farCe*Clown

終幕 追憶で微笑む亡者 50

 夜の帳が下り始めた時刻、唐突に、シルヴィオが姿を現した。
 桜色の髪を目にして、希有はゆっくりと瞬きをした。
「数日ぶり? お仕事お疲れ様」
「少し、仕事が立て込んでいたからな。今回は全面的に俺が悪いのだが、……セシルの奴、ここぞとばかりに予定を埋めるとは」
 セシル、という言葉に希有は思い出す。
 それはリアノの宰相の名だ。シルヴィオが臣下と上手く行っているか非常に不安だったのだが、今の声音を聞く限りでは、宰相とは険悪ではないらしい。それが分かっただけでも、少し安心した。
「とりあえず、座ったら?」
 ソファの隣を手で叩くと、緩慢な動きで歩いてきたシルヴィオが、溜息をつきながら座り込んだ。
 思えば、城に戻ってきてから二人きりになったのは初めてだ。彼との沈黙は苦にならないが、静かな室内が少しだけ気まずく感じられた。
 希有は、シルヴィオが来るまで読んでいた本を閉じて、立ち上がる。
「紅茶淹れるけど……、飲む?」
「ああ」
 実は、紅茶を淹れるのは初めてであり、ミリセントの見よう見まねだ。だが、そこまで不味くなることはないだろう。
 しかし、淹れた紅茶を差し出すと、彼は口に含んで渋い顔をする。
「苦い」
「……、目が覚めて良いよね」
 軽口を叩きながら希有も紅茶を口に含むが、確かに、随分と苦かった。今度、しっかりとミリセントから淹れ方を習おう。
「もう夜だと言うのに、目を覚ましてどうする。……、まあ、次に期待する」
 当然のように、次、と口にした彼に、希有は苦笑した。
 いつまで続くかも分からぬ関係だと言うのに、彼は希有が傍にあることが当たり前のような物言いをする。
 嬉しくないわけではないが、少しだけ切ない。
「……、ねえ、シルヴィオ」
 希有は、話題を変えるためにシルヴィオの名を呼んだ。
「なんだ?」
「ずっと気になってたんだけど、ここ、何処? 王城の何処かとは聞いてたけど、どんな場所なのか教えてもらってない」
 半年も暮らしておいて可笑しな話だが、希有は、自分が暮らしている場所が何処なのかを知らない。
「あんまりにも色々とあり過ぎて、気にする余裕もなかったし……、ミリセントに聞くのも、どうかと思って」
 希有が異界の人間であることを、ミリセントが知っているかどうかも分からないのだ。下手に質問して襤褸が出るのが恐ろしく、彼女には何も聞けなかった。
「お前にしては、賢明な判断だな」
「……、ひどい言い様」
「当然だろう。ローディアスでも、おとなしくしてればいいものを、必要以上に動きまわっていたらしいな」
「そんなこと……」
「ないとは、言わせない。アルバートのことも、下手したら殺されていてもおかしくなかった。前々から思っていたが、お前は冷静に見えて直情的だから困る。浅慮で考えが足らないしな」
「……、否定、できないけど」
 自分が行動を起こして、後から、その短慮さに打ちひしがれることは多々ある。その時は良いと思っていても、よくよく考えれば、愚行でしかない行いも山ほどあった。
「あまり、心配させるな」
 真剣な声音に、希有は何一つ反論ができなかった。
「……、分かっている」
 自分では、しっかりと考えて行動しているつもりだったが、思い返すと随分と直情的に動いている。考えたつもりになっていただけであり、その先にまで考えが及んでいないのだ。
「それより、話を脱線させないで」
 そのことを素直に認められず、心配させたことに関しての謝罪は口にできなかった。
「……、王が暮らす場所など、一つしかないだろう」
 シルヴィオに視線を向けながら、希有は、再び苦い紅茶に口をつける。

後宮・・だ」

 思わず、口に含んでいた紅茶を噴き出した。
「……何をしているんだ。早く拭け」
 シルヴィオに渡されたハンカチーフで口元を拭い、希有は咳き込む喉で必死に彼の言葉を反芻した。
「……っ、こ、うきゅう?」
「王が暮らす場所など、それ以外にあるのか?」
「……知らない、けど。えと、……出て行った、方がいいの?」
 出て行っても居場所はないだろうが、出て行くべきなのだろうか。混乱した頭では、上手く考えが纏まらず、希有は隣に座るシルヴィオを見上げる。
「どうして、そうなる?」
「だって、わたしが暮らすのは明らかにおかしいよ」
「……? 何故だ、問題はない」
「いや、シルヴィオが問題なくても……、妃でも侍女でもないわたしが、ここに住んでいるのは変だよね?」
 後宮と言えば、王の血筋を保つための場所だろう。
 希有にも、それくらいの知識はあった。
 だが、次の瞬間に彼の唇から紡がれた言葉に、希有は再び咳込むことになる。
「面白いことを言う。お前は、俺の妃だろう」
「……っ、けほ」
「お前は、また咳込んで……。大丈夫か?」
 心配するように顔を覗き込んでくるシルヴィオに、希有は息を整えた。
 何やら、とんでもない言葉が聞こえた気がするが、問題はない。大丈夫だ。希有の聞き間違いに違いない。
「…………、ごめん、もう一回言ってくれる?」
「お前は俺の妃だろう」
「いや、性質の悪い冗談も大概にして……」
 呆れたようにシルヴィオを見れば、彼は黙って希有から視線を逸らした。
 その反応に、焦りを感じて希有は頬を引きつらせた。
「なんで、目を逸らすの?」
 彼は気まずそうに目を泳がせながら、小さな声で言う。
「……お前の許可は取っていたと記憶している」
「……、何時!」
「お前が処刑されそうになった日、俺は言ったはずだ。お前を囲うことにしたと」
「それは、保護するって意味じゃ……」
「貴族や王族では囲うと言えば愛妾にするという意味になる。常識だろう」
「……っ、それは、シルヴィオたちの常識!」
「そうなのか?」
 とぼけたように首をかしげるシルヴィオに、希有は脱力した。何処まで計算でやっているのか分からないことが、腹立たしい。基本的に、彼は希有の一枚も二枚も上手うわてだ。
「ああ、もう! やっと、分かった。……、ミリセントが生温かい目を向ける意味も、ルディ様やベアトリス様が、あそこまで怒った理由も!」
 公爵家が希有に対して敵意を持っていた理由は、何も、シルヴィオが我儘を言ったからだけではなかったのだ。
 これでは、フローラをシルヴィオに嫁がせようとしていた公爵家にとって、希有は完全な邪魔者だ。
「最悪……、考えなし、信じられない」
「酷い、言い様だな」
 喉を震わしたシルヴィオを、希有は睨みつける。
「本当、意味が分からないっ……! 自分が何したか分かっているの?」
 彼に対しての怒りも当然ながらあるのだが、それよりも呆れが先行する。
 それは、何もシルヴィオに対してだけではなく、希有自身に対するものでもある。
 思い直してみれば、希有は不自然なほどの厚遇こうぐうを疑うべきだったのだ。
 それは、王が保護しているだけの者に与えられるものにしては、少々質が違った。ミリセントが、希有の外見を特に気にかけていた理由も、希有がシルヴィオの妃扱いになっていたのならば、納得できる。
「どうして、何のつもりで、こんな真似を……?」
 理解できない。消えそうな声で呟いた希有に、シルヴィオは口を開いた。
「……、勝手なことをしたのは、悪かった」
 勝手なことをした自覚は持っていたらしい。それならば、早く、訳の分からない身分を取り消してはくれないだろうか。
 希有が顔を上げると、彼は切なげに眉を下げていた。
 予想だにしなかった表情に、希有は一瞬息を止める。
「だが……、こうでもしなければ、お前は俺から離れていくだろう」
 隣に座っていたシルヴィオの手が、躊躇なく希有に伸ばされた。拒否する暇など与えず、彼の手が無理やりに希有の視線をシルヴィオの方へと向かせた。
 美しい若草の瞳と、視線が交わった。
「お前は最悪の臆病者だ。未だに、こんな物騒なものを隠し持たなければならないのか」
 シルヴィオは希有の頬を撫でてから、胸元に触れる。
 鋭利な懐剣が隠された、膨らみのほとんどない胸だ。
 この懐剣は、オルタンシアを信用することもできず、家に帰れる保証もなかったあの頃の希有にとって慰めだった。
 今もこの懐剣があるだけで、少しだけ心が落ち着く。
 公爵家から帰ってきた後も、どうしても精神的に安定することができず、ずっと肌身離さず持っていた。
「守ってやると言ったというのに、安心してはくれないのだな」
 意地の悪い笑みだ。
 カルロスの言った通り、シルヴィオは中身のちぐはぐな男だ。牢で涙を流した姿も、食えないこの姿も、おそらく彼の真実だ。水と油のような、二つの性を同じ体に彼は秘めている。
「ここは知らない世界だよ。たとえ、何年過ごしたとしても、わたしの居場所じゃない」
 安心できないのではない。シルヴィオの傍では心が凪いで、穏やかでいられることは疑いようもない真実であった。
 だが、やはり、ここは希有の生まれた世界ではないのだ。この地に対する、恐怖や戸惑いが、完全に拭われることはない。
「それならば、お前の居場所はどこに在る?」
 答えに詰まった希有の身体を、容易くシルヴィオは抱き込んだ。
 咄嗟のことに反応できなかった希有は、彼の行動を甘んじて受け入れる。

「居場所がないのならば、ずっと、ここにいればいい」

 希有の耳元で、彼は優しくも酷な言葉を口にした。
「……、分かっている、くせに」
 彼はきっと、全部分かっている。
 希有の心など、随分と前から知っていたのだ。彼はいつも、見透かすように希有の奥底まで見抜いている人だ。
「わたし、……帰りたい・・・・なんて、思ったことない」
 アルバートの問いに対する答えなど、昔から出ている。口にしてはいけないと、心に歯止めをかけていただけだ。
 真実、心の底から地球に帰りたいと思っていたのならば、シルヴィオが情報を集めてくるのを待っているのではなく、自分の足で探していただろう。アルバートの言うとおり、帰るつもり・・・などとという体裁は整えたりしない。
 受け身な態度で、黙って情報が与えられることを待っていたりしなかった。それは、地球に帰らなくてはならないと思っても、帰りたいとは思わなかった証だ。
「だって、地球には、……幸せなんかない」
 希有が、あの子を死に追いやった世界。
 あの場所での希有は、誰にも必要とされず、誰からも愛されはしない。不出来な妹だからだけではなく、優秀な姉を死も同然の行方不明にさせたのは希有だからだ。
「四年、前……、あの子と同じにならなくちゃって、思ったの。あの子がいないのなら、誰かが代わりにならなくちゃいけないって……」
 罪悪感で押し潰されそうで、同じになろうとした。そのようなことをしたところで赦されるはずがないと知っていたと言うのに、無理をして、愚かな希有は姉をかたろうとした。
「でも、どんなに頑張ったって、同じになんてなれなかった。だから、わたしは、悪い子になろうと思ったの」
 だが、愚鈍な妹が、優秀な姉を騙ることなど、できるはずもなかったのだ。
 そうして、希有は、言葉遣いや態度を意識的に乱暴なものに変えた。
 美優ではなく、希有が死ねば良かったのに、と、誰もが思うような存在になろうとした。そうすれば、美優の価値は永遠に守られる。愚鈍な妹が生きていることで、優秀な姉の存在は人々の記憶に何度でも蘇る。
 ――、自分の存在を貶めることで、輝かしかった姉の存在を際立たせる。
 己を赦したいがために、罰を受けたつもりになっていたのだ。誰かに傷つけられたからと言って、希有が美優を傷つけた罪が消えるはずないことなど、明白だったのに。
「元いた場所で、こんなに……、笑ったりなんてできなかった」
 笑顔を浮かべる日など、永遠に来ないと思っていた。
 盗蜜者に盗まれたりしなければ、――シルヴィオと出逢わなければ、希有は今もきっと、俯いたまま世界を歩いていただろう。彼と言う救いを知らなければ、優しさに触れて嬉しさを感じて、笑うことなどなかった。
「でも、赦されるわけ、ない……!」
 だからこそ、何度も、何度も考えてしまうのだ。
 その救いを享受して笑うことは、本当に赦されるのか。
 追憶で微笑む片割れが、シルヴィオとの日々の中で霞んでいく度に、罪悪感はいっそうと膨れ上がる。
「美優ちゃんの未来を奪ったのに、幸せな未来なんて……、思い描いちゃいけない」
 時折、シルヴィオの隣で笑い続ける自分の姿を想像してしまう。
 それは、きっと、とても幸せで優しい日々。
 あるはずのない、思い描くことさえ赦されない未来への夢だ。
「赦されない、か。それならば、お前は帰りたいと言い続けろ」
 希有を抱くシルヴィオの腕に、力が籠る。
「俺が、無理やりお前を引きとめることにする」
 その台詞の真意など、考えるまでもなかった。
「どうして、……っ、なんで、そこまで、してくれるの?」
 希有が帰らないことは、希有の責ではないと彼は言っているのだ。詭弁きべんであることなど承知の上で、希有の心を軽くしようとしている。
「わたし、何にもできない。何にも、あげられないよっ……」
 希有が、シルヴィオにしてあげられることなど、何があるというのか。
 彼の泣き場所になると、決めた。だが、希有は彼に何を与えられた。
「傍にいるだけで、あなたを傷つけるって、言った!」
 これからも、どれほど彼のために在れるか分からないのだ。
 甘やかしてあげたい、泣かせてあげたい。
 ――彼を、守ってあげたい。
 強く思おうとも、いつか帰る自分ではシルヴィオの負担になることしかできないのではないか。
 どれほど決意を固めたつもりでも、容易く不安は心を侵す。
 シルヴィオは、希有の身体を強く抱きしめたたまに言った。
「傷つけられても構わない。救われたのは、あの時の言葉だけにではない。たった半年、周りから見たら短い時間だ。それでも、俺にとっては何よりもかけがえのない日々だった」
 背中にまわされた彼の手が、ひどく熱かった。
「……お前が隣にいるだけで、笑ってくれるだけで、世界は違って見えた。色褪せていたはずの世界が、優しく彩られていったんだ」
 泣きそうなほど切実な声が、希有を動けなくする。
「何も与えられないなどと、言うな。……、何ものにも代えがたい、鮮やかな世界をお前は俺にくれただろう」
 聞いてはいけない。
 それなのに、優しい声が心に染みて、一筋の涙が流れ落ちた。

「傍にいてほしい」

 彼は、希有の欲しいものを与えてくれる。過ぎた願いだと諦めていたものを、そっと施してくれる。
「お前が笑ってくれるならば、……俺は世界を、この国を愛せる」
 希有は、縋りつくようにシルヴィオの胸元に顔をうずめた。
 様々な想いが溢れ出すのに、震える喉では、何一つ伝えられなかった。
 いつか、遠くない未来に、選択の日は訪れるのだろう。
 その時、希有は幸せなどない苦しいだけの世界を、――この温かな人を捨てて選ぶのだろうか。
 シルヴィオの傍にいたいと泣き叫ぶ心に、見ないふりをして。


              ★☆★☆★☆              


 シルヴィオは、泣き疲れて眠った希有の身体を大切そうに抱き抱えた。小柄な体躯に相応しく、驚くほどに彼女の身体は軽い。レースのカーテンが緩やかに垂らされた寝台に彼女を寝かせると、小さな体が身じろぎをした。
「ん……」
 彼女は知らない。
 この世界に盗まれるということが、何を意味するかを本当の意味で分かっていない。考えることさえ、していないのかもしれない。
 シルヴィオは軽く唇を噛み、彼女の眦に滲む涙を拭ってやった。
「いつか、お前は俺を恨むのだろうな」
 青白い唇に触れると、かすかな吐息が指の腹をくすぐる。
 彼女の頭の両脇に手を置いて、ゆっくりと顔を近づける。そのまま、小さな唇を奪うように、自らのそれを重ねようとした。
「……シル、ヴィオ」
 だが、安心しきったように自分を呼ぶ声を耳にして、シルヴィオは動きを止めた。
 わずかな明かりに照らされる顔は、先ほどまでの悲痛な表情と違い、ひたすらに穏やかであった。
「ずるいな、お前は」
 シルヴィオのことを拒まないというのに、希有はあくまで地球に帰ろうとする。ここに居たいと全身で叫びながらも、その唇で明確な言葉をシルヴィオに与えてはくれないのだ。
 そして、シルヴィオの好意を受け取っても、それをシルヴィオの思うようには考えてはくれないのだろう。
 いっそうのこと、すべて奪ってしまえたら、良かった。
 枷だらけにして、その身のすべてを縛りつけてしまいたい。彼女を何処にも行けないようにしない限り、シルヴィオは安堵することができない。
 だが、それを選べば彼女が壊れてしまいそうで、シルヴィオは一歩が踏み出せないでいる。
 この執着を向けるべき少女が、あまりにも儚く脆いことを、シルヴィオは知っていた。知っていたからこそ、彼女を苛める過去を奪った。彼女が、自ら最悪の道を選ぶことのないようにした。
「……、良い夢を、キユ」
 希有の胸元に薄く残る傷痕の理由を、シルヴィオは既に見ている。
 眠る希有の額に、シルヴィオは優しく口づけた。