farCe*Clown

第一幕 鮮やかな嘘をつく道化師 33

 時間が経つのは早いもので、あの夜以来シルヴィオとまともに会話することもなく、今日を迎えてしまった。
 長い廊下をミリセントの案内で歩くと、彼女は一つの扉の前で足を止めた。
「……、お帰りをお待ちしております」
 彼女は自分の役目を終えて去っていく。シルヴィオに命じられて希有を案内したものの、彼女自身、現時点で事態のすべてを把握していないのだろう。先ほどの彼女の瞳は、困惑で揺れていた。
 見覚えのある扉に、半年ほど前の記憶が薄らと蘇る。
 扉を開けると、怪我が酷かったほんの少しの日々を暮らしていた来賓室が広がっている。希有が過ごしていた頃あった家具を取り払っているせいだろうか、たった半年程度しか時間は経っていないというのに、随分と昔に過ごしたような気分になる。
 本来なら、誰もが招かれることのない、名ばかりの来賓室。
 特別な事態が起きた時、或いは、起きる時にだけ使用される場所なのかもしれない。臆病であるが故に、リアノは外部からの客を好みはしない。だからこそ、この部屋は名ばかりなのだろう。
 暗欝あんうつとした心を落ち着かせるように、右手に握りしめていた、いくつかのブローチを光にかざす。半年間も返す機会を失っていた、シルヴィオから渡されたブローチだった。エメラルドのブローチは、部屋の明かりを受けて、鮮やかな輝きを放つ。
 女物のブローチは、シルヴィオがつけるような代物ではない。それにも関わらず逃走中まで肌身離さず持っていたということは、このブローチは、彼にとって大切なものなのだろう。
 希有の胸にある、桜花の欠片のネックレスと同じような意味合いのものに違いない。
 いつでも会いに行ける愛しい人であるならば、ブローチではなく本人を愛でるだろう。会えないであろう人のものだから、彼は似合わぬブローチを大切に持ち歩いていたのだ。
「もう少しだけ、借りていても良いよね」
 それらをお守りのように抱きしめた後、ミリセントが用意した荷物の中に紛れ込ませる。
 そのまま、ミリセントに黙って荷物に入れた一振りの懐剣を手に取る。怯えるような手を無理やり動かして、静かに刀身を鞘から抜けば、光を反射して煌めく白刃《しらは》が現れた。オルタンシアの形見の剣は、以前と変わらない輝きを持っていた。
「……、大丈夫」
 小さく息を吸って、希有は鞘をした懐剣を懐へと隠した。あらかじめ紐で繋いでおいたそれを、見えないように首にかける形で固定する。
 理由は分からないが、ミリセントの用意する服はいつも首の詰まったものであるため助かった。懐剣を隠していたところで、それほどの違和感はないだろう。
 向かう先は、決して生易しい場所ではない。
 ローディアス公爵家では、物理的にも心理的にも、害される可能性など掃いて捨てるほどあるのだ。
 いざとなった時に、自分が他者を手にかけられる自信はない。おそらく、できないだろう。だが、この剣が希有を奮い立たせてくれる。
 胸に手を当てて、立ち竦んだままに瞳を閉じる。
 時計の針の音だけが、静寂に響いていた。
「大丈夫」
 己に言い聞かせるように何度も呟いて、希有は小さく息をついた。自分で選んだことだ、今さら怖気づくわけにはいかない。
「キユ」
 強く決意してから希有は目を開き、名を呼ばれるがままに振り返る。
「シルヴィオ。もう時間?」
 複雑な顔をして佇むシルヴィオに、希有はできる限り自然に見えるような笑みを作る。
 騙されてくれたら、良い。
「……、ああ」
「そっか。別に見送りとか要らなかったのに、忙しいのにご苦労様」
 おどけるように言いながら、希有は顔を伏せたままシルヴィオの隣を通り過ぎようとした。
 すれ違う瞬間、手首を強く掴まれ、希有は足を止める。
「……、どうしたの」
 思いの外力強い手に、希有は彼の行動を咎めるように口を開いた。
「もしかして、変な罪悪感でも抱いてる? シルヴィオが気にすることなんて、何にもないのに」
 もし、彼が希有に対して罪悪感を抱いているのだとしたら、それは間違っている。シルヴィオは半年もの間、希有の面倒を見ている。十分過ぎる報酬は与えていると言っても過言ではない。
 希有を利用して自分の立場を楽にすることを、誰が批難すると言うのか。
「ばかだな。……、気にしているのは、お前の方だろう」
 目を見開いた希有に、シルヴィオは寂しげに苦笑する。
「少しだけ、話を聞いてくれないか?」
 あくまで問いかけるような言葉であったが、聞いてほしいと言っているようにも聞こえた。
「……、うん」
「俺は、生まれた時から公爵家で育った」
 訥々《とつとつ》と打ち明け始めたシルヴィオを、希有は黙って見つめる。希有は彼の生い立ちを、ほとんど知らない。聞こうとも思わなかったのは、彼に興味がなかったからではない。
 希有の中で、シルヴィオが特別な存在としてくくられていたからなのだろう。
 この世界で唯一の、希有に手を伸ばし、救いあげてくれた人。一番、近くに感じられる人だ。
 シルヴィオや彼を取り巻くものに対する疑念がないとは言えない。だが、それでも構わないと思っていた。彼の過去など知らずとも、不思議と不安ではなかったのだ。
「……、用意された道を歩かされてきた。何処にも行けない、行くつもりなどなかった。その道を歩いていることだけしか、俺には赦されていないと思っていた」
 事実、シルヴィオは、用意されてきた道を踏み外すことなく歩いていたのだろう。与えられるものだけが、唯一絶対だと刷り込まれて生きてきたのだ。
「お前を助けるというのは、初めて、自分の意思で選んだことなんだ」
 シルヴィオは、かすかに微笑む。
「それが正しかったのか、間違っているのかなど、知る必要もない。誰に咎められ、受け入れられなくとも……、俺は、お前を助けたことを後悔していない」
 それは、希有を気遣うが故に取り繕った言葉ではない。
 こんなにも優しい微笑みを浮かべて語っている言葉が、偽りであるなどとは、思いたくなかった。
 彼は必要ならば切り捨てられる人である。希有に気を使って上辺だけの言葉を吐いたりはしない。
「守ってやる。ほんの少しでいいから、俺を信じてほしい」
 不意に、大きな手が背中にまわり抱きしめられた。
 咄嗟に彼の身体を跳ね返そうとするが、母親に縋りつくような抱擁を拒絶することはできなかった。
「……、何するの」
 震える喉で絞り出した声に、少しだけ掠れた彼の声が重なる。
「切り捨てはしない。忘れたくないからな」
 その真意を読み取ることは、希有にはできなかった。
 彼の背中に腕をまわして、子どもをあやすように背を撫でてやる。
 折角、笑顔で行こうとしていたというのに、これでは上手く笑うこともできやしない。
「ちょっと、出かけるだけだよ。忘れるわけない」
 口にした言の葉は不自然なものではないはずなのに、どうしてか、子ども騙しのように薄っぺらく感じられた。
「だが、……容易く奪われるものだ」
 無事に戻って来られる確信など、何処にもない。
 シルヴィオの言うとおり、このまま忘れ去られるだけの、過去の人間となっても何らおかしくはないのだ。
「大丈夫だよ」
 根拠のない言葉は、虚しく宙に溶けていく。

「お取り込み中のところ悪いんですけど、お時間ですよ、シルヴィオ様」

 突然、聞こえた声に顔だけで振り返れば、扉の前に、淡白な顔をした青年が佇んでいた。一瞬、シルヴィオの腕に力が入る。どうやらシルヴィオも青年の存在に気づいていなかったらしい。
 青年は堅苦しい侍従の服に身を包んでいた。右耳の後ろで一つに結えられた髪は、腰元まで垂らされていた。一度も会ったことはないというのに、何故だか既視感のようなものを抱く。
「お初にお目にかかります。キユ・ファラジア様。公爵家までの護衛を務めさせていただきます。――エルザと申します」
 彼は抱きあう希有とシルヴィオに、一礼した。
「見せつけられちゃって困っちゃいますね。もう少し後に来るべきでしたかぁ?」
 瞬間、希有は顔を真っ赤に染め上げる。
 密着した体制で、細くもたくましいシルヴィオの身体が眼前にある。年頃の娘と男が抱きあっている状況など、そうあっては良いものではない。好き合っている恋人同士ならまだしも、希有とシルヴィオはそういった関係ではない。
「あ、う」
 だが、頭の中は混乱していて、どうすればいいのか全く分からなくなっていた。
 上気した頬でシルヴィオを見上げれば、彼は黙って視線を逸らしながら、ゆっくりと希有を解放した。
 わざとらしく咳をしたシルヴィオに、エルザは嫌らしい笑みを浮かべている。見るだけで苛立つような、神経を逆撫でする表情だ。
「……今日は、その姿か。エルザ」
「今日は、なんて変なこと言わないでくださいよ。僕はいつもこれですよ?」
「嘘をつくな」
 肩を竦めたシルヴィオに、希有は首を傾げる。
「分かっているとは思うが、キユに余計な真似をすれば殺すぞ。ルディにも伝えろ」
 シルヴィオが吐き捨てた物騒な内容に、希有は思わず彼の顔を凝視する。
 エルザと呼ばれた青年は、シルヴィオの言動に驚いた様子もなく、ただ笑みを深めた。
「心得ていますよ、ご心配なく。シルヴィオ様が危惧するような万が一は、今のところは、ありえません」
「信用ならない」
「嫌だなあ、もう八年の付き合いじゃないですか」
「俺とお前の付き合いの長さ程度が、信用に足ると思っているのか? ヴェルディアナの駒の分際で良く言えたものだな」
「ルディ様は、貴方にとって親友でしょう? その駒である僕のことも、もうちょっと信用してくれても良いと思いますけど」
「お前ほどの胡散臭い奴を、何故信用しなければならない」
「ふふ、悲しいなぁ。胡散臭いことは否定しませんけど」
 エルザは肩を震わせ、希有を横目で睨んだ。
 初見であるにも関わらず敵意が見え隠れする視線に、希有はわずかに顔をしかめる。
「ベアトリス様の焦りの意味が、分かりましたよ。未だ囚われているのは貴方も同じですか……、シルヴィオ様」
「……、否定したところで、お前たちは信じないのだろう」
「信じられる方が、どうかしていますよ」
 エルザは部屋に飾られている時計に視線を遣り、口を開いた。
「昼前には、お連れするように言われているので、お別れはもう宜しいのですかぁ? 下手したら、もう会えないかもしれませんけど」
 明らかな毒の含まれた内容に、希有は拳を握りしめる。
 小さく息をついて、決意したように隣にいるシルヴィオを見上げた。
「また、……戻ってきても良い?」
 哀しげに目を伏せるシルヴィオに、希有は呟く。シルヴィオは驚いたように肩を揺らし、微笑みを浮かべた。
「戻って来い」
 希有は泣きそうな顔を誤魔化して、とても見れたものではない笑みを浮かべる。
「では、行きましょうか。キユ・ファラジア様?」
 差し出されたエルザの手を取らずに、希有は静かに頷いた。


               ☆★☆★               


 城門とは異なる門に、一台の慎ましい馬車が寄せられていた。見たこともない門だったが、城にいくつ門があったところで、驚くことはなかった。臆病なリアノの王城だ、緊急事態に備えた退路が山のようにあるに違いない。
 希有は、離れたところに佇むシルヴィオを、一度だけ振り返る。忙しい中、わざわざ、希有を気遣い見送りに来てくれたのだ。
 ――自分勝手で、我儘で、どうしようもないと知っている。
 それでも、戻れるのならば、この場所に戻って来たい。いつか地球に帰るその日まで、希有の居場所はシルヴィオの元だと思っている。
 馬車に乗り込み、小さく息をついた希有をエルザが見た。
「もしかして、戻ってこられるなんて、お思いですか? 根拠のない期待や希望は、持たない方が良いですよ」
 初めから、敵意を隠そうともしない内容だった。
 実際に言葉を投げかけられると随分と衝撃を受けたが、ある程度は覚悟していたことだ。
 シルヴィオやミリセントのように、希有を気遣って優しくしてくれる人間など、これから向かう公爵家には存在しない。
 シルヴィオやミリセントの方が例外なのだ。
「戻れるかどうかは、知りませんけど……、少なくとも、今この中で殺されることはないと思っていますから、その点では安心しています」
 無事に戻れる保証などなく、今の状況は、決して楽観視できるようなものではない。
 だが、今、この瞬間に希有が殺されることだけはないだろう。
「どうしてですか?」
 わざとらしく首を傾げたエルザに、希有は続ける。
「次にお会いできるのを楽しみにしてます、とベアトリス様は仰ってましたから。……それに、今ここで殺したところで、貴方たちの怒りは鎮まらないでしょう」
 あの言動から察するに、ベアトリスは戴冠式の日から、或いはそれより以前から、希有を公爵家に招き入れることを決めていたはずだ。
 それに、公爵家の馬車の中で、護衛まで付けた希有が死ねば、ある程度の悪評は免れなくなる上にシルヴィオの機嫌を損ねる可能性もある。
 このような馬車の中で殺すつもりは、ベアトリスにはないだろう。
 何よりも――。
「どうせ殺すなら、惨たらしく殺したいのでしょう?」
 希有のことが憎いのであれば、簡単に殺そうとは思わないはずだ。できることならば自分の手で、自分の目が届く場所で、惨たらしく死んでほしいに違いない。
 希有が公爵家の立場ならば、おそらく同じことを考えるだろう。
 自分たちの命を賭してまで、シルヴィオを王にするために動いていたのだ。たった一つの異物の存在が、計画のすべてを狂わしたのであれば、恨みを抱くに決まっている。
「穏便にことを運ぼうとしているのは、シルヴィオの機嫌を損ねるわけにはいかないからですか。単なる同情や、国のためだけにシルヴィオを育て上げたわけではないのでしょう」
 ローディアス公爵家がシルヴィオを育てていた理由は知らないが、ある程度の予想は立つ。
 自分の家と懇意こんいにしている王がいれば、公爵家にとって益になる。
 赤子の頃から育て上げた王は、公爵家にとっては傀儡に近いものだったのだろう。シルヴィオは、公爵家の用意した道を黙って歩く人形だった。
 だが、希有のような存在のせいで、その目論見は最悪な形で崩れてしまった。
「……、生意気な餓鬼ですねぇ」
 希有の発言に耳を傾けていたエルザは、冷めた目で呟いた。
 外見に似合わず変声期前の少年のように高い声は、淀みなく蔑みを含んだ言葉を紡ぎ始める。
「弱者は黙って、媚でも売ってみたらどうですか? シルヴィオ様にそうしたように。ちょっとは、貴方の命が助かる確率も上がるかもしれませんよ?」
莫迦ばかに……、しないでください」
 媚を売ったつもりなど、毛頭ない。
「良いですよね、弱い者は。黙って俯いていれば、お優しい誰かが必ず恵みを与えてくれる。自分は何にもしなくたって、他者から与えられる恩恵《しる》を啜っていれば楽に生きていけるんだから」
 寄生虫、とエルザの唇が音もなく弧を描いた。
「大嫌いです。シルヴィオ様の傍で何の苦労もなく生きていく貴方は、卑怯だ」
 一瞬のうちに沸々とした怒りがこみ上げ、希有はエルザを睨みつける。だが、唇から反論が零れ落ちることは、ついにはなかった。
 何一つ苦労を知らずに生きているなどとは、思いたくない。それでも、傍目から見れば、希有が良い暮らしをしていることは否定できない。目に見える苦労などなく、ただ、守られて暮らしていただけにしか見えないのだ。
 悩み続けているなどと言ったところで、それは我儘故の悩みだと取られてしまうだろう。
「もしかして、怒りましたか? 怒ったのなら、すみません。僕、礼儀知らずなので、ヴェルディアナ様にも良く注意されるんです」
 悪びれのないエルザの態度に、希有は唇を噛んで苛立ちを抑える。ここで取り乱せば、相手の思う壺にしかならない。
「ああ、キユ様は知らないでしょうけど、ヴェルディアナ様は、僕がお仕えしている方でローディアス公爵家の当主なんです。シルヴィオ様よりも、よほど王族らしい姿をした方なんですよ」
 棘のある言葉は止まらずに、饒舌じょうぜつにエルザは語る。
「シルヴィオ様の親友なんです。お可哀そうなルディ様。最後の最後で、信じていた親友に裏切られるなんて」
 すべての責は希有に在るかのごとく、言葉の暴力は止まなかった。
 神経を擦り減らすような、会話と呼ぶには一方的すぎる言葉は、馬車がローディアス公爵家本邸につくまで続けられた。