farCe*Clown
第二幕 砂上に築いた城 61
窓から入る光が机上に開かれた本を照らす。指先でページを捲るものの、本の中身は少しも頭に入らなかった。
何かをしようとする度、シルヴィオの姿が浮かんでは消えない。柔らかな桜色の髪と春の陽だまりに映える若草の瞳が、頭の片隅で揺れていた。
――シルヴィオとは、もう、随分と話していない。
カルロスが殺害された件やレイザンド王女の来訪で忙しくなっていることもあるだろうが、おそらく理由はそれだけではない。
彼は希有と顔を合わせたくないのだ。
気を落として俯いていると、部屋の扉が開かれる音がした。後宮の者に呼び出されていたミリセントが戻って来たのだろう。
「ただいま戻りました。御一人にして申し訳ありませんでした、何か変わったことはありませんでしたか?」
心配するように聞いてくるミリセントに、希有は苦笑する。
「おかえり。何もなかったから安心して。それより、何の用件だったの?」
「え、ああ……、大したことではありません。後宮内の人手が足りないので、わたしにも仕事がまわってきただけなのです。今宵は侍女たちの多くが王城へ駆り出されていますから」
ミリセントの言葉に、希有は目を瞬かせる。
王城に侍女が駆り出されるのは、希有がこちらに来てから初めてのことだ。何か特別な行事があるという話は聞いていなかったが、侍女が駆り出されるほど王城に人手が必要だったのだろうか。
わずかな希有の困惑を感じとったミリセントは、眉をひそめた。
「今宵、サーシャ・ウル・レイザンド様を歓待するために宴が開かれるのです。王城の人手が足りないので、後宮の侍女の多くが駆り出されたのですが……、陛下から、お聞きしていないのですか?」
「聞いて、ないけれど。何か問題あるの?」
サーシャは国賓なのだから、シルヴィオが彼女を歓待するのは当然のことだ。本音を言えば教えて欲しかったが、それを顔に出すのは躊躇われて、希有は何でもないかのように曖昧に笑んだ。
明らかな作り笑いで応える希有に、ミリセントは唇を引き結び不満そうにしていた。温厚な彼女にしては珍しい表情である。彼女は何か言いたげに口を開いたが、しばらくしてから、ゆっくりと唇を閉じる。
「ミリセント?」
希有が名を呼ぶと、彼女は小さく溜息をついて、いつものように柔らかな笑みを浮かべた。
「キユ様。最近、ずっとお部屋に籠っていましたよね。よろしければ、今から私と庭園に行きませんか?」
「後宮の庭園? そう言えば、まだ行ったことのない庭園があったよね」
突然の問いに、希有は見知らぬ庭園のことを思い出す。部屋に引き籠っていることが多いため、後宮内の庭園でも足を踏み入れたことのない場所があるのだ。
「西の庭園のことでしょうか? 春の夕方が最も美しいの庭園ですので、季節も時刻も丁度良くはありますけど……」
ミリセントは肩口で切り揃えた金髪を揺らして、しばらく思案したあと、何か思いついたかのように軽く手を叩いた。
「せっかくなので、今夜は王城の庭園に散歩に行きませんか?」
希有は逡巡する。希有を後宮から出さないことが、シルヴィオの望みだと知っている。王城の庭園に足を延ばしても、果たして大丈夫なのだろうか。
「先日、とても綺麗に花が咲いていると耳に挟んだのです。キユ様と一緒に拝見したいと思っていたのですよ」
迷っている希有の背中を押すように、ミリセントは言葉を重ねていく。その姿に、希有は彼女の真意を知る。希有が塞ぎこんでいることを察して、元気づけようとしてくれているのだろう。気を遣ってくれたミリセントに、胸の奥が温かくなった。
「……うん、一緒に見に行きたいな」
シルヴィオのことが頭に浮かんだが、希有は気付かぬふりをして立ち上がった。
そうして、二人連れだって希有とミリセントは後宮を出ていく。
王城の庭園と言っても、彼女が案内したのは後宮からそれほど遠く離れた場所ではないようだった。ここならば、すぐに後宮に戻ることができるだろう。
ミリセントの言葉通り、庭園には鮮やかな花々が至るところに咲き誇っていた。
明かりに照らされて綻ぶ花々を一つ一つ眺めていると、遠くから楽の音が聞こえる。サーシャ・ウル・レイザンドを歓待する宴は、今まさに開かれている最中らしい。
ミリセントに聞こえないように小さく溜息をついたあと、希有は不自然なほど明るい夜空を見上げた。
「今日は、蟲蝕日だったんだね」
蟲蝕日とは、リアノで忌み嫌われる、沈まぬ太陽が闇に負けずに光り続ける日のことだ。
自然と、希有はシルヴィオと二人で逃げた一年前の春の日を思い出す。
春はシルヴィオとの出逢いの季節であり、――オルタンシアが死した季節でもある。この一年の様々な出来事が頭の中を駆け巡り、希有はそっと目を伏せた。
「警備の都合上、明るい日の方が宜しいですから。カルロス様の一件があるので、レイザンドに対して過敏になっているのでしょう」
「どうして、カルロスの話が? あの人の死とレイザンドは関係ないんじゃ……」
聞き返した希有に、ミリセントははっとしたように口元を押さえた。その仕草を見た希有は、彼女が意図的に何かを隠していたことを知る。おそらく、シルヴィオの命令だったのだろう。
「申し訳、ありません」
「レイザンドと、何か関わりがあったんだね」
確信を持って呟くと、彼女は力なく頷いた。
「カルロス様を殺害した者たちの中に、レイザンド人の姿があったという証言が多数あるのです」
「それは、王女と関係があるの……?」
「分かりません。だからこそ、出来る限り万全の態勢で臨まなければならないのです。リアノで忌み嫌われる今日に宴を開いたのもそのためです」
サーシャがカルロスの殺害に噛んでいるかどうかは分からないが、少なくとも、彼を殺した一味にレイザンド人がいるのだ。何故、他国の人間がカルロスを殺さなければならなかったのか。彼が若い頃にレイザンドを訪問したことと関連性があるのだろうか。
しばらく黙りこんで考えていると、足音が近づいてきていることに気づく。咄嗟にミリセントに声をかけようとしたが、それよりも先に足音の主が姿を現した。
現れたのは、桜色の髪をした美しい青年だった。
「シル、ヴィオ……?」
彼の名を口にしたあとに、希有はその隣に並ぶ人影に気づく。彼の隣にいたのは、リアノでは見かけない衣装を纏った銀髪の女性――サーシャ・ウル・レイザンドだった。
頭の中が、真白になる。どうして、シルヴィオとサーシャが二人で庭園を歩いているのだ。
「キユ様。戻りましょう」
いつになくかたい声でミリセントが囁き、希有の手を握った瞬間――シルヴィオの隣で花を見ていたサーシャがこちらに視線を向けた。薄いヴェール越しだというのに、はっきりと強い眼差しを感じる。
「シルヴィオ・リアノ、あちらの少女は? 謁見の際にも控えていたな」
サーシャは末席にいた希有のことまで憶えていたらしく、嫣然と笑んでシルヴィオに尋ねた。
希有とミリセントの姿に気づいたシルヴィオは、珍しく一瞬だけ焦ったような顔をしたが、直ぐに気を取り直して飄々とした笑みを浮かべた。
「サーシャ様が、お気になされるような娘ではありません」
そう言ったシルヴィオは、さりげなくサーシャの手をとって、別の場所に移動しようとする。自分以外が彼と手を繋いでいる光景に、希有は茫然と立ち尽くしてしまう。
冬の日、ここではない庭園で彼の手を握っていたのは希有だった。
二人で他愛もない話をしながら歩いた記憶が、黒い霧のようなもので覆われていくような気がして希有は唇を噛む。
「気にするかどうか決めるのは、貴殿ではなく妾だろう。このような幼い娘が、何故、夜更けに庭園にいるのだ? 親御と逸れたか」
言葉こそ優しげだったが、希有はその声に含まれた悪意を感じとって理解する。
――彼女は、地球にいた頃、希有を暗に責めた者たちと同じなのだ。希有と姉のことなど何も知らないと言うのに、憶測ですべてを理解したつもりになって、優しいふりをして言葉の剣で切りつけてきた人々。
久しく忘れていた感覚に背筋に冷や汗が伝う。
シルヴィオはサーシャに気付かれぬように眉をひそめて、ミリセントに目配せする。このまま希有を退けさせようとしているのは分かったが、希有はわずかに震える身体で背筋を伸ばした。
まるで、品定めでもするかのように無遠慮に見つめてくるサーシャを、希有も見つめ返す。心臓が早鐘を打っていたが、無理をして平静を装う。
――ここで退いたら、きっと、もっと惨めになってしまう。
「ご挨拶が、遅れて申し訳ありません。……シルヴィオ・リアノ陛下の妾妃、キユ・ファラジアと申します」
わざとらしい笑顔を浮かべて、希有は王女を見上げる。
希有の身分など、彼女は聞かずとも知っていたのだろう。希有の存在は国内では有名で、調べようと思ったらいくらでも分かるのだから。
「このような娘が妾か。ふふ、実に……、実に汚らわしい風習だな、シルヴィオ・リアノ。神でもない男が、妻を何人も娶ることができるとは」
サーシャは敢えて希有に身分を口にさせることで、シルヴィオや希有――否、リアノを貶めたいだけなのだ。逃げたら逃げたで、無礼な娘だとシルヴィオに厭味の一つ口にすることもできる。
実に幼稚なことだが、そうやって自尊心を満たすような輩がいることを、希有は嫌というほど知っていた。彼らは他人を貶めることで自らを尊《たっと》び、満たして行くのだ。
「……残念ながら、男神はそちらの守り神でリアノにはいないと申したはずです」
「戯言を。このような子どもにまで手を出す男の言葉だと思うと吐き気がするな」
「俺が誰を娶ろうと、サーシャ様には関係のないことです」
「ふむ……、同じ女としてこの娘を気遣ったつもろいなのだが、貴殿の不興を買ってしまったようだな。まさか、それほど寵愛しているとは思わなくてな、すまないことをした」
サーシャは軽く笑いながら肩を竦めた。
「……もう、戻りましょう、宴の主役が長く席を空けては寂しいものです。酔いを醒ますことはできたでしょう」
シルヴィオに移動を促されたサーシャは、一度頷いた後に、褐色の指先で希有の頬をそっと撫でつけた。彼女が焚いている香なのだろうか、甘い匂いが夜風にのって香る。
「また会うこともあろう、妾の娘」
ヴェールの下で微笑んだサーシャは、シルヴィオと共に踵を返す。
その後ろ姿を、希有は黙って見つめることしかできなかった。
★☆★☆★☆
「ふうん、だから、そんな死にそうな顔しているんだ。シルヴィオが王女といるのを見たくらいで莫迦だね」
燃えるような赤毛を揺らして、アルバートは唇を釣り上げた。
「……何しに来たの、アル」
部屋に入るなりの台詞に、希有はげんなりとする。
「ミリセントのお姉さんから、キユの様子を聞いてね。後宮での用事を終わらせる前に、落ち込んでいる希有を見ておこうと思って」
「悪趣味。そもそも、死にそうな顔もしていないし、落ち込んでなんかない」
「はいはい、分かっているよ。シルヴィオの奴と長く会っていないから、余計、嫌な気持ちになったんでしょ?」
幼子を宥めるような態度で接してくる彼に、希有は思わず顔を歪ませてしまう。図星だからこそ不快なのだが、彼の前では本心を口にしたくなかった。悪びれもなく揶揄してくるに決まっている。
「別に、……シルヴィオに会えないことなんて気にしていないよ」
「あれだけお互いべったりだったくせに良く言うよ」
アルバートは笑いを堪え切れないらしく、口元に手をあてた。
「べったりじゃない。――シルヴィオはサーシャ様といた方が良いんだから、わたしになんて会いに来なくて良いの」
「まあ、一応、国賓だから相手をしなくてはならないだろうけど」
「……国賓とか関係なしに、シルヴィオにとってその方が良いよ。どう考えても、サーシャ様の方がシルヴィオの隣に相応しい」
庭園で並んで歩く二人の姿が、希有の脳裏に焼きついてしまっている。
王として凛と立つ彼の隣には、それに見合う覚悟を持った女性こそが相応しい。少なくとも、何でもない言葉を魔法だと嘯いて彼の弱みにつけ込んだ希有にその資格はない。
「シルヴィオだって、こんな小娘相手にするより気分が良いに決まっている」
――それ故に、彼は希有に会いに来ない。
半ば投げやりに零すと、アルバートは眉をひそめた。
「本気で言っているの……? キユ、君は思っているよりもずっとシルヴィオに執着されているよ。君だって、あいつに縋っている」
「そんなこと、ない」
「……目を逸らし続けたいなら勝手にすれば良い。だけど、後で痛い目を見ても僕は知らない。必死で否定して見ないふりをしたって、どうしたって、繋がってしまった関係は枷になる」
希有は俯く。アルバートの言うとおりで、希有とシルヴィオの間には既に見えない関係が、糸が生じている。希有は繋がれた糸を手繰り寄せる勇気もないくせに、立ち切る勇気も持っていない。
「このまま不毛な関係を続けて、……それは、君にとって幸せなことなの? 曖昧な関係は心地良いかもしれないけれど、決してこのままではいられないんだよ」
希有とシルヴィオの関係性が、先の見えない不毛なものであることなど希有自身が一番分かっていた。いつか終わりが訪れるものだと、始めから知っていたはずだった。
「全部受け入れる覚悟を決めて、こっちに残るつもり? それも、一つの手だろうね。たぶん、シルヴィオが面倒みてくれる」
甘い誘惑の声に、希有は力なく首を横に振った。
――希有は、地球に帰らなければならない。くだらない嫉妬で姉の命を奪ってしまった自分には、逃げることなど赦されない。
「ねえ、キユ。帰ることができるかどうかは別として、君が帰りたいと心に決めていたなら、シルヴィオを拒むべきだったんだよ。僕には、……君たちの行きつく先が幸せなものだとは思えない」
立ち上がったアルバートは、希有に背を向けて部屋を出て行った。
ああ、結局のところ、希有は逃げているだけなのだ。答えを出すのが怖いのではなく、それを考えることですら拒んでいたのかもしれない。
指先に繋がった糸が切れなければ良いと、身勝手に想ったのは希有の都合。繋がれた糸を知りながら、その糸を眺めることしかしない。それを知りながらシルヴィオが何も言わなかったのは、きっと、彼の優しさだった。
彼との繋がりの曖昧さを不安に想いながらも、そのぬるま湯のような暖かさを嬉しく思っていたのは希有の我儘だった。どうしようもない、どうにもできない。この世界で生きていけるほどの力はない。呪文のように呟く言い訳は甘えでしかなかい。
「美優ちゃん」
双子の姉の名を呼んで、希有は首にかけたネックレスを取り出す。
それは、二つで一つになるように作られたもので、姉の美優が所持していたネックレスと合わせると一枚の桜花となる。
「どうすれば、良いかな」
答えなど返って来ないと分かり切っている、最低の問いだ。
美優のことを愛しているならば、一切の迷いを棄てて、今すぐにでも地球に帰る覚悟を決めるべきだった。隠し事のようにオルタンシアの研究記録や歴史書を読み始めたことにだって、妙な罪悪感を覚えてはいけない。
希有の行動が、シルヴィオの怒りを買って――、もしかしたら傷つけてしまったかもしれないことも気にしてはいけない。
「シルヴィオ」
それなのに、希有は諦めなければならない人の名を祈るように口にしていた。
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