リナリアの恋心

リナリアの恋心

 色鮮やかなリナリアが、爽やかな風に花弁を揺らしている。
「リナリア」
 初夏に色づく花と同じ名を、貴方が愛おしそうに呼ぶ。
 綺麗な貴方に相応しくない、傷だらけで穢い自分が嫌いだった。けれども、貴方の愛する花と同じ名だけは好きになることができた。
「君は、本当に本が好きですね」
 わたしの淡い紫の髪を梳いて、貴方は微笑む。金色の髪が木漏れ日に照らされて、まるで、彼自身が温かな日の光のように思えた。
 優しい人、優しいわたしの想い人。
 本当は、貴方が読み聞かせてくれる本ではなく、貴方自身が好きなのだと口にしたかった。
 華奢な貴方の身体に背を預け、儚さを思わせる薄い胸板に頬をすり寄せた。柔らかな鼓動に耳を澄ませて、わたしはそっと目を閉じる。
 この音に溶けて、貴方と一つになれたなら、どれほど幸せだろうか。
「どうか、世界が君に優しくありますように」
 数多の傷の刻まれたわたしの身体を包みこみ、泣きそうな声で少年だった貴方は囁く。
 ――それは伝えられなかった想いと共に閉じ込めた、遠い日の記憶。

◆◇◆◇

 薄暗い部屋の中で、燭台の焔が揺らめいていた。
 肌の色が透ける薄絹を身に纏って、わたしは長い髪を指で梳いた。香油が塗り込まれた身体から漂う香りで、今にも泣き出しそうな少女の心を奈落に突き落とす。深く沈みこめば、何も感じずに済むのだと知っていた。
 やがて、古びた木の扉が耳触りな音と共に開かれる。
 ――部屋の入口に佇んでいたのは、目を見張るような美丈夫だった。
 薄闇の中でも翳ることのない太陽の髪。健康的に日に焼けた肌は艶やかで、鼻筋の通ったはっきりとした顔立ちをしている。しなやかに鍛え抜かれた身体に誉れある騎士の証を纏った彼は、わたしを見るなり切れ長の碧い目を細めた。
 わたしは小刻みに震える身体を誤魔化すように、作り物の笑みを浮かべた。かすかな微笑みさえ浮かべることのできなかった幼い頃と違って、今では仕事となると自然と笑顔が作られる。
 頭を垂れて青年を迎え入れると、彼はわたしの手をとり、まるで姫君に忠誠を誓う騎士のように唇を落とした。
 この仄暗い場所にはそぐわない行動に気をとられていると、彼はわたしの両肩に手を伸ばして、わたしの身体を押し倒す。使い古された木の寝台が、二人分の重みで悲鳴をあげる。
 そうして、青年はわたしの身体を抱きしめた。恐る恐る彼の顔を見上げると、彼はわたしを安心させるように、口元を少しだけ綻ばせた。何もしなくて良いのだと、幼子をあやすように背を撫でる大きな手に焦燥と不安が走る。
 その優しさがわたしを追い詰めていることに、彼は気付いていない。
 いつもの客のように、もっと酷くしてほしかった。そうすれば、何も考えずに目を瞑って心を閉ざすことができる。
 わたしは青年の手を強く掴むと、強引に自らの胸元に引き寄せた。戸惑ったように碧い瞳を揺らす青年に、甘えるようにしなだれかかる。青年の浅黒い肌を撫ぜ、首筋に舌を這わせると、彼は咄嗟にわたしの身体を引き離す。
 わざとらしく首を傾げて、彼の身体にもう一度手を伸ばすと、青年は今にも泣き出しそうな顔でわたしの手を振り払った。
 震える彼の手が頬に触れ、そっと唇が重ねられた。羽のように軽い唇と同時、胸元に大きな手が差しこまれる。皮が厚く乾いた手が肌を滑る度に、小さな痛みが走る。けれども、決して乱暴な手つきではなかった。
 遠い昔、身体に刻まれた傷痕をなぞる舌に、夢見た温もりが蘇る。思い出させないで、と心の奥底に隠れた小さな女の子が泣いている。
 珠のような汗が青年の額から頬を伝って、わたしの唇に零れ落ちた。

 その甘やかな毒は、どんな責苦よりもわたしを踏み躙った。

 色硝子の嵌めこまれた高窓から、柔らかな朝日が零れ落ちる。
 逞しい肩を日の下に晒して、隣に眠る青年は穏やかな寝顔を晒している。無防備に眠りに就く青年の姿が、記憶の中の少年と重なって、わたしは零れ落ちそうな嗚咽を必死で噛み殺した。
 貴方だけには、惨めなわたしを知ってほしくなかった。優しい記憶を、幸せな思い出を穢したくなどなかった。
 ――貴方は、きっと覚えていない。
 木陰の下で、傷だらけだったわたしを抱きしめてくれた少年時代のことなど、遠い記憶の彼方に置き去りにした。
 それでも、わたしは片時も忘れたことはなかった。
 どれほどの苦痛が齎されても、貴方の笑顔を想えば、生きていくことができた。二人を包んだ優しい木漏れ日が、心を蝕む闇さえも照らしてくれるような気がした。
 何度だって、わたしの名を呼ぶ貴方の声がした。
 ――叶うならば、どうか名前を呼んで。貴方の愛した花の名を。
 わたしを好きでなくても、愛してくれなくても良いから、どうかあの綺麗な花を愛していて、忘れないで。
 眠る美しい人の金色の髪を掻きわけて、薄らと汗の滲んだ額に口付けた。堪え切れず零れ落ちた涙が、彼の頬に滴り落ちる。
 涙を乱暴に拭って、立ちあがろうとした時だった。
 伏せられていた切れ長の瞳が開かれ、しなやかな腕がわたしの背に回された。そのまま引き寄せられて、わたしは彼の上に崩れ落ちる。
「リナリア」
 初夏に色付く花の名を、とうの昔に捨て去ったわたしの名を、彼は震える声で口にした。
「片時も、忘れたことはありませんでした。僕の愛した、……僕が救えなかった、小さな女の子」
 裸身のわたしを引き寄せて、彼は掠れた声で囁いた。
 貴方を大切に思うならば、すぐにでも否定しなければならなかった。
 ここにいるのは貴方が愛してくれた小さな子どもリナリアではなく、寂れた娼館で朽ちていくだけの女なのだと、言わなければならなかった。
 それなのに、たった一言の否定を口にすることができない。
 弱々しく腕を突き返しても、碧の瞳が怯えるわたしを逃がさなかった。
「世界が君に優しくなくても……、今度こそ、僕が君を守ります」
 遠い昔、わたしを助けられない無力さを嘆いた少年は、すっかり大人になった身体でわたしを抱きしめた。
 涙溢れるわたしの眦に口付けて、彼は今にも泣き出しそうな顔で微笑んだ。昔と変わらない温かな微笑みに、心の奥底に沈めたはずの幼い少女が顔を出す。
 薄汚い襤褸を纏って、貴方の背を見送った遠い日のわたしが、声をあげて泣きじゃくる。厚い胸板に頬をすり寄せて、かつて一つになりたいと願った鼓動に耳を澄ませて、わたしは貴方に縋りついた。
 ああ、――優しい世界でなくても、腐り落ちぬように胸に秘めた恋心が赦されるならば、わたしは貴方を愛したい。
 本当は、ずっと、あの木漏れ日の先で共に在る夢が欲しかった。

「好き。ずっと、……貴方が、好きだった」

 一つに溶けていく鼓動を抱きしめて、わたしは伝えられなかった想いを口にした。