君に捧ぐ青き花
その地には、青い花を贈られた乙女は幸せになるという言い伝えがあった。
昼下がりの温かな陽光が、ローランドを照らす。
その眩しさに目を細めながら、ローランドは森を歩いていた。日の光を浴びた木々は太陽に向かって背伸びをして、柔らかな虫の鳴き声が耳朶を打つ。
右手に持った青い花束からは、ほのかに甘い匂いが香っていた。
後ろで一つに結えた金髪が、ローランドの歩みに合わせて揺れる。故郷であるこの地を離れてから伸ばし続けた髪は、今では腰を覆うほど長くなってしまった。線の細さは相変わらずだが、節くれだった指や鍛えぬかれた傷だらけの身体は、あの頃の華奢な少年のものとは違う。
――だが、ローランドの変化と裏腹に、この森の景色は何一つ変わっていない。緑に色付く木々も、肺を満たす澄んだ空気も、かつてと同じだった。そのことが、ローランドの胸の中で小さな棘となって痛みを呼ぶ。
唇が懐かしい名を紡いでしまいそうになったとき、ローランドの耳に水のせせらぎが届く。
次の瞬間、吹いたのは突風だった。あまりの強い風に、ローランドは反射的に目を瞑る。
暫くして、固く閉ざした目を恐る恐る開くと、ローランドの目前には小さな湖があった。目を瞑る前の青々とした景色ではなく、そこは懐かしさを覚える別世界だ。
湖畔には、一人の少女の姿があった。その姿を目にして、ローランドは息を止めた。
「何を……しているんだい?」
畔に座り込んで、湖水に素足を浸している少女の後ろ姿に、ローランドは震える声で話しかけた。
振り返った少女は、この世のものとは思えぬほど美しかった。雪のように透き通る肌に瑞々しい赤の唇、長い銀色の髪は艶やかな光の輪を被っている。
何よりも、――目の冴えるような青い瞳がひどく印象的だった。
「人を待っているの。約束したから。貴方は?」
少女は突然現れたローランドに驚くこともなく、花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「……俺は、人を、探しているんだ」
湖面から足をあげて、少女は湖畔に咲く白い小花の上に立ち上がった。太陽を知らぬような白く細い足が、水に濡れて輝いていた。
「あなたも、誰かと約束していたの?」
年頃の乙女にしては、随分と背の低い少女だった。顔立ちは大人びているものの、幼子のように肉つきの薄い身体をしている。一見しただけで、彼女が身体の強い性質ではないことが知れた。
簡単に踏み躙られてしまいそうな、弱々しい花を連想させる少女だった。
「もう、随分と昔の話だけどね。君は、誰を待っているの?」
「幼馴染の男の子よ」
「……女の子一人待たせて、情けない男だね」
この森は、人気もなく村から少し離れた場所に位置している。いかにも儚げな少女が一人で訪れるには、あまり良い場所とはいえなかった。
「ふふ、そうよ。情けなくて、格好悪くて、すぐ泣いちゃう弱虫なの」
少女は不満そうに唇を尖らせるが、その後、不意に目を伏せた。銀色の睫毛が白磁の頬に影を作り出し、少女の憂い顔を彩る。
「でも、誰よりも優しいの。わたしが泣くと頭を撫でてくれるし、わたしが悲しいと手を握ってくれる。持病の発作が起きた時だって、一睡もしないで、ずっと傍にいてくれたのよ」
まるで胸の内に秘めた宝物を語るかのように、少女は一つ一つの言葉を大切そうに口にした。
「とっても弱虫だけど、優しい人。わたしがいないと生きていけないって、わたしが寝込む度に、泣きながら言うのよ」
胸の上で手を組んで、少女は微笑む。まるで祈りを捧げるかのように、少女の表情は清らかだった。
「だから、……わたしがいないと、あの人はだめなの」
ああ、その通りだ――。
ローランドは、手に持っていた青い花束を、そっと少女の前に差しだした。
それは、幸せを願って、誰よりも愛しい少女に捧げるはずだった鮮やかな青い花。
「約束、しただろう。……君の瞳のような、青の花を贈ると」
そうして、いつまでも共に在ろうと誓い合った。
祖国が戦火に巻き込まれ、戦に身を投じなければならなくなった日。無事に帰った暁には、必ず青の花を捧げると、ローランドは彼女に約束したのだ。
――青い花を捧げられた乙女は幸せになる。その言い伝えは、あなたを幸せにする、という求婚の意味を持っていた。
「セシリア。遅くなって、すまない」
だが、生まれた時から病を抱えていた少女の命は、ローランドの帰還を待ってはくれなかった。
目の前の少女は、あの頃と何一つ変わらぬ様子で微笑んだ。
「遅いわ、ローランド」
セシリアの青い瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
堪らず、ローランドは彼女の身体をかき抱く。だが、彼女の肢体はローランドの腕を擦りぬけて、温もり一つ感じることができない。
それでも、確かに彼女が在ることを信じたかった。
――セシリアは、ずっと、ローランドを待っていてくれたのだろうか。
約束を果たすこともできず、遠い異国から帰ることのなかった男を、想い続けてくれたのだろうか。
青き花を贈るという男の言葉を抱いて、たった一人で病と闘ったセシリアの姿を想うと、ローランドの胸は張り裂けそうだった。
「すまない……っ、すまない、セシリア」
遠い異国の地で、こじれて終わらぬ戦に身を投じながら、何度も故郷で待つ少女の姿を思い浮かべた。必ず帰って、彼女と共に幸せになるという決意だけが、凄惨な戦場でローランドを生かした。
だが、運命は残酷だった。
セシリアの訃報がローランドの元に届いたのは、戦が漸く終わりを迎えた頃だった。それから長い年月を経た今日まで、ローランドが故郷に帰ることはなかった。
ローランドの頬を、透明な滴が流れ落ちる。
セシリアがいないと、地に足をつけて立つことさえ儘ならなかった。酒に溺れて女に逃げて、それでも、何一つ満たされることはない。
脳裏には、いつだって、色鮮やかに微笑む美しい少女がいる。
手を伸ばしても届かない記憶の中のセシリアに焦がれるほど、彼女を喪ってできた虚が広がっていった。
「傍にいてくれ、一人にしないでくれっ……! 君がいないと、俺は、生きていけない」
掠れて震える声で懇願するローランドから、セシリアはゆっくりと離れた。
「わたしがいなくても、……あなたの道は続くのに?」
セシリアが問いかけた瞬間、彼女の背後にある湖が淡い光を放ち始める。セシリアは、すべてを委ねるかのように湖面へと身体を倒し始めた。
儚い光を宿す湖へと、セシリアの身体が吸い込まれていく。
「セシリア!」
必死に手を伸ばして叫ぶローランドの姿に、セシリアは困ったような笑みを浮かべた。
「愛してるわ、ローランド」
そうして、セシリアは小さな唇をローランドのそれに重ねた。目の冴えるような青い瞳が、ひたすらに温かな光を宿してローランドを見つめている。
「忘れないで、わたしは貴方の傍にいる」
――だから、もう、泣かないで。
囁いた少女の声は、湖の中へ溶け込んでしまった。
少女の姿が湖面に消えてから、ローランドは無言で立ち尽くしていた。
気付けば小さな湖は消え失せて、目の前には果てのない森が広がっている。
――あれは、ローランドの願望が見せた夢だったのだろうか。
不意に、ローランドは手に持っていたはずの青い花束が見当たらないことに気づく。
「セシリア……、君は、そこにいるのか?」
彼女の熱も、抱いた身体の柔らかさも、唇の甘さも、もう思い出すことはできない。別たれた日から、ローランドの道は二度とセシリアと交わることはない。
色褪せることなく咲き誇る記憶は美しく、されど、二度と触れることは叶わない。
それでも、今日見た彼女の姿が、夢でも幻でもないと、どうか信じさせてほしい。
見えなくても、聞こえなくても――、セシリアはローランドの傍にいる。彼女の幸せな笑みを胸に抱いて、これからの道を歩ませてほしかった。
「君を、愛してる」
果たせなかった約束と共に、ローランドは何度も花を手向けよう。
誰よりも愛しい君へ、青き花を捧ぐ。