farCe*Clown

第三幕 砂中で生まれた子どもたち 69

 セシル・ソロー。
 半年ほど前は確かに覚えていたというのに、すっかり忘れていた自分が恥ずかしかった。シルヴィオが時折口にしていたその名は、リアノの宰相を務める男のものだ。
 セシルは穏やかで控えめな印象の男だった。年の頃はそれほど若くなく、四十歳前後だろう。仕立ての良い服や上等な装飾品を纏っていなければ、彼が重臣の一人だと気づかないかもしれない。
 夜も更ける時刻だと言うのに、彼は嫌な顔一つすることなく希有たちと顔を合わせてくれた。
「お会いするのは初めてになりますね」
 柔らかに微笑んだセシルに希有は頷いた。
「夜分遅くに申し訳ありません」
 彼と同じくらいの年代の男は実父を思い出すため苦手なのだが、不思議と彼に対して身構えることはなかった。彼の笑みがあまりにも優しげだったからかもしれない。
「構いませんよ。――明日の会談のことですか?」
 不意の質問に、希有は目を丸くした。
「急ぎの用事ならば、それくらいしか思い浮かびません。陛下が話したとは思えませんから、貴方の仕業ですね。アルバート・ローディアス」
「僕は、もう、ローディアスではありませんよ」
「ああ、それは申し訳ありません。つい間違えてしまいました」
 悪びれないセシルに、希有はようやくアルバートが彼に頼み事をしたくないと言った意味を理解する。
「話が逸れてしまいましたね。もし、明日の会談に同席したいのでしたら、ご自由にどうぞ」
 あまりにも簡単に許可を出したセシルに、希有は戸惑いを覚える。にべもなく拒否されると思っていたので拍子抜けしてしまった。
「良いんですか?」
「それくらいで陛下を悪しく思うような人間は、今、リアノ側にはいません。レイザンドも女王の治める国ですから、女だからと言って追い出すような真似はしませんよ」
「……カルロスに与していた臣下は粗方処分したし、レイザンドは実情はともかく対外的に女が政治の場に参加することを糾弾きゅうだんできない、と」
 あまりにも明け透けなアルバートの補足に希有は納得した。
 シルヴィオが即位してからしばらく忙しく動いていたのは、最低限の足場を固めるためでもあった。カルロス側に与していた者を追い出すことくらい、当然ながら平気な顔をしてやっただろう。
 また、レイザンドはレイザンドで国の頂点に女王を据えている国だ。実情や本音はともかく、表立って非難することはできないのかもしれない。
「私には陛下を推し量ることができませんが……、貴方が近くにいればあの方も無理をすることはないでしょう」
 肩を落としたセシルに、希有は同情にも似た想いを抱いた。シルヴィオは仕える側からしてみると扱い辛いことこの上ないだろう。
 公爵家にいるベアトリスは、先王の娘として父を誰よりも理解していたはずだ。慈悲深かった先王のように臣下に利用されては堪ったものではないと考え、そうならないようにシルヴィオを教育しているはずだ。
 その上、彼自身の性質も厄介なものだ。気まぐれで嘘つきでありながらも臆病で、希有も長年共に過ごした公爵家の者たちも、彼のすべてを分かってあげることなどできないだろう。
「陛下は貴方を表に出したくないようですが、貴方にはあの方の手綱を締めてもらわなければ困ります」
「……意外と良い性格しているよね」
 アルバートはセシルに聞こえないように、希有の耳元で小さく悪態をついた。


              ★☆★☆★☆              


 翌日、ミリセントに相応しい装いを用意してもらった希有は、セシルの案内で会談の場に足を踏み入れた。
 広い室内には国軍の者が数名控えており、会談のために誂えられたテーブルにはいくつかの席が用意されている。
 そこには既にシルヴィオや数人の男たちの姿があった。
「セシル、何故、キユがいる」
 セシルの後に続いて入室した希有に、シルヴィオは眉をひそめた。
「御要望がありましたので。――同席していただいても、構わないでしょう?」
「他国との会談の場だ。妾妃を連れて来るのは失礼に値する」
「サーシャ・ウル・レイザンドとて、男神の妾ですよ。彼女が政治の場に立っているのならば、キユ様が会談に同席していても失礼に値するとは思えませんが」
 シルヴィオは深い溜息をついて、責めるような眼差しを希有に向けた。
「……好きにしろ。レイザンドの者たちが直に来る。邪魔だけはするな」
 冷たい声に胸が締め付けられたが、決して俯きはしなかった。ここにいることで、何か彼のためにできることがあるかは分からない。それでも、向き合うことを放棄して、再び逃げ出すことだけはしたくなかった。
 しばらくすると、案内の者と共にレイザンドの者たちが姿を現す。
 サーシャはいつものように薄いヴェールを被っており、はっきりとは表情が見えない。後ろに引きつれた部下や護衛と思わしき数人の男たちも、一様に顔の下半分を布で覆っており、顔色一つ窺うことができなかった。
 向こうの習慣について全く知らない希有は、その姿に心中で首を捻った。何か意味があるのだろうか。
「なんだ、お前も参加するのか?」
 席についたサーシャは希有に気づき、楽しげに話しかけて来る。だが、希有がそれに応える前に、甲高い音が室内に響いた。
「失礼、つい、手が滑ってしまった」
 それはテーブルに載せられていたグラスを、シルヴィオが落とした音だった。グラスは割れてこそいなかったが、赤い絨毯に染みを広げている。
「さっそくで申し訳ありませんが、始めても構いませんか」
 それに続くようにセシルが唇を開くと、サーシャは声をあげて笑った。
「構わない。待たせてすまなかったな」
 始まった会談は比較的和やかな雰囲気で進められた。しかし、その内容は自国の風土や特産品、産業など互いにある程度知っているようなことばかりだった。
 中身がなく何一つ纏まる様子のない話し合いに耳を傾けながら、希有はシルヴィオとサーシャの顔を盗み見る。柔らかな応酬をしながらも、彼らは探るような眼差しで相手から目を離さない。
「……まどろっこしいのは苦手だ。このまま日が暮れてしまうのは、妾としては好ましくない」
 繰り返される当たり障りのない会話を止め、口火を切ったのはサーシャの方だった。窓の外に広がる夕焼け空を横目に、彼女は肩を竦める。いつの間にか随分と時間が経過していたらしい。
「妾たちはリアノと仲良くしたいのだ。途切れることない、確固たる繋がりが欲しい。互いの国のために、友好な関係を築こうではないか」
 リアノとレイザンドの関係性は決して深くはない。リラのことを考えれば十分に因縁のある相手だが、現在の国交は御世辞にも良好とは言い難い。途切れることのない確固たる繋がりを築くためには、ほとんど絶縁状態に近い状況に終止符を打つ必要があった。
 だが、それがリアノの利益に繋がるかと言われれば、否、とシルヴィオは答えるのではないだろうか。
「何もかも知らぬ顔をして、リアノとの関わりを否定したのはレイザンドも同じはずです。あの時、二国の関係は絶たれたのです。今さら親交を深めることに何の意味がありましょうか」
 希有の予想に反することなく、シルヴィオはすげなく彼女の望みを拒絶する。
「過去は過去だ。たとえ、かつて両国の間に何か問題があったとしても、それを未来の可能性を摘む理由にしてはならぬ。それでは妾たちはいつまでも前に進むことができぬ」
 吐き気のするような綺麗事を口にして、サーシャは被っていたヴェールを取り払った。美しい顔に浮かんだあまりにも鮮やかな笑みに、背筋が寒くなった。
 ――彼女は何か良くないことを言おうとしている。
「応じないのであれば、妾たちは戦も辞さぬ」
 放たれた言葉が意味するのは、リアノにとって最悪の未来だった。