瞳
絶対と代替
昨夜は、どうにも眠ることができませんでした。
昨日の学校での出来事が胸に痞えて、眠りに就くことさえもできなかったのです。
意地の悪そうな彼の笑顔が、脳裏に浮かんでは消えて、苛立ちが募ります。
制服には着替えず、パジャマ姿のままリビングに降りれば、いつものように父が台所からティーカップを二つ運んでいます。彼が向かう先は常と変わらず、悠々とテレビを見ている母の元です。
わたしがやることもありますが、我が家の家事は基本的に父がすべて引き受けています。
さらに、彼は我が家唯一の収入源です。父親がいなくなれば、我が家は崩壊し、わたしたちは路頭に迷う運命にあるのでしょう。
労働や家事なんてものを天性の不器用人間である母に求めるだけ、無駄というものですから。
「おはよう、そんな姿で下りてきてどうしたの?」
わたしの姿を目に捉えて、父が首を傾げます。
「今日は学校を休みます」
わたしは告げると、父親は胡散臭い笑顔の張りついた顔で訊ねてきます。
「そう。風邪?」
「いいえ、ただの頭痛です」
見え透いた嘘であることは、父親も承知なのでしょう。しかし、彼はわたしを咎めることなく、心配をしている振りをするように言葉を吐きました。
「安静にしているんだよ。僕たちは今日出かけるけど、一人で大丈夫?」
父の言葉に、今度はわたしは首を傾げます。
スーツを身に纏っていないことは疑問に思っていましたが、こんな平日に出かけるとは思ってもいませんでした。
「お仕事はどうしたのですか?」
「有給取ってたんだ。今日は特別な日だからね」
「そうね、とっても特別な日だものね」
良く見れば、母も常よりも更に可愛らしい洋服に身を包んでいます。彼女は隣に座る父の手に、笑顔で自分のそれを繋ぎました。いい歳なのですから、もう少し自重するべきでしょう。
拒否するどころか、嬉しそうに頬を染める父も父です。
「――今日は、何の記念日ですか」
この二人の凄いところは、記念日がひと月に一度はあることでしょうか。流石に毎度有給は取っていないようですが、二人してディナーに出かけることも珍しくありません。
よく、二十年近くもそれを繰り返していられるものです。
「初めて二人で出かけた記念日なの」
「……大変だったよ。桃香、待ち合せ場所間違えた上に、転んで膝擦りむいて泣いてたんだよね」
あまりにも母らしくて、わたしは眉を下げます。
彼女は、昔から、何もできない人だったのかもしれません。
「もう、そんなこと忘れてよ」
「そうだね。そろそろ時間だね、もう行こうか」
二人は立ち上がると、出かける直前にわたしを抱きしめました。
「愛してるわ」
「愛してるよ、僕たちの娘」
わたしとは似ても似つかない柔らかな笑みを浮かべた母、その母を見守るように、本当の笑顔で微笑む父。
手を繋いだまま出かける二人の背中が、とても遠いものに思えました。
実際、彼らとわたしの間にある隔たりは大きいので、間違いではないのでしょう。
いつだったか、訊ねた問があります。何を問いかけたのか、わたしは憶えていません。しかし、返ってきた答えだけは、幼心にはっきりと記憶しています。
彼らの世界は確かに彼らで完結していますが、わたしを愛していないわけではないそうです。
まったく、世界は矛盾に充ち溢れています。
わたしを愛していると言いつつも、両親は決して二人の世界の中にわたしを入れてくれません。
理不尽です、理不尽です。
自分たちだけ、わたしの持つ恐怖から解放されるなんて卑怯です。高みからわたしを見下ろして嘲笑っているのでしょうか。それとも、地べたに生える雑草のように、気まぐれに愛でて、躊躇なく排除するつもりなのでしょうか。
彼らは、互いとそれ以外という区別でしか人間を見ていません。血の繋がりがある娘であろうが、彼らにとっては絶対のものではないのです。
幼い日々のわたしにとって、彼らは絶対の存在だったというのに。
――こんな風に考えるのは、止しましょう。両親のことは、わたしには関係ありません。関係ないと、思いたいです。
昨日、どうして颯さんはわたしにあんなことをしたんでしょうか。
それもまた、わたしには関係ないことなのでしょうか。瞳に惑わされただけ、幻、夢、どれが適当なのでしょうか。答えは出そうにありません。正解も誤答も、誰も判断できません。少なくともわたしには何も分かりません。
わたしには、分からないことばかりなのです。
世界は、分からないものでできているのかもしれません。
答えのない問いかけに意味はありません。
きっと、あれはわたしには何も関係のない出来事。わたしには何も影響はありません。あってはならないのです。
「明日は、学校に行かなくては……」
そう言えば、彼に出会ってからさぼってばかりでした。彼を見ると何故だかとても動揺をしてしまっていたからでしょうか。
そんなとき、どうすればいいか分からず学校を欠席してしまうことが間々ありました。
出席日数を考えると、そろそろ真面目に出るべきかもしれません。
学校に通って就職をすることの大切さは分かりませんが、それは義務のようなものだと思っています。
そこにはわたしの夢も希望もありません。わたしは乾いた人間なのです。夢も希望も知りません。絶望はしていません。死にたいわけではありません。だから、働きます。
ふと、また意味のない問がわたしを襲いました。
生きていることは、矛盾を孕みます。矛盾が厭なら、死んで解放されるべきなのでしょうか。でも、それは違うような気もするのです。
つまり、生きているとは何なのでしょうか。
これもまた、答えなどありません。
きっと、それは答えを出していい問いかけではないのでしょう。
「姉さん、寝てなくていいの?」
学生服に身を包んだ弟が、二階から下りてきます。
線が細く、女のわたしよりも愛らしい姿をしています。弟がナルシスト予備軍になるのは、仕方のないことなのかもしれません。弟は、天使のように可愛いのですから。
階段を下りた弟は、小走りでわたしの元へと駆けつけました。わたしよりも頭一つ分は身長が低く、わたしよりもとても可愛い子です。髪も男の子にしては長く襟足は肩を越しているため、遠目から見れば女の子に見えないこともありません。
弟がわたしの顔を心配そうに覗きこみました。
弟は、普通の子です。わたしが畏怖する、すぐに感情を瞳に映し出してしまう大嫌いな人間と同じです。
だけど、弟がわたしを見る瞳は、いつだって優しいのです。
もしかしたら、我が家においては嗤ってしまうくらい陳腐な言葉になりますが、家族愛なのかもしれません。たとえ、弟のわたしに対する思いが、両親に相手にされない寂しさから来るものだとしてもわたしは構いません。
人間は、きっと人間を人間で代用できるのです。どんなに大切なものを喪ったとしても、失くしたとしても、代わりさえあれば生きていける生き物なんです。
それならば、誰であっても同じことではないですか。
――彼にとっても、それは言えるのでしょうか。
「……、昨日、颯さんがした行為は、――わたしでなくても良かったのでしょうか」
言葉にした途端に、壮絶な嫌悪感が込み上げて、胸を掻き毟りたくなりました。
何なのでしょうか。この醜くも卑しい、汚い感情をわたしは知りません。過去にこのような気持ちを抱いたことなど、わたしにはありませんでした。
「え……? 姉さん、なんか言った?」
それに、昨日の口付けがわたしではなくとも良かったとして、わたしに何を思う権利があるのでしょうか。
颯さんが女好きなのは承知していました。それを知りながら、わたしがあのような危険な場所にいたのは、自らの過失です。
きっと、彼はあそこにわたし以外の誰かがいても、同じことをした。
ああ、なんと憎らしく忌々しいのでしょうか。以前から知っていたその事実に、苛立ちを覚えるなど愚かとしか言いようがありません。
これは、この気持ちは、何なのでしょうか。
「ごめんなさい、何でもありません。わたしは少し寝ます。きちんと鍵を掛けてから学校に行って下さい」
「分かってるよ。姉さん一人家に残すのは心配だもん」
そうして、弟はわたしに笑いかけます。颯さんとは似ても似つかない、純粋な微笑みに見えました。
こんなにも綺麗な微笑みなのに、何故だかわたしの心は満たされませんでした。
部屋に戻りベッドに入ると、緩やかな眠気がわたしを夢へと誘います。眠くなってきました、瞼を閉じて眠りましょう。
夢は見たくありません。もしかしたら、夢を見るとわたしは絶望してしまうかもしれませんから。
夢も希望も、相対的に絶望を映し出してしまうものなのだと、わたしはいつだったか知りました。
明日はちゃんと、颯さんに挨拶しましょう。そうして、その瞳を静かに覗き込みましょう。
たとえ、彼にとって必要なのがわたしでなくても、わたしはその瞳が好きなのですから。彼の価値は、あの瞳にしかないのですから。
あの空っぽの瞳にしか彼の価値は……、ないのです。
ないに、決まっています。
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