教室の扉を、静かに開けます。
 狭い箱庭を見渡せば、窓の下の壁に寄り掛かる人影が一つありました。
 颯さんはその瞳を閉じて、静かに眠っています。とても小さな彼の寝息が、教室に木霊していました。
 恐る恐る、わたしは踏み出しました。進む足は、震えています。
 眠る彼に視線を合わせるようにしゃがみ込みました。目の前にあるのは、瞳の見えない閉じられた瞼。
「――、綺麗……」
 物言わぬ彼の顔は、本当に綺麗でした。心から、彼の瞳ではなく、彼自身を綺麗だと思えました。
 最初は彼の瞳に惹かれました。
 彼の硝子玉の瞳が、わたしに悪意を向けることが有り得ないことを知っていました。

 なぜなら、彼の瞳は、鏡に映るわたしのものと同一だったのです。

 毎日見るわたしの瞳は、色を映しません。映すことを止めてしまいました。わたしが、いつの日からか、心の動きに制限をかけてしまったからです。
 わたしは、人が苦手です。
 常に、悪意を恐れていました。
 上手に生きることのできない自分が嫌いでした。
 それでも、――わたしは人が好きなのです。
 苦手だと公言しながらも、羨望を棄てることができませんでした。人が好きだからこそ、周囲に上手く馴染むことのできない自分が不甲斐なくて泣きたかっただけなのです。
 それが変わったのは、彼と出会ってからでした。
 彼と視線を合わせ語らい合うことで、わたしは人と関わる喜びを再び感じることができるようになりました。
 人間の絆は、辛いものばかりではないと思い直すことができました。
 ――小さな、小さな恋でした。
 颯さんにとっては些細な、遊ばれていることに気付かなかった愚かな女がいただけの話。
 それでも、わたしにとっては、何よりもかけがえのない大切な恋でした。
 もしかしたら、わたしにとって、最初で最期の恋だったのかもしれません。
「さようなら」
 頬を濡らす涙の意味を、わたしは今なら理解できます。
 わたしは、彼が恋しいのです。すべて抱き締めて、一つに溶けてしまいたいほど想っています。

「――、大好きでした」

 もう二度と、彼と話すことはないでしょう。
 立ち上がり、踵を返します。
「……待って」
 その刹那、突如、後ろから手を引かれました。
「え……、……」
 温かな体に抱き締められ、首筋に生温い吐息を感じました。
 鼓動が跳ね上がります。
「言い逃げ、するつもり?」
 甘く優しい声で、彼はわたしの耳元に囁きました。
「は、颯さん……」
「泣かないでよ」
 彼の声は、震えているようにも思えました。
 腹部に腕をまわされ、身動き一つ取れない状況に、体が硬直して思うように動くことができません。
「……、大好きでした? 何で過去形なんだよ。俺がどんな思いで今まで君に接してきたと思ってるの」
「――、そんなの、わたし、が」
 わたしを抱き締める腕に力がこもった瞬間に、心の奥に閉じ込めていた言葉が、堰を切ったように流れ出します。
「……わたしこそ、どんな思いだったと……っ……!」
 強く抱き締められて、胸が痛くてたまりませんでした。このような痛みを、わたしは知りません。
「遊びでも良かったんです!」
 颯さんのような人が、わたしみたいな人間を遊び相手にしてくれたと、思わなくてはいけない。
「いい夢を見せてもらいました……」
 だけど、本当は――。
 夢なんかで、終わらせたくはありませんでした。でも、夢は覚めるものだと、わたしは誰よりも知っていました。
 だから、夢を見てしまうと、絶望してしまうのです。
「さようなら、と……。貴方のことなんて、……最初から好きじゃありませんでしたって……!」
 ――好きじゃなかったと言いたかったのです。
 後腐れなく、未練など何一つない笑顔でさようならがしたかったのです。お世辞でも彼が可愛いと褒めてくれた、不細工な笑顔を浮かべて潔い別れを演じてみせると決めていました。
 それでも、唇から嘘を紡ぐことができませんでした。
 この思いを消し去ることなんて、できるはずもありませんでした。
 だって、初めて、家族以外で好きになれた人なのです。絶対と思えるかもしれないほど、すべてを委ねても構わないとまで考えてしまったのです。
「わたしは、貴方の思う見っとも無い子に、なりたくなかったんです……」
 嫉妬心で我を忘れ、彼に付き纏う女の子を見てきました。想いは必ずしも叶うものではないですから、それも仕方のないことだと分かっています。
 だけど、――彼女たちと同じに、なりたくありませんでした。
「颯さんの心に残りもしない、顔も覚えてもらえない誰かになんて、……なりたくなかったんです」
 少しでも、特別になりたかったのです。
 彼の心の片隅で構わない、他の女の子と違う――わたしを、憶えていてほしかった。結ばれないことは知っています。それならば、せめて、颯さんの心に残りたかったのです。
 だから、想いを伝えることなんて、してはいけなかった。
「君は、俺が好きなの?」
 彼の問いに応えることができず、ただ、わたしは嗚咽を漏らしました。背に感じる吐息と、柔らかな髪がわたしの感情を揺さぶります。

「……好きだよ」

 泣きじゃくるわたしを慰める優しい言葉が、心を抉りました。
 優しさの反面、彼の言葉はとても残酷です。
「……、貴方が、優しいのは知っています。だから、嘘はもう……」
 中途半端な優しさなど、不要です。
 少し目をかけてもらっただけで、勘違いしました。彼にとって、わたしは雑草なのでしょう。気まぐれに愛でて、躊躇なく排除することができるような存在。
 雑草が太陽に近づくなど、わたしは自分に酔っていたのでしょうか。
「嘘じゃない。好きだ」
 いつまでも見ていたい夢でした。だけれども、夢は覚めることを知っているから、早く切り捨ててほしかった。
 訪れる未来で、深い傷痕が残ることを恐れていました。今別れれば、傷は浅く済むからと、――逃げることを、選びました。
「……、わたしは……、あの子たちみたいになれません。だから、突き放してください……っ……」
 颯さんの傍にいられれば満足だと、彼の取り巻きの中の、数人の女の子たちは話をしていました。彼女たちは彼の恋人になりたいと心の片隅で思いながらも、叶わないと諦めているのだと言っていました。
 だから、彼女たちは颯さん以外を好きになったとき、躊躇なくその人の胸に飛び込んでいけます。颯さんへの恋情を、良い思い出として過去のものにできます。
 ――、そんなことは、わたしにはできません。
 傍にいられるだけで満足なら、夢を見ることもありませんでした。彼と過ごしたほんの少しの時間から、愛しさを募らせることなどなかったのです。
「思いやりなんて、いりません。これ以上醜い思いを抱く前に……、棄ててください」
 拾われてもいないのに、わたしは何を言っていてるのでしょうか。彼に棄てられる価値すらないことなど、分かり切っているというのに。
「……、ねえ、俺は確かに嘘つきだ。嘘つきだったのは……認めるよ。だけど……」
 嘘つきな人が紡ぐ言葉に、真実などない。
 彼の心は、わたしなどが見ることがおこがましいのです。
「好きでもない女の子に、自分から手を出したりなんかしない」
「……、……もう、いいですから!」
 堪らずわたしは、叫び声をあげていた。
 これ以上、颯さんの言葉を聞きたくありませんでした。
「最低な男だって分かってる。今まで、女の子たちに酷いことをしてきたのも分かってる」
「放して、……放してくださいっ!」
 暴れ出し彼の腕から逃れようともがくわたしを、颯さんは放さないようにいっそうと強く抱きしめました。
「これ以上夢を見せないで、ください……!」
「信じてもらえないのは、当然だよ。だけど、好きなんだ。君が好きだから、どうすればいいか分からなかった」
 今まで聞いたこともない、自信のない頼りない声で、彼はまるで哀願するように言葉を紡ぎ始めました。
「放して……、ください」
「他の女の子たちみたいに接すれば、喜んでくれると……、莫迦だから思ったんだ」
 それは、一昨日のキスの話なのでしょうか。
 戯れに勘違いをして絶望したあの日の彼の真意を、彼はわたしに伝えます。
「誰かを好きになったことなんてなかったから、先走って、馬鹿な真似をした。俺は本当に君が好きで……、ただ、好きで」
 縋りつくような台詞に、わたしの中に、無意識のうちに僅かな光が差し込みます。

 彼は、本当に遊びでわたしに手を出したのでしょうか。

 わたしは彼の上っ面ばかりを信じて、何一つ颯さんの言葉を信じませんでした。
 気まぐれで猫みたいな人。
 だから、わたしなんかに手を出すのは、変でした。毛色の違う女に手を出すとしても、こんな面倒な女を誰が好き好んで手を出すのでしょうか。ましてや、颯さんはわたしがどのような人間か少なからず知っていたはずです。
 わたしは、いつの間にか暴れていた手足を止めていました。
「格好悪いな……、本当」
 面倒な女だと知っていたのに、彼はわたしに口付けました。
 彼は、わたしと話をしてくれました。
「信じても、……いいんですか?」
 本当に、――遊びだったのでしょうか。
 喉が震えて、上手く喋ることができませんでした。
「――、遊びじゃなかったて。これは夢ではないと……、思っても、構いませんか?」
 首筋に、安堵するような溜息が吹きかかりました。おそらく、彼は笑んでいます。
「……夢になんか、俺はしたくないんだけど」
 お腹にまわる彼の手が、異常なほどの熱を持っています。
「――信じられないなら、何度でも言うよ」
 わたしが彼の方を振り向いた瞬間、颯さんの瞳がほんの少しだけ色づいたのを、わたしは確かに見ました。

「大好きだよ、――朱里」

 久しく聞くことのなかった自らの名前が、少し肌寒い夏の夕暮れ時の風に攫われていきました。
 わたしは、自然と彼の胸に頭を預けていました。涙は耐えることなく流れ続けますが、それは先ほどまでのものとは意味合いが違うものでした。
 温もりに包まれて、胸の奥に火がついたように感じました。
 切望していた瞳は、間近にあります。
 しかし、その瞳を欲しいとはもう思えませんでした。
 ただ、颯さんというかけがえのない人の傍を、わたしは手に入れたいのです。
 どうか、わたしに勇気をください。
 自分勝手に生きなくては、手に入らないものがあります。颯さんの言うそれは、きっと今のことです。
「一緒に、いさせてください……」
 毎朝目に映してきた、空っぽの瞳はもう何処にも存在しません。ただ在るのは、愛しい人を映す鏡面です。
 あれほどまでに切望した彼の硝子玉の瞳を、欲しいとはもう思いません。
 ただ、颯さんと一緒にいたい。
 彼が恋しくて、この小さな恋が実り幸せになることだけを望んでいます。
 心は移ろいで行くもので、不確かなものです。
 この世界に何一つ、確かなものなど存在しません。
 それでも、彼がいれば何も怖くないと思えました。この思いは薄れることなくいつまでも色づいていると思えました。
「ばか……、一緒にいなくちゃ、俺が嫌だよ」
 格好良くて万能で、――少しだけ情けない。
 その笑顔の仮面の下に、彼の本当が隠されていました。
「……颯」
 初めて呼び捨てた名前は、驚くほど自然と口にできました。
「貴方の傍にいると、幸せなんです」
 心を曝け出すのは恐ろしく痛みを伴いますが、それが人と繋がっていくということなのでしょう。
 わたしは、前に進もうと思います。

「だから、わたしを幸せにしてください」

 揺れる想いを告げ、わたしは顔をあげました。
 わたしの涙に濡れた瞳が映すのは、優しく微笑む颯さんでした。
 彼は何も言わずに、わたしの顎を掬いあげました。大きな手が、そっと眼鏡を外してくれます。

 わたしは、そっと瞳を閉じました。



                        瞳 拙い恋の物語




 ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
 今後も羊の瞳と東堂燦をよろしくお願い致します。