emerald 美しき世界に祝福を
emerald 美しき世界に祝福を
遥か昔、恵まれた土地に、青空を映すほどに透き通った湖がありました。
澄んだ湖の中には、醜い女神様がいらっしゃいました。
湖の女神様は、姿こそ醜くありましたが、荒れ地に水を注ぎ花を咲かせる豊穣の力を持っていました。
彼女が歌えば優しく風が鳴り、彼女が笑えば陽光が煌めいて降り注ぎます。
その醜い御姿に恐れをなしていた人々も、次第に湖に棲む女神様の心根を、彼女から与えられる恵みを愛するようになりました。
そうして、女神様はこの地の繁栄の象徴となっていったのです。
ある日の晩のことでした。
女神様が夜風に包まれ眠っていると、一人の青年が湖に現れたのです。
金の稲穂のような髪に、ミルクのように白い肌をした青年でした。
女神様と違い、とても、とても美しい青年でした。
――女神様は、一瞬で恋に落ちました。
++++++++
暖かな日の光で、僕は目を覚ました。
車椅子に座ったまま、どうやら寝てしまったらしい。
窓の外に目をやると、花園に色取り取りの花が咲き誇っている。そこには、花を摘む金髪の少女と数人の侍女たちの姿があった。楽しそうな笑い声に心が凪いでいくのを感じた。
窓から見える景色はとても美しくて、この光景を眺めることは僕の唯一の楽しみだった。
外の景色は、日々移ろいでいくけど、決して朽ちることはない。女神様の恵みがこの地にはまだ残っている。
呪いが消えない限りは、この国は栄え続ける。
「王子」
部屋の外から聞こえてくる声に、僕は首だけ動かして扉の方を見た。
開けられた扉の先には、部屋中を満たす異臭に顔を歪めた女官長が小さな人影を連れて佇んでいる。
「王子、今日から王子のお世話をする者です」
女官長が紹介した新しい僕の世話係は、絵本の中の空の瞳をした女の子だった。
彼女は、車椅子に座る腕のない僕を、何も言わずに見つめていた。
「早く、自己紹介をしなさい」
女官長がせかす様に女の子の背を強く叩いた。
苛立たしげな女官長の様子に、女の子が大きく肩を揺らした。
「……、ミスティです」
体を強張らせて、女の子は一礼した。
「それでは……王子。私は失礼します」
僕から漂う腐敗臭に耐えきれず、女官長は駆け足で部屋を出て行った。
残されたのは、女官長が去った途端に鼻をつまみながら眉間に皺を寄せた女の子と、満足に動けない僕だけだった。
女の子はその瞳で僕を見つめている。どうやら、僕が口を開くのを待っているらしい。
「――、よろしく、ミスティ。僕のことはリュオンって呼んでね」
「よろしくお願いします、王子」
ぎこちない笑みを浮かべた彼女は、くぐもっていたけど可愛らしい声で僕を王子と呼んだ。
僕の名を呼んでほしいという要望は、いつもどおり無視されてしまったようだ。
仕方ない。呪いを受けているとはいえ、仮にも僕はこの国の王子なのだ。上辺だけの敬いなど不要なのに、皆が僕を言葉の上だけで敬う。
不安に揺れている彼女を横目で見て、今度の世話係はどれくらいもつのだろうと思った。
僕の世話はとても大変らしい。
僕の腕が腐り落ちてしまったとき、前の世話係の人は泣きながら叫んで、僕を罵倒した。
その前の人たちも、同じようなものだった。
きっと、彼女も前の人たちのように、僕の前から去っていくのだろう。
女神様の腐敗の呪いを受ける僕は、女神様のように、とても醜いから。
++++++++
恋に落ちた女神様は、己の姿の醜さを知っていました。
だから、美しい実りの歌を歌いました。
優しく夜風が鳴り響き、湖の傍の蕾がいっせいに花開きました。
花びらが風に舞い踊り、歌は世界を包み込みます。
この世のものとは思えない美しい光景に、青年は思わず微笑みました。
++++++++
僕の予想に反して、ミスティは僕の世話を投げ出すことはなかった。
「王子、お辛いところはありませんか?」
ミスティは、清潔な布で僕の体を拭いて、服を着せてくれる。
前まで、彼女は僕に服を着せることが下手だったのに、いつの間にこんなにも上手になったのだろうか。
「王子、熱くはございませんか?」
ミスティは、僕の口に丁寧に食事を運んでくれる。
気付けば、初めのうちは酷く固くて不味かった食事も、柔らかくて美味しい、僕の食べやすいものに変わっていた。
ミスティが僕の世話を始めてから、二回も季節が廻った。
彼女に出会った時と同じように、窓から見える花園には多くの花々が咲き誇っている。
毎日僕を車椅子に乗せて、ミスティは窓の傍まで連れて行ってくれた。
「美しいですね、王子」
彼女が同意を求めるように呟いた。
「うん、……とっても、綺麗だ」
ミスティが来てから、僕の生活が少しずつ変わっていった。
悪臭に満ち澱んだ空気の流れていた部屋は、毎朝の換気とミスティの焚く香で、以前よりもずっと清々しいものになった。
時折彼女が摘んでくる花々が、殺風景で荒んでいた部屋を彩っていく。
悪臭を放つ僕の存在は相変わらずだけど、部屋の中はずっと綺麗になったのだ。
無理してぎこちない微笑みを浮かべながらも、ミスティは懸命に僕の世話をしてくれている。
でも、僕は知っている。
僕の見えないところで、ミスティはとても苦しい思いをしている。
彼女が腐敗臭に涙を流し、劣悪な環境に吐いていることに、僕は気付いていた。前の世話係の人もそうだったのだ、やはり、僕の世話は耐えがたい苦痛なのだろう。
なのに、どうしてなのだろう。
どうして、ミスティは僕の前から去っていかないのだろう。
++++++++
青年の微笑みに、女神様は青年がもっと好きになりました。
女神様は、その笑顔をずっと見ていたくて、歌を歌い続けました。
大地は以前よりも一層恵みを受け、人々は大いに喜びました。
陽光が煌めき、大地は潤います。
花が咲き誇り水が流れる美しき世界に、青年は心奪われました。
青年は、心優しい女神様に、次第に惹かれていくようになったのです。
++++++++
ある日の午後、ミスティが食事を食べさせてくれる時に、僕は小さく扉の開く音を聞いた。
ミスティもその音を聞いたのか、手を止めて扉を見ている。
扉の影には、金色の髪に白いドレスを着た、可愛らしい妹の姿があった。
ここ暫く姿は見ていなかったけど、相変わらず綺麗な白い肌に、自由に動き回れる手足を持っている。
少しだけ、ほんの少しだけ、羨ましいと思った。
「……王女、殿下?」
ミスティが不安げに妹を呼んだ。
妹はミスティの声など聞こえていないのか、怯えた様子で、ベッドに横たわる僕を見つめている。
薄らと涙の滲んだ瞳を見て、僕は納得した。
妹が、僕の部屋を訪れる理由など一つしかない。
「今日は確認の日だったのかな」
「確認の日?」
「僕が死んでいないか、確認するための日だよ」
「…………、え?」
「僕が死んだらあの子に呪いがうつるから、たまに僕の部屋を覗いて確認するの。僕が死んでいないかどうかを」
妹は、僕の死に怯えている。
僕が死ねば、女神様の呪いは妹に降りかかるから、僕が死ぬことを何よりも妹は恐れて厭っているのだ。
妹は、ミスティと会話する僕に、安堵したように溜息をついた。
そのまま、身を翻して去っていく。
白いドレスの裾が、ふわふわと揺れて、遠ざかっていく。最後に妹と会話したのは、いつの話だっただろうか。
妹が生まれたのと、僕が呪いにかかったのは同時だった。
幼い妹にとって僕の姿は刺激が強過ぎるから、まともな会話をしたことは、本当に少ししかない。
「そんなの、酷いです」
「そうかな? 妹が僕の死に怯えるのは、仕方がないよ」
幼いあの子にとって、僕はまさに恐怖の象徴だ。
自分もこの姿になるのかもしれないと思えば、怯えてしまうのもどうしようもないことだ。
お母様に抱き締められ何も知らなかった僕と違って、妹は生まれたときからその事実を大人たちから教えられているはずだ。
淡々と述べた僕を、ミスティが静かに睨みつけていた。
今まで見たことのないような鋭い瞳に、僕は首を傾げる。
「……貴方は、死ぬのが怖くないの?」
まるで怒っているかのように身を震わせて、ミスティは僕に問いかけた。
僕はそんな彼女の質問に答えずに、言葉を紡いだ。
「それ以前に、僕は、生きていると言えるの?」
「…………っ……!」
息を呑んだミスティに構うことなく、昔、確かに腕があった場所を見つめて、僕は続けた。
「この腕が腐り落ちた日に、世話係の人は泣いて悲鳴を上げて、僕を床に投げ出した」
あの日、本当に泣きたかったのは僕の方だった。
崩れ落ちていくのは僕なのに、どうして他人が泣いて悲鳴を上げるのだろうと思った。誰かが代わりに泣いてしまえば、僕は涙を流す権利さえ奪われてしまう。
動けない僕は泣くことさえできずに、冷たい床に転がされた。
「そのまま、何日も何日も戻ってこなかった」
叫んでも誰も助けてくれない、助けを求めても応えてくれない。
――僕は、呪いのために生かされているに過ぎないと、知ってしまった。
僕は生きていない。
そこに在るだけ、呪いを受けるための物でしかない。
気づいてしまえば、心は空っぽになっていった。
「結局、呪いがうつることが怖くなった妹が、人を呼んだけどね」
僕は物だから、他人が僕をどう扱っても許されるのだと理解した。だから、僕には怒る権利さえ与えられていない。
僕を苦しめるのは女神様の呪いだけど、僕の存在意義も呪いだけなのだ。
「どうして……」
だから、ミスティの言葉が、僕には意外だった。
「どうして、貴方は怒らなかったのですか……!」
「え、え……?」
青空の瞳を憤怒に染め上げて彼女は僕を見つめている。
「だって、僕は、……僕は生かされているだけだから。僕は呪いのための、……物だから」
「貴方が苦しんでいるのに、どうして、物みたいに王子を扱えるのですか! そんなの可笑しいです、間違ってるっ……!」
怒らない僕の代わりに、彼女は強く拳を握って叫んだ。
胸が、じわりと熱くなる。
「貴方は人間でしょうっ……!」
自分のことのように、ミスティは僕のために怒ってくれた。
そんなミスティに僕の心は震えていた。
「僕は、人なの?」
彼女は力強く頷いた。
「当たり前しょう……」
ミスティは、僕を人間だと言ってくれた。
彼女と同じ存在なのだと、認めてくれた。
嬉しくて、僕は自然と笑っていた。
「ありがとう、ミスティ」
初めて、彼女に笑いかけた。
僕の微笑みに目を丸くして、ミスティは呟いた。
「こんなにも綺麗に笑える貴方を……、どうして物みたいに扱えるのですか」
笑顔を褒めてもらえて、とても嬉しかった。
「……リュオン」
恥ずかしそうに付け足された名前に、胸が躍った。
ミスティがどうして僕の傍にいてくれるかは分からない。だけども、ミスティが笑って僕の名を呼んでくれるなら、そんなことは関係ないのだと思った。
++++++++
心を開き始めてくれた青年のすべてを、女神様は愛おしく思いました。女神様は、彼が願うままに、彼のためならば何だってしてあげました。
美しい彼が望む全てを、その御力で叶えてあげたのです。
新しい靴が欲しいと言われれば、目の眩むような金の靴を与えました。
暖かな家が欲しいと言われれば、立派な御城を与えました。
彼が王になりたいと言えば、女神様は彼をこの恵まれた地の王としました。
女神様は、だんだんとその御心を青年にだけ注ぐようになっていきました。
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長い時間を共に過ごすうちに、僕とミスティの距離は縮まっていった。
敬語を使い続けていた彼女も、僕が度々駄々を捏ねたので、いつのまにか自然体で接してくれるようになった。
僕には友達なんていたことがないけど、小さい頃にお母様が読んでくれた絵本の中の友達同士は、敬語を使わない。
僕とミスティは友達なのかは分からないけど、友達くらいには親しくなれたのだと僕は喜んだ。
「痛いところはある?」
いつものようにミスティが、僕の体を拭いてくれる。優しく僕を清めるミスティの手に、僕は微笑んだ。
陽光が煌めいていて、世界を照らしている。
楽しそうな鳥の囀りが風に乗って、僕の心を慰める。
今日も、女神様の恩恵が大地を潤していた。
「……っ……?」
不意に、足に痛みが走った。
僕の左足を拭いていたミスティの手が、止まっている。彼女は青ざめた顔のまま、何も言えずに震えていた。
震えて、僕の左足が繋がっていた場所を見ていた。
僕の左足は、不自然に切断されたように、落ちていた。
「……ああ」
そろそろではあると思っていた。
中から腐り空虚になった左足は、小さな衝撃で落ちてしまう。
腕が取れたときと同じように、僕の左足は限界を迎えてしまったのだ。
僕はその光景を見て特に何も思わなかったけど、ミスティは違ったらしい。
「あ、……あああっ……!」
大粒の涙が、彼女の瞳から零れ落ちた。
青空から降り注ぐ雨のように、透明な滴が彼女の頬を打つ。
腐り落ちた僕の足を抱き締めて、彼女はおろおろと泣いていた。
僕は慌てて彼女に声をかける。もうかなりの付き合いになるけれども、ミスティが僕の前で泣いたことなど初めてだ。
「ミスティ。……大丈夫だよ」
本当はとても痛いけど、嘘でも大丈夫だと言えば、君は涙を止めてくれるかな。
彼女の泣いている理由も把握できていないと言うのに、僕はどうすればいいのだろう。
「…………僕は、痛くないから」
僕は建国の青年の血を継いでいる。女神様が愛した青年の体は、女神様の手で強靭に作られている。
だから、その血を引く僕も簡単に死ぬことはないから、平気だ。
お母様だって、四肢を失くしてからも、妹を産むまでちゃんと生きていたんだ。
「平気なんだよ? 大丈夫なんだよ、ミスティ」
宥めるように何度も言うけれど、ミスティは涙を止めてくれない。
「うぅ……」
それどころか、嗚咽が悲鳴に変わっていく。
「……、今日はもう休んだ方がいいね」
僕の代わりに泣き続けるミスティの姿に、胸が痛んだ。
「僕も眠るから、ミスティも眠ろう?」
ミスティがいるから、僕は寂しくない。助けを求めればミスティが応えてくれると、僕は知っている。
だから、ミスティが傍にいる僕には、もう泣く権利なんていらない。
貴女を裏切った男の一部である僕が、貴女に願うのは間違っていると分かっています。
だけど、どうか女神様。
ミスティの涙を止めてください。
日に日に、ミスティは痩せていった。
腐り落ちた僕の足を抱きしめて泣いた彼女は、思うようにご飯を食べることができなくなったみたいだ。僕の飲む水を用意しに別室に行くたびに、彼女の小さな悲鳴が聞こえてくる。
それでも、彼女は僕の世話を投げ出したりしなかった。
僕の体を湯と布で綺麗に清めるし、柔らかく煮込んだ食事を口に運んでくれる。
彼女はその間、何かを堪えるようなしかめっ面だったけど、前みたいに無理して笑われるよりはずっと良かった。
「ミスティ、顔色が悪いよ」
本を読んでいたミスティは、僕の顔を見た。
青い空に、僕の中で唯一綺麗な顔が映り込んだ。
「……平気よ。何処か辛いところはない?」
「ないよ、ミスティのおかげだね」
顔だけは綺麗だと、前の世話係の人たちは褒めてくれた。
「ねえ、ミスティ。僕が笑うと、嬉しい?」
だから、この顔で微笑めば、ミスティも嬉しく思ってくれるはずだ。
ミスティは、目を丸くして、次の瞬間には泣き出し始めた。
「リュオンっ……」
大粒の涙が、絵本の中の雨みたいに僕の体に降り注いだ。
誰かが泣いたときは、その人を慰めてあげるのだと、お母様は僕に教えてくれた。
だから、ミスティの涙を拭ってあげないと。
だけど、どうしよう。
僕にはもう手がない。
「泣かないで」
苦し紛れに、僕は彼女の眦に唇を寄せた。
塩辛い味がして、清潔な香りが僕の鼻を擽る。
僕の体は酷い臭いがするけれど、ミスティからは良い匂いがする。彼女からうつる匂いが、僕を幸せにしてくれる。
胸の奥に優しく火が灯る感覚、随分と昔、お母様と過ごしていた時にも感じたこの気持ちの名前を、僕は思い出す。
お母様の腐りかけた指が、絵本のページを捲ってくれた日、お母様は優しい笑顔で僕に語りかけてくれた。
「嬉しくなると、幸せなんだよね? だって、昔、お母様が読んでくれた絵本には、そう書いてあったよ」
あの絵本の中では、皆がきらきらとした笑顔で微笑んでいるんだ。
僕はその光景を、今でも鮮明に覚えている。ミスティの目のような、何処までも広がる青い空の下で、優しく手を取り合う人々の姿。
――あの光景を、あの時感じた想いを、幸せと呼ぶのだと、お母様は教えてくれた。
「ミスティには、幸せになってもらいたいんだ」
ミスティが笑うと、僕はとても幸せだ。
だから、ミスティも幸せになると良い。
嬉しいと感じて、彼女が心から幸せになってくれれば良い。
「……っ、……」
ミスティは何も言わずに、僕を抱きしめてくれた。
背中に回った腕が温かくて、僕も彼女を抱き締めてあげたかったけど、それは叶わなかった。
初めて、不自由な体を悔しく思った。
僕に手があれば、彼女の涙を拭いて、抱き締めてあげられるのに。
僕に呪いがなかったら、ミスティをずっと守ってあげられるのに。
++++++++
王となった青年の元には、たくさんの人々が集まりました。
初めは女神様の命で渋々と青年に仕えていた人々も、次第に美しい青年を敬うようになっていきました。青年を慕う人々の中には、女神様よりも美しく艶やかな女がたくさんいました。
青年は、そんな女たちが自分を慕うようになると、醜い女神様を疎ましく思い始めるようになったのです。
++++++++
妹が結婚することになった。
幼かった彼女は、いつの間にか大人になっていたらしい。僕の体の成長は芳しくない。お母様から呪いがうつった頃からずっと寝たきりだったから、成長というものをあまり感じさせないのだ。
心だけが育ってしまったような僕だから、妹の成長を少し寂しく思ってしまった。
妹には、とても悪いことをした。僕が子をなせなかったばかりに、僕が死ねば次に呪われるのは妹になる。
不安に揺れる顔で、僕の部屋を覗いていた可愛らしい妹の姿を思い出す。
僕によく似た顔で、それでも、僕と違って白く綺麗な肌をした女の子だった。自由に自分の足で走り回って、本を読むことも食事をとることも一人でできる子だった。
窓の外から聞こえてくる妹の笑い声は、小鳥の囀りに似ていた。傍にいることはできなかったけど、お母様によく似た妹の声を聞き、その姿を目にする度に僕は穏やかな気持ちでいられた。
まともな会話をしたことなんて数回しかなかったけど、僕の可愛い妹には変わりない。
『お兄様』
一度だけ、大人になった妹は、僕の部屋を訪ねてくれた。
春風に靡く艶やかな金の髪。
白く透き通るような真珠の肌。
その美しさが僕には少しだけ眩しかった。
『――呪いは、私が貰います』
死期の近い僕に、妹は笑った。
幼い頃の怯えを振り払った、凛とした姿だった。
『お兄様は、あの人の傍で幸せに……、幸せに死んでね』
呪いが己の身に降りかかることだけを恐れて、僕の死を厭っていた妹。
そんな妹が、僕の幸せを願って、――後の呪いを引き受けるとまで、言ってくれたのだ。
雲一つない晴天の日、教会の鐘の音は幸せを謳うように鳴り響く。
ミスティに車椅子を押してもらい、窓の傍まで連れて行ってもらう。
僕の好きな美しい景色は、いつもよりも一層と輝いていた。見下ろした花園を囲うように、多くの人々が詰めかけていて、彼らの笑顔を彩るように花びらが舞っている。
純白のウエディングドレスを身に纏った妹は、最愛の男に手を引かれて満面の笑みを浮かべていた。
これが、妹が選んだ幸いなのだろう。
「綺麗……」
ミスティが零した声は、少しだけ寂しそうだった。
だから、僕は彼女に笑いかける。
「ミスティが、一番綺麗だよ」
妹は確かにとても美しいけど、僕の中での一番はミスティだ。
「……リュオン、貴方って人は」
「本当に、綺麗なんだよ。優しくて、美しいんだ」
どんなに言葉を尽くしても、きっとミスティを言い表せはしない。
胸を締め付けるこの思いの全てを、ありのままにミスティに伝えられたら、どんなにいいのだろうか。
「ミスティは、僕の女神様なんだ」
この地に恵みを与えてくれる女神様のように、ミスティは僕の心を潤し満たしてくれる。
ミスティは、悲しげに、震える声で聞き返してきた。
「貴方の呪いは、……女神様が、かけたのに?」
彼女の言葉は、この国の誰もが知っている、本当にあった昔のお話。
僕に流れる血を辿れば、辿り着くのは女神様の恋人だった青年だ。
女神様の呪いとは、彼女の愛した男――この国の始まりの男にかけられた呪いを意味する。
呪いの言葉とともに齎された悪夢、それは途絶えることなく続き、僕の血にも流れ続けている。
この国の王族の存在価値は、呪いを一身に受けること。
王族の血が途絶えた瞬間に女神様が授けた恵みは失われ、呪いはこの国の全てを喰らい尽してしまう。
そう、僕たちは、女神様を裏切った罪を購い続けなければならない。この身の腐敗を以て罰を受けなければならないのだ。
「貴方は、死ぬのが怖くないの?」
まだ僕たちが子供の頃に、ミスティが僕に訊ねた懐かしい問い。
怒りを滲ませていた昔とは違い、泣きそうな顔をしてミスティは僕に訊いてくる。
ああ、そんなに悲しそうな顔をしないで。ミスティにはずっと笑っていてほしいのに。
僕に終わりが訪れた後も、君の笑顔だけは途絶えることなく続いてほしいと、心の底から願っているんだよ。
「……死ぬのはとても怖いよ。ミスティと一緒にいれなくなることは……とても、とても怖いよ」
徐々に呪いに蝕まれ、腐り落ちていく体は恐ろしい。
――ミスティと一緒にいられなくなることは怖い。
眠りに就くたびに、僕は不安になる。目覚めたときに君の傍で生きていられるか、君は笑っていてくれるかが気懸りで仕方がなくなる。
「だけど、僕に呪いがなかったら、ミスティはここにいない」
でも、この体だったから、ミスティと一緒にいられた。
女神様は、呪いと共に、僕にミスティを与えてくれた。
苦痛の隣りに、幸せを施してくれた。
「――呪いのおかげでミスティと出逢えたなら、この身体も悪くない。こんなこと言ったら、君は怒るのかもしれないけど……」
ミスティは、泣きそうな顔のまま、何も言わずに首を振ってくれた。
そうして、優しく僕を抱き締めて、少しずつ腐敗する額に口付けてくれた。 彼女の赤い唇を穢すように剥がれおちた僕の皮が、なんだかとても切なかった。
ずっと一緒にいたいな。
あとどれくらい、君と一緒にいられるのかな。
++++++++
王となった青年は、自分の力で全てを手にしました。
そうして、一人の女に恋をしました。ふくよかな体を持つ、美しい女でした。
女の胎には、新しい命が宿っていました。
女神様は嫉妬に狂い、青年を問い詰めました。
その形相を見た青年は、全てを叶えてくれた女神様を、心の底から拒絶してしまったのです。
女神様は、哀しみました。
彼女の嘆きの歌が、世界を揺らしていきます。
呆然と立ち尽くす青年に、女神様は、呪いを紡ぎはじめました。
「貴方が望み生まれた豊かなこの国は、貴方の血の犠牲の元に栄え続けるでしょう。貴方の血脈が贖いを続ける限り、私の恵みはこの地を包むでしょう」
彼女の悲しい微笑みが、運命を動かします。
「絶望に曝される深淵で、私を恨みなさい、憎みなさい。――されど、私は決して貴方を赦しは致しません」
女神様の瞳から、涙が一粒零れ落ちた瞬間、呪いは青年の身に降り注ぎました。
++++++++
「貴方も貴方の子供たちも、永遠に私のものです」
ミスティの唇が、女神様の呪いの言葉とともに、絵本を閉じた。
「……満足? リュオン」
「うん。ありがとう、ミスティ」
絵本に描かれてる通りに、ミスティの瞳と同じ空の下、女神様は青年に呪いを紡いだ。
――彼の全てが、彼女の元に還るように。
僕もまた青年の一部だから、女神様の元に還らなければならないのだろう。それが、僕の生きる意味、僕が生まれた意義だ。
それでも、僕はミスティが欲しかったんだ。
女神様の元に還るために生まれてきた命だとしても、僕はミスティの傍にいたかったんだ。
「僕、凄く幸せ、本当に幸せ」
温かな日の光が、彼女の横顔を優しく彩る。
胸が痞《つか》えて、息ができなかった。
切なくて、なんて、なんて美しい光景なんだろう。
「いきなりどうしたの?」
ずっと、こんな日々が続いてくれたなら、良かった。
陽光が僕と君を包み込む柔らかな昼下がり。
慰めを与えてくれる雨音の優しさ。
歌いたくなるような風を感じた朝の一時。
すべてを雪いでいく真っ白な花が空に舞い、隣で僕の冷えた体に熱を染み込ませる君の温もり。
世界がこんなにも美しいことを教えてくれたのは、――ミスティ、君だったよ。
「ミスティが傍にいて、絵本を読んでくれて、――笑ってくれるなら、もう、何も怖くないよ」
この世に生を受けたことに、感謝を。
君に出逢えた世界に、祝福を。
「リュオン……?」
「何もっ……、怖くなんかない」
ああ、ミスティが笑ってくれるなら、何も怖くなんかないはずなのに。
どうしてだろう、涙が止まらないんだ。
優しい絵本の物語と違って、終わりはいつも呆気なく訪れるものだと、大人になった僕は気づいてしまった。
僕たち王族は、苦しみに抱かれた後に女神様の元に旅立つ。彼女と同じくらい醜い姿となって、彼女の御心を慰め続けなければならないんだ。
それが、女神様以外を愛してしまった僕たちの、――ミスティを愛してしまった僕の咎だ。
「あ、ああっ……!」
ミスティの悲鳴が、僕の気持ちを締め付ける。
世界で、一番綺麗な女の子。
本当は、綺麗に微笑んであげたい。だけど、僕の顔は呪いによって、かつての面影など何一つないものになってしまった。流す涙も澄んだ色を失い、こんなにも濁ってしまった。
唯一、誇れるはずだった美しい顔。君が笑顔を褒めてくれたこの顔さえも、爛れて膿んでしまったよ。
それでも、この声が君に届くならば。
僕の心の全ては、君に捧げる。
女神様にだって、渡せない。
「リュオンっ……!」
柔らかな香りを放つ瑞々しい体が、僕を包み込む。
綺麗なところなんて何処にもなくて、本当に醜くなってしまった僕を、君は変わらず抱き締めてくれる。
細い腕を背にまわして、悪臭を放つ肩に顔を埋めて、僕のために涙を流してくれる。
彼女が躊躇いもなく僕に触れるようになったのは、いつからだっただろうか。
ミスティは、何もかも愛せるような、清らかで強い子ではなかった。
初めて会った時の、鼻をつまんで眉間に皺を寄せた彼女を今でも憶えている。
腐敗臭に涙を流し、劣悪な環境に吐いて、無理してぎこちなく微笑んでいたミスティ。
どんなに辛くても、彼女は懸命に僕の世話をしてくれた。
僕のことを、心の底から、醜く、穢く思っていたのだろう。
だけど、ミスティは、ありのままを僕を受け入れてくれた。僕を真っ直ぐに見つめて、心の荒んでいた僕を叱ってもくれた。
僕を人間として扱ってくれたのは、――彼女が初めてだったんだ。
本音を言うと、それはとても嬉しく幸せなことだったけど、同じくらい苦しくて辛かった。
傍にいてくれる君の心を、僕はずっと疑ってばかりだったんだ。
心の底では、君は僕のことを嫌っているじゃないかと、臆病な僕は不安で仕方がなかった。
痩せこけていく体に鞭を打ち、僕の世話をすることがどれほど大変なことか、僕は知っていたはずなのに。
君のことを好きだと思う度に、君の心が知りたくて苦しかった。
大好きだから、君に僕を大好きになってもらいたかった。
その答えは、――今までの君の笑顔に代えても、構わないよね。
君が笑ってくれたのは、僕のことを好きでいてくれたからだ。
僕の傍にいた君が、幸せであったと思わせてほしい。
「……ね、ミスティ。もし、また逢えたら……」
君の透明な涙のように、奇跡のような運命が降り注いだら。
綺麗な君に、再び巡り逢うことができたなら、僕は――。
「……手を、繋ぎたいな」
今度こそ、君の手を掴んで、放さないよ。
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