したものだ。
 即位した直後から、容赦ない判断を下せる者など、そうそういない。
 前例がないわけではない。あまりにも即位が早すぎた年少の王ならば、死の重みを知らずに残酷な命令を簡単に出すことはある。
 今のラドギアの少年王など良い例だ。
 だが、意志の確立された大人であるシルヴィオが、容赦のない命令を出すのは、感心するというよりもおぞましいと思ってしまう。
 ――この男は、簡単に人を切り捨てる。
 時には優しげに見える美貌を持っているが、彼は玩具に与えるような慈悲を民に振り翳すだけだということに、気づいてしまった。
 彼にとっては、民に与える慈悲も臣下に与える非情も真実なのだろう。その使い分けが曖昧であるが故に御し難く、理解できないだけだ。
 優柔不断などと言えば多少は聞こえはいいが、セシルからしてみれば、シルヴィオ・リアノは狂っているだけだ。
 能力は高いが、良き王となるかと言われれば首を傾げるしかない。
 彼自身が、賢王となるつもりがあるのかも怪しいものだ。
「味方につくなら歓迎するが、敵にまわるのであれば容赦はしない。生憎と、お前らが俺を疑っている分と同じだけ、俺もお前らを疑っている。どこに裏切り者の息がかかってるか分かったものではない」
 良くも悪くも、シルヴィオ・リアノは優秀過ぎた。
 敵意も悪意も正確に把握して、疑いの目を承知の上で王としての責務をこなしている。
 彼は現状を把握しながら、黙々と水面下で一人動いていた。この半年、行動を起こす好機を窺っていたのだ。
「そこに書いてある連中は、大なり小なり後ろ暗いことに手を出してる。上手く叩けば、必ず襤褸は出てくるだろう」
 その冷やかな瞳に、セシルの額から汗が伝う。
「少しの失態を赦さないほど俺は鬼ではない。だが、裏切るのであれば、容赦しない」
 これは、シルヴィオ・リアノからセシル・ソローに送られた警告だ。
 彼の王は、言葉通り失態に関しては寛容なのだろう。彼は多少の失敗を補正できるだけの力が己にあることを知っているのだ。
 だが、彼は裏切りだけは許さない。
 他者を容赦なく切り捨てることができる人間だ。
 目の前の男は、長年過ごした親友でさえも、裏切られた瞬間、躊躇なく切り捨てるのだろう。
「……、私を、試すおつもりですか」
「期待している。お前が俺を陛下・・と呼ぶことを」
 そこまで、彼は分かっていたのか。
 セシルが意図的に彼を国王陛下と呼ばなかった子ども染みた意地までも、分かっていながら黙認していたらしい。
 シルヴィオの口角が、弧を描く。
「俺は、早く安心させてやりたいだけだ。ただでさえ疑ってばかりな奴だというのに、近くに敵が潜んでいると知れば、上手く眠ることもできなくなるだろう」
 彼の言葉が示す黒髪の少女の存在に、セシルは肩を揺らす。
 リアノは、レイザンドやラドギアと違い宗教はない。
 臆病なリアノの民は、神すら・・・も信じることができない。その臆病さゆえに、真に信じられるものは己だけなのだ。
 ただ、リアノには漠然とした月や星に対する感謝がある。
 明かりを喰らう夜は、己を隠し逃げる術を与えてくれる。
 夜を授けてくれる彼らが持つ闇色は、リアノにとっては何よりも尊い祝福の色とされているのだ。

ファラジア家・・・・・・

 嘗て、リアノには漆黒を身に宿した一族がいた。
 異界の花を家紋に頂いた、黒の女を宗主とした貴族。
「リノ・ファラジアの末裔。あの少女が真にそうなのですか?」
「真偽など関係ない」
 偽りであることを肯定するかのように、シルヴィオは呟く。
「重要なのは、誰もが紛糾できないことだ。真実と等価の嘘ならば、誰もが嘘と分かっていたとしても存在を否定できはしない」
「……屁理屈です」
「知っている。だが、問題はないだろう? それに、本当に血の繋がりがあるのかもしれないしな。リノ・ファラジアは、異界の娘なのだから」
「世界には好みがある、ですか? オルタンシア女史の言葉は非常に興味深いですが、立証はされていませんよ」
「あの魔女の言うことは、大半が正しい。魔女と長年を共に過ごした俺の言葉は信じられないか?」
 信じてもらいたいなどとは思っていないだろうに、シルヴィオはわざとらしく肩を落とした。
「オルタンシアの優秀さは、お前も良く知っているだろう?」
「……、ええ。確かに、優秀な方ではありました。尊敬に値すべき女性だった」
「キユはファラジア家の者だ。そうであると、俺が認めた」
 確かに、真実は分からずとも、つまびらかなことを知らない民にとってあの少女はファラジア家の血縁だ。
 王が認めたことも一因となっているが、何よりも、その容姿を見た者たちには、リアノで愛された貴族の子孫にしか思えないはずだ。
 少女を、かつて存在した一族のように民は愛するだろう。
 もしかしたら、ファラジア家が滅びた悲劇を憶えている民は、さらなる愛情を向けるかもしれない。
「公爵家は反対するが、俺にとっては益にもなる」
 同じように、その少女を傍に置く王にも心を傾ける。
 黒の少女の存在は、王族の容貌とはかけ離れた王が、人心を掴む切欠となるはずだ。
「そうでしょうね。民は、何も知らないのですから」
 セシルは大息をついて、シルヴィオから渡された紙に再び目を通す。
 連なる名前を全て頭に入れて、そのまま、紙を蝋燭の火に紙を投げ入れた
 ――、国の象徴である蟲を宿す者、この世界とより近い、高みに在る者。それこそが、国を治める王たる資格だ。
「噂に違わない優秀さだな。リアノにとって、お前のような憶えの良い頭は重宝される」
 先王と同じく、彼にとってセシルのような存在は必要だろう。
 リアノの宰相の第一条件は、年齢でも学歴でもない。平民で未だに年若いセシルが宰相などという地位に就けた理由も、その第一条件を満たしていたからに過ぎない。
 リアノの宰相は、生きた貯蔵庫・・・なのだ。
 若さと身分で蔑まれて貶められたことは、何も一度や二度のことではない。
 それでも、心優しい先王だったからこそ、セシル・ソローは彼のために働くことを決めた。
 強制され、選ばされた道だとしても、誇って先王のために尽くすことを誓った。
 先王は非情になることができず、為政者には向いていなかったが、民のことをよく考える人だった。
 目前の男とは違う、清らかな心を持った先王だからこそ慕ったのだ。
 故に、先王の遺言を考慮しても、シルヴィオ・リアノを諸手を挙げて歓迎できるはずもない。
 シルヴィオの母親は、調べた限り、妾の中にはいない。それを裏付けるように、シルヴィオの容姿は、先王にはもちろんのこと、どの妃にも似ていないのだ。謎に包まれた彼の母親も、セシルにとっては気懸りで仕方がなかった。
 あまりにも、シルヴィオ・リアノの周辺には謎が多すぎるのだ。
 ――だが、セシルの心が拒んでも認めるしかないのだろう。
 彼が、紛れもなくリアノの蟲を宿した人間であることは事実らしい。
 過ぎ去りし日々を辿ることができるのは、王だけだ。

「拝命承りました、シルヴィオ・リアノ様」

 認めたくなくとも、シルヴィオ・リアノは王だ。
 先王の血を引いた、たった一人の後継者なのだ。