farCe*Clown

第一幕 砂塵が運びし影 57

 春のうららかな陽気に、希有は眩しそうに目を細めた。
「眠たそうだね」
 目の前に座っていたアルバートが、小さく呟いた。
「……、アルの方が眠たそうだけど。もしかして、仕事忙しいの?」
 彼の目元には薄らと隈があり、顔色も見るからに悪い。あまり寝ていないことは明らかだった。
「うん、まあ、春は仕方ないんだ。いつも通りの仕事に加えて、――君たちの世界で言う予防接種みたいなのを施さなくちゃいけない。今日、キユに会いに来たのも、それが理由」
 希有は頬を引きつらせる。予防接種は何度か受けたことはあるが、注射はあまり好きではない。
 予防接種という概念が、この世界に存在することには、さほど驚きはない。あれの始まりは、希有が昔考えていたよりも昔なのだ。こちらの世界の医学レベルを考えれば、その概念があることも可笑しくはない。
 可笑しくはないのだが、苦手であるが故に思わず顔をしかめてしまう。
 そのような希有の様子に気づくことなく、アルバートは鞄の中から何かを探している。
「大分治まってきたとはいえ、深刻な病気が流行るからね。早めの予防が大事なんだ」
「深刻な病気?」
「そう。リアノ史上最悪の流行り病。とっても性質たちの悪いもの」
「オルタンシアが、治したって言う……、死病?」
 アルバートが目を瞬かせる。
「ああ、知っていたんだ」
「公爵家に居る間に、エルザさんがご丁寧に教えてくれたから」
 エルザから聞いた惨い話を思い出して、希有が眉間に皺を寄せると、アルバートは苦笑した。
「つまり、領民を焼き殺していた話も聞いていた、と」
「……、うん」
「あの頃は、突然盗まれてきた病で国中が混乱していたらしいから、どこの領地でも同じようなことが行われていた。それが、あの仕打ちを正当化する理由にはならないけど、ありふれた光景だったみたい」
 希有とて、そのような悲劇が簡単に起り得る状況であったことは、理解できる。だが、やはり、残酷だと思う心を捨てきれない。惨い仕打ちだと、醜い自分でさえも思ってしまう。
「……、キユが複雑に思うのも、無理はないかもね。ファラジア家も、その病気で滅んだようなものだから」
「え?」
 思わず声をあげた希有に、アルバートが目を伏せた。赤く長い睫毛が、白磁の肌に影を落とす。
「ファラジア家は、貴族とはいえ領地は持っていなかったから、旧カルヴァン子爵領に邸宅を構えていたんだ。でも、病が流行った頃に悪意ある噂が流れて、死病に罹患していなかったファラジア家の人たちは、カルヴァン家に一人残らず焼き殺された」
「……、黒は、祝福の色じゃないの?」
「祝福の色だよ。僕が生まれる前の話だから、詳しくは知らないけど……、その頃のカルヴァンの当主は半狂乱だったらしいから、それが原因みたい」
 小さく溜息をついたアルバートは、漸く鞄から目当てのものを見つけ出したらしい。
 彼が取り出した瓶は、灰色の液体で満たされていた。
「話が逸れちゃったね。キユ、これがだよ」
「灰?」
「死病を予防するために使われるものだよ。純度が高ければ、ほぼ確実に死病には罹らずに済む。――、貴重なものだから、純度の高いものは大人数には施せないのだけど」
「こんな液体で……、死病が予防できるの?」
「できるよ。だからこそ、シルヴィオは君を異界の娘だと公言しない」
 訳が分からず首を傾げた希有に構うことなく、アルバートは続けた。
「本当は、ファラジアの血を引いていると思われているだけでも危ないんだけど……、異界の娘だと言うよりは、そちらの方がマシだ」
 そうして、彼はの入った瓶を鞄に仕舞った。
「予防しないの?」
「しないよ。今日、僕が君を訪ねたのは、キユ・ファラジアが死病の予防接種を受けたという事実・・を作るためだから」
 アルバートの言葉に、希有は困惑する。
 希有とて、死病にはかかりたくない。防ぐことができるならば、是非、予防接種を受けたいと思う。
 それなのに、何故、アルバートは何もせずに帰ろうとしているのだろうか。
「キユには、予防なんて必要ないんだよ。異界の人間は、死病には罹らないから」
「どう、して……? どうして、そんなことが分かるの?」
「秘密。そのことを話すと、この灰の原料まで教えなくちゃいけなくなる。キユは、知らない方が幸せだよ。この灰が何でできているか」
 水銀を溶かしこんだような瞳で見つめてくるアルバートに、希有は口を噤んだ。
「心配しなくても、オルタンシア叔母様のお墨付きだよ。僕のことは信用できなくても、彼女のことは信用できるでしょ?」
 オルタンシアが導きだした答えならば、確かに、異界の人間は死病に罹らないのだろう。今は亡き彼女こそが、リアノで最も死病に詳しかった人間なのだ。
 疑いは捨てきれないが、一応は納得できた。何の知識もない希有が説明を求めたところで、分かりはしない。
「この話は、これで御終い。予防接種を本当は受けていないこと、君が異界の人間だと知らない者には、絶対に言ってはいけないよ」
 あまりにもアルバートの顔が真剣であったため、希有は理由を聞くことができなかった。これ以上深入りしてはいけない、と頭の奥でサイレンが鳴り響いていた。
 故に、希有は話題を変えることにした。
「ねえ、アル、少し気になっていたんだけど……。この世界は、どうして病気なんてものまで盗んでくるの? 病気なんて盗んでも、良いことなんてないと思う」
 予防接種から話題が離れたことに安心したのか、アルバートが幽かに笑って語り出す。
「一概にそうとも言えないんだ。――キユは、少し勘違いしてるみたいだね。世界が盗んでくるのは、世界にとっての恩恵・・・・・・・・・だよ」
 アルバートは、軽く肩を竦めた。
「僕らにとっての恩恵ではないのだから、時に、僕らに牙をむく。病は、それらの主立ったものの一つだね。しかも、性質の悪いことに、世界自体が手を加えることもある」
「手を加える? この世界は、地球からのものを、そのまま盗んでいるはずじゃ……」
「たいていは、そうだよ。だけど、この世界は気まぐれだから例外もあるし、それは病の場合が多い。意志を持った世界を、僕らの考えを当て嵌めようとしても無理があるんだ」
 彼の言うことは分かるが、希有には釈然しゃくぜんとしなかった。
 まるで、盤上遊戯で、相手にだけ反則行為が赦されているような気分だった。何もかも意のままにできてしまう世界が、希有が否定する全智全能なる神に等しい存在に思えてしまう。
 ――神など、いるはずがないというのに。
「でも……世界が手を加えることもあるとはいえ、病気を盗むことが前提にあるんだよね? 何のために、人を殺すような病気が必要がなのか、分からない」
 アルバートは暫く考え込むように唸った。どうやら、説明し難いらしい。
「いくつか説はあるんだけど。……、ものすごく平たく言うと、人間が進化するためには試練が必要ってことかな」
 困ったように眉を下げて、彼は続ける。
「より強靭きょうじんで、より高い能力を目指すのであれば、乗り越えるべき試練は必要不可欠だ。たとえ、何万という人間が淘汰されることになろうとも――、たった数人でも進化の兆しが見えれば世界にとっては万々歳ってこと」
「別に、人間が進化しようがしまいが、世界にとっては関係ないよね。むしろ、病原菌がないってことは、人も増えるし良いことじゃないの?」
「ああ、キユには、こっちの説の方が良いかな? 何事も、多ければいいってものじゃない、世界は量より質を選ぶ。――間引いているんだよ」
 アルバートの厚めの唇が、釣り上げられた。
「己のために盗みを働くのがこの世界だよ。より使い勝手の良い優秀なものを残して、不要な穀潰しは排除する。僕らは世界の一部だから、世界が要らないものを消去しようとするのはごく自然なこと」
「……そんな、雑草みたいに」
「雑草も人間も、世界からしてみれば大差ない。どちらも等しく間引く必要のある存在だ。雑草は人間の手で間引かれるけど、人間を選別して間引くのは世界にしかできない」
 理屈の上では、納得できなくもない。量より質だという意見も、分からなくもない。
 だが、――そのような理由で淘汰されていくのは、あまりにも惨い気がした。
「入れ替わり立ち替わる死病と、僕らは戦ってきた。多くの命を散らし、多くの悲劇を生みながら、臆病ながらにも世界に抗い続けてきたんだ。リアノの歴史は、常に危険と隣り合わせ。豊かさの影にはいつだって凄惨な悲劇が隠れている」
 アルバートの言葉に耳を傾けながら、希有はオルタンシアの研究記録と共に書庫から借りてきた歴史書の存在を思い出す。
 彼女の研究記録が読みながら、そちらの方も更に読み進めて行こう。
 何もかも、与えられるままでいてはいけない。それでは、シルヴィオの隣に並ぶことはできない。
 己に身の危険が及ばないならば、知るべきことは知っておくべきだ。
「だから、リアノは永遠に小国のまま終わる。蜜腺の恩恵を受けるということは、悲劇さえも受け入れることだから」
「……、前々から思っていたけど、その蜜腺って、何なの?」
 何度か聞いたことのある単語だが、特別興味もなかったために、今まで聞くことも調べることもなかった。
「盗蜜者が地球から盗んできたものが流れ着く場所のことだよ。キユも、初めはそこに流れ着いているはずなんだけど……」
「そうなの?」
 聞き返した希有に、アルバートは目を見開く。どうやら、意外な返答だったらしい。
「……、憶えて、いないの?」
「一年も前の話だから、良く憶えていないのかな? オルタンシアと一緒に過ごした時も、あの人が看病してくれたときの記憶くらいしか思い出せない」
「それは……乏しい、記憶能力だね」
 額に手を当てたアルバートは、遠い目をしていた。優秀な彼からして見れば、希有の記憶能力は考えられないことなのだろう。希有本人も、まさか、世界に盗まれた当時のことを憶えていないとは思ってもみなかった。
「そうだよね。暗記教科は他のものよりはできていたはずなのに……、おかしいな」
 英語を筆頭に、いくつかの教科の成績は凄惨なものだったが、少なくとも暗記を主とする教科に関しては平均以上であったはずだ。
 ――、第一に、記憶とは、そんなにも簡単に忘れてしまうものなのだろうか。
「ごめん、もう時間だ。仕事に戻らないと」
 時計を見て、アルバートが慌てて帰り支度を始めた。飄々としていて暇そうに見えるが、人の命を預かる彼の仕事は決して生温いものではない。
 急いで支度を終えた彼は、足早に部屋を去ろうとする。
「待って、アル」
 だが、希有はアルバートを呼びとめた。もう一つ、彼には尋ねたいことがあったのだ。
「なに?」
「最近、城が騒がしいみたいだけど、何かあったの?」
 ミリセントやシルヴィオに聞いても、彼らは御茶を濁すだけで、何一つ教えてくれなかったのだ。後宮で暮らす希有の元まで騒々しさが伝わるのだから、よほどのことがあったはずだ。
「もしかして、聞いてない?」
 意味が分からず首を捻った希有に、アルバートは溜息をついた。

「カルロス・ベレスフォードが、殺されたんだよ」

 皮肉な笑みを浮かべた老人の姿が、脳裏に蘇る。
 ――それは、これから起こる騒動の幕開けに過ぎなかった。