ディートリヒと共に最上階に駆け付けたエデルは、扉を開けて息を呑んだ。
広い最上階の床にはびっしりと魔女文字が刻み込まれており、円を描くようにして巨大な水晶を囲みこんでいる。おそらく、あれこそが国守の水晶――建国王ゲオルク・グレーティアが得た森の女神の加護の証。
水晶の傍に佇んでいるのは良く知った男だった。
「お前たちがここにいるということは、メルヒオールは夢破れたのだな」
フェルディナントはいつもと変わらない、穏やかで優しげな微笑みを浮かべた。
――不作の原因は単純な話だった。
王が国守の水晶に力を注ぐことによって国土が豊かになるのならば、フェルディナントが
力を注がなければ土地は痩せていく。
「思い通りとはいかなかったが、私にしては上出来な方か。こうして、再びお前と対峙することができたのだから」
「兄上。嘘、ですよね。誰かを、庇っているのですか? それとも、脅されて……」
「すべて真実だよ。メルヒオールと手を組んだのも、お前の大切なエデルを殺そうとしたのも、私の意思だ」
「……っ、違います! だって、図書館での件はエデルではなく僕を狙っていました。僕が死ねないことを知っている貴方なら、僕を狙っても無駄だと分かっているはずで……!」
要領を得ないディートリヒの言葉に、フェルディナントは声をあげて笑った。
「エデルを狙えば、お前は何としてでも自分が代わろうとするだろう? お前にとって、自分の命は誰のものよりも軽いのだから。それでは意味がなかった。私は、お前に憎まれたかったのだから」
「……憎まれ、たかった?」
フェルディナントは大仰に頷いた。
「エデルを殺したいならば、傍にいるお前を狙えば良い。――お前を憎からず思っているならば、彼女は必ずお前を庇うだろう」
ディートリヒの表情が凍りつく。実際、エデルは身を呈して彼を庇った。
「目の前で大切な少女を殺されたとき、お前は私を憎んだはずだ。……結局は、失敗に終わってしまったが」
「どう、して……っ、何故、ですか? メルヒオールと手を組んで、国を傾けるような真似をしたんですか!」
ディートリヒが血を吐くように叫ぶ。フェルディナントは目を伏せて、それからゆっくりと開いた。
「もう、疲れたんだ。ディー」
弟と似た面差しの美しい顔には、すべてを諦めた者特有の
翳があった。その微笑みを、エデルは良く知っていた。
――かつての、過去に来たばかりのエデルと同じだ。
「私はお前と違って何もできない。過度な期待を抱かれたところで、所詮は商家の血を継ぐ愚王でしかない。――それなのに、私の立場を守るために、何もできないように振る舞うお前を見ていることが辛かった。……お前が王になれば良いと、ずっと願っていたんだ」
それは、今まで語ることのなかったフェルディナントの本心なのだろう。
自分よりも遥かに優れた能力を持ち、高貴な血を継ぐ異母弟に対する劣等感。王になれという周囲からの期待と重圧。その狭間で揺れていた彼の精神は、長い時をかけて少しずつ擦り減っていた。
ついには、実母を殺めたに等しい男と手を組むほど、彼は追い詰められていたのだ。
「フェルディナント・バルシュミーデ・グレーティアは、愚王として歴史に名を遺し、弟の手によってこの世を去る」
力なく口にされた言葉に、エデルは気付けば走り出していた。
「違います! そんなはず、ないっ……!」
フェルディナントの服の裾を掴んで、縋るように彼の顔を見上げる。まがうことなく、この人こそがエデルたちの語り継ぐ王になる。
「貴方は……っ、貴方は、立派な王になる! だって、そう、じゃなきゃ……」
そうしなければ、グレーティアの未来はどうなるのだ。この人が歩んだ先に、エデルが過ごした、愛する異母兄が治めることになる国が存在している。
「……ありがとう。だけど、もう遅い」
フェルディナントは、黒みがかった小さな花を取り出した。その花に見覚えのあるエデルは、咄嗟に彼の手を掴もうとするが一足遅かった。
フェルディナントの骨ばった指先が、エデルの顎をとらえた。その花を口に含み、彼はエデルの頬に骨ばった指先で触れる。驚いて身体を強張らせた時には、乾いた彼の唇がエデルのそれに重ねられていた。
唇を塞がれたと気付いた時には、既に柔らかな何かを口内へと押し込まれたあとだった。強く掴まれた後頭部、嫌悪感しか抱けない生温かな他人の唾液と共に、エデルは押し込まれた異物を呑みこんでしまう。
「……っ、兄上! まさか、今のは……」
蒼白な顔をしたディートリヒが声を震わす。
「お前なら良く知っているだろう? 女神の実だよ。解毒薬は私が持っている」
エデルの小さな身体を後ろから抱きしめ、フェルディナントは首筋に指を這わす。
「さあ、早くしないとお前の大事な花が枯れてしまう。ディー、彼女が大切なら、お前の手で私を殺してくれ」
泣きたくなるほど優しい声だった。その声に宿った愛情を疑う者などいない。それほどまでに柔らかな愛しみに溢れていた。
どうして、愛し合っていたはずなのに、彼らは対峙してしまっているのだろう。大事にしたいと願っていたはずなのに、何処で間違ってしまったのだろう。
――こんな結末、決して認めない。
ほんの少しだけ痺れた身体を動かして、エデルはフェルディナントの鳩尾に肘鉄砲を食わせる。驚いた彼が怯んだのと同時、拘束が緩まった。
動揺する彼を全身の体重をかけて押し倒し、胸元から取り出した懐剣を向けた。
「何故、動い、て……」
茫然とする彼に、エデルは涙に濡れた顔を歪めた。
「知って、いましたか? 女神の実には……、成長を著しく緩やかにする効果もあるんです」
女神の実を煎じた薬こそが――エデルがコルネリアから処方してもらっていた薬だ。子どもから女になることを拒むために、その薬を何年も服用し続けていたエデルには、女神の実が持つ毒に耐性がある。
「フェル様、もう、止めましょう? こんな、こんな悲しいこと、やめて」
溢れ出した涙は止まらず、フェルディナントの頬に雨のように降り注ぐ。
「愛している家族を殺すなんて惨い真似を、ディーにさせないで……。彼は貴方を殺すのではなく、生かす人に、なりたい、の」
エデルが、イェルクを――兄を生かす人になりたかったように、ディートリヒも兄を支えながら生きたいのだ。決して、その道を阻みたいわけでも、その命を奪いたいわけでもない。
「兄、上」
ゆっくりとした足取りで歩いてきたディートリヒは、膝から崩れ落ちて、仰向けに倒れた兄に縋りつく。
「手を差し伸べてくれたことを、憶えていますか? あの時から、僕は兄上の愛に報いたかった。兄上が愛してくれた分だけ、貴方を、幸せに、したかったんです」
愛を知らない子どもに、愛を与えたのは兄だった。エデルもディートリヒも、半分だけ血のつながった異母兄に愛されることで救われ、生きる希望を与えてもらった。
誰からも見捨てられた子どもを、兄だけが見捨てなかった。
「王は民を生かすためにある、と幼い日の貴方は秘密を打ち明けるように囁いてくれましたね。貴方は自分を育んでくれた国のすべてを愛していた」
記憶の彼方に思いを馳せて、ディートリヒは長い睫毛を震わせた。
「僕を生かしてくれたのは、貴方です。貴方なら、きっと同じように民を愛して生かしてくれる」
「フェルディナント・バルシュミーデ・グレーティア。グレーティアで最も優れた王の名です。先の時代では、物心ついたばかりの子どもでさえ、……貴方の名を、知っています」
偉大なる王が築き上げた治世は、グレーティア史上最も栄えた時代とされ、後世へと語り継がれた。フェルディナントが築いた礎があったからこそ、エデルが生きる未来があるのだ。
「貴方は賢王になる。民に愛され、臣下に慕われ、敵国に恐れられる偉大なる王に」
フェルディナントから退いて、エデルは涙を乱暴に拭う。
「兄上。貴方が手を差し伸べてくれたように、……今度は、僕が貴方に手を差し伸べます」
ディートリヒは兄に向かって手を差し出した。
「弱さゆえに、国を害した私が、まだ王であることなど……」
「それならば、どうか逃げることなく、貴方が狂わせてしまったことに償いを。傍にいます。……もう、前みたいに逃げたりしないから」
差し伸べられた手を、フェルディナントは恐る恐る握りしめる。そうして、彼はディートリヒの手を胸に引きよせて俯いた。
「すまない……っ、すまなかった」
泣きじゃくる兄の姿を見て、ディートリヒは首を振った。
「いいえ、僕こそ。貴方を支えなくてはいけなかったのに、貴方をずっと追い詰めていた」
噛み合わなくなっていた歯車は元の形を取り戻したのだろう。幼き頃のように彼らは互いを思い遣り、魔術の消えゆくこの国を豊かにしていく。
そのために、今はやるべきことがある。
二人の姿を見ていたエデルは、わざとらしく手を叩いて音を出した。
「まだ、終わっていません。最後の後始末をしましょう?」
エデルの脳内に、一冊の歴史書が思い浮ぶ。
王城の図書館にて司書をしていた、ディートリヒの友人。きっと、彼は今日の光景を忘れぬように書き残したのだ。あまりの弱々しい姿に最初は失望すら抱いたのだが、かつてのエデルが尊敬していた
彼は、勤めを果たしてその血を繋げてくれるはずだ。
アロイス・
カロッサ。
エデルの祖にして、とり潰されそうだった貴族カロッサ家の中興の祖――後にフェルディナントの相談役となる青年だ。イェルクの傍にあるために没落した家を中興させたかったエデルは、彼の記した本を擦り切れるほど読み込んでいる。
「暗闇に包まれた世界、月の光が空を舞い、痩せた大地は元の姿を取り戻す。ディートリヒ・アメルンが起こした奇跡を、人々は永遠に忘れないだろう。
我らが英雄、賢王フェルディナントを支えた最後の魔術師。
ディートリヒ・アメルンに、惜しみない祝福と感謝を捧ぐ」
一字一句違えることなく、エデルは歌うように口にする。
「アロイス・カロッサ著『フェルディナント伝』の一節です。――できるでしょう? ディー」
確かめるように視線を遣れば、ディートリヒは子どものように声をあげて笑った。
「兄上、水晶に力を。僕がグレーティアに月の光を捧げましょう」
フェルディナントが小さく頷いて、巨大な水晶の前に立つ。彼が両手で水晶に触れるのに合わせて、ディートリヒは懐剣で空中に弧を描いた。囁くように紡がれる魔女語が、月の光を現実のものとしていく。
広がる光景に、エデルは目を細める。
闇に包まれたグレーティアの至るところに、銀色の月光が降り注ぐ。空を包みこんでいた黒が剥がれ落ちて、青い空が少しずつ顔を出した。
この景色を、エデルは生涯忘れることはないだろう。
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